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IV-06<拷問>

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【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
IV. 伊波苗子証言(2) 2012.3.1 書き起こし


V-06<拷問>


 首里城地下、沖縄守備隊地下司令部による「スパイ容疑処刑」事件。
 目撃者である伊波苗子さん(2012年当時94歳)が、身振り手振りも加えて、すさまじい尋問、拷問の様子を生々しく語ります。彼女は第32軍司令官に仕えていました。高級将校による取り調べにも立ち会っていたのでしょうか? 以下は、チャンネル桜が虐殺と拷問を認めた、スクープです。

伊波さんインタビュー
17:34

(大高)付近の住民を処刑したことありますか?

(伊波)ありません。

(大高)本部…

(伊波)はい

(大高)ハイ
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(大高)あの渡久山さんという方が司令部壕の近くで、女性に短刀を突き立てて処刑したというのを目撃しているという証言をしているのですけれども*62、この処刑された女性というのはどんな方なんですか? 
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(伊波)これはね、南洋サイパン*63 の、高校三年生*64。アメリカーが上陸してから、生徒をみんなネ、ピラブル*65に、米軍に引っ張られてね、もう全部さ、もう何百人もあっちに、みんな引っ張られてネ、船に乗せて、髪もそろ*65b体もみんなとってね、 頭から顔から手からネ、全部焼き判、ピーラブルの焼き判*66、(頭を)丸くしてネー*67、みんな。顔にも負っていた、体にも、そんでダットサン*68みたいなのネ、うすいのでネ、防具をつけてネ、そんで字(あざ)、沖縄の字、字港(あざ みなと)*69に着いたときまではね、顔隠して、目も隠して、そんで上陸したときには、これ(顔隠したもの)を取ってね、あんたはドコドコに行きなさい、何名来たかって30名って、こんどは何百名、あちこち分散したんです*70
こっちはあがたの*71 30名って、そんで、この上原キクがね、もう首里の地下、スミレ*72の近く来たときにね、手りゅう弾もってね*73、走ってくるの、石部隊*74の兵隊が見て、捕まえたと、それでこれも取り上げてね、本部につれてきていたわけ、これ、4月だった。

(大高)はい。(10 41)

(伊波)連れて来て、本部のほうでね、いろいろ話聞くわけ。手突いたり、膝突いたりしてね、もう傷してよ、あの(血を)口から出してね、聞こうとするけどね、何も言わない。あんた名前は何か?ちゅうたらね、ウチ(家)はね、沖縄糸満出身でネ、私は南洋サイパンで生まれたと。高校3年生だったと、そんでアメリカーに引っ張られて、こうこうしてきたと、上原キクと、いうこと言って、こんなだけ言ったけど、そんで日本の本部のね、取調べ中のときにネ、向こうの米兵のこと聞こうとするけど、言わない。なぜ言わんかちゅうて、足にね短刀も突いてるけどね、言わない。もう爪も引き切ったり、足の先も突いたりしてね、もう血もアレしてるけど*75、最後に「上原キク、日本人女性です」、これだけ*76。(21:01)
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  • *62 →前項*60
  • *63 サイパン島民間人の多くが沖縄出身者だった。島の人口約3万人のうち6割におよんでいた。サイパン戦での民間人戦死者1万人のうち、沖縄出身者が最も多かった。
  • *64 高校生ではなくて女学生だろう。当時サイパンには、南洋庁立のサイパン高等女学校があった。http://grotto.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-fbc8.html
  • *65 PWのことか? Prison of War捕虜
  • *65b 髪も剃る
  • *66 人目に付くPWと読める「焼き判」が押されたスパイなんて、誰が考えてもおかしな話だが、マインドコントロールされていると、そういうことも信じてしまうのか?
  • *67 坊主刈り
  • *68 「ダットサン」は日産自動車が生産していた小型自動車だが、ここでは何のたとえか?頭にかぶるもの?
  • *69 米軍が上陸作戦を行なった場所は北谷町字港(あざ みなと)であるが、米軍が陽動作戦として艦砲射撃を集中させたのは、沖縄本島南部の具志頭村(ぐしちゃんそん現八重瀬町)字港川(あざ みなとがわ)だった(戦史叢書では「湊川」と表記)。

    港川では、米軍の攻撃があって兵隊の上陸がないことから、その目的が「スパイ上陸」だったという風評がつくられたのだろう。

    しかし、米軍がいつ港川の入り江に上陸するかと32軍はその後も絶えず警戒を怠らず、首里北方戦線の状況が厳しくなっても、重要部隊である独立混成第44旅団の港川周辺配置(糸数壕アブチラガマ→II-04*29 などが拠点)を直ぐには解除することはなかった。そんな中を、果たしてスパイが上陸しただろうか?(「空白の沖縄戦」港川の項もご参考に)http://app.okinawatimes.co.jp/feature/01/ 

    最南端喜屋武岬の近くに駐屯し、米軍の南部海岸上陸を警戒していた24師団の第32歩兵連隊に、首里戦線への北上移動が命じられたのは4月24日であった。(外間守善『私の沖縄戦記』)
  • *70 米軍がスパイ教育をした日本人を上陸させた、という創話は、海外移民経験者を警戒せよという日本軍の防諜命令によるのではないか。
    「サイパン島よりの引揚家族に対する防諜上の取締監視調査は直接には憲兵隊にて之に当る筈」(1944年8月26日、独立混成第四四旅団の副官会同)→林博史『沖縄戦と民衆』https://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2352.html
  • *71 「上がったの」か?
  • *72 地名か?
  • *73 いざ決戦となって、手りゅう弾は2個づつ、緊急招集された防衛隊員に軍から渡された。防衛隊員(防召兵ともいう)は、召集されたといっても起居する隊舎があるわけでもなく、家族とともに暮らしていた。米軍が上陸した際、米軍に襲われる恐怖を軍によって植えつけられていたから、婦女子はみな気が狂わんばかりだった。防衛隊員となった男子は、イザというときの自決用にと2個のうちの1個の手りゅう弾を女子に渡した。そうしたことは頻繁にあった。曽野綾子氏も『切りとられた時間』に書いている。
  • *74 石部隊は、第62師団。
  • *75 それにしても凄まじい拷問だ
  • *76 米軍船で送り返されてきたということ自体が、スパイ物語=デマではないか。少なくともその可能性を検証する必要がある。

    サイパン戦が始まる前には、婦女子の希望者を募った本土疎開があった。船が沈められ多くの犠牲者がでたが、サイパンから本土に着き沖縄に帰省した人々もいた。しかし帰ってみれば、「サイパンは軍民とも玉砕」「全滅だ」との大宣伝。生還者はどれだけ肩身が狭かったことだろう。そこへもってきて「外地からの帰還者は要注意」と軍から防諜命令が出されていた。まるで日本人ではないかのような、冷たい視線が集まっていたと思われる。

    サイパンのバンザイ岬での集団投身自殺という悲劇に比べても、命からがら郷里沖縄にたどり着いた人たちに対する友軍の仕打ちは、余りにも残酷である。


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