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旅順攻めに迫る損害

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旅順攻めに迫る損害

(P65-67)

二か月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上まわる甚大なものとなつた。戦死九一一五、戦傷三万一ニ五七、計約四万という数字(戦史叢書)は、惨烈無比と言われた日露戦争の旅順攻防戦(死傷約六万)に迫るものであった。

※「松井大将日記」(昭和十三年二月十四日)は
上海、南京戦を主とする中支那方面軍の十三年二月までの戦死(病)者を二万四千余と記している。この数字が正しいとすれぼ、上海戦の損害はもっと多いはずで、戦死は一万五千を越えるのではないかと思われる。

とくに最初から上海戦に投入された部隊は、定員数を上まわる損害を出し、十回以上兵員を補充した部隊も珍しくたかった。なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衡撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第百一師団がその好例で、上海占領後の警備を担任するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水のなかで加納連隊長、友田恭助伍長(新劇俳優)らが戦死した。

友田恭助
http://www.city.chuo.lg.jp/koho/150215/san0215.html

『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞いこむ戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れて加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さにたえかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。

日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目ざめた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。また満州事変以後、近代化を進めてきた中国軍の近接戦闘兵器の火力は日本軍をしのぐ例も少なくなかった。第九師団に従軍した一兵士は、戦陣日記に次のように書いている。

「一弾は白分より二人前の中隊長殿の右大腿部を貫通、他の三名もやられた……地形に精しい敵は暗夜の逆襲を常套手段としているが、私は一発も盲射せず着剣して待ち構えたが、到頭壕の中までは突撃して来なかった。しかし敵弾は凄じく、壕の上面を掠りはぎ、文字通りの雨霰で、誰かが素早く銃を挙げて射とうとした瞬間に指を射抜かれたり、銃口に命中弾を受けたのを自分は目撃したが、横なぐりの弾幕その無益な物量に驚くぱかりである」(平本渥『陣中日誌・命脈』十月八日の項)

二十四歳の平本上等兵が歎いたのも当然であった。日本軍の砲兵は砲弾の供給が少なく、一日の使用量を○・二基数に押えられていた。近接戦に不可欠の手榴弾は軟弱地では発火せず、逆に投げ返される被害が続出した。

それでも何とか上海の堅陣を破れたのは、日本軍が戦車、飛行機、軍艦など中国軍に乏しい近代兵器をつぎこんで、地上火力の不足を補ったせいであった。この戦訓は十分に検討されることなく、ノモンハン、太平洋戦争で、日本軍はますます肉弾万能へ傾斜して行く。ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植えつけ、幹部をふくむ人員交代による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因にたったことは否定できない。

上海戦とひきつづく追撃戦段階における日本軍の非行は、具体的資料が乏しく今後の検討課題に属すが、目に触れた範囲での情報を拾っておく。
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