15年戦争資料 @wiki

三 南京にいた外国人

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン

三 南京にいた外国人

 パナイ号事件の話に入る前に、当時、南京にいた外国人について言及しておきたい。それは、かれらだけが南京大虐殺を目撃した外国人となるからである。

 一九三七年十一月下旬、日本軍の南京攻略戦開始にともなって、南京に居留していた外国人は続々と首都を引揚げていった。『ニューヨーク・タイムズ』の一九三七年十二月十四日付(以下『N.T』37・12・!4のように略記する)には、アメリカ人三一名、イギリス人五一名を含む一〇五名の外国人避難者が漢口を経由して十三日に香港に到着した、と報道されている。避難者のなかには、パナイ号乗組員の家族も入っていたが、パナイ号撃沈の悲報には接していなかったに違いない。

 十二月一日には、ドイツ人が経営する市内の最高級ホテル「ホテル・メトロポリタン」が爆撃され、五〇名が死亡した。

 危険が外国人の身辺にも及びはじめたため、アメリカをはじめ、イギリス、ドイツ、イタリアなど各国大使館は閉鎖を決定し、大使館員は漢口へと引揚げた。ただアメリカ大使館だけは、踏みとどまったアメリカ人の保護にあたるため、四名の館員を残した。そしてアメリカの砲艦バナイ号が下関付近に停泊し、これらアメリカ人の緊急避難に備えていた。十二月四日には、南京側の浦口鉄道駅が日

----44

本軍機に爆撃され、アメリカ人のニュース・カメラマンが九死に一生を得た。十二月六日から、米大使館員と新聞記者たちは、貴重な所持品をトランクに詰めてパナイ号に運び込み、夜はパナイ号に泊まり、昼は南京に上陸して仕事をするという生活になった。

 これ以上南京に停泊することが危険になったパナイ号は、十二月十一日夕方、下関港付近を離れ、長江上流へ移動を開始した。

 米大使館二等書記官アチソン(GeorgeAtchesonJr.)の懸命な説得にもかかわらず、パナイ号への避難を断って南京にとどまった外国人は二七名で、つぎのようなふたつのグループに分けられる。一つは、新聞記者.カメラマンのグループ五名である。かれらは首都陥落の歴史的瞬間を取材しようと、日本軍の爆弾と砲弾にさらされるのを覚悟して踏みとどまったのである。あと一つのグループは、南京安全区国際委員会や戦傷者救済委員会の二二名。かれらは、自己の生命が脅かされるのも顧みず、多数の難民を救済・保護するために残った人たちである。

 前者の外国人新聞記者・カメラマンの五名は四八ぺージ表1のとおりである。かれらは南京の包囲戦と攻略戦を城内にいて体験し、取材した。 後者の活躍については、『N・T』のダーディン記者が南京陥落直前の模様をレポートしている。十二月十八日上海発の記事で『N・T』37・12・19に掲載された。つまり、かれが上海に到着してから本社に送った記事である。

----45

図 「南京城とその近郊」

----46.47

表1 日本軍の南京占領時,南京にいた外国人の新聞記者・カメラマン

氏名                     所属団体
ダーディン F. Tillman Durdin     ニューヨーク・タイムズ
スティール Archiba1d T. Stee1e   シカゴ・デイリー・ニューズ
スミス L,C. Smith             ロイター通信社
マクダニエル C. Yabe McDanie1   AP(共同通信社)
メンケン Arthur Menken        パラマウント映画ニュース
----48

| 目次に戻る | 次ページに進む |

目安箱バナー