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上海戦と南京戦

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南京大虐殺の研究
晩聲社1992

もくじ
上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭
  • 一、日中戦争の開始
  • 二、上海戦と南京戦
  • 三、南京進撃
  • 四、大虐殺の序章
  • 五、『南京戦史』批判
  • 脚注



上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章

江口圭

二、上海戦と南京戦

参謀本部の戦争指導課が「やる以上は南京をとる考でやらなくちゃならぬ」という意見であった
のにたいして、拡大派の参謀本部作戦課長武藤章大佐は中国を「敲きはするけれども南京を取らう
南京大虐殺の序章
上海戦と南京進撃戦
17

(u)
といふことは考へて居ないLと主張した。それが南京の占領にたちいたったのは、華北に限定でき
ると思い込んでいた戦争が華中に飛び火し、第二次上海事変になったことの結果である。
盧溝橋事件の処理にあたった支那駐屯軍参謀長橋本群(当時少将)は、のちに、戦争が「上海の
方に迄飛火するとは誰も考へて居なかったので、全面戦争と言っても只北支に日本軍が相当な兵力
(12)
を持って行って軍事的に一時之を占領するといふ位に考へて居ったのです」と回想している。
上海は、陸軍の構想した限定戦争の範囲外であったが、華中・華南を作戦領域とする海軍の縄張
りのうちであり、海軍はこの方面の戦闘について積極的であった。一九三七年八月九日の大山事件
を機に日中間の緊張は一挙にたかまり、一三日上海で日中両軍の交戦が開始された。同日の近衛内
閣の閣議は内地二個師団の上海派兵を決定した。石原莞爾は、「大体漢口の居留民引揚は有史以来
無いことであり若し揚子江沿岸が無事に終ったならば海軍の面子がないことになります。即ち今次
(!3)
の上海出兵は海軍が陸軍を引摺って行ったものと云って差支へないと思ふ」と回想している。
上海戦は、直接には、日本陸海軍間のセクショナリズムと功名争いの産物であり、海軍の主導に
よって発生した。しかし西村敏雄が回想するように、陸軍としても「当時尚支那を甘く見過ぎて
(ママ〕
居ったと言はざる得ないのでありまして、独立国家の態容を支那統一によって殆んど完全に近く備
えてきつつあった当時の支那の実態を我々は尚はっきり掴み得ずして、北支だげで戦闘を局限し得
(14)
ると想像した事は誤であった」のであり、陸軍の華北派兵自体のうちに上海戦の根元があった。
八月一五日、第三・第一一師団からなる上海派遣軍が編成され、松井石根大将が軍司令官に任命
された。松井は日本陸軍切っての「支那通」の一人といわれていたが、一九三五年末中国視察の結
18
論として、「支那を今ただちに南京政府の国民党政権によって完全に統一して、いはゆる中央集権
の実をあげるといふことは非常に困難にして、恐らくはにはかにこれを夢想すべからざるものであ
らうと思はれる。よろしく支那はその統一の過渡的経緯として北、中、南、西といふ如き外廓的四
種の地方に区分せられて、いはゆる聯省自治、中央統制の形式をとることが自然であらうと思はれ
る」と述べ、「北支那と満州国及至は蒙古・--の関係は今の隔絶されている情勢より解除せられ、相
(15〕
互共通連絡の途を復帰すること」を主張した。
松井は自らも主宰者の一人である大亜細亜協会(一九三三年設立)の機関誌『大亜細亜主義』に
発表した論文「日支関係の根本義と吾等の信念」(一九三六年一月号)でも、「支那再建の方途が連省
自治の方向に在りとする吾人年来の確信」を表明し、「友邦民国に告ぐ」(一九三七年八月号)では、
「現在の北支間題に至りては吾等日本の真意を誤認し、国民政府の統一政策及至は共産軍の所謂人
民戦線運動に利用せられたる一部人士の挑発的悪戯に因するものなること明白である」などと述べ
ていた。松井は国共再合作と中国統一化の大勢を察知することができず、中国の分割支配を正当化
するという時代錯誤的な中国観の持ち主であった。
松井にあたえられた命令は、「上海派遣軍司令官ハ海軍ト協カシテ上海付近ノ敵ヲ掃減シ上海並
(16)
其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ一であった。ところが松井はこの命令に不満で
あった。上海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日誌によると、八月一七日松井は「北支二如何二兵力
(17)
ヲ川フルモ根本的全面的二解決シ得ズ。結局南京攻撃ヲ有利トスベシ」という意見を表明した。ま
た一八u三長官招宴の席上の挨拶で松井が「軍ノ任務二不満ナル意味」を述べたとして、参謀本部
上海戦と南京進撃戦一一・南京大虐殺の序章
19

総務部長中島鉄蔵少将は飯沼参謀長にたいして「作戦命令モ勅語同様ノモノニテ之ヲ批判スル如キ
(18)
ハ不謹慎ナレバ克ク言ツテ置テクレ」と注意した。
松井は同日の参謀本部首脳との会合でも、「断乎トシテ必要ノ兵カヲ用ヒ伝統的精神タル速戦即
決、北支二主カヲ用フルヨリモ南京二主カヲ用フルヲ必要トス。之二就テハ結末ヲ何処ニスベキヤ
ノ議論アルモ大体南京ヲ目標トシ此際断乎トシテ敢行スベシ。其方法ハ大体五、六師団トシ宣戦布
告シ堂々トヤルヲ可トス。……次二武カノミニテヤルハ不可、径済的二圧迫ス。英米ノ援助ヲ遮断
(19)
スル為封鎖ス。斯ク短時日二南京ヲ攻略ス。…:首相外相モ敢テ反対セザリキ」と主張した。
これにたいして石原第一部長が「今ノ作戦目的ヲ達セラレタル後南京ヲ幾何ノ兵カヲ以テ幾何月
ニテ攻略シ得ルカヲ研究サレタシ。……個人トシテハ永ピケバ全体ノ形勢ガ危イモノト考ヘアリ」
という意見を述べると、松井は「意見ノ相違ナルモ尚研究セソ」と答え、さらに参謀次長多田駿少
(20)
将とのやりとりのあと、石原から「書類ハ墨守サルル必要ハ絶対ニナシ」といク言を引き出した。
さらに松井は八月一九日東京駅を出発するとき、見送りに来た杉山元陸相に「どうしても南京ま
で進撃せねばならぬ」と力説し、このやりとりをみた近衛首相がその場で杉山に「陸軍は南京まで
(21)
行くつもりか」と問いただすと、杉山は「精々蕪湖位で止まるであらう」と答えたという。
松井は東京出発のときから南京攻略を意図しており、かつそれを表明していた。これは明らかに
命令違反である。ところが陸軍首脳は松井を断固として抑止しようとせず、命令を墨守させようと
(22)
しなかった。そして飯沼の日誌と松井の発言が正しいとすれば、近衛首相・広田弘毅外相も南京攻
(23)
略に「敢テ反対」しなかった。以上の意味で、南京戦は松井の意図の産物であり、また命令.任務
20
の厳守を松井に確約させなかった日本の戦争指導老の無責任な対応の結果であった。
上海での日本軍は予想外に強力な中国軍の低抗に直面し、弾薬の不足、コレラなど伝染病の発生
も加わって、苦戦を余儀なくされた。参謀本部作戦班員であった井本熊男(当時大尉)は、第三・
第一一の「両師団の歩兵は当初出征したものは殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程
(24)
であった。これは日露戦争後、経験のない大損耗であった」と記している。軍中央は逐次兵力を投
入したが、戦局は好転昔ず、九月一一日第九・第一三・第一〇一師団その他の兵力を増強する破目
となった。
増援をえた上海派遣軍は九月二九日、従来の上海北側での西向きの主攻撃を南向きに左旋回させ、
大場鎮を攻略する新作戦に移った。しかし中国軍の低抗はいっそう激烈で、日本軍は容易に前進で
きず、損害が統出し、戦死傷者は九月三〇日現在の一万〇四二一名から一〇月一八日現在二万二〇
(25)
八二名へ激増した。その悪戦苦闘の実相、日本軍の軍紀の弛緩と戦意の低下、中国側の軍民一体
(26)
となっての抗戦については吉田裕『天皇の軍隊と南京事件もうひとつの日中戦争史』に的確に
述べられているので、ここでは飯沼日誌の一、二の記事を紹介するにとどめたい。
第一〇一師団の歩兵第一〇一連隊長加納治雄大佐は一〇月一一日戦死Lたが、その約一時問前の
師団参謀あて報告で、
兵中(一部ノ幹部ニモアリ)ニハ既二戦意ヲ失ヒ自ラ間違ヒタル振リヲ為シ、
リークL北岸二後退セソトスルモノアルハ只申訳ケナク、今ヤ一一一人ノ大隊長、
或ハ故意二「ク
中小隊長ノ大部
南京大虐殺の序章
上海戦と南京進撃戦
21
ヲ喪ヒ、綾カニ幹侯出ノ伍長位が中、小隊ヲ指揮スルコトトテ、夜問戦闘ノ如キハ掌握殆ソド
出来ズ。兵ハ敵ノ射撃ヲ受ケ或ハ傷者デモ出来レバ良イコトトシテ介抱ヲ名トシテ暗夜後退ス
ル老少カラズ。涙ヲ呑ソデロ惜シク存ゼラレ侯モ相当幹部中ニモコノ思想ナキニアラズ。深憂
二堪ヘズ。
22
(27)
と述べている。第一〇一師団は第二二師団とともに急邊動員された特設師団で、ほとんど予・後備
役からなり、井本熊男が東京での「動員完結の日、私は歩兵第一連隊の営庭で行われた第一〇一連
隊の軍装備検査を視察した。なるほど、これは年よりの集りだというのが第一の印象であった。皆
一家の主人で、家庭を支えている大黒柱の年配である。訓練は長年ほとんどしていない。指揮官に
も現役はほとんどいない。これでは当分戦力は出まいと思った」と記しているように、その戦意が
当初から懸念されていながら、「対ソ関係を考えて検討すると、そう精鋭師団ぼかり出すわけには
(28)
行かない」として動員され、予想通りの結果を来たしたのである。
一方、上海派遣軍参謀大西一大尉から羅店鎮の戦闘で中国兵が「戦闘間女学生ト『ダソス』等ヲ
為スノヲ屡々見タ」という話を聞いた飯沼参謀長は、九月二七日の日誌に、「陣地ノ堅固ト日本軍ノ
戦カヲ軽侮セルモノ、但他ノ戦線二於テモ女学生ノ戦死体ヲ屡々見ルトコロヨリ察シ青年女子ノ国
(29)
家意識、抗日ハ相当ナルモノト感ゼシメラル」と記している。
三個師団の増兵にともなって石原第一部長は更迭され、九月二八日下村定少将が後任となった。
参謀本部第一部は新部長のもとで一〇月初めから「今後ノ作戦二関スル件」を検討し、一一日の決
(30)
定で、上海方面についてつぎのような処置をとるものとした。
1上海派遣軍ハ現任務ヲ続行ス。
2第一〇軍ヲ以テ杭州湾北岸二上陸セシメ上海派遣軍ノ任務達成ヲ容易ナラシム。
3上海周辺ノ敵ヲ掃滅シ南京ト上海トヲ遮断シタル後ノ作戦ハ一二当時ノ情勢二依ル。
この間の一〇月八日、飯沼日記によると、武藤作戦課長から上海派遣軍参謀部第一課課長西原一
策大佐にたいし、「上海付近ノ終局ヲ一日モ早カラシムル必要生ジタルニ困リ之ガ為一兵団(師
団?)ヲ上陸セシムル場合ノ意見ヲ徴シ来ル。之二対シ上海付近浦東地区ノ敵ヲ掃討スル老ナラバ
虹江礪頭対岸付近二一師団ヲ上陸セシムルヲ可トシ、若シ又蘇州河渡河南市封鎖二協カセシムル為
ナラバ杭州湾北岸ヲ可トスベキモ慎察ノ結果二待タザルベカラス。又之二要スル兵カハ三師団ナラ
(31)
バ十分ナルベシトノ返電ヲ出ス」。
しかし上海派遣軍にはこの返電と異なる見解があった。「拾部之内第壱号昭和一二年一〇月九
拾萄ユ肉亭ま坑
昭一如十生年十月丸回
金山街耐近上稜蕪、償埴判所
上お掠立・早参ま部串串訳
1圭ノシ上盆ア与十己λ腕牟λ若
  • 放サ…与山可λ〃'ル令亭ゑシ
ー・有求巧主嫁お破改工州呈
宍…;≡祐童町カj,二与一ス十司寧
臼溌ナ軍近為,ル合、ユ以1
■1,圭よ灸。隻,炎さ十,.茅南ラ
上近}カ淋・トλ釆く成エ上,
珪碕'・♀瓜、ノま企十岩此
りソ上・皇・渋洋山五耐考
上ル古お作ケ,瓦内々攻途面
毒藺克市我肺、'叫肘苧''
1め'遮仮ヨ,飯下近矢淀上
去ヲエ皇イ立,按1ナ上十津産
兵以肖あ1灰瑚ル,泣西・ヨと
辻サ西与兵円]一{上宍蹄千^
上全曲1レカ^f砺岩臼・六あ
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妥シ主上兵三戎チ田誌.{
“'先凌妥山仏'{シ
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列角為・勾埼隊ソ“几`
所京1^差ノ,ル'同
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苧o壱・尖戎現,次カ抵画
㌦萱蒋㌣二1;
刷'''`、凪,心南
ハ炊担巻口・■尋京
ル',r打於ル十'
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ト洛皇山セル其トフ
極■}約1j琢錫班作
ノ逃柘古;;釆{.我
ソ断o勧似祖ニヲ
地セ}{''卵」貢1
ト海派遣軍参謀部第2課の文書
表紙と3,4ぺ一ジ)

南京大虐殺の序章
上海戦と南京進撃戦
23
日金山衛付近上陸点ノ価値判断上海派遣軍参謀部第二課L
(32)
れていないので、その主要部分を紹介する。
という文書があるが、今日まで知ら
24
第一、兵要地理的観察
判決
同時二兵力約一箇師団ヲ以テ杭州湾方面二企図シ得ベキ唯一ノ上陸点ナリ。
理由
(中略)
第二、現情勢二基ク価値判断
判決
戦略上ノ目的ヲ達成セソガ為兵力少クモニ箇師団ヲ使用スルヲ要ス。
理由
一、敵情
(中略)
二、金山衛付近上陸軍ノ作戦価値ト兵力量
上海派遣軍主カノ上海付近二於ケル作戦ヲシテ有効ナラシメソガ為メ上海西南方地区ノ敵ノ退
路ヲ遮断スル目的ヲ以テ金山衛付近二一兵団ヲ上陸シ、上海-嘉興道上二進出セシメ、更二同
方面ヨリ南京二向フ作戦ヲ実施セシムルコト極メテ必要ナリト難モ、二師団二充タザル兵カヲ
センショウ
以テスルモ其効果極メテ紗少ニシテ今次上海戦二於ケル羅店鎮ノ我山室部隊ノ轍ヲ踏ムベキ
ヤ必セリ。
第三、結論
兵要地理的並二現情勢二基キ金山衛方面二上陸セシムベキ我兵カハ砂クモニケ師団トシ、先ヅ
上海嘉興道上二敵ノ退路ヲ遮断セシメ、次テ南京攻略二使用スルコト極メテ必要ナリト判断
セラル。
上海派遣軍参謀第二課課長は蛮勇をもって知られる長勇少佐であるが、大場鎮攻略も遅々として
すすまず損害激増中の一〇月上旬という時期に、第二課では、金山衛付近上陸軍を単に上海付近の
中国軍の退路遮断のためのみではなく、「南京二向フ作戦」「南京攻略」に使用することを「極メテ
必要ナリ」と判断していたのである。
さらに松井軍司令官も、予想外の苦戦にもかかわらず、東京出発時に表明した南京攻略の意図を
まったく捨てようとせず、かえってつのらせていた。松井は一〇日八日の日記に、「朝一〇時幕僚ヲ
伴ヒ楊行鎮二至リ各師団長ヲ集メ大場鎮付近攻撃二関スル軍命令ヲ与へ又同時一般二対シ軍司令官
ノ訓示ヲ与へ之ヲ督励ス」と記しているが、この一般にたいする訓示は活版印刷されたつぎのもの
(33)
である(原文のまま)。
訓示
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上海戦と南京進撃戦
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軍ハ八月下洗至難ナル上陸作戦二赫々タル業績ヲ敏メテ環球ノ耳目ヲ江南ノ天地二聚メタリ
是大元帥陛下ノ御稜威ト神明ノ加護二負フ所勿論ナリト難モ軍縛兵ノ裁力協心各々克ク萬難
ヲ排シテ勇戦セシ忠烈ノ結果ニシテ本職ハ衷心ヨリ其ノ劣ヲ多トスルト共二思ヲ戦死傷病絡兵
ノ上二致セハ愁情宴二禁スル能ハサルモノアリ今ヤ軍旅大二整ヒ戦力正二充實ス価チ全カヲ撃
ケテ暴虜ヲ掃減シ軍本来ノ重任ヲ果スヘキノ秋ハ来レリ
惟フニ戦捷ノ秘鍵ハ有形無形ノ戦カヲ決定的二重賭二集結使用スルニ在リ而シテ之カ實行二任
スル各兵團ハ常二本職ノ意志二遵ヒ各々其ノ責任ヲ遂行スルニ積極果敢而モ確乎不抜ノ鐵石心
ヲ以テスルコト極メテ肝要ナリ斯ノ如クニシテ甫メテ全軍協同ノ實ヲ撃ケ以テ戦捷ノ途ヲ打
開スル所以ナルコトヲ銘肝スルヲ要ス
軍主カノ決戦場ハ○○二在リ撃軍振張物心一如勇奮進ソテ護國ノ鬼トナリ以テ上聖明附託ノ
重キニ封工下皇民ノ期待二副ハンコトヲ期スヘシ
諸子ヨ諸子ハ近キ烙来二於テ○○城頭脇翻トシテ旭旗ノ蘇ル時軍二信侍スル上海居留民拉二
祖國ノ感激ヲ想起スヘシ
昭和十二年十月八日
軍司令官松井石根
26
(34〕
また松井は一〇月九日付でっぎのガリ版の訓示をだしている(原文のまま)。この訓示は、文面か
らいって、前日の各師団長にたいする軍命令にもとづき「諸官」[各兵団の指揮官にあたえられた
ものと判断することができる。
訓示
十幽二軍容ヲ整ヘテ大場鎭附近ノ敵二封シ決戦ヲ行フニ方リ諸官ノ壮容二接スルハ本職ノ欣快ト
スル所ナリ
惟フニ今次ノ軍ノ攻撃ハ上陸以来二閲月二一且ル征戦ノ結果ヲ清算シ一翠上海附近ノ敵軍ヲ掃滅
スヘキ千載一遇ノ好機ナルヲ以テ各兵團ハ其全カヲ壷シテ断乎徹底的決勝ヲ求ムヘク嚢二師團
長二封シ訓示スル所アリシモ更二婆心ヲ加へ細部二關シ参謀長ヲシテ指示セシム
昭和十二年十月九日
上海派遣軍司令官松井石根
この後者の訓示から前者の一般向け訓示の二つの○○のうち、最初の「軍主カノ決戦場ハ○○二
在リ」は大場鎮であることが判明する。では「近キ将来二於テ○○城頭蘭翻トシテ旭旗ノ翻ル時」
の○○城とは何か。
上海の共同租界の南側の南市には、「域内」とよぼれる区域があり、上海県政府がおかれ、相当数
の中国軍がたてこもっていて、その掃蕩が問題になってはいたが、作戦の終局となるような目標と
はされていなかった。なによりも、上海城の城壁は一九一四年に取りこわされて、その跡はバス道
路となっており、「城頭蘭翻トシテ旭旗ノ翻ル」といった光景を現出しようがないのである。日の丸
南京大虐殺の序章
止海戦と南京進撃戦
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がひるがえるのを見て、上海居留民と祖国が「感激一するような○○域とは、首都南京城以外にあ
りえない。なお、松井は一二月一八日南京での忠霊祭の際に詩二篇を作ったが、その一つには「奉
(35)
祝南京攻略燦実旭旗紫塗城」とあり、訓示とおなじ「旭旗」の語が用いられている。
南京こそが松井の一貫した攻略目標であった。一般に配布した活版の訓示では、軍の機密に属す
る当面の決戦場名と作戦の終局目標は伏せられたのである。
松井軍司令官以下上海派遣軍首脳のこのような意図こそ、上海戦をそれのみで終わらせず、南京
戦へ拡大させたきわめて大きな要因であった。
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