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(付録)「若藤楼のお姐さん」

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【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
V. 伊波証言の要約と考察


(付録)「若藤楼のお姐さん」


 最後に、上原栄子著『辻の華 戦後編上』の一節を、長いのですが以下引用します。戦争が終わった直後の出来事の回想で、出版は1989年です。(VI-Bその他-27)

 ここに「若藤樓のお姐(ねえ)さん」と書いてあるのは、伊波苗子さんのことではないかと思います。大高未貴氏によれば、伊波さんは幼女のとき「若藤楼」ではなく「太平楽」のアンマー(抱親)に引き取られたそうですが(VI-B 25)、「太平楽」のアンマーは北部国頭に疎開してしまい、伊波さんは「若藤楼一同」として行動していたと思われます。だとしたら、伊波さんが「若藤楼のお姐さん」として見られたとしても、ごく自然なことです。

 伊波さんらしい女性の姿は、八原博通『沖縄決戦』を、また大迫亘『薩摩のボッケモン』を通読しても登場していないようですが、『辻の華』だけに登場しているのです。2012年3月のチャンネル桜による伊波インタビューとは違う点もありますが、ここでも "美しい死" が細やかに語られています。スパイ視による虐殺という "不潔な死" と背中合わせの "美しい死" です。伊波証言と対照してお読みください。
 若藤樓のお姐さんが、わが家へ訪ねて来ました。そして、私と同級生であった初ちゃんや、妹の富ちゃんが、抱親様(アンマー)ともども、沖縄戦を牛耳った最高司令官閣下、参謀長閣下その他、大幹部方のお供をして、総司令部壕の中で自決したことを、泣きながら知らせてくれました。

 廓生まれの彼女たちは、辻遊郭純粋のサラブレッドで、箱入り娘の見本のように乳母日傘(おんぶひがさ)の暮らしを送ってきました。三代続いた辻遊郭生まれの純血を誇っていた初ちゃんは、遊郭生まれでは入学もできない高等教育も、抱親様がいろいろと奔走して、素人様の戸籍に養女として入れてもらい、大変な物入りをしてやっと念願の高等女学校へ入れたのです。そしてある日ある時、自分は抱親様の実の子ではなく遊女の腹に生まれた、義理ある仲と知ったのです。事実を知った初ちゃんは、自ら学校を退いて、客を迎える身となったのです。

 昨年の那覇大空襲(1944年10月10日)のとき、若藤樓の一行と、私たちの一行が先を競って最高司令部へ駆け込んだとき、私たちは給水部隊へ配属され、彼女たちはそのまま、司令部に残ったのです。

 そして、三月二十三日の爆撃、艦砲射撃が始まって、彼女たちは、首里城の内に構えた軍司令部の壕に移りましたが、その壕は、琉球のどこにでもある洞窟とは違って,敵の至近弾を浴びても、かすり傷程度の影響を被るだけの頑丈な壕と言われました。

 発電機を備えたこの壕は、いかに外が暗くとも、中は真昼のように明るく、また、塩漬けの肉、魚、豚なども持ち込まれて朝夕の食事にも事欠きません。お国のためには、明日の命も知れぬという人々が束の間の贅沢で、三時のおやつ、九時の小夜食、そしてビール、日本酒、ウイスキーと、何でも豊富で悠々たるものでした。大日本帝国の威力を示さんばかりのその壕は、親方日の丸の力を信じて疑わない当時の人情で、初ちゃんたちには絶対安全な場所に思えたことでしょう。

 皆がこの壕に入った初めの頃は、敵機の空襲も昼間だけだったので、初ちゃんたちは、将校たちのお酌に、「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル、チルチル首が散る……」などと、敵国米英の御大将の名前を小謡に組み入れて酒の肴に歌い続けていたというのです。

 しかし戦いが激しくなるにつれて、姐(おんな)たちの嬌声や、淫らに浮いた様子は厳しく禁じられました。野戦築城隊と一緒に、なりふり構わず泥まみれの土運びをやり、姐(おんな)たちの顔に塗るのは白粉にあらず泥土でした。そして炊事の手伝いなどを、後退命令の出る五月十日頃までやっていたそうです。

 首里城内の壕に、でんと構えていた軍司令部が、押され押されて最期の決戦場、島尻摩文仁の壕へと移りました。せっぱ詰まった日本軍の慌ただしい壕の中で、初ちゃんたち親妓(おやこ)は死ぬ寸前まで、自らの使命を感じ取り、遊女としての道に徹したのです。季節雨の壕の湿気にやられ、極度の緊張感に固くなっている兵士たちに、最後の最後まで笑いと希望の渦をまいていたというのです。

「戦争が終わったら、あなたは何を始めるの?」
「僕は第一番に風呂屋をおっ建てる! 熱い湯水の溢れ出るでっかいお風呂にざぶんとつかりたい!」

 彼らは、三ヶ月、艦砲射撃、砲弾攻撃を受けながら、同時に日ごと夜ごとの虱(しらみ)の総攻撃を受け、全身の掻痒感に悩まされていたのです。

「虱に恨みは数々ござる。戦争終わって風呂屋をおっ建てたら商売繁盛な違いなしよ!」
 と、カラカラと天空に向かって笑う、現地徴用の郷土防衛隊の人たちの言葉を聞いて、触発された他の軍属たちも負けてはならじと勢い込みます。

「いいや、自分は男ユタ(巫女)になる! マブヤー(魂)ひん抜かれた人間たちがうようよ、ごまんといるからこの方が商売繁盛間違いなし!」

 泥や垢にまみれてよれよれになった豪の中の兵隊たちもまた、忙中閑ありの様子。苦難を恐れぬ人気者、初ちゃんたち親妓(おやこ)の前に出ると、口だけは達者になり、和気あいあいの声をあげていたそうです。

 最後の最後、戦争の終結も近づいて、いよいよという空気の中で、自決する最高司令官のために、白いカーテンを引いた穴の中には、畳二枚くらいの真っ白なシーツが敷かれ、壁も天井も、置かれた小机までも白一色で覆われていました。その上には、辞世を書くための巻紙、短刀、拳銃が置かれ、その後ろには白木綿で巻かれた恩賜の刀が立て掛けてあった、とお姐(ねえ)さんは語ります。

 葉隠れ武士の神髄を見せつけた最高司令官殿や参謀長の切腹が終わった後は、入口を爆破して、彼らの遺体を穴の奥へ閉じ込めておく手はずも整えられました。また奥へ入って機密書類を焼く参謀たちや、壕の中にいる民間軍属たちへ自決の毒薬を渡す副官もいれば「君たちは死なずともよい!」と、その薬を取り上げて、足で踏みつぶす副官もいたと言います。

「米兵は、女子供は殺さぬから、軍属たちは皆逃げろ! 」

 と、壕の中にいる人々に向かって最高司令官殿のお達しも出ましたが、抱親様と初ちゃんと富子は潔く、死なばもろともと、自決を申し出たそうです。血のつながらぬ遊女たち親妓(おやこ)三人が、赤い腰紐でひざをくくり、毒薬を飲んだのです。並んで寝て、生き返らぬようにと、注射を受けながら安らかに死んでいきました。その生から死へ向かう間、初ちゃんと生死を契った副官殿が添い寝をしていたと、お姐さんは言うのです。

 初ちゃんたちが自決した後、最高司令官殿の最期を見届けた副官殿も自決しました。その後、誰かが遊女たち三名の遺体を壕の外へ引き出したそうです。死に顔をさらした三人の並んだ姿を見たお姐(ねえ)さんは、自分が重ねて着ていた着物を一枚脱いで、三人の顔に掛けたそうです。すると自分たちを捕まえた米兵が「ノー、ノー」と言いながら着物を取り除けて持っていったそうです。そのときは死人の顔をさらす残酷な米兵だ、と思ったそうですが、習慣の違うアメリカ流では死人の顔には何も掛けないものだと後で知った、とお姐(ねえ)さんは言いました。

  • 上原栄子『辻の華 戦後編上』(p.70~73)

※ここでは自決の順序は、両将軍→3人の女性→副官たち、となっているが、
これまでに紹介した伊波証言では、3人の女性→両将軍→副官たち、となっている









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