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第一節 「新国家」建設の階段

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第六章 「満州国」


第一節 「新国家」建設の階段


 前章に於いて説述せる如く1931年9月18日事件の結果、奉天市の市行政及奉天省の省行政は完全に破壊せられ延いて其他の2省の省行政に至る迄程度は少きも影響を蒙りたる。奉天に対する攻撃余りに急速なりし為め全満州の政治的中心なるのみならず大連に次いで南満州の最も重要なる商業的中心たる同市は支那人民の間に恐慌を惹起するに至れり。著名の官公吏並びに教育界及商業界の主要人物の大多数は直ちに家族と共に逃亡せり。9月19日後の数日間に亘り十一万人以上の支那人住民は京奉鉄道に依り奉天を去りたるが逃亡し得ざるものは多く潜匿せり。

 警官及監獄看守人に至る迄失踪せり。奉天市、奉天県及奉天省の行政は完全に崩壊し電燈、水等供給の公共事業会社、乗合自動車、市街電車並びに電話及電信業務は一切停止するに至れり。銀行及商会は閉鎖せり。至急を要するは市政府の組織及市の正常生活の復活にありたるが之は日本人に依り着手せられ迅速且有効に取り運ばれたり。土肥原大佐は奉天市長に就任し三日以内に正常市政は復活せられたり。数百の警官及監獄看守人の大部分は臧式将軍(省長)の援助に依り復帰せしめられ公共業務は回復せり。非常時委員会の大部分は日本人より成れるが土肥原大佐を援助し同大佐は一ヶ月間其の職に留まれり。10月20日、市政府の施政は趙欣伯博士(11年間日本に留学し東京帝国大学の法学博士の称号を有する法律家)を市長とする一定の資格ある支那人団体に復帰せられたり。

 次の問題は三省の各省政を再建するに在りたり。右事業中奉天省は他の二省に比し一層困難なりき。何となれば奉天は同省行政の中心にして有力者の多くは逃亡し、暫時支那人による省行政は錦州において依然として継続せられたればなり。故に省政の再組織が完全に成就せるは三ヵ月後なりき。遼寧省省長たりし臧式毅中将は最初9月20日支那中央政府より独立せる省政府組織に関し交渉を受け勧誘せられたるが之を拒絶せり。次いで同中将は逮捕せられ、12月15日釈放せられたり。

 臧式毅将軍が独立政府樹立に関する援助を拒絶したる後、支那人有力者の一人たる袁金凱氏が交渉を受けたるが同氏は元の省長にして東北政治委員会の副委員長なりき。日本軍事当局は袁金凱氏及其他8人の支那人住民をして治安維持委員会を組織せしめんことを勧誘せり。同委員会は9月24日組織せられたる旨声明せられたり。日本側新聞は直ちに之を以て分離運動に対する第1歩として称賛せるが10月5日、袁金凱氏は斯かる意思無きことを公然声明せり。袁氏曰く同委員会は「旧施政崩壊後平和及秩序保持の為め実現せられたるものにして逃亡者救出及金融市場回復を援助し且其他の事務に当れるが右は全く単に不必要なる困難を避けしめんが為なりき。然れども同委員会は省政府を組織し又は独立宣言の意思無かりき」云々。

 10月19日、治安維持委員会は財政部を開設し支那人官吏を補佐する為め日本人顧問任命せられたり。財政部長は同部の決定に対し効力を発せしむるに先ち軍事当局の承認を得るを要したり。各県内における収税吏は日本人憲兵隊又は其他の代理人に依り支配せられたり。場所に依りては右収税吏は毎日憲兵隊の検閲に供する為め帳簿を提出するを要し、憲兵隊の承認は警官、裁判、教育等公共の目的に要する一切の費用の支出に対し必要なりき。錦州に於ける「敵対者」に向かっての税金送達は直ちに日本当局に報告せられたり。之と同時に財政整理委員会組織せられ其の主要事務は租税制度を建直すに在りたり。日本人代表者及支那人組合代表者は税制に関する論議に参加するを許されたり。長春に於ける「外交部」より調査委員に対し送付せられたる1932年5月30日付「満州国独立史」中における声明に拠れば前述税制審議の結果1931年11月16日付を以て6税の廃止、其他4税の半減、尚其他8税の地方政府への移譲並びに法律的根拠無き一切の課税を禁止することを決定せり。

 10月21日、治安維持委員会「遼寧省自治委員会」改名せらるに依り実業部開設せられたり。日本軍当局の承認を求め且右承認を得たり而して多数の日本人顧問任命せられたり。凡て命令を発するに先ち同部長は日本軍事当局の承認を得るを要求せられたり。

 最後に遼寧自治委員会は新に東北交通委員会を組織したるが同委員会は漸次遼寧省のみならず吉林省及黒龍江両省における許多の鉄道に関する管理を掌握するに至れり。同委員会は11月1日遼寧自治委員会より分離せり。


 11月7日、遼寧省自治委員会は臨時遼寧省政府成る形体に転化し声明書を発表して旧東北政府及南京中央政府より分離せり。臨時遼寧省政府は同省内の各地方政府に対しその発布せる命令を遵守すべきことを要求し、爾後省政府として権限を行使すべき旨発表せり。

 11月10日公開式挙行せられたり。

 自治委員会が臨時遼寧省政府に改造さるると同時に最高諮議委員会なるもの干冲漢氏の委員長の下に創設せられたり。干冲漢氏は従来治安維持委員会の副議長なりしなり。干冲漢氏は最高諮議委員会の目的を左の如く発表せり。即ち秩序の維持、悪税の廃止による施政改善、租税軽減並びに生産及販売組合の改善是なり。同委員会は更に臨時省政府を指揮監督し各地の伝統及近代的要求に準拠し省自治政府の発展を助成するに在りき。同委員会は総務課、調査課、儀礼課、指導課、監査課及自治指導部の各課より成る。主要吏員の多くは日本人なり。

 11月20日、省名は奉天省と改正せられたるが右は1928年国民党支配下の支那との合同以前の名称なり。亦12月15日、袁金凱氏は臧式毅将軍に依り代られたり。彼は監禁より釈放せられ奉天省長に就任せるなり。

 吉林省に省政府を樹立する事業は遥かに容易なりき。23日第2師団多門少将は張作相将軍の不在中省長代理たる熙哈中将と会見し省長たらんことを勧誘せり。右会見後9月25日熙哈将軍は許多の政府当局者及公共団体を召集会合せしめたるが多数の日本人士官も亦参加せり。新省政府樹立の思案に対し何等反対の表明無く9月30日右趣旨の布告書発表せられたり。次いで吉林省政府に関する組織法公布せられたり。政府の委員制度廃止せられ熙哈省長は省政府の行為に対し全責任を負えり。数日後熙哈氏に依り新政府の主要官吏任命せられ其後若干の日本人吏員追加せられたり。総務長官は日本人なりき。県政においても亦行政改革せられ且人員の変動ありたり。43県の中15県は改革せられたるが其中支那人県吏の解任も含めり。其他10県における県吏はき毫将軍に忠誠を宣明したる後其侭就職を持続せり。其他は依然として旧政権に忠実なる支那人軍閥の下に留まるか又は闘争各派に対し中立を保てり。

 特別区行政長官張景恵将軍は日本人に対し友好関係に在りき。旧政権は特別区内における鉄道守備隊及吉林、黒龍江両省における相当多数の軍隊を尚有し得たるに対し張景恵氏は何等軍隊の背景を有せざりき。9月27日、張景恵はハルピンに於ける事務所において会合を催し特別区の非常時委員会の組織を論議せり。同委員会は張将軍を委員長として其他8人の委員より成り其中王瑞花将軍及1932年1月熙哈将軍に敵対せる「反吉林軍」の指揮官となれる丁超将軍を含めり。11月5日、張作相下の将官の指揮に依り反吉林軍はハルピンにおいて新に吉林省政府を樹立せり。1932年1月1日張景恵将軍黒龍江省長に任命せらるるや省長の資格において1月7日同省の独立を宣言せり。1月29日丁超将軍行政長官の官庁を占領するや張将軍を其屋内に幽閉せり。張将軍は日本軍が北上し丁超将軍撃退後2月5日ハルピンを占領するや再び自由となれり。爾来日本の勢力は特別区内に益々拡大するに至れり。

 黒龍江省に於いて説述せる如く張海鵬及馬占山両将軍の抗争に因り一層複雑せる形勢を生ぜり。11月19日、日本軍のチチハル占領後常例の形式の自治協会なるもの設立せられたるが人民の意思を代表すと称せらるる該協会は特別区の張景恵将軍に対し黒龍江省長を兼任せむことを勧誘せり。然れどもハルピン付近の形勢尚依然として不安定にして馬占山将軍との間に確定協定成立せざりしに因り右勧誘は1932年1月に至る迄受諾せられざりき。1月に至りてさえも馬占山将軍の態度は暫く曖昧なりき。馬占山将軍は2月丁超将軍が敗北する迄之と相提携し然る後日本軍と和睦し張将軍の掌中より黒龍江省長の職を受取りたるが次いで左の省長と共に新「国家」の建設に協力せり。1月25日チチハルにおいて自治指導委員会設立せられ他の省と同一形式の省政府の形態漸次成立するに至れり。

 熱河省は従来満州に於ける政治的変動に対し中立を維持し来れり。熱河省は内蒙古の一部分なり。目下三百万以上の支那人移民同省内に住居し漸次遊牧蒙古人を北方に追放しつつあるが蒙古人は依然として伝統的部族又は旗人組織の下に生活す。約百万を数ふる斯種蒙古人は奉天省の西部に居住する蒙古旗人と若干程度の関係を保持し来れり。

 奉天省及熱河省の蒙古人は「盟」を組織したるが其の中最も有力なるものを「チェリム」盟と為す。チェリム盟は独立運動に参加せるが従来しばしば支那の支配より免れんと試み来れる「バルガ」地方即ち黒龍江省西部の「コロンバイル」の蒙古人も亦同運動に参加せり。

 蒙古人は容易に支那人と同化せず。彼等は自尊心強き人種にして皆「チンギス」汗の偉業及蒙古武人の支那制服を記憶し居れり。彼等は支那人の支配を受くることを悪み殊に支那移民の来住を好まず。蓋し右移住に因り蒙古人は漸次自己の領土より駆逐せられ居ればなり。熱河省のチチハル及チョサツの両盟は奉天省の各旗と連絡を取り居れるか後者は今や委員会に依り支配せられ居れり。熱河省の主席湯玉麟は9月29日同省に対する全責任を執り満州に於ける同僚と連絡を取り来りたる由なり。3月9日の「満州国」建国に当り熱河省は新国家に包容せられたるか、実際に於いては同省政府は何等決定的措置を執ることなかりき。同省に於ける最近の出来事に付いては前章の末尾において言及するところありたり。

 以上の如くにして各省に設立せられたる地方自治政府機関は次いで分離独立せる「国家」として相結合せられたり。新国家が容易に成立したること及新国家が成立の後支那人之に対して與えたる支持に関して提出せられたる多くの証拠を理解する為には、或場合には強みとなり他の場合には弱点となる支那社会生活の一特徴を考慮すること必要なり。既に第1章に於いて述べたるが如く、支那人の認むる共同生活上の義務は国家に対するよりは寧ろ家族、地方または個人に対するものなり。西洋に所謂愛国心は支那にては今日漸く感得せられ始めたるに過ぎず。職業組合、協会、盟及軍隊等皆或個人的指導者に従うを例とす。斯かるが故に説得または強制に依りて或特定の指揮者の支持を得るときは右指揮者の全勢力範囲内の追従者の支持も亦自ら得るころろなるなり。前掲の如き事件の記述は支那人の斯かる特徴が各省政府の組織に如何に巧みに利用せられたるかを示すものにして、同一の之等少数の有力者の働きは最終の階梯を完成する為に用いられたり。

 独立を達成する主要なる手段となりしは奉天に中央事務所を有したる自治指導部なり。信憑すべき証人が委員会に対して陳述したる所に依れば右自治指導部は日本人に依り組織せられ且首長は支那人なるも大部分の職員は日本人に依り充たされ関東軍司令部第4部の機関として活動したる趣なり。而して同部の主たる目的は独立運動を作興するに在りたり。右中央部の指揮監督の下に奉天省各県に地方自治執行委員会組織せられたり。之等各県に対し中央部は其の有する監督員、指導者及講師より成る多数且経験に富める人員中より必要に応じ部員を派したるが其の多くは日本人なりき。尚中央部は其の編集発行せる新聞を利用したり。

 右中央部より発せられたる訓令の性質は同部が1月1日付を以て同月7日発布したる布告を見れば明らかなり。同布告は東北は今や満州及蒙古に於いて新独立国家の建設の為一大民衆運動を遅滞なく起こすの必要に直面せりと告げ居れり。同布告は尚奉天省各県に於ける其の事業の発展の状を叙し且奉天省の爾余の各県、更に進んでは奉天以外の各省に対し其の活動を拡張する為の計画を概説したり。而して更に布告は東北民衆に対し張学良を打倒し、自治協会に加入し、清廉なる政府を設立し、人民の生活状態を改善するが為に協力すべしと訴え次の語を以て結べり「北部及東部の組織よ団結せよ。新国家へ。独立へ。」右布告は五万枚頒布せられたり。

 尚1月中には早くも自治指導部部長干冲漢は省長臧式毅と共に新国家に対する計案を作りつつありたるが右新国家は2月10日樹立せらるべき旨報ぜられたり。然るに1月29日哈爾賓に於いて兵変勃発したること及丁超との戦闘中馬将軍の態度不明なりしことは当時右準備の進行を一時延期せる主なる理由なりしが如し。


 其の後丁超敗退後張景恵中将と馬将軍との間の商議の結果、2月14日協定成り之に依り馬将軍は黒龍江省省長に就任することとなれり。新国家の基礎を協定すべき会議は2月16日及17日、奉天に於いて開かれたり。東三省または省長及特別区長官並びに従来の一切の準備事業において重要なる役割を演じ来れる趙欣伯博士自ら出席せり。

 右五人の会合において新国家を建設すべきこと、一時東三省及特別区に対する最高権力を行使すべき東北行政委員会組織すべきこと、及最後に右最高委員会は遅滞無く新国家の建設の為必要なる一切の準備をなすべきこと決議せられたり。会議の第二日には二人の蒙古王族出席したるが其の一は黒龍江省西部のバルガ地方へコロンバイルを代表し、他即ちチェリム盟のチワン親王は同親王を他の如何なる指導者よりも尊敬し居る殆ど凡ての旗を代表したり。

 同日、最高行政委員会組織せられたり。其の委員は委員張景恵中将、奉天、吉林、黒龍江及熱河の四省長並びに蒙古地方代表チワン親王及リン・シェン親王なり。同委員会最初の諸決議は次の如し、即ち、新国家に共和制を採用すること、構成各省の自治を尊重すること、執政に「摂政」の称号を与えること、四省及特別区長官、全旗体表チワン親王及黒龍江省コロンバイル代表クエイフの署名すべき独立宣言を発すること。関東軍司令官は同夜「新国家の幹部」の為公式の晩餐会を催したるが、同司令官は右幹部に対し其の成功を祝すと共に必要の際には援助を与うべき旨確言するところありたり。

 独立の宣言は2月18日発布せられたり。右宣言は永遠の平和を享受せんとする人民の熱烈なる願望及人民に依り選定せられたりと称せらる各施政者が右人民の願望を充たすべき義務に言及せり。宣言は新国家樹立の必要に言及し且東北行政委員会は此の目的の為設置せられたる旨述べたり。今や国民党及南京政府との関係破棄せられたるを以て、人民は善政を享受すべしと約束したり。同宣言は通電を以て満州各地に発送せられたり。馬省長及熙哈省長は夫々其の省首都に帰還せるが、代表を任命して臧式毅省長、張景恵長官及趙欣伯市長と会合し以て細目を決定せしめたり。

 此の団体に依り次いで開かれたる2月19日の会合において共和国を建立すること、憲法中に於いて権力分立主義を規定すること、及前宣統皇帝に執政たらんことを謂うべきことを決議せり。次の数日中において首都は長春とすること、年号は「大同」(大調和を意味す)とすることを決議し尚国旗の図案も決定せられたり。2月25日、右諸決議は熱河省を含む各省政府並びにコロンバイル及チェムリ、チャタオ、チョサツ諸盟の蒙古行政諸官署に通告せられたり。右の中最後に掲げたる3盟は熱河省に設立せられたるものにして、従って既述の如く熱河省省長の意に反する何等の措置を執ること能わざりき。

 独立宣言及新国家建設諸計画発表後、自治指導部は民衆を組織して之に対する支持を表明せしむる上において指導的役割を演じたり。同部は「新国家建設促進」の為の諸協会設立に與って力ありたり。同部は其の奉天省各県に於ける支部、即ち自治執行委員会に訓令して一切の手段を尽くして独立運動を強化促進せしめたり。此の結果、新たなる促進協会は、自治執行委員会を中心として続々設立せられたり。2月20日以後此等の新に組織せられたる促進協会は活動を開始せり。ポスターは準備せられ、スローガンは印刷せられ書籍及パンフレットは発行せられ「東北文化半月刊」は発行せられ亦配布せられたり。リーフレットは郵便に依りて多数の名士に発送せられ宣伝事業に対する助力を求めたり。

 奉天に於いては支那商業会議所は聯を配布して戸口に貼付せしめたり。同時に各県の自治執行委員会は地方紳士並びに商業、農業、工業及教育団体の会長又は著名会員等の如き人民代表の会議を招集せり。加えるに民衆大会は組織せられ行列又は游行県首都の主要街路に行われたり。一般人民又は特殊の団体の希望を表明せる決議は地方有力者会議又は幾千人の出席者ありたりと称せらるる民衆大会に於いて通過したり。此等決議は勿論在奉天自治指導部に送達せられたり。

 促進協会及自治執行委員会が奉天省の各県に於いて活動を続けたる後新国家建設に対する民衆の一般的希望を具体的に表示する為奉天に於いて省大会組織せられたり。斯くて2月28日、会合は開催せられたるが、右会合には同省の一宣言署を発して旧圧制軍閥の没落及新時代の黎明に対する奉天省一千六百万住民の喜悦の情を表明せり。奉天省に関する限りに於いては右運動は斯くして終結を告げたり。

 吉林省に於ける新国家賛助運動も亦組織せられ且指導せられたるものなりき。奉天における2月16日の会議に出席中、熙哈省長は同省各県官吏に対し通電を発して新国家が行うべき政策に付いての世論に関し情報を与えられんことを求めたり。之等各県官吏は各自の県に於ける諸職業組合及協会に対し十分の指導を与うべき旨命ぜられたり。右通電に対する直接の反響として独立運動は各地に台頭せり。2月20日、吉林省政府は、国家創立委員会を組織したるが、其の目的は各種団体の独立運動を指導するに在りたり。2月24日、在長春人民協会は民衆大会を開催せるが、約四千名の出席有りたる旨報ぜられたり。彼等は新国家建立の促進を要求せり。同様なる会議は其の他の地方及哈爾賓に於いても亦開催せられたり。2月25日、全省民衆大会吉林市に於いて開催せられたり。約一万人の出席者ありたる旨報ぜられたり。2月28日、奉天に於いて通過せられたると同様の宣言然るべく発せられたり。

 黒龍江省に於いては奉天自治指導部が重要なる役割を演じたり。1月7日、張景恵将軍は黒龍江省長の職責を引受けるや同省の独立を宣言せり。

 前記奉天自治指導部は、黒龍江省に於ける右加速度的運動を指導援助せり。四名の将校(内二名は日本将校)奉天より齊々哈爾に急行したり。此等将校が齊々哈爾到着後2日を経て即ち2月22日省政府庁舎内の大広間に会合を催したるが右会合には各団体より多数の参加者ありたり。右会合は全黒龍江省大会にして建国準備の方法を決定せむがためのものなりが右大会は2月24日、大示威運動をなすべき旨の決議を可決したり。

 齊々哈爾に於ける右示威運動には数千の群衆参加し行列はポスター、巻旗、旗を以て覆われ此事件を祝賀したり。日本の砲兵隊は当日を祝福して101発の礼砲を発し、日本飛行機上空を旋回し印刷物を投下したり。直ちに宣言発せられたるが此れに拠り責任内閣制とし且元首に大統領を推戴する共和政体建設せられたり。総ての権力は中央政府に集中せられ省政府はこれを廃止することとし県及市町村は地方行政の単位として存置したり。

 2月末に至るまでに奉天、吉林、黒龍江及特別区は既に夫々宣言を発し、蒙古旗族も亦特別自治区を形成し地方蒙古族の権利を保障し得ること或は可能ならしむること判明したるを以て其の忠誠を新国家に対し誓うに至れり。回教徒は奉天における2月15日の会合に於いて既に彼等の忠誠を誓いたり。其他未だ帰属せざる少数の満州人の大部分は新国家の執政として多分前皇帝が推挙せらるべしとのことを知るや新国家を歓迎したり。

 各省区が新国家建設計画に対し正式の賛同を與えたる後自治指導部は2月卅9日、奉天に全満州大会を召集したり。右大会には各省並びに奉天省及蒙古地方の各郡等より正式代表其他多数参列し、又吉林及特別区の朝鮮人並蒙古の青年同盟支部等諸種の団体の代表者会合し其の総数7百名以上に達したり。

 諸種の演説為され、満場一致を以て宣言及決議可決せられたるが前者は旧制度を攻撃し、後者は新国家を歓迎したり。又新国家の臨時的元首として前皇帝の宣統帝(帝はヘンリー溥儀氏として知らる)を推挙するの第二決議も採択せられたり。

 東北行政執行委員会は直ちに緊急会議を開き六名の代表者を選び之を旅順に派遣し去年11月、天津出発以来同地に滞在中の前皇帝を招ぜしめたり。溥儀氏は最初之を拒絶したるも3月4日、第二回目の29名より成る代表者は遂に僅か一年を期限として氏の承諾を取り付け得たり。於此前記執行委員会は陸軍中将張景恵を委員長とし他に九名の委員を選出して歓迎委員会を組織したるが右委員会は3月5日、旅順に赴き謁見を賜りたり。前皇帝は委員の懇請を容れて3月6日、旅順を出発し湯崗子に至りたるが2日の後、即ち3月8日には既に満州国の執政としての礼遇を受けたり。

 3月9日、新都長春に於いて就任式行われたり。溥儀氏は執政として新国家の政策は「道義、仁慈、愛撫」を基礎とすべきことを約する旨の宣言を発したり。10日には新政府の幹部即ち内閣の閣僚、立法院長監察院長、参議院総裁及副総裁、各省庁及特別区長、各省防備司令其他の高官の任命を見たり。満州国建設に関する通告は3月12日諸外国に発せられたるが、右通告の目的は諸外国に対し満州国建設の根本目的、対外政策の主義を通告し、新国家としての承認を要求するにありとせられたり。

 執政の到着前、既に相当数の法規は制定せられ公布せらるる迄になり居たるが(右法規の制定には趙欣伯博士も時々参加し来りたり)此等法規は3月9日、新政府組織法と同時に実施せられ、其れ迄有効なりし諸法規は新法規又は新国家の根本方針と抵触せざる限り同日付の特別命令に依り暫定的に採用せられたり。


 満州国創設に至る経過に関する此の既述はあらゆる出所より得たる情報に依り編転せられたるものなり。諸種の事件は其の都度詳細に日本の新聞に報ぜられたるが日本人の編転する「マンチュリア・デイリー・ニュース」には多分最も豊富に報ぜられたり。5月30日、長春に於いて現政府により準備せられたる「満州国独立史―満州国外交部編」「満州国概観―満州国外交部編」の2冊支那参与員に依り準備せられたる「東三省に於ける所謂独立運動に関する覚書」は夫々注意深く研究せられたり。加之能う限り第三者より得たる情報利用せられたり。

 9月18日より「満州国政府」建設に至る迄の間に於ける日本軍憲の民事行政、特に銀行の監督、公共事業の経営及鉄道の運用に関する措置は軍事行動開始の時以来、一時的軍事占拠の必要以上の永続的なる諸種の目的が遂行せられたることを示したり。9月19日、奉天占拠の直後、支那銀行、鉄道事務所、公共事業事務所、鉱山管理事務所等の内部又は門前に護衛を置き然る後此等事業の財政的又は一般的情況の調査行われたり。此等の事務所再開せらるるに及び日本人は顧問、専門家又は秘書に任命せられ執行権限を有したり。多くの企業は前東三省政府又は各省政府の所有したるものなるが此等の政府は戦時においては敵国政府と看做さるるを以て何れの銀行も、鉱山も、農工施設も、鉄道事務所も公益営造物も実際此等政府が嘗て公的に又私的に利害関係を有したる収入の唯一の源と雖も管理を受けざるものなかりき。

 鉄道に関し軍事行動の当初以来、日本官憲に依り執られたる措置は日支間の鉄道に付永年係争中なる諸問題の或もの(本問題に関しては第3章に既述せらる)に関し日本のために有利に決定することにありたり即ち急速に左の如き措置執られたり。

  1. 長城以北の総ての支那所有鉄道及在満州諸銀行に在る此等鉄道関係預金は没収せられたり。
  2. 満鉄と協調せしむる為奉天の内外に於いて線路の変更を為したり。即ち満鉄橋下において京奉線を切断し遼寧中央停車場、奉天東駅、奉天北門駅を閉鎖し且吉林行支那政府鉄道(後に復旧せらる)との連絡を断ちたり。
  3. 吉林に於いては海倫吉林線、吉林敦化線及吉林長春線の間に有機的連絡を設定したり。
  4. 日本の技術的顧問は各鉄道に配置せられたり。
  5. 支那官憲に依り採用せられたる「特別運賃率」は廃止せられ旧運賃率採用せられたり即ち満鉄の運賃率と一致する運賃率の採用を見たり。

 9月18日即ち東北交通委員会が機能を停止して以来、満州国交通部の開設に至るまでは日本官憲が諸鉄道の管理に付全責任を負いたり。

 在留民の生命及財産の保護の為め必要なる程度を超えて行われたる此種の措置は奉天及安東における電気供給の場合に於いても日本官憲に依りて行われたり又9月18日より満州国建設までの期間、日本官憲は支那政府の電話、電信及無電の管理及運用に関し変更を加えたるが右は満州に於ける日本の電話及電信事業と共同し得べし。

 1931年9月18日以来、日本軍憲の軍事上及民政上の活動は本質的に政治的考慮に依りて為されたり。東三省の前進的軍事占拠は支那官憲の手より順次齊々哈爾、錦州及哈爾賓を奪い遂には満州に於ける総ての重要なる都市に及びたり。而して軍事占領の後には常に民政が快復せられたり。1931年9月以前に於いて聞かざりし独立運動が日本軍の入満により可能となりたることは明らかなり。

 日本における新政治運動に密接なる接触を保ち居たる(第4章参照)日本の文官及将校の一団は其の現職にあると否とを問わず9月18日の事件後に於ける満州の事態の解決策として此の独立運動を計画し組織し、且遂行したり。

 彼等は右目的を以て支那人の生命及行動を利用して前政権に対し不平を抱く住民中小数民族を利用したり。

 日本の参謀本部が当初より又は少なくとも暫時を経て斯くの如き自治運動を利用することを覚えたること亦明らかなり。其結果彼等は此運動の組織者に対し援助及指導を与えたり。各方面より得たる証拠に依り本委員会は「満州国」の創設に寄与したる要素は多々あるも相俟って最も有効にして然も吾人の見る所を以てせば其れなきにおいては新国家は形成せられざりしなるべしと思考せらるる二つの要素ある其れは日本軍隊の存在と日本の文武官憲の活動なりと確信するものなり。

 右の理由に依り現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず。


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