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II-07<牛島司令官の自決>
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【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
II. 伊波苗子証言(1)2011.11.28 書き起こし
II. 伊波苗子証言(1)2011.11.28 書き起こし
II-07<牛島司令官の自決>
(奥)で、伊波さんは牛島さんが自決をなさった後も、ちゃんと、自決のところを、ちゃんと見られて…
(伊波)はいはい、私はね、19年の8月15日にね、お見えになった時からね、あの方のね、うちは二分団のね警防の会長してるからね*34a、あの方を胸に収めていたんですよ*34b。沖縄ね戦争でね、いい方がお見えになりまして、最後までお勤め上げようと思ってね、ずーっと私、付いて、首里城行って、あの、山部隊*34c のね、豊見城野戦病院行って、摩文仁行って、摩文仁でもね、10名ぐらいも行きましたけど*35、チョビチョビやられてね、私は最後のね、こういう戦争負けたらね、閣下殿がね、最期どんなになさるかと思ってね、見届けようと思ってね、最期私ひとり残ったんですよ。ずーっと駆け回って(15 07)<編集カット>
- *34a「うちは二分団のね警防の会長してるからね」は、警防団の第2分団長なので国防意識が高かったというニュアンスか。警防団は、警察および消防の補助をする住民組織で、消防、灯火管制、救護、配給、警護などを行なう。とくに住民同士の相互監視による防諜の役割は大きかった。「踊るスパイに心を配れ/防諜は銃後を護る鉄兜」、防諜週間には標語を募集したり講演会を熱心に開くのが警防団の仕事だった。警防団令が施行されたのが1939年で、内務省警保局は、さまざまな防諜組織を警防団に一元化した。
- *34b 私の旦那様だと心に決めて
- *34c 第24師団
- *35 辻の女性仲間が10名ぐらい
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