15年戦争資料 @wiki

四 陥落前夜の南京城内

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン

四 陥落前夜の南京城内

 「南京における外国人の役割称賛される」との見出しの記事で、ダーディンは南京安全区国際委員会と戦傷者救済委員会のメンバーの活躍を紹介している。

 「砲撃や爆撃、また無軌道な兵士によりしばしば生命を脅かされながらも、日本軍に包囲された城壁内に踏みとどまり、怪我人や多くの難民の世話をして、人道的かつ政治的にも重要な役割を担った外国人の小グループがあった。アメリカ人が大勢を占める安全区委員会のメンバーたちである。この委員全の主な目的は、非戦闘員が市街戦に巻きこまれることがないように、非武装地区を維持・管理することであった。これ以外の外国人の仕事はいっそう急を要するもので、怪我人の手当や、数千人に及ぷ戦争難民を救済することであった。」

 同記事では、日本軍の砲弾による城内の民間人の犠牲について、次のように記している。

 「安全区をひっきりなしに通過する砲弾の恐怖にもかかわらず、日本軍の市内入城までは、同区内の一〇万人以上の非戦闘員は比較的安全に

----48

過すことができた。

 それ弾、損害を与える

 日本軍の砲弾が新街口(南京の繁華街一引用者)に近い一角に落ち、一〇〇人以上が死傷した。それ弾が落ちると、どこもおよそ一〇〇人くらいの死傷者を出した。いっぽう、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、とくに市の南部では数百人の死者がでた。」

 さらに同記事には、金陵大学附属病院で、ニュース・カメラマン一名、ドイツ人六名、ロシア人二名、イギリス特派員一名の外国勢一〇名が、一五〇名の中国兵負傷者の世話をしたことが記されている。

 最後にダーディンは、外界との通信を遮断され、日本軍の包囲のなかに孤島となった南京の状態を記して記事を結んでいる。

 「外国の砲艦が土曜日(十二月十一日)に川上に発ってから、危険と不安はいっそう大きくなった。同時に漢口への無線と電語は通じなくなり、世界からの報道が途絶えた。パナイ号爆撃は、事件の二日後の火曜日(十二月十四日)、下関で日本の軍艦から知らされるまで、南京の外国人たちにはわからなかった。

 外国人たちがかすり傷以外は怪我もなく包囲戦を生き延びたことは、ほとんど奇跡といってよい。」(『N・T』37・12・19)

----49

 「ダーディンは爆撃されたパナイ号に乗っていないものと思われるが、もしまだ南京の米大使館にとどまっているのなら、外部とは完金に遮断されている。というのも、かれの通信を上海に中継していたのはパナイ号だったからである」と『N・T』37・12・15は、かれを気遣う記事を載せている。さらに、「無線設備のあるパナイ号が市を去ったあとでは、前線を訪れるほかには日本軍との違絡手段もなく、それはきわめて危険なことであった」(『N・T』38・1・9)とダーディン自身も記しているように、迫りくる日本軍を前に、南京市民は外界から全く孤立した、戦傑すべき状況におかれていた。

| 目次に戻る | 次ページに進む |



目安箱バナー