【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
V. 伊波証言の要約と考察

V-01,02「慰安婦はいなかった」の根拠と考察



V-01「慰安婦はいなかった」の根拠

(ア)辻遊廓の若藤楼は、32軍司令部から指名された名誉ある「将校会議所」であって、「慰安する」ような所ではない。

(イ)看護婦になろうとして試験に落ちて、炊事や将校の世話係になったのであって慰安婦ではない。

(ウ)のちに摩文仁で「天の川でお待ちします」と死をとげた。慰安婦だったらそれまでに逃げ出していて、「自決」などしない。

伊波さんは以上3点を述べて、首里の司令部壕には慰安婦などいなかったとしていますが……。

V-02「慰安婦はいなかった」の考察


(ア)ですが、

「将校会議所」というニックネームからわかる「若藤楼」のイメージは、兵や下士官が列をつくって並び20分あるいは30分単位で「性」を買うという、いわゆる「慰安所」とは明らかに違うイメージです。確かに高級感があります。

しかし、若藤楼の女性たちは「将校のお世話をする」芸娼妓として、伊波さんの証言にあるとおり、招かれて(呼ばれて)首里の司令部壕に入ったのです。招かれた理由は、看護の技術でしょうか?料理の腕前だったでしょうか? 辻遊廓のきれいどころであり、おもてなしのプロだったからです。おもてなしの記述には、高級感が感じられないものもありますが。 →IV-01 *4

そのうちの何人かは、32軍司令部の高級将校の現地妻、愛人でした。「自決」した徳田ハツは坂口副官の愛人であり、徳田トミは葛野高級副官の愛人でした。伊波苗子さんも、牛島司令官を心に決めた「旦那様」としていました。

ところで、
金ウシ、徳田ハツ、徳田トミ、伊波苗子という若藤楼に関係する4人以外にも、その他からの女性が首里司令部壕にいたと推測できる証言がいくつもあります。

  • 「朝鮮ピー」と呼ばれていた女性らが一升ビンに詰まった玄米を棒でつついている姿を目撃している。「ピー」と言ってからかう日本兵にくってかかる女性を見た人もいる。

    連日連夜の司令部壕掘り作業でへとへとになっていると「仕事、ゆっくりしなさい」と優しく声をかけた。中には、かまぼこの缶詰を差し出した女性もいた。

    「郷里にいる弟を思い出したのだろうか。とてもありがたくて、四、五人で分けて大事に食べた。あの時の親切が忘れられない」
    (VI-A海鳴り資料3、朝鮮ピーは「朝鮮人慰安婦」の蔑称。慰安婦が日本人でもそう呼ばれることがあった)

  • ふんどし姿の兵隊たちの横で、シャベルを使って土をすくう女性数人の姿を見てぼう然とした。奈良県から来たという女性もいた。兵隊に体に触れられ、好色な視線とひわいな言葉にさらされながらも、無口で重労働に耐えていたという。(VI-A海鳴り資料3)

  • いよいよ司令部壕を放棄し本島南部へ移動する晩、朝鮮人女性に「私のからだをあなたにあげますから、一緒に連れて行って」と声を掛けられた。連れて行くわけにはいかなかったが、その女性の必死の懇願を断りきれなかった。とっさに「七時半ごろ撤退するから」と自分の部隊の撤退時間を偽って、その場を切り抜けた。(VI-A海鳴り資料3)

(イ)ですが、

軍が各部隊ごとに集めた慰安婦たちは、米軍との戦闘が激しくなると、どこの部隊でも看護婦の仕事をさせられました。上原栄子『辻の華』戦後編上には、体験の詳細が記されています。看護婦の仕事をしたからといって、慰安婦ではないとは言い切れません。

  • 抱親様以下十数名、従軍看護婦という名目を授けられた私たちは、先着の若藤楼の姐たちを残して、真和志村字識名、その昔琉球王所有の識名園近くに陣取った上間村の給水部隊へ配置されたのです。
    ……何の才覚もない姐(おんな)たちが、上間村集会場へ住むことができ、その上、給水部隊から食料を運んでもらえたので、本当に「兵隊さんありがとう」と行った気持でした。そして、そこには○○部隊慰安所という名称がついたのです。(VI-A海鳴り資料8)

(ウ)ですが、

慰安婦なら「自決」しないで逃げ出すはず、というのはどういうことでしょうか?
辻の女性たちも、朝鮮半島出身者の女性たちも、軍人さんや兵隊さんに奉仕することがお国に報いることなんだという大儀を背負って、「慰安婦」の務めを果たしていたのではありませんか?

慰安婦のなかには、兵士と共に玉砕した人もいます。→IV-05 *50

小括

というわけで(ア)(イ)(ウ)をもって「慰安婦はいなかった」という根拠にはなりません。司令部壕のなかに、兵隊が並んで列をつくる「慰安所」は無かったかもしれませんが。

 沖縄32軍の各部隊は、延べ140箇所以上の慰安所を沖縄本島を含む南西諸島に開設しました。本土出身や辻遊廓の女性は将校用の慰安婦となり、朝鮮出身の女性は兵卒用の慰安婦となりました。兵士たちは、前任地である満州や中国山西省から32軍に編入され、帰郷して家族に会うための休暇も与えられず、沖縄の守備に着いたのです。慰安所・慰安婦は、兵員・武器・食糧とともに欠かす事ができない、沖縄第32軍の補給品・兵站物資だったのです。

●慰安婦狩り出しの集会

 辻遊廓のジュリたちはとてもプライドの高い女性たちでした。しかし10.10空襲で辻の街は全焼し、半数以上のジュリは、楼主もろとも、軍の慰安所にリクルートされていきました。

 嵐(10.10空襲)の前の昭和十九年の夏、…辻の事務所に押しかけた副官は、高飛車に「女を全部集めるように」と強く命じた。…モンペ姿のアンマー(遊女の幹部)たちが続々馳せ参じた。大方集まったところで。 副官が日本刀を握り、壇上から「こんかいの戦争は皇国の興廃と沖縄の運命をかけた戦いぢゃ。各自の持ち場でご奉公の誠をつくし、国民総動員で勝ち抜かなければならぬ。お前さんたちに鉄砲で戦えと言うのではない。慰安所で兵隊の士気を鼓舞し、勇躍出動するように激励してくれ」と切り口上でぶった。会場はシーンとして、アンマーたちの表情は複雑であった。

  • 山川泰邦「従軍慰安婦狩り出しの裏話」(VI-A海鳴り資料10)。山川氏は当時、警察部特高課から那覇警察署の監督警部を命ぜられていた。

軍慰安所にはさなざまな呼び名がありました。
  • 兵・将校用―<○○部隊慰安所><○○兵寮><軍人倶楽部><後方施設>、蔑称は<ピー屋>です。
  • 高級将校専用―<将校倶楽部><玉倶楽部><偕行社><将校会議所>









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