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男を殺し、女を徴発するのは兵隊の習いや 鬼頭久二

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南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて
元兵士102人の証言
松岡 環 編著 社会評論社 p269~273

男を殺し、女を徴発するのは兵隊の習いや

鬼頭久二
一九一六年八月生まれ
南京戦当時 第十六師団歩兵第三十三聯隊第一大隊
一九九九年十月、二〇〇〇年九月取材

当時、家には両親と兄弟十一人で、私は大阪にいました。私は、下から二番の息子でね、両親は田舎の人なので、父はとても怖かったですよ、本業は農業で、当時私を含め四人の兄弟が現役から軍隊に人り、皆無事に帰ってきました。

●現役の軍隊生活

現役は昭和十二年一月十日に久居の三十三聯隊に入りました。戦争に行く前はずっと軍隊の生活で朝早く起床して、点呼して帰ってきたら、班内の掃除をする。土足で上がる所を雑巾かけをしなあかん。面会に母は巻き寿司を二本持って来ました。一つは同僚に上げ、一つは私に食べさせた。私は母と話している間に全部食べてしまってね。そして床拭きであか切れができ、血が流れている私の手を見て母は泣いていました。当時、軍隊で出てくる食事を全部食べてもお腹がまだすいて、皆と飯カン〔バッカン=飯バケツのこと〕の所に行って、罐に付いた残りのご飯粒を取って食べた。もうその時は、食べ物を見ると目がないほどでね。お腹がすいていました。

当時、いじめられるのは決まっていて、これも仕事だと思うしかなかった。別に悪いことしなくても殴られました。昔の軍隊では殴って殴って一人前になる記憶しかないですよ。具体的に言うと、とにかく点呼がすんで、班長が下士官室に行き部屋にいなくなると二年兵に殴られる。班内には上等兵がいて廊下の両側に部屋があり、その通路を通るたびに殴られる。こんなありさまでした。

一等兵の戦友は、私が夜間演習から帰ってくると酒保〔兵の憩いの場〕でいつもパンとかを買って枕の下に置いてくれましてね。毎日枕の下に手を入れて、食べ物があるかどうか確認するのが楽しみでした。あったら皆が寝てからベッドの中で音を出さないように食べた。それもあまりの疲れで食べながら寝てしまう。朝起きたら残したパンくずがあったり、お饅頭の餡がついたり、今も思い出したら涙が出ますわ。

私は体が大きいので良く目立った。教官が訓練を指導する時も、よく一番前に立っている私を模範として呼びましてね。教官は初めは上等兵を呼んだけど、後からは初年兵だった私ばかり呼んだので、結局教官に目がとまると皆からは憎まれるんやな。

昭和十ニ年八月に戦争が始まり、現役のまま九月に中国に行きました。句容に行って、湯水鎮経由で南京に到着したやけど、南京まで行く道で一番印象に残ったのは友軍にやられたことやったね。これは指揮者の間違いか日本の戦略が間違いか、連絡が不充分であったのか分からんけど、向こうは敵だと思ってボンボンやってきました。

中隊長があまりにもおかしいと思い、砲弾を拾ってこいと命令し、拾ってきて調べてみたら日本の昭和の文字が人っていましたんで、友軍だと判断して連絡をとって攻撃が止んだな。

南京まで行く途中で、家は一軒も残さず朝出発前には火をつけました。火の煙で前の部隊が出発していると分かり、自分たちも準備に入り、また火をつけて次の部隊に知らせた。あまりにも家を焼き尽くしたので、後続部隊が雨の日には泊まる所もなかったそうでな。燃やす理由は、中国の住民と兵隊が戻ってきてまた反抗するかも分からないので焼いたということや。

●生きている者は全部殺せ

無錫は結構大きな町だった。戦争中は言ったら悪いけど、我々、大きな町に入ると、徴発できるから皆楽しみにしていました。砂糖もあり、食料もあり、女もいるから徴発するのが兵隊の楽しみやった。町に入ったら自由で、掃蕩と命令される。中国という国は、親が生きている間に大きな棺おけを買って、家の入り口の角に置いとくのが親孝行だったそうで、掃蕩に入ったらまず入り口に置いてある棺桶の蓋を開き、中の物を持っていくことでした。詳しくは覚えていないけど、中にはよそ行きの着物とか、長く置ける大事な物とか宝石などの宝物もあった。金の器もあった。鍵も閉めてない通気性がいい外に置いてあったんや。

町に入って掃蕩の一番の目的は女の人を探すことで、女を徴発するのが一番楽しかった。例えば、南京でも暇があったら女を捕まえて強姦してたな。落ち着いてくるとな、南京ではお金がいるから、代わりにお米を持って行ってやったの。食料を持って行くのが一番良かったみたいやね。

南京を一番に落としたのは脇坂部隊で、我々中隊は、有名な脇坂の後を引き継いで、ずっと光華門の警備にあたってたんや。詳しい時間は覚えていないけど、脇坂の後なんで十二月末ぐらいだったと思うな。

南京は太平門か下関からか分からないけど、結構大きな門から入った。門に土嚢が積んであった。紫金山に行ったことは覚えているけど記憶はない。当時はまだまだ初年兵で、星一つしかない。南京に入ってから上等兵をもらったのであんまり場所とかは記憶がないな。

揚子江の河の岸まで行ったことがあるけど、具体的には覚えてない。ただ揚子江で逃げている人に向かって撃った記憶はあるな。その時は無我夢中で中隊全員が中国兵を追っ駆けに行ったし、その時また無我夢中でどれくらいの中国人を殺したか詳しい状況の記憶がないんや。私がいた所は確かに南京城内で、光華門の近くにいたと思う。南京戦の時、、時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

十二月二十八日の上海軍の発表では、八万四千人の中国兵を殺したとのことやけど、当時は突撃なので実際どれぐらい殺したかは分からんな。私らは、とにかく砲弾によって先に大勢の人を殺して、その後、歩兵が入って突撃し、生き残っている人を殺すんでな。

南京の手前で、私は捕虜二人を殺す命令を受けたことがあります。銃剣で胸の所を一人ずつ刺したんや。冬で皆・綿入れの厚い服を着ていたので、剣が入るかどうか迷ってる時、中国人が自分からボタンを外して胸を出した。初めての殺人経験なので、私の方が緊張して心臓が止まりそうで、タバコを吸っても動悸は止まらんかった。もちろんやりたくなかった。顔と目をはっきり見ながらやったので記憶がある。軍人の死者が八万四千人というけど、もっとあると思う。掃蕩する時は、一人ではなく分隊に分かれて、二、三人か五、六人で行動した。中国人を見つけたら殺したからな。

攻撃は五、六の軽機関銃分隊が時によって、機関銃でやる。そして捕虜たちを捕まえて、郊外の田圃みたいな場所に連れて行って、バリバリと機関銃で掃射して殺した。掃射した後は死んだか生きているかひっくり返して確認して、まだ生きている人はまた殺した。日本兵二、三十人ぐらいでやった。

●女を見つけるとその場で強姦

掃蕩する時、家を一軒一軒まわり女の子を見つけるとその場で強姦した。女の子はだいたい床の下かカーテンの後ろとかに隠れていたな。見っかった時、怖いかどうか分からないけど、反抗しなかったな。憲兵から止められたりしなかったので、やり放題やった。女たちは皆顔に墨などを塗っていた。何人ぐらいしたか覚えていないけど、印象に残るのは迷げている母と娘を捕まえた時、母親は我々に娘は小さいから自分をやってと頼んだ事だった。我々は「アホカー」と母をふりはらった。やる時は二、三人で行ってやる。もちろんやる時悪いと思ってたし、逆に日本がやられ自分たちの子ども、あるいは女性がやられたらどうなるかを考えたこともある。それでも、自分もいつ死ぬか分からない状況なので、生きている間に、天皇の命令とかは関係なくて自分がやりたいことをした。そんなことは当たり前になった。私ももちろん南京で強姦を経験した。場所はどこでもいい、いくらでも空家があり、そんな家の寝台の上とかでやった。平時の時はお米を持って行って、母親に娘をちょうだいと頼んだこともある。また、難民区から女性たちが自ら出てきて、お米と自分の体を交換した人もいる。お米は私たちが食べるお米で、一回に靴下片方満タン〔五合ぐらい〕のお米を上げた。南京城内ではなく郊外では、憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。自分は掃蕩戦の時だけ城内に入り人を殺したことがある。

こんなことから南京大虐殺はあったと思う。悪いことしたと思っている。


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