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1931年9月18日当日及其後 その1

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第四章 1931年9月18日当日及其後に於ける満州に於いて発生せる事件の概要


事件突発直前の事態


 前章において満州に於ける日支両国利益の関係漸次緊張し来れるを述べ之が両国軍部の態度に及ぼす影響を述べ置きたり。既に相当期間或種の内部的、経済的及政治的要因が日本国民の満州に於て再び「積極政策」に出づるに備えつつありしことは疑いなきところなり。軍部の不満、政府の財政策、全て政党に対して不満の意を表明し、西洋文明の妥協的方法を蔑視して古代日本の道徳に依存することを主張し又財界及政界の利己的方法をも非とする軍部、農村落及国家主義的青年の間より醸成せられたる新政治勢力の出現、物価下落が主要生産者をして其の境遇を緩和せんが為に冒険的外交政策に望みを嘱するの傾あらしむるに至れること、事業界の不況が工業及商業界をして一層強硬なる外交政策により取引改善すべしと信ぜしむるに至れること、之等の事情は何れも何等実績を挙げ得ざりし対支幣原「妥協政策」放棄への道を開きつつありたるものなり。而して日本国内におけるかかる焦燥の念は在満日本人の間にありて一層甚だしく夏期を通じて通じ同地方の不安漸次加はりたり。9月に入るに及び右不安の遠からずして破裂点に達すべきことは慎重なる観察者の均しく認め得る点に達したり。而して両国の新聞は世論を沈静せしむるよりは寧ろ之を煽動するに傾けり。東京に於いて陸軍大臣が在満陸軍に直接行動に出でんことを勧告して激越なる演説を為せる旨報道せられたり。就中支那当局が中村大尉殺害事件につき満足なる調査及救済をなすを遷延せるは在満日本軍少壮将校を激昂せしめ彼らは同様無責任なる支那将校が道路、料理店其の他相接触せる場所において無責任なる言辞及誹謗を弄するに対して明らかに敏感となり居たり。斯くして次いで来るべく事件の舞台の準備整いたる次第なり。

 9月19日土曜日朝、奉天市民の醒むるや同市日本軍の手中に帰したるを発見せり。夜中砲声を聞きたるも之は別に異とするに足らず日本軍は小銃及機関銃の猛射を含む夜間演習をなし来れることとて右の如きことは其週間連夜のことなりき。9月18日当夜は大砲の轟き及び砲弾の音の為之を識別し得たる少数のものが恐慌を感じたるは事実なるも市民の大部分は砲声を以て単に日本軍演習の再開に過ぎずとし恐らく、平常よりやや騒々し位に考えたり。

 後述の如く殆全満州の軍事的占領に導きたる運動の第一歩として本事件の頗る重大なるを認め調査団は同夜の事件につき広汎なる調査を遂げたり。日支両軍関係指揮官公式陳述の頗る重要且興味あるは勿論なり。日本側は本事件を最初に目撃せる河本中尉北大営攻撃に当れる大隊の指揮官島本中佐及城内を占領せる平田大佐により説明せられたり。吾等は又関東軍司令官本庄中将及若干参謀将校の証言を聴取せり。支那側主張は北大営支那軍指揮官王以哲之を説明し之が補足として彼の参謀長並軍事行動中現場にありたる其の他の将校の個人的談話ありたり。吾等は又張学良元帥並参謀長栄臻将軍の証言を聴取せり。

 日本側説明によれば河本中尉は兵卒六名を率い9月18日夜、警戒任務を受け奉天北方の南満州鉄道線路に沿いて防禦演習を行いつつありたり。彼等は奉天の方向に南進しつつありたるが同夜は天晴れたるも暗夜にして視界広からず。彼等が小道が線路を横断せる地点に達せる時やや後方に当りて爆発の大音響を耳にせるを以て方向を転じて走り還えりたる処、約200ヤード行きたる地点にて下り線軌道片方側の一部分が爆破され居るを発見せり。右爆発は二軌道接合点に起これるものにして両軌道の尖端は全く引き離され之が為め線路に31インチの間隙を生じたり。爆破点に達するや歩哨隊は線路両側の畠地より砲撃されたるを以て河本中尉は直ちに部下に対し展開応戦すべきを命じたり。此処に於て約五,六名と覚ひしき攻撃隊は射撃を止め北方に退却せり。日本歩哨隊は直ちに追撃を開始したるが約200ヤード前進せる処にて約三,四〇〇名に達する一層有力なる部隊の為め再び射撃せられたり。河本中尉は此の有勢なる部隊に包囲せらるるの危険あるを認め部下の一名をして約1500ヤード北方に於て同様夜間演習中の第3中隊長に報告せしめ同時に他の一名をして(現状付近にある電話筒により)在奉天大隊本部に救援を求めしめたり。

 此の時長春発南下列車の接近しつつあるを聞きたるが列車が破損線路に到達して破壊すべきを恐れ日本歩哨隊は交戦を停止し列車に警告を与えんが為め線路上に音響信号を設置せり。而るに列車は全速力にて通過し去りたり。列車は10時半奉天着の筈にて定刻どおり到着せるより見れば河本中尉の初めて爆発を聞きたるは10時過ぎなるべしと同中尉は語りたり。

 次いで戦闘再開せられたるが第三中隊を揮ゆる川島大尉は既に爆発を聞きて南下の途中河本中尉の使者と遭遇し之が案内にて現場に向かい約10時50分到着せり。一方大隊長島本中佐は電話に接するや直ちに奉天にありたる第一及第四中隊に現場に向かうべきを命じ又一時間半の距離にある撫順駐在の第二中隊に対し出来得る限り速やかに之に加わるべきを命じたり。右の二中隊は奉天より汽車にて柳條溝に至り次いで徒歩にて現場に向かい夜半到着せり。

 河島中隊の援助を受けたる河本歩哨隊が繁茂せる高粱の葉陰に潜む支那軍の射撃を受けつつある際右の2中隊奉天より到着せり。

 島本中佐は其兵力五〇〇に過ぎず而して北大営支那軍一万に及ぶと信じたるに拘らず彼の吾人に語りたつところによれば彼は「攻撃は最大の防禦」なりと信じ直ちに営舎の攻撃を命じたり。線路、営舎間約250ヤードの地面は水溜りの為め集団にて横断すること困難なりしが支那軍が右地面を越え撃退されつつある際、野田中尉は第三中隊の一部を以て彼等の退路を断つ為に鉄道に沿いて進出することを命ぜられたり。日本軍が煌々と点燈しつつありたりと伝えらるる北大営舎に到達するや第三中隊は攻撃を行い左翼隅占領に成功せり。右攻撃に対し営内支那軍は頑強に抵抗し激戦数時間に亘れり。第一中隊は右翼を第四中隊は中央部を攻撃す。午前5時、営舎南門は其の直前にある付属家屋内に支那軍の支那軍の放置せる大砲よりの二弾に依りて破壊せられ同6時、全兵舎占領せられたるが日本側兵卒死者二名傷者二十二名を出せり。兵舎建物中には交戦中火災を発したるものありたるが残余は19日朝、日本軍により焼き払われたり。日本側にては支那兵三百二十名を埋葬せるが負傷者は二十名を発見せるに過ぎずと陳述せり。

 一方、他の地点においても同様に迅速且徹底的に軍事行動実施せられたり。平田大佐は午後10時40分頃、島本中佐より南満州鉄道線路支那軍の為め破壊せられたるを以て将に敵軍攻撃に向はんとする旨の電話を受けたるが、同大佐は島本中佐の行動を是認し自ら城内攻撃に当るべきを決定し、午後11時30分までに軍隊の集合を完了し攻撃を開始せり。而して何等の抵抗も受けず時々市街上に戦闘ありたるも主として支那警察隊との間に行われたるものにて之が為め支那側巡警の間に死者七十五名を生じたり。午前2時15分、市の城壁を乗越し3時40分迄之を占領せり。午前4時50分、彼は第二師団本部及第十六連隊一部午後30分(ママ)遼陽を出発せる旨の情報に接したるが右軍隊は午前5時直後到着せり。而して午前6時、東部城壁の占領を完了し兵工廠及飛行場は7時半占領せられ、次いで東大営を攻撃し午後1時戦闘を見ずして之を占領せり。之等の行動による死傷数は、日本側傷者七名、支那側死者三十名なり。

 当日宛も検閲より帰来せる本庄中将は午後11頃新聞記者よりの電話にて初めて奉天に起こりつつある事件の報道を接受せり。参謀長は奉天特務機関より午後11時46分電話にて攻撃の状況につき仔細の報告を受け次いで遼陽、営口、鳳城にある軍隊に対し直ちに奉天出動を命令せり。艦隊は旅順を出発して営口に赴くことを命ぜられ在朝鮮日本軍司令官は援軍派遣を求められたり。本庄中将は午前3時半旅順を出発し正午奉天に到着せり。


 支那側の説明によれば、日本軍北大営攻撃は何等挑発によるものに非ずして全然奇襲に出たるものなり。9月18日夜、第七旅全軍約一万北大営にありたり。9月6日、張学良元帥より当時の緊張せる状態において日本軍との衝突は一切之を避けんがため特別の注意を為すべき旨の訓令(北平において調査団に示されたる電文下の如し。「日本との関係頗る機微なるものあるを以て彼等に接する際には特に慎重なるを要す。如何に彼等に於いて挑戦するも吾人は特に隠忍し断じて武力に訴うることなく以て一切の紛争を避くるべし。貴官は秘密且即時全将校に命令を発し右の点につき彼等の注意を喚起すべし。」)を接受せるを以て兵営城門の衛兵は木小銃を携帯したるのみにて任務に服したり。而して同様の理由に依り兵営周囲土壁内の鉄道線路に導く西門は閉鎖せられ居たり。9月14、15、16、17日夜、日本軍は兵営付近において夜間演習を行い、18日夜午後7時には文官屯なる一村落にて演習しつつありたり。午後9時、将校劉某は通常の型の機関車を有せざる3,4輌の客車よりなる列車が同地に停車せる旨を報告せるが、午後10時爆発の大音響あり之に続いて銃声を聞きたり。依りて直ちに電話により参謀長より之を兵営南方67哩鉄道線路近くの私宅にあるたる司令官王以哲に報告せるが参謀長が尚電話中日本軍の兵営を攻撃しつつある旨並衛兵二名負傷せる旨の報道あり。11時頃より兵営西南隅に対する総攻撃開始せられ11時半、日本軍は城壁の隅より侵入し来れり。攻撃開始せらるるや参謀長消燈を命じ再度王以哲に電話にて報告せる処、王は抵抗すべからざる旨を答えたり。11時半、南西及半西方向遠方よりの大砲の音を聞きたるが夜半に至り兵営内に砲弾落下し始めたり。退却中の第621団軍南門に達するや日本軍が同門を攻撃し居り守備兵撤退中なりを以て同軍は日本軍の内部に侵入する迄塹壕内に逃避し、然る後南門を経て逃るることを得約午前2時頃、営舎東方の二台子村落に到着せり。他軍は東門及東門外直前の空舎を経て逃れ遂に3時より4時迄の間に同村落に達するを得たり。

 唯一の抵抗は北東隅建物及其の南方第二位建物内にありたる第620団の試みたるものなり。同団長は日本軍が午前7時南門より侵入し来るや支那軍は建物より建物へと逃れ日本軍をして空虚なる建物を攻撃せしめたる旨述べ居れり。支那軍主力撤退後日本軍は東方に向かい東方出口を占領せり。斯くして第620団は連絡を絶たれたるを以て自ら戦いて活路を開くの他なきに至れり。彼等は午前5時に至り突破を試みたるが全然脱出し得たるは午前7時なりき。之れ営舎内に起これる唯一の実戦にして死傷の大部分も之が為めなり。本団が最後に二台子村落に到着せる部隊なり。

 支那軍は全部集合するや19日早朝、直ちに同村落出発、東陵に向かい次いで同地より吉林近傍の一村落に至りて冬衣の支給を受け又王大佐を派し凞洽将軍より軍隊の吉林入市を求めたり「在吉林日本土向林日本土留民は支那兵の接近に恐れを抱きたるを以て即刻長春四平街及奉天より吉林に援軍派遣せられたるが之が為め支那軍は再び奉天方面に向かうこととなれり。彼等は奉天外十三哩の地点に下車し九隊に分かれ、夜間奉天を迂回行軍せり。日本軍の発見を免れんが為め王以哲自ら農民に仮装し市中を乗馬にて通過せり。朝に至り日本軍は彼等存在の報に接し飛行機を発して之を爆撃せるを以て彼等は昼間隠遁するの己むなかりしも夜間は進軍を続行し遂に京奉線の一駅に達し此処にて七列車を命じ之により10月4日山海関に達したり。

 以上は所謂9月18日事件につき両国当事者の調査団に語れるところなり。二者相異なり矛盾しをるは明らかなるが之れ其の事情に鑑み別に異とするに足らざるところなり。

 事件直前の不安状態並興奮を考え又利害関係者の特に夜間に起これる事件に関する陳述には必ずや相異するところあるべきを認め吾等は極東滞在中事件発生当時又は其直後奉天にありたる代表的外国人に出来得る限り多数会見せるが其の内には事件直後現地を観察し又先ず日本側の正式説明を與えられたる新聞通信員其他の人々あり。利害関係者の陳述と共に斯かる意見を充分に考慮し多数の文書資料を熟読し又接受若しくは収集せる幾多の証績を慎重研究せる結果調査団は左の結論に達したり。

 日支両軍の間に不安気分の存在したることに付いては疑うの余地なし。証拠につき調査団に説明せられたるが如く日本軍が支那軍との間に於ける敵対行為起こり得べきことを予想して慎重準備せられたる計画を有し居たるが9月18-19日夜、本計画は迅速且正確に実施せられたり。支那軍は187項に言及せる訓令に基づき、日本軍に攻撃を加え又は特に右の時及場所において日本人の生命或は財産を危険ならしむるが如き計画を有したるものに非ず。彼等は日本軍に対し連繋ある又は命令を受けたる攻撃を行いたるものに非ずして日本軍の攻撃及其の後の行動に狼狽せるものなり。9月18日午後10時より10時半の間に鉄道線路上若しくは其付近において爆発ありしは疑いなきも鉄道に対する損傷は若しありとするも事実長春よりの南行き列車の定刻到着を妨げざりしものにて其れのみにては軍事行動を正当とするものに非ず。同夜における叙上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と認むることを得ず尤も之により調査団は現地に在りたる日本将校が自衛の為め行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものには非ず。尚爾後の事件につき述べざる可からず。

 9月18日夜、在満日本軍は左の如く分布せられ居たり。上述の如く北大営の攻撃に参加せる鉄道守備大隊4中隊及奉天城市を占領せる平田大佐部下の第二師団第二十九連隊の他、第二師団残部は各地に分散され居り第四連隊本部は長春、第十六連隊本部は遼陽、第三十連隊本部は旅順にあり。而して之等を各連隊に関する他部隊は安東、営口、南満州鉄道の長春―奉天線及奉天―安東線沿線幾多小都市に駐屯せり。又鉄道守備隊一個大隊は長春にあり又鉄道守備隊は上記各小都市に第二師団と共に分布され居れり。最後に朝鮮警備軍ありたり。

 在満全軍及朝鮮軍幾分は9月18日夜、長春より旅順に至る南満州鉄道全域に亘り殆ど同時に行動を開始せり。其全勢力左の如し。
 第二師団   5400 野砲16門
 鉄道守備隊 約5000
 憲兵      約500

 安東、営口、遼陽其他の小都市にある支那軍は為す所を知らず無抵抗に武装を解除せられたり。鉄道守備隊及憲兵は之等の場所に留まり第二師団部隊は直ちに奉天に終結してより重要なる行動に加われり。第十六及三十連隊は早く到着して平田大佐に合して東大営の占領を援助せり。第二十師団所属三十九混成旅団(兵四千及砲兵)は19日午前10時、朝鮮国境新義州に終結。21日鴨緑江を越え夜半奉天に到着し同地より分遣隊は鄭家屯及新民に派遣せられ22日之を占領せり。

 兵約一万、大砲四十門を有する長春に於ける寛城子及南嶺支那兵営は9月18日夜、同地駐屯の第二師団第四連隊及第一鉄道守備大隊(長谷部少将指揮下にあり)により攻撃せられたるが同地にては多少支那軍の抵抗ありたり。夜半戦闘開始され南嶺兵営は19日午前11時、寛城子兵営は同日午後3時占領さる。之による日本側全死傷は死者将校三名及兵卒六十四名、傷者将校三名、兵卒八十五名なり。奉天の戦闘終了と共に第二師団の各連隊は長春に集結せられ、多門中将及参謀部。第二十連隊及野砲兵一大隊は20日又天野少将指揮下の第十五旅団は22日到着せり。吉林は21日発砲を見ずして占領され支那軍は約八十哩外に移されたり。

 当時日本の半官出版物たりし「ヘラルド・オブ・エシア」は軍事行動は之にて完了せるものと思考せられ之以上軍隊を移動することは予期せられ居らざる旨述べ居れり。爾後に於ける軍事行動は支那の挑発によるものとせられ20日、間島に於ける反日游行、龍井村における停車場爆破及9月23日哈爾賓において数個の爆弾破裂したるも日本側建物には損傷なかりし事件等が斯かる挑発の例として挙げられ居れり。且馬賊の漸次跳梁しつつあること及敗残兵の活動等につきても抗議せられ居れり。而して之等の事情により日本軍は其の意に反して新たなる軍事行動を起こすに至れるものなりと主張せられ居れり。


 之等行動の第一は、10月8日の錦州爆撃なるが同地は9月末、張学良が遼寧省政府を移転せる処なり。日本側の云うところによれば爆撃は主として政庁事務所の設置されたる兵営及交通大学を目標とせる由なるが兵力に依り政庁を爆撃するは正当とすることを得ず且又爆撃区域が事実日本側主張の如く制限せられたりや否や疑問の余地あり。支那政府の名誉顧問米国人ルウイス氏は、10月12日、錦州に到着し其見聞せるところを顧博士に申送り顧博士は後に参与人の資格において其情報を調査団に伝達せるがルウイス氏の云うところによれば兵営には全然異常なく爆弾の大部分は市内至るところに落下し病院及大学建物にも落下せる由なり。爆撃機指揮官はその直後新聞記者に対し長春よりの四機は8日午前8時30分、奉天に向かう旨命令せられたる由を告げたるが、同地にて右四機は他機と合流し、偵察機6機爆撃機五機の一隊は爆弾及燃料を満載して直ちに錦州に派遣せられ、午後1時到着10分乃至15分以内に爆弾八十個を投じ直ちに奉天に帰還せり。ルウイス氏の談によれば支那軍は応戦せざりし由なり。

 次の行動は橋頭において行われたるものにして10月中旬開始せられ、11月19日、日本軍の齊々哈爾占領に了れるものなり。之に対し日本側の理由として挙ぐるところは馬占山により破壊せられたる橋梁の修理中、日本軍が攻撃せられたりと云うにあり。然れども之れ以上に遡りて陳述し橋梁破壊につき説明するの要あり。

その2へ つづく)


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