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特務機関員・ヴェスパの満州脱出

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特務機関員・ヴェスパの満州脱出


元満州日報支配人 太原要

ヴェスパ銃殺の決定


一九三六年九月。関東軍特務機関員アムレトー・ヴェスパの軍用機による満州脱出は内外に衝動を与えた一大事件であった。しかも彼によって関東軍の満州事件以来の謀略工作が英国の代表的新聞紙上において暴露され、国際連盟がこれをとりあげるに至って、満州国が日本の傀儡政府なることを実証することになった。当時、この事件は軍によって報道を禁ぜられ、そのまま今日まで未発表となっている。

「参謀部会議は君を抗日軍の内通者として銑殺と決定した。一刻も早く満州から脱出しなければならない。君はまだ軍の証明書を持っている筈だ。すぐ飛行場へとんでいって飛行機をつかまえ給え」

ヴェスパが参謀部のR大尉からこんな通報に接したのは一九三六年九月三日の未明であった。彼は即刻、市内に潜伏している抗日軍将領張作舟大佐に家族の保護を頼んで大連へ飛び、そこから海路、上海へ着いた。これを知った関東軍は跡を追うヴェスパの妻子を青島で逮捕、ハルビンに押送投獄する一方、満鉄情報部嘱託チャールズ・キーナンを上海に急派して、

「貴君が関東軍の内情を公表するようなことがあれば、家族はこの世から消される
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でしょう。だが、貴君はそんな馬鹿なことはなさらんと信じます。貴君は中国に帰化されたが生まれはイタリア人です。イタリアと日本とは盟邦です。もし日本に不利なことを発表されるとイタリアの不利を招くわけですから」

と説かせた。だがヴェスパは関東軍が強制徴用の四年半の間、幾度か生命の危険にさらされる仕事を強いながら約束の報酬を逃亡を防ぐため払わなかったうえ、家族を人質同様の扱いをし五万ドルに値する財産を押えた。今なお同じ圧制下に苦しんでいる諸外国人や過去半生を送った愛する満州のため、関東軍の謀略行為を発表して世界の世論に訴えるのが私の義務だ、と耳をかさない。

そこで、当時、悪名の高かった憲兵隊の中村通訳にロシア人凶徒団を率いて上海に潜行させ、ヴェスパの暗殺をはかったが成功しなかった。それのみか、張作舟が捕虜とした関東軍将兵取り戻しのため、ヴユスパの家族釈放の余儀なきに至ったのであった。しかも、関東軍の満州における謀略工作は、排日紙マンチェスター・ガーデヤンに「中国侵略秘史」と題して暴露されてしまった。

アムレトー・ヴェスパは在満三十年。新聞記者仲間では中国名の鳳弗斯(フォヴス)で通っていたが、彼に会った者は少ない。何故かというと、彼の活動は夜陰に限られ、張作霖との会見の場合も黒の中国長衿に黒眼鏡、黒い中国帽という黒装束で裏門からであったからだ。

私は仕事の関係上、彼と知り合いであったが、彼自身の語ったところによると、二十二歳のとき故国イタリアをとび出してメキシコのマデラ将軍の革命軍に投じた。そこで負傷二回、大尉に昇進した。一九二一年に退官しフリーランスのジャーナリストとして米、濠、仏印、中国、東部シベリアを歴遊した。
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一九一六年、第一次大戦中、連合軍の諜報機関に属し日本軍に従いアムール、バイカル、ニコライエフスクにも潜行した。戦後、彼の国際知識と優れた語学や諜報の才能に着目した張作霖に招聘されてその私設特務機関に入り、満州政治の舞台裏での有力者となった。爾来張の帷幕にいること八年余、信任ことのほか厚く、張の寝室に入ることのできたのは、彼と黒竜江省長呉俊陞の二人だけであった。

彼は寧ろ親日家であった。日満協約による武器密輸取り締まりでは、母国軍艦密輸のものさえ押収し、上海のイタリア総領事館に捕えられ暗殺されんとした。また、満州関係の日本人高官中には多くの知友をもち、武藤元帥の崇拝者であり、満州在留邦人の勤勉さに賛辞を惜しまなかった。それなのにどうして反逆するに至ったか。

それは、張政権時代のライバルであった土肥原賢二大佐に対する私怨と、大佐が張作霖爆殺の黒幕だとしての報復が主な原因のようだ(彼はハルビン特務機関長白武中作の洩らした一言で、土肥原大佐が張爆殺の主謀者だとの確信を得たと私に語った)。では何故、土肥原大佐がハルビン特務機関長に就任早々、ヴェスパを徴用して外人諜報班主任にしたか。それには二つの理由があった。第一は、ハルビンは所謂満州の上海で十数カ国の外国人雑居の国際都市であるから、その統治は容易ではない。それに財力の豊かなこの都市から軍資金調達という重大な役目があった。

それにはこの内情に通じ、在留外人に信用のあるヴェスパを利用する必要があった。第二は、その頃梟雄馬占山は板垣参謀と駒井総務長官の決死的な海倫(ハイロン)のり込みで、満州建国に参加させることに成功したものの、李徳、丁超、張作舟ら十万余の抗日軍の舜々蠢動甚しく、鉄道地域外へ一歩でも離れると危険で、関東軍守備隊の損害は夥しかった。それに彼等のバックには東支鉄道管理局長クズネツオフがおり、武
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器弾薬を与えて煽動していた。

過小な関東軍の力ではとても早急な鎮撫は不可能であった。ところがヴェスパは彼等将領とはみな張政権以来の旧知である。そこでヴェスパを使って説得帰順させようというのである。だが、それだけにこの大物を使いこなすのはひと仕事で、また逆効果をもたらす危険が感じられた。そこで家族に厳重な監視をつけ、かつまた、約束の報酬を払わず逃亡を防いだ。だが、それはヴェスパに多大の恥辱と反感をいだかせることとなった。

一方、ヴェスパの活動で憲兵隊の悪事が次々に摘発されると、特務機関と憲兵隊の確執は昂じ、その結果、ヴェスパ一身に糾弾の矢が集中されるようになった。そこへ、彼の部下の馬賊頭目王建基が憲兵隊の弾圧に堪えかね、関東軍の軍用金輸送列車を襲って、これを強奪逃亡という事件がおき、彼が内情を知ってのうえのこととの疑惑をうけたのである。

事ここに至るまでには、いろいろの問題があったが、関東軍参謀部会議がヴェスパ銃殺を判決した直接の原因は、彼が関与した横道河虐殺事件隠蔽のためであった。

軍が日本娘の売買


昭和七年四月十八日朝、私はある秘密の用務を帯び関東軍所属の特別工作隊長王建基を訪ねた。彼の事務所はハルビン軍司令部近くに与えられているのだが、そこは小頭目ほか数名が軍との連絡に当たっているのみで、王自身はハルビンの暗黒街として知られている支那町伝家甸(フーチヤテン)に住んでいた。

そこは彼が世を忍ぶ糧桟(倉庫業)天泰号で経理人は小頭目の一人である。王建
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基はその家の地下室を活動の本拠とし、市内潜伏の配下に電話で、鉄道沿線配置の者には短波無電で指揮していた。

抗日軍の動静探査が主要任務だが、このところ、旧中国大官や猶太人富豪の誘拐、憲兵隊許可の魔窟退治に忙殺されていた。

もともと、関東軍の満蒙領有計画の原案は兵二個師団、軍事費六千五百万円というのだったが、いざ実行に移ると大変な誤算であった。二十倍に近い抗日軍の討伐容易ならず、特に官私有財産没収を建て前とする軍費の現地調達は並大抵でなかった。そこで、とられた政策は満州内で最も財源のある北満の首都ハルビンにおける経済工作であった。即ち、①阿片の輸出は軍の直営。②阿片窟、麻薬調剤所、賭博場、遊女屋、カフェー、ダンスホール等の享楽場と女達の輸入配給は、関係業者にシンジケートを組織させ、独占権を与える代償としてそれぞれ三百万円程度の権利金を納付させる。③ハルビン市内外居留の富豪からは、その国籍のいかんを問わず一切の財産を没収する。④鉄道は満鉄一手に経営させ北満の物資は大連に集中せしめる。その代償として軍用は一切無償というのである。

余談だが、右のうち一番、関東軍の機密費調達に大きな役割を果たしたのは、阿片の輸出であった。事務所はウチャーッコワ街に堂々たるビルで、経理人はもとより幹部職員はみな平服姿の日本人将校である。

阿片は「円本軍需品」という貼札をつけ、日本汽船(時には軍艦)または軍用機で天津、北京、上海、漢口の軍管理の救煙局に送られる。主として熱河産だが、後には大豆畑をつぶして罌粟(けし)栽培を土民に強いるに至った。年収五百万ドル。後年、北支駐屯軍のみならず、中央軍部の機密費を関東軍が分譲するほどになった。
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日本娘の輸入配給も注目に値した。独占シンジケートの代表は、平田某と称する無頼漢で、トルゴワヤ街に十一室を有する事務所を構え、入口には日本憲兵が張り番をしていた。顧客が来ると、りゅうとした背広を着た書記が出迎えて、豪華なヨーロッパ風の調度を揃えた応接室に通す。そこには女達の写真と説明の載っているアルバムがある。

説明書きには、処女か処女でないか、身長、肉づき、教養、嗜好、芸能など細かに記入されている。選択がすむと取り引きが始まり、値段と契約期間について合意ができると、顧客は二割五分の手金を払う。

約二週間後に、顧客は銀行から女達が到着したことと、残金を支払い次第に、女達を引き渡す旨の通知をうける。こうして注文の商品が手に入ると、抱え主はこれを車にのせて、繁華街を練り歩かせて、新輸入品大売り出しの宣伝をするという段取りである。まず、地方巡業の田舎芝居の町回りを想像すればよい。これを迎える日本兵は、歓呼をあげて拍手するのである。

国境に神出鬼没の影(イン)


なお、筆者の古いメモによると、昭和十一年末現在のハルビン市内、軍公認の娼家は百七十二、阿片窟五十六、麻酔剤店百九十四、賭博場四十三。うち特務機関が憲兵隊の強要にたまりかね、その経営を譲ったもの、娼家、阿片窟各五、賭博場、麻酔剤店各一、その他に憲兵隊は市外に前記の魔窟を総合した将校クラブをもっていた。

さらに、利権争奪の複雑性は、満州国側軍憲がこれに便乗して猛威をたくましゅ
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うしたことである。とくに、リットン調査団来満の前後は最も甚しかった。このため、謹厳将軍武藤軍司令官は、数回にわたり全満の特務機関長に警告を発したが、改まらず東京へ上奏文を送ったほどであった。

当時、満州の司法機関は、日本特務機関、同憲兵隊、日本領事館警察、日本軍鉄道警察、満州国特務機関、同憲兵隊、同刑事警察、国家警察、市警察の九機関があり、各々独立して対立していた。一つの機関に逮捕された者が、他の機関では模範的市民として称揚される。関東軍参謀部が、リットン調査団に密告の疑いのある者は、全部逮捕せよとの命令は、ハルビンの各種機関に好餌を与えた。まず、日本憲兵隊が、代表的な富豪を逮捕し、その財産に応じて身代金を徴集して放免する。待ち構えていた満州国憲兵隊が同一人を逮捕して、また身代金を納付させる。

次は警察の搾取といった具合で、一巡したあとは、昨日の富豪は路頭の乞食になる。この時、みじめだったのは特務機関だった。掬摸(すり)団をして調査団携行のカバンから重要書類を窃取させようとしたが、失敗したうえ、反日分子から調査団の手に渡った文書は合計千五百通に及んだ。このため、特務機関長ほか幹部は左遷されたのであった。

さて、王建基だが、彼は多年、鮮満国境の山岳地帯を地盤に満州を荒し回っていた。現在、部下二千と称する有名な馬賊頭目の一人である。神出鬼没、まるで影のようだというので、匪賊仲間では寧ろ影(イン)の渾名で通っていた。ヴェスパより五っ下の四十歳。風貌は正反対で、前者が痩躯長身なのに対し、後者は短躯肥満。両者の関係は、ヴェスパが張政権時代、間島一帯の馬賊討伐に赴いた際、王の匪軍を山間の渓谷に追いつめ、胸部に銃弾をうけた頭目の王を、間島病院に収容、そのまま引
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き揚げた。

ヴェスパが関東軍に徴用された時、直属部隊として割り当てられたのが、王の馬賊団で、両人は奇遇に相擁して泣いたという。爾来、王はヴェスパを命の恩人として献身的に奉仕している。至極単純な男で、関東軍についているのは、生活のためだが、もう嫌になった。機会をみっけ、鳳大人(ヴユスパ)と上海へ逃げ出してあばれるよ、と公言して憚らない。その彼は、いま、抜身の拳銃片手に出動の指図をしていたが、私の顔を見るなり、

「オー、先生。もう嗅ぎつけて現れて来ましたね」
「そりゃ商売だからな。時にどうだい。こんどの横道河の軍用列車爆破の一件は? 何かいわくがありそうだね。特務機関は大慌てだし、憲兵隊はざまア見ろと北隻笑(ほくそえ)んでいる」
「そうなんです。軍用列車襲撃なんて珍しくもねえ。関東軍自身だって、東京へ増兵要求のタネに一芝居ぶつこともあるんだから。だが、こんどは、ソ連の密輸列車爆破の謀略とからんでいるだけに、事面倒でさア。憲兵隊のやつ、坊主が憎けりゃ袈裟までで、土肥原大佐怨嵯の鉾先を鳳(フォン)大人に向けていやがる。わっしは、どんなことがあってもパスツーキンの野郎をとっつかまえて、鳳大人のあかしを立てなきゃ我慢がならねえ」
「すると、日本軍用列車の爆破は鳳君配下のパスヅーキンの仕業だというのか」
「いや、そりゃ分からん。捕まえてみんことにはね。どうです先生。わしらがこれから、鳳大人の招電で爆破現場へ行くんだが、一緒に行きませんか。大人喜ぶぜ」
(よし、行こう)と私は即座に横道河行きを決めた。
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軍用列車爆破に愕然


その頃、ソ連は関東軍の満州建国工作妨害のため抗日軍の援助、交通阻害などあらゆる陰謀を行っていた。指揮者は東支鉄遣管理局長クズネツォフで、その一つとして北満の重要物資のソ連領内密輸出があった。当時、東支鉄道はまだソ連のものだから、一片の抗議位では何のききめもなかった。

すると、去る九日朝、天泰号の経理人がその夜半、ポーランド貿易商名義の特別列車が浦塩(ウラジオ)向けの大豆を満載して発車するとのニュースを聞きこんできた。この内報は直ちにヴェスパを経て土肥原特務機関長へ通達された。土肥原大佐は即刻、新京の軍参謀部と打ち合わせの結果、密輸列車が国境に近い穆稜(ムーリン駅)到着の直前、これを爆破して禍根を断つこととした。

それには反ソの白系ロシア人の仕業とするため爆破工作はヴェスパ配下の密偵第二号パスツーキンに制り当てられた。ヴェスパはパスツーキンが工兵将校出なので、土肥原大佐が彼を逮んだのは当然としても、最近の素行に怪しい点がある、と反対した。だが聞き容れられず、黄色爆薬五十磅(ポンド)をもたせて先発させた。そして万一に備え密偵第五号監視役として秘かに尾行させた。密偵はすべて番号で呼ばれ、相互に面識も連絡もないことになっていたが、それは大変な誤算であった。

密偵第二号が出発した二日目の夜のこと。穆稜駅詰めの特務機関員から(密輸列車は無事通過して満ソ国境に向かった。第二、第五号密偵とも行方不明)と報告してきた。スワ一大事と、沿線各駅との間に照会電報がとり交わされたが、密輸列車国境通過を確かめえたほか何の得るところもなかった。
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夜明けを待ち、土肥原大佐は武藤大尉とヴェスパに出動を命じた。二人は飛行機で出発、阿城、葦河など主要駅に降りて調査し、午後五時、穆稜に着いた。しかし密偵第二、第五号の両人はもとより爆薬も見つからなかった。

武藤大尉がその旨、ハルビンヘ報告した直後、当駅の西方百哩(マイル)の横道河子(おうどうかし)駅から、

午後五時三十分、牡丹江へ移動中のわが軍用列車が当駅付近の鉄橋通過の際、爆破され、目下、全車輔炎上中

と急報してきた。愕然とした二人は、その場から操縦兵をせきたて、横道河子へ引き返した。鉄橋上空へ飛来すると、眼下には凄惨な光景が展開されていた。前部七輌は機関車もろとも河の浅瀬に滑り落ち、後部十一輌は築堤下に横倒しとなって全列車が火を吹いている。守備隊の兵や満人農夫の数団が、鉄骨むき出しになっている車輌から負傷者の救出作業に右往左往している。

飛行場から現場へ駆けつけた武藤大尉とヴェスパは守備隊長木下少佐の姿をさがし出し、挨拶もそこそこに、犯人の手掛りの有無を訊ねた。が、少佐は今は救助作業が第一で、そんなことは後まわしだと、にべもなくつっぱねた。度重なる抗日軍来襲のあとに、今回の変事勃発で昂奮しているのである。

爆破は軍密偵の仕業


この事件での損害は、兵数の少ない関東軍にとっては大痛手だった。午前二時、救出作業が一段落し、茶毘に付された黒焦げ死体三百七十四、到着の病院車に収容された重傷者六十をかぞえた。

武藤大尉とヴェスパは黎明を待って爆破現場の調査にあたった。犯行はすぐ分か
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った。橋梁下の土台石を外してその空隙に爆薬を装填し、約二百ヤード離れた叢林中に隠した電池から引いた導火線で爆破したものだった。

ヴェスパは、爆薬の破壊力のすさまじさを見た途端、網膜に浮かび上ってきたのは、彼が前年、眼の当りにした張作霖座乗車の爆破現場の惨状であった。

---あの時、使われた爆薬は、朝鮮の竜山駐屯軍の神田工兵少尉が密送してきた日本軍自慢の黄色爆薬であった。土肥原大佐はそれで、自分が前後八年間、苦楽を共にした張元帥を葬り、盟友呉俊陞将軍を殺したのだ。その土肥原は多年、自分と謀略の敵対者であった。その彼に強制徴用され、いま心にもない日本の満蒙領有計画の片棒を担がされている。

ヴェスパはそう思うと、土肥原大佐に対する反抗心が、勃然と胸中に湧き出て、悲憤の涙をぱろりと落とした。が、当面の問題は犯人逮捕である。黄色爆薬携行の第二号の仕業だとの証拠固めである。

と、その時、子供のわっと泣き叫ぶ声が耳に入った。みると、橋畔の鉄橋番人小舎の裏庭で、ロシア人の幼童が川面を見下ろして泣きじゃくっている。ヴェスパが駆け寄って聞き質してみると、鉄橋番人の子で、両親は咋晩日本兵に捕縛されていったという。そこで犯人さえ分かれば、二人とも放免される。お前は事作当日、何かこの辺で怖しい男を見かけなかったかと宥めすかして聞くと、その日午後あの林へ遊びに行ったら、ロシア人が二人寝ころんで何か食べていた。僕の姿を見つけた一人が町へ行ってウォッカを買って来いと沢山使い賃をくれた、と言う。

人相を質してみると第二号と第五号そっくりである。子供に案内させてその林の場所へ行ってみると、電池が隠されてあった所であった。しかもそこで、パスツー
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キンの愛用していた覗き穴からエロ写真が見える小型ナイフを拾った。もはや、犯人はパスツーキンに相違なしと断定された。

私が王頭目を伝家甸の隠れ家に訪ねたのは、その直後だったのである。

憲兵隊、住民を虐殺


一方、守備隊では、翌一三日、横道河子の町と爆破現場の両側の民家から、四百名以上の満人、ロシア亡命者、ソビェト人を逮捕したが、何一つとして判明しなかった。

翌朝、事件の審判長宮崎憲兵中佐が飛行機でのり込んできた。この男はその冷酷無情さが、その昔、スペインの宗教裁判長として鳴らしたトルケマダに似ているというので、トルケマダニ世のニックネームがっいていた。

見るからに不愉快な風貌の持ち主だった。彼は飛行機から降りるが早いか、出迎えの木下守備隊長以下の幹部将校に向かい、犯人逮捕の手ぬるさを責め、どんな非常手段に訴えても、必ず急速に犯人を見つけねばならぬ。全住民の拷問はもとより虐殺も辞すべきでない、と厚い唇に泡をたてて訓示した。そのあと、武藤大尉とヴェスパの姿を見つけ、大尉を睨みつけ、

「君はハルビンの特務機関の者だったな。何しに毛唐のイヌをつれてここに来た。本官の行動を監視に来たんだろう」
武藤大尉は憤然として、
「そんなことはありません。現場調査に来たんです」
「調査は本官の仕事だ。君等に用はない。即刻、ハルビンに引き上げ給え」
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「上官の許可がなければ、そうはゆきません」
「上官とは土肥原大佐のことか。わしは憲兵中佐だぞ。憲兵中佐は軍の将官待遇だ。土肥原が何だ。満州のロレンスだとか、謀略の権化だとか煽てられて、いい気になっている。ここの最高指揮官は我輩で土肥原じゃない。我輩の命令は絶対じゃ。すぐ帰れ」
ここでも憲兵隊の特務機関に対する悪感情が露呈された。

武藤大尉は、この調子では鬼中佐が何をやり出すか分からない。責任を負わされてはバカバカしいから、ハルビンヘ帰ろうと言った。ヴェスパも賛成して土肥原大佐へ電報したが、犯人逮捕まで現地を離れるなと指令してきた。すると、宮崎中佐からヴェスパを審判の通訳として寄越せと命令してきた。無論、硬骨な大尉ははねつけた。が、ヴェスパは被疑者の中に或いはパスツーキンがいたらと一縷の望みをいだいて川かけて行った。

ヴェスパは憲兵の一団に護衛されて被疑者四百人が収容されている倉庫に着いた。門番の兵が大きな扉を開けて、内へ入れようとすると、放免されるのだと思って雪崩をうって走り出て来た人々は、憲兵の銑床で散々に連打された。

審判席は一段高い所に設けられ、宮崎中佐が助手二名を左右にして厳然と腰をかけていた。小銑と機関銃とで武装した憲兵の一隊が銃口を被疑者に向けていた。

トルケマダ二世は、真先に鉄橋の番人を呼びつけ、通訳の憲兵に本当のことを、言わぬと射ち殺すと言ってやれと命令した。憲兵がその通りに、言い伝えると、

「私はソビエト人ですが、列車爆破事件とは何の関係もありません。返事はただそれだけです。それで、もし私を殺すというのなら、殺したらいいでしょう」
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トルケマダ二世は烈火の如く怒った。
「馬鹿め! 貴様は俺が殺せぬとでも思っているのか」

言いざま、番人の前額に弾をうちこんだ。群衆は恐怖と怨嵯の叫び声をあげた。すると、血相を変えた長身の満人が、憲兵の警戒係を突き落としてトルケマダに飛びかかった。が、これまた左右から三発の銃弾をうけて斃れた。

「おい。特務機関の通訳! もし、静かにせぬと機関銑で薙ぎ倒すと言え」

だが、ヴェスパは穏やかに、鎮撫につとめたので、場内はひとまず静かになった。だが、次いで五十人以上の男女が拷問にかけられた。ヴェスパは居たたまれず場外へ逃げ出した。審判は夜の十時頃まで続けられたが、トルケマダの罵声と、轟音が聞こえたので、審問は徒労に終わったようだ。それは失望したトルケマダが、審判の終わった者を、その夜裏山につれ出して射殺を命じたので想像できる。

それのみでない、約二百名の兵と憲兵に各村落を襲わせた。一軒の家も容赦されなかった。そこでは放火、掠奪、凌辱、想像し得る限りの野蛮行為が行われた。守備隊の兵が、歓呼してトルケマダの命令に従ったのは、度重なる抗日軍の守備隊襲撃は、村民中に手引きする者ありとしての報復であったようだ。

訊問、拷問、射殺、掠奪はその後も数日続いた。三日目には、ハルビンから約二十名の不逞ロシア人が到着して、夜の仕事を手伝った。少しでも金持ちだと思われる住民は、放免の代償として多額の身代金が搾取された。その金は大部分、ハルビンの憲兵隊へ送られ、残金はロシア人助手の懐をあたためた。
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王頭目ら憲兵隊に憤激


十九日夕刻、二人の小頭目を従えた王頭目と私との四名が、横道河子の一つ手前の小駅高嶺子に着いた時、憲兵の一団が車内に飛び込んできて、有無を言わさず憲兵隊詰所に拉致した。数時間後、私だけは身分が明らかになったとみえ釈放したが、王頭目ら三人は捕縄をかけて牢獄にぶちこまれた。

私は横道河子のヴェスパに事の急を通知しようとしたが、電話□には憲兵が監視していて使わせない。当駅は木材積み出し専門の寒駅のこととて、明朝まで列車の便がない。駅前の空地に立って、思案に耽っていると、年老いた満人乞食が近寄って手を差し出した。小銭を出して与えると、前かがみになってささやいた。
「鳳大人には、仲間のものがさっきの列車に飛び乗って知らせに行きました」

そして、王頭目の配下の者だとの合い言葉を付け加えた。私が合点してみせると、暗い村道に姿を消した。彼は王頭目の命で、横道河子を中心にこの付近に集結している配下の一人であった。

翌朝、横道河子に着くと、武藤大尉とヴェスパがトルケマダ二世に厳重な抗議中であった。
「王建基らは私の助手です。すぐ、釈放しないと重大な結果が起こるでしょう。彼の配下は当駅から近い所に集結しています。もし、このままにしておくと、彼等は頭目救出のため来襲すること必然です」

ヴェスパは必死にトルケマダを説得に努めたが、たかが馬賊じゃないか、そんな猿めの来襲など問題でない。嫌疑があればこそ逮捕させたのだ、と応じない。
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武藤大尉は軍用暗号電報で参謀部へ事情を報告した。すると折り返し、参謀部からトルケマダ二世宛に、王頭目ら三名を即刻釈放せよと命令してきた。それでその夕方、王建基らは自由の身となり横道河子にやって来たが、トルケマダのヴェスパに対する憤懣はひと通りでなかった。それにもまして、王らのトルケマダに対する憤怒は一段と激しかった。きっと思い知らせてやると、何か非常手段を考えているようであった。トルケマダが無辜(むこ)の同胞を虐殺させたことが、また別の大きな原因と思えた。

武藤大尉は、その夜、土肥原機関長からの招電でハルビンに帰任した。ヴェスパは駅長の好意で構内退避線上の二等寝台車を宿舎とし、私には駅楼上の一室が割り当てられた。

遅い夕食後、私がヴェスパの寝台車を訪ねてトルケマダ二世の仕業を憤慨していると、扉をコツコヅ叩く音がした。例の老乞食だった。王頭目は裏山の空き別荘にいると告げた後、
「明日夕方、張作舟大佐が部下二千を連れて来ます。そして此処から東三里の地点に宿営します。葵副官は今晩十二時過ぎここへ鳳大人に会いに来ます」
と重大な報告をもたらした。

私はそれ以上、ヴェスパや王建基の秘密工作を妨げてはなぬと、駅舎楼上に引き揚げた。だから、その深夜、ヴェスパとその旧友である抗日軍隊長張作舟との間に何事が協議されたか知らないが、翌晩の張軍の来襲で想像に難くない。とともに、事件後、憲兵隊もこの間の事情を、薄々感づいていたものとみえ、ヴェスパ通敵の有力な材料となった。
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憲兵隊の寝込みを襲う


横道河子駅は、牡丹江材の集散地として帝政ロシア時代に開拓した所だが、今では関東軍の東満守備の本拠牡丹江の前衛として重要な地であった。三面、摩天嶺の支脈に囲まれ、東にひらけた平野には横道河の清流横たわり、牡丹江に注ぐ。山紫水明。日本人間では「満州の軽井沢」と呼ばれていた。

駅沿いの峡間には、青や赤の屋根のハルビン在留外人所有の夏季別荘が、白樺の林のなかに散在している。平常なら気の早いロシア人は、四月下旬ともなれば、もう来ている頃だが、満州箏変以来はどの屋敷もがら空きである。王頭目をはじめその配下は、これ幸いとそこを駐屯所として陣取っていたわけである。

翌日、つまり四月二十三日、私と王建基はヴェスパに招かれて晩餐を共にした。酒は上等なウォッカ、料理もこの田舎町にしては立派なものだったが、王は関東軍の扱い方に対し苦情を並べたてて元気がなかった。彼は言った。間島時代は部下一万五千以上だったのが、今はただの二千である。

彼奴等は少しの金で不正な仕事ばかりさせる。鳳大人だって満足に給料をくれたのは、最初の一カ月だけというじゃないか。実に怪しからん。今に見ていろ、思い知らせてやる&&。

丁度、腕時計の針が九時を指したとき、例の満人乞食がやってきて、張大佐の部隊が町を包囲した。鳳大人とお客さんは車の外に出ないで下さい、と警告した。私はヴェスパが、万一、そこにいてそば杖を食ってはと、急いで駅舎へ帰れと言うので、楼上の自室へ引き揚げた。
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この問、張大佐の率いる抗日軍と王頭目の配下は、暗い道もない木の間、岩間を八方から山上に攀(よ)じ登って、命令一下、守備隊目がけて雪崩降りる態勢を整えていた。

午前二時とおぼしき頃、一発の銃声が聞こえ、野犬の遠吠えがこれに続いた。と、すぐ小銑、機関銃の連射音がおきた。王配下の一人が忍んで来て、扉の隙間から紙片をさしこんで去った。
(町中到る処、射撃が行われている。絶対外出不可)
と書かれていた。銃声はちょっと止んだかと思うと、また激しくなった。が、三時半頃には間歇的に聞えるのみとなり、その状態が一時間程つづいた。一番鶏が構外の農家で鳴くのを合図に窓外が薄明るくなった。五時、ヴェスパが誘いに来たので外へ出た。

寝込みを襲われた日本軍は、銑をとる暇もなかったものとみえ、大多数は営舎内で殺され、残余は捕虜となっていた。将校連中は、女相手に泥酔後の同衾中だったらしく、死骸は寝衣のままであった。

トルケマダ二世も捕虜の一人と思われ、姿はなかった。張部隊は捕虜のほか、武器弾薬から馬匹被服に至るまで根こそぎ掠奪して、山岳地帯へ退散していた。この夜襲による日本軍の損害は死者百四十三名、捕虜百二十七名、憲兵隊の手先きの不逞ロシア人二十三名中、十四名は殺され、九名は逃走した。この横道河子奇襲と同時刻、一面披(ハルビン東方百キロ)でも日本守備隊が襲撃され、死者百三十四名、拉致された者八十六名の損害をうけたことをあとで知った。午前十一時、牡丹江から日本軍一個大隊が到着し、ハルビンから十二機編成の飛行隊が張作舟軍の行方探
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査に来たが、後の祭りであった。

一方、問題の密偵第二号は、王の配下が小嶺子付近のソビエト人養蜂業者の家に匿れているのを発見した。だが、抵抗したので射殺した。ために直接、本人から犯行を自白させることができず、第五号は遂に消息不明のままに終わった。このこともヴェスパの立場を不利にした。

ヴェスパと私は、もはや横道河子滞在の必要がなくなったので、翌日夜、ハルビンに帰着したが、新聞に発表された土肥原大佐の横道河子における日本軍用列車爆破事件の内答を読んで唖然となった。その全文次の通り。

「本日十二日午後五時三十分、横道附近に括いてソビエトの特務機関員はわが穆稜行列車を脱線せしめ、ために死者三名、負傷者十名を出せり、犯人を逮捕せる結果、右は共産主義者の所為なること判明せり」

その後、ヴェスパは、張作舟軍に拉致された日本軍将兵を、かつて日本軍に捕えられた張軍の兵との交換の要務を帯びて、穆稜県山奥の張大佐の山塞に単身出向いた。ヴェスパはそこで銃器、野砲、馬匹、軍服に至るまで日本軍からの掠奪品で整備され、短波無線から医療機械まで揃っていて、ないのは高射砲位なのに驚いたという。

さらに驚いたのは、捕虜中に発見した宮崎憲兵中佐が、別人の如く大人しくしていることであった。相変わらず捕まった時に着ていた寝衣姿で、ボロボロになったシャツを神妙に洗濯をしている姿は、滑稽であった。そこで、ヴェスパは、張大佐のはからいで、トルケマダ報復の一芝居を演じた。大佐の拳銃の脅威で、止むなくやったという形式で、彼に笞百打の体刑を行ったのである。宮崎大佐は原隊帰還と
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同時に免官となったが、その際、ヴェスパと張作舟との関係を陳述した。それがまた、ヴェスパ通敵の実証資料に加えられ、かくて、憲兵隊屡次のヴェスパ処罰の申告が参謀部を動かすこととなった。かくてヴェスパの脱出となったのである。
(人物往来/ S・32・6)
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