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日本の侵略の底流をなしたもの

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日本の侵略の底流をなしたもの

明治以来のアジアに対する差別的民族観による破局

高嶋伸欣

一九四五年八月の敗戦からまもなく半世紀になろうとしている昨今、日本ではなお、アジア・太平洋戦争あるいは十五年戦争で、どのような侵略行為をしていたのか、さらにはあの戦争は侵略戦争だったのかについて、議論がつづいている。なぜ、これまでの間に戦争を実行した世代によって、それ、についての事実の確認や意味づけなどの総括がすませられなかったのか。戦勝国による東京裁判などの戦犯追及でよしとしたこと、戦争責任の議論が天皇のそれに及ぶことを避けようとしたこと、あるいは国民の多くになんらかの形で侵略にかかわっていたという意識があったことなど、さまざまな要因があげられる。

ともあれ、結果として半世紀近くもの間、侵略の事実の究明は遅れ、戦後補償の議論も最近になってようやく進められようとしている。その間に、日本軍によって侵略された近隣諸国の人々は戦争責任を明確にしようとしない日本に対して不満といらだちをつのらせてきた。その不満が一気に表面化したのが一九八二年の教科書問題だった。

日本政府が、学校教育において、近隣諸国への侵略の事実を否定しようとしていることに対して、日本以外のアジアの人々は、歴史の歪曲として抗議の声をあげた。それに対して日本政府は教科書検定の是正を約束した。けれどもそれは、教科書に「侵略」の記述を認めはしたものの、個々の侵略の事実の記述に対しては従来以上に厳しい検定意見をつけるというものだった。

そのようなごまかしに対する内外からの批判がつづいたのちに、教科書に侵略の個々の事実の記載が大はばに認められるようになったのは、一九九一年度の検定からだった。それは、世論の批判にこたえざるをえなかった面もあるが、その一方で、PKOへの自衛隊の参加に対する近隣諸国からの反対や批判の声を緩和するための措置とも受けとめられるものだった。日本政府が、侵略の事実を率直に認めようとしていないことや戦争責任を認めず補償の実行を回避しようとしていることは、いわゆる従軍慰安婦問題などで、内外に明白な事態となっている。

こうした日本政府の対応とは対照的に、近隣諸国の学校教育や新聞報道などでは、日本の侵略の事実が明確にされ、戦後世代に語りつがれている。それは、各国の歴史教科書などの翻訳によって日本国内にもしだいに知られつつある。各国の教科書のなかの領土侵犯、物資強奪、強制労働、住民殺害と暴行などの具体的記述が、そのまま日本国内で話題になり、議論をまきおこすことにもなっている

近隣諸国民への無理解

こうした残虐な行為を明確にしている教科書記述が多いなかで、インドネシアの中学校の歴史教科書には、表面的にはそれとは異質あるいは軽徴と思われることを強調しているものがある。本書でもあきらかにされているように、インドネシア(旧蘭領東インド)でも日本軍は住民虐殺をはじめさまざまな残虐行為をくり返していた。けれども、それらの事実をその教科書ではあまり強調しておらず、数少ない図版のなかで最も大きく強調されているのは、日本兵が住民を殴打している場面、それもとくに顔をたたいているビンタの場面である。

ビンタはこぶしではなく平手で顔をたたくのであるから、その他の日本兵による暴力行為に比較すれば、打撃は弱く後遺症は少なかったと思われる。もちろんそれは比較のうえでのことでしかない。しかし、それにしても、ビンタ以上に残虐な暴力行為がインドネシアでもあったはずなのに、なぜここではビンタが強調されているのだろうか。



その意味を読みとるためには、昔から今もインドネシアの社会では、人前で首から上を殴打されることは死にもまさる恥辱とされてきているという事実を認識しなければならない。したがって、インドネシアの中学生たちは、このイラストを見るだけで、日本軍が戦時中に住民に加えた行為の不当性を的確に読みとるのである。それは、強制労働や物資強奪等あるいは住民虐殺などよりもはるかに悪質な行為として印象づけられる。そして、そこに生徒たちは、日本の侵略の本質を読みとる。

アジア・太平洋戦争を、「大東亜共栄圏」建設のための解放戦争とした日本軍が、占領地で住民にビンタを加えたとき、住民たちは日本軍が侵略軍であることを身にしみて思い知らされたのだった。その一方で、日本軍は本質を見抜かれていたことにも気づかずに、日本国内と同様にビンタを日常茶飯のこととしてくり返し、侵略者に面従腹背の対応をしている住民の側の本心に気づかないでいたのだった。ちなみに、インドネシアで日本占領時代のことを尋ねると、まっさきにビンタをくり返されたと答える人が多いという。

人前でのビンタを死にまさる恥辱とするのは、インドネシアだけではなく、他の近隣諸国全体に共通している。換言すれば、日本以外のすべての国に当てはまることでもある。それは中国の人々についても例外ではない。華北地方に戦時中ずっと駐屯していたというある元日本兵(陸軍歩兵)は、一九四三年後半になってから、軍の全部隊に対して中央から「以後、中国人に罰を加える場合など、首から上をなぐってはならない。肩から下をたたくこと。さもなければ強い恨みを買い、これまでの宣撫工作がご破算になる」という意味の指示がいっせいに出されたことがあると証言している。その指示があってから注意して見ていると、住民の間で激しい争いがあっても相手の首から上をなぐることはほとんどなく、もし首から上をたたけば本当のケンカだったと、その元兵士は語っている。

さらに、東南アジア戦線で捕虜になった元連合軍兵士、とりわけイギリス、オーストラリア、ニュージーランドそれにオランダ系の人々の間では、今なお日本軍の扱いに対するこだわりが強い。それは、戦時捕虜の国際ルールに反する扱いによって多くの戦友を死に追いやり、生存者たちも健康を害して多くの後遺症で苦しめられていることに対するこだわりを含んでいる。しかし、それ以上に強調されているのは、日本兵が戦友たちの面前で、ビンタをはじめ殴打を日常茶飯にくり返したことだと、生存者たちは強調している。

ともあれ、欧米諸国の兵士に理不尽な暴力をふるい、人間としての尊厳を奪った行為は、アジア・太平洋戦争の、本来は帝国主義国間の戦闘であったはずの部分までも、より不正義なものに変えたのだった。敗戦後に、東南アジア各地に抑留あるいは戦犯として留置された日本兵が連合軍兵士からさまざまな暴行を受けたのも、その多くはこうした戦時中の日本軍による捕虜虐待の事実が伝えられてからのことであった。戦時中にも一部では捕虜になった日本兵への虐待の事実があったとされているが、大半の捕虜や民間人は国際法にもとづいて安全に保護されていたという事実がもう一方にはある。

差別的民族観の系譜

では、アジアの近隣諸国の人々に対して差別的な民族観をもっていたことが、侵略とどのように関連していたのか。この点については、すでに今日までの平和教育の多くの実践が一つの解答を示している。

それは、小学校以来くり返して、日本軍による侵略の具体的事実を学習するなかで、生徒たちが思い浮かべた疑問に由来している。家庭にもどればよき父、よき夫、よき兄や弟であるはずのふつうの日本人になぜ住民虐殺などの残虐行為ができたのだろうかという疑問は、中学から高校の段階で、多くの生徒から提起される。

生徒たちは討論をつうじて、上官の命令は天皇の命令とされていたことや利益に直結する略奪と暴行虐待との関連などを指摘しながら、戦前の社会の思想統制、皇民化教育の意味に目を向ける。そして、アジアの人々を植民地支配から解放して「大東亜共栄圏」を確立するという大義名分は、「東亜新秩序」という名の新たな日本による支配体制をアジアに築くものであったことに気づく。なぜ、日本が盟主なのか。そこにかってな優越感、思い上がりがあったのではないかと、生徒たちは指摘する。

そのような指摘にいたる判断の材料はすでに歴史教科書などによって、数多く提供されている。韓国併合以後の日帝三六年の支配の学習では、生徒たちは「三・一独立運動」に示された民族のエネルギーに感動し、「創氏改名」政策に最も強く反発する。そして強制連行された人々の墓が犬や猫などペットの墓よりも粗末であることに怒る。さらに生徒たちは、日露戦争が朝鮮半島を奪い合うためのものだったことを教科書から読みとる。日露戦争を他国の領土の奪い合いと認識しているかぎり、東郷平八郎をいくら日本海海戦の英雄として強調しても、日露戦争の正当化はできない。また、人物中心の歴史学習が強調されているなかで、生徒たちは、和服を着せられた韓国皇太子のわきに立つ伊藤博文の記念写真(下)に注目する。韓国の民族衣装ではなく和服を着せられているところに、日本による同化政策のいかがわしさを生徒は読みとり、韓国・朝鮮の人々の伊藤に対する反発の根拠を読みとる。



そして、さらに日清戦争にまでさかのぼってみると、教科書には、日本の勝利後のこととして次のように記述されている。「図版・戦争ごっこ=勝つのは日本、負けるのは清と決まっていました。こうして、日本人のあいだには、中国や中国人をさげすむ意識が強くなりました」(小学校六年生用)と。またこのとき、「日本は、欧米の強国と同じように、植民地をもつ国となりました」ともある。

台湾を初めての植民地として領有することになるのに先がけて、福沢諭吉は「脱亜論」(一八八五年)で、「其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」と論じていた。さらに、日清戦争については、「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものとの戦にして、決して両国間の争に非ず」(一八九四年『時事新報』)と主張した。日本は欧米流の文明を吸収している文明国であり、善であり、正義であると位置づけ、清(中国)や他のアジア諸国は野蛮であり、悪であるとする対比がそこには示されている。

福沢はつづけて、中国侵略を正当化する意味で次のように中国人蔑視を強調している。「幾千の清兵は何れも無辜の人民にして之をみなごろしにするは隣れむ可きが如くなれども、世界の文明進歩の為めに其妨害物を排除せんとするに多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数なれば、彼等も不幸にして清国の如き腐敗政府の下に生れたる其運命の拙(つた)なきを自から諦むるの外なかる可し」と。

福沢の中国人蔑視は、これよりも早く明治二年(一八六九年)発行の最初の地理教科書『世界国尽(づくし)』の中国の記述に次のように示されている。「そもそも『支那』の物語、往古(むかし)陶虞(とうぐ)の時代より、年を経(ふ)ること四千歳(せんざい)、仁義五常を重じて人情厚き風なりと、その名も高かく聞えしが文明開化後退去(あとずさり)、風俗次第に衰て徳を修めず治をみがかず、我より外に人なしと世間知らずの高枕、暴君汚吏の意にまかせ、下を抑えし悪政の天罰遁(のが)るるところなく、頃は天保十二年、『英吉利国』と不和を起し、唯一戦に打負けて和睦願いし償(つぐない)は、洋銀二千一百万、五虚の港をうち開き、なおも懲さる無智の民、理もなきことに兵端を妄(みだり)に開く弱兵は負て戦いまた負て、今のすがたに成(なり)行しその有様ぞ憐(あわれ)なり」と。

こうした中国・アジア観は福沢だけのものではなかった。明治時代の政府高官、知識人など指導者層に多く、共通に見られるものだった。たとえば岩倉具視を団長とし、大久保利通や伊藤博文などが参加していた特命全権大使一行による欧米視察旅行(一八七一~七三年)の記録『特命全権大使米欧回覧実記』(岩波文庫、全五巻、一九七七~八二年刊)においても、帰途に見聞した東南アジアについて、住民はなまけ者と決めつけ、勤勉で欧米文明を手本として吸収しようとしつつある日本人だけが、アジアでは優秀な存在であるとしている。

「日本民族=優秀」説を支えたもの

しかも、この『回覧実記』では、東南アジアの資源産地としての価値に着目し、その活用のためにインドや欧州へ往来する者「年々ニ盛ニシテ、其地理物産ヲ記スル、此米欧実記ノ如キモノ森出スルニ及ンデ、始メテ日本富強ノ実ヲミルベシ」と、資源産出に関する情報収集の必要性までも提言している。

この提言は、おもに地理学と地理教育において具体化され、実践される。近代地理学のうちのいわゆる経済地理の分野は、大英帝国が世界を支配していく過程で、世界の各種物産の産地が「世界はイギリスのために」とするパックス・ブリタニカの構造のなかにいかに組みこまれ、位置づけられたかを説明するための知識体系として整備された。その知識体系のなかで、日本の地理学に求められたのは、日本の近代化、帝国主義的立国のためには、どこの資源を奪うことが効率的で合理的かという方針立案のための情報の収集と整理だった。そこでは、日本以外のアジアの人々は、一貫して劣等民族として位置づけられていた。

日本民族がアジアで最優秀であるとする論拠は、第一に現人神(あらひとがみ)天皇の存在であり、他に類例がないということだった。その権威づけは皇国史観に立脚した歴史学と歴史教育によって推進され、日常生活においては天皇を神と崇(あが)める天皇神道によって推進された。

第二の論拠、それは日本こそアジアで唯一欧米の植民地支配を排除し、独立を維持した国という歴史上の“事実”だった。そこでは日本を唯一の正当な独立国とするために、もう一つの独立国タイの独立維持の歴史がゆがめられ、緩衝国としてたまたま植民地化されなかったにすぎないとするタイ国観が流布された。朱印船貿易時代の東南アジアの日本町や山田長政の逸話が、古くからの日本民族の優越性を示すものとして、もてはやされた。

その結果、日本人のあいだには、タイを軽視する風潮が根強く残った。それは、一九四一年二一月八日の開戦時に、日本軍が日タイ間の中立尊重・領土不可侵の「日タイ友好和親条約」を踏みにじり、タイ領に侵攻したにもかかわらず、日本国内では今もこの事実に多くの人々が関心を示そうとしない事態の一因ともなっている。

さらに、日本の独立維持が、アジア各地の民衆による欧米諸国への人間の誇りをかけた根強い抵抗運動によって支えられていた事実を、日本ではこれまで軽視してきた。一九世紀以後のアジアの民衆の抵抗によって、日本に対する欧米列強の圧力が削減され、日本への介入を本格化する段階では、それまでの武断的手法を、関税自主権を奪った不平等条約を最大限に活用する程度に改めるほうが得策と欧米列強に方針転換をはからせた事実を知るとき、高校生たちは「アジア観が変わる」と一様に言う。そして、「日本は明治以後、そのアジアの人々に恩をアダで返す仕打ちをしてきたことになるのではないか」と指摘している。

こうした差別的民族観によるアジア侵略の正当化の仕上げをしたのは、地理学のなかの地政学だった。生物学における"適者生存""弱肉強食"の論理をそのまま人間社会に適用し、優秀な人種・民族が劣等な人種・民族をほろぼしてでも繁栄していくのは、自然界の法則にかなった正当な行為であるとする論理は、ナチスドイツによって実践され、数かずの悲劇をもたらした。

日本はドイツからこの地政学の論理を導入し、現人神天皇の存在をもって日本民族の"優秀性"を強調し、周辺諸国への侵略を正当化する"皇国地政学"を展開し、支配地域を台湾、南棒太、朝鮮、南洋群島へと拡大していった。それは、やがて破局にいたる十五年戦争への序曲であり、国内に差別構造を築きながら占領地においても民族差別を拡大していくという点で、終始一貫した行動だった。


過去は克服されたか

敗戦後、日本は平和主義を掲げ、主権在民の民主的国家に転換したと主張しながら、「経済大国」への道を歩みつづけてきた。

しかし、日本では戦後半世紀たっても、侵略の事実を隠そうとする動きが根強く、戦争責任はややもすればうやむやにされかねない状況がつづいている。まして、侵略を正当化したアジアに対する差別的民族観の意味についてまで、議論が及ぶことはほとんどなく、そうした民族観が明治時代から日本の近代化路線の基調として厳然と存在してきた事実にもほとんど関心が払われていない。

その結果、敗戦後半世紀近くをへた今も、差別的民族観が日本の社会の底流にはそのまま存続し、あらたな国際間題を生み出す温床となっている。今なお根強い近隣諸国の対日不信、それは目下のところは戦争責任にかかわる個々の侵略の事実を認めるかどうかにかかっているが、アジアの人々の視野には、私たち日本人の差別的民族観までが、批判の対象として位置づけられていることを私たちは自覚しなければならない。


本書は、そのほとんどが日本が他国を侵略していた当時の写真によって構成されている。写真のなかに語られている当時の差別的民族観、日本人の思い上がりを私たちがどれだけ読みとり、現在の私たちのアジア観を改める手がかりをどれだけ見いだせるかに本書の意義がかかっている。

私たち日本人にはつらく、厳しいいとなみではあるけれども、避けて通るわけにはいかないこの課題に対処するための糸口を、本書を通じて多くの読者がつかんでくださることを心から念じてやまない。
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