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検閲され新聞で一切報道されなかった南京大虐殺

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兵は凶器なり15年戦争と新聞メディア
<2004年8月>
『兵は凶器なり』(37)15年戦争と新聞メディア      
1935-1945
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/021226_contents/nannkinnjiken2_040811.pdf

検閲され新聞で一切報道されなかった南京大虐殺

前坂 俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)

南京に入城した日本軍は、「南京アトロシティ」(南京大虐殺)として知られる事件を引き起こす。中国兵、捕虜や、「便衣兵」の処刑、住民も無差別に殺害、婦女子へのレイプ、殺害、略奪と放火が繰り返された。当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。鳴乎、之れが皇軍か」と記述している(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社)。「南京アトロシティ」は日本側の新聞は厳しく検閲され、一切報道されなかったが、中国側の新聞やアメリカ、ヨーロッパの新聞報道で虐殺の状況が細かく報道されており、日本の新聞もそれを知っていた。

外国出版物の取り締まりは新聞紙法や出版法により国内出版物とほぼ同じであった。外国から各税関を通し、また、郵便物として郵便局を通して国内に入ってきた外国出版物は、内務省図書課にすべて集められて検閲された。

一九三四(昭和9)年十二月二十一日、内務省警保局長は各県知事に「外国出版物ノ取締二関スル件」を通達、厳しい取り締まりを指示した。満州事変以来、外来出版物の禁止件数がうなぎのぼりに増大し、とくにわが国の国策を批判する外国の新聞、雑誌が目立ったため、国民の目に一切ふれさせないように取り締まりを強化した。

南京虐殺に関連した日中戦争関係の外国出版物の禁止処分状況を『出版警察報』(第111号)でみると,一九三八(昭和十三)年一月中は次のようになっている。

「皇軍ノ威信失墜二渉ルモノ」-25件
「皇軍ノ尊厳冒清二渉ルモノ」「我対外国策ヲ曲説シ抗日鼓吹二渉ルモノ」各三件など   計33件。

この中で「皇軍ノ威信失墜」の具体的内容は「我軍ガ無事ノ人民二惨虐ナル行為ヲ為セル如ク曲説スルモノ」が9件、「我軍ガ国際公法違反ノ戦闘手段ヲ行使セル如ク曲説スルモノ」5件などである。

南京大虐殺は、この「無事ノ人民へノ惨虐行為」に該当するが、翌2 月の統計では一挙に増えており、大虐殺があったことを裏付けている。

南京大虐殺は一九三七(昭和十二)年12月中旬の南京陥落から翌年1月にかけて行われたとみられており、新聞、雑誌発行の時間的なズレから2月に数字となって表われる。2月の禁止処分は「皇軍ノ威信失墜二渉ルモノ」が109件と一挙に4倍以上に激増し「植民地独立闘争ノ煽動二渉ルモノ」11件など計135件と増えた。

この中で皇軍の威信失墜は「我軍ガ無事ノ人民二惨虐ナル行為ヲ為セル如ク曲説スルモノ」は54件と一月に比べると6倍に急増している。

また、「我軍将士ノ行動ヲ曲説シ甚シク之ガ侮辱二渉ルモノ」も16件を数えた。

翌三月は少し減ったものの「皇軍ノ威信失墜二渉ルモノ」48件が発禁となった。このうち「無事ノ人民へノ惨虐行為」は29件と相変らず多い。以上が数字からみた皇軍の残虐ぶりだが、今度は発禁になった記事の中から、南京大虐殺に相当すると思われる具体的な個所を拾ってみよう。

この中には虐殺のほか、強姦、幼児までの無差別殺りくなど日本軍の行為があますところなく示されており、思わず読む手も止まるほどだ。発禁の記事全体があれば、どんなにすさまじいものか.

●南京大虐殺の実態が一層明白になるであろう。

『シャンハイ・イブニングポスト』では
「南京入城後、殺人鬼と化せる日本軍は数日間にわたり、無闇矢鱈に殺害し、掠奪し強姦せり。同市在住の外国人は至る所に死体を目撃せり。安全地域においてすら、市民は殺害せられ銃剣にて突殺される光景が見られた」(上海、1937年12月25日発行)。

『汗血週報』には
「北平城内に侵入した多数の日本軍は東城の鉄獅子胡同、両城の福壇寺及城南の天壇、新世界、東西大森里其の他園芸場に駐屯し、群を為しては民家に侵入し、掠奪を窓にし、或は婦女を凌辱し児童に暴行している」(上海、民国二十六=同年10月30日発行)。

『抗戦情報』
「丘城及其付近)で殺された群集は数百人に及び多数の年若い婦女は姦淫され、遂に姦死されし者ありと……敵は曲陽に在りて二十歳以下の小女を従軍公娼となし、城郭に偶々小女が居るのを見出すと門前に紅旗を立て目印とした、強姦されて姦死させられた者が甚だ多かったと民衆の憤恨は極点に達し……」(上海、民国二十六年11月4日発行)

『循環日報』(香港発行)の同年十二月二十七日号では
「南京ヨリ来港ノ西洋人、日軍ノ南京蹂躙情況ヲ憤慨シテ語ル」と題して、次の記事を載せた。  「日本軍が入城と共に市民は続々と避難したが、
日本軍はこれらの避難民を捕え、一列にならばせ一斉射撃をもって、ことごとく銃殺してしまった。かくて斃れた避難民の死体は山をなしたが、殊に老若、婦女、幼児の叫び声は天を震わし、人をして見るに耐えざらしめた。…… 又、日本軍の将校及兵士の家には凡て支那の婦女が見られるが、これは日本軍が
えて行って姦淫しているのである。ある婦人は懸命に反抗したので剣で頭を叩かれ、倒れた」

『申報』(上海発行)の同年10月14日号では、
「朔県来の某氏の語る所によれば、敵軍は朔県の盤据せる際、民衆二千余人を殺害したがその時、朔県県長、及び県役人らは体に石油をかけて、焼き殺されたとの事である。……又、日本軍は朔県の婦女を真裸にして町歩かせて散々、もてあそんだ」。

『大晩報』(上海発行)の同年10月14日号では
「敵騎兵が羅店鎮付近の村落に侵入した際、その中の多数の上級将校がわが戦闘区内における青年を脅迫し、村内の婦女を差出させ、姦淫した。そこで、もしこれを拒めば直ちに殺されるのである」

『婦蕩報』(漢口発行)の同年11月23日号では
「敵軍は婦女の姦淫をなした後、その婦女に対して 『お前には夫があるか』と尋ね、もしあると答えれば、その夫を探し出し、その妻の面前で殺すのである。西門内外にはこういう訳で死体が充満し、死人を埋める所がない位である」

●これらは南京入城までの虐殺についてである。

『中山日報』 (広州発行)
の民国二十七=1938年2月3日号の「陥落四十四日広徳獣蹄禽蹄録」と題する記事では、目をそむけたくなる強姦、婦女暴行の内容を具体的に記している。

「最も見るに忍びなかったのは我が女子同胞の(ぼんやりしてはっきり見えなかったが)両股の間に尺余の木材を挿んでいるそれであった。一度敵の手に落ちて敵軍司令部となった孫正和北号の戸板上にあった敵に銃殺された裸婦の如きは、両方の乳は明らかにえぐり取られ、頸部陰部は血痕が斑に着いていた。瓦礫中にも、また男子の屍体が乏しくはなかったが、肛門をガラスビンやハクサイ、ダイコンの様なもので塞いであった。かくの如き暴虐は実に前古未聞の事で野獣蛮夷といえどもなさない所である」

「日軍の南京に於ける姦淫掠奪は其の限りを尽し殺害されたる支那人総計1万人以上、姦淫されたる婦女数は8千及至2万に達し、小は11歳より老は52歳の婦女に到るまで姦淫された者少なからずと(下略)」(『中山日報』広州発行、民国二十七年一月二十三日発行)

など『出版警察報』の中にはこうした記事がたくさん報告されている。

以上は中国の新聞、雑誌などである。発禁になった外来出版物の外国語別では、何といっても中国語のものが圧倒的に多かった。

一九三八(昭和13)年2月では中国語の新聞、雑誌が142件、英語86件、ロシア語9件、日本語8件などの計260件となっている。

●次に米国で発行されたものをみてみよう。

『ニューヨーク・タイムズ』や『ライフ』で南京大虐殺が一早く取上げられたことはよく知られている。『アメラシイア』(ニューヨーク発行)1938年2月号でも、以下のように書いている。

「非戦闘員のは広く行われた。水曜日市内を歩き回った外人達は町毎に惨死せる一般市民を見た。被害者中には老人や女子供あり、巡査消防は特に攻撃の目標であった。被害者は多く銃剣で刺され負傷者中には暴虐無残なものがあった。……日本軍の掠奪は殆んど全市を侵すに及んだ。殆んど全建築物が上官の目前で日本軍に侵入され、兵は恣に掠奪を行った。日本軍は支那人に強いてその掠奪品を運搬させた」

これは日本語新聞だが、『ニュース(ファッショ脅威下の日本)』(シアトル発行)の一九三八年1月12日号では、次のようにも指摘している。

「今事変、南京占領の際、過去の日本軍には見られなかった掠奪、強姦、虐殺が大量的に行われたので、外人目撃者は非常に驚いて『南京攻略は日本戦史に輝かしい記録として残るよりも、その大量的虐殺の故にかえって、国民の面をふせる事件として記憶に残るであろう』との見解をもらしているが、
かくの如き惨虐行為が大々的に行われた原因について橋本大佐以下のファッショ将校の下克上の勝手気儘な行動が処罰されないような状態にあるから、これが一般兵卒にまで悪い影響をあたえ、軍規が全くみだれてこんなことになったのであるという結論に達している。一説には今回の戦争に大義名分がないから緊張味を欠くのだともいわれている」

兵士の質の低下、大義名分のない戦争など虐殺の原因についても分析している。

「日本国民は世界の大文明国および国民が日本の対支侵略、残虐な婦女子爆撃を非難しているということを知れば、心が暗くなるであろう。日本の国民は支那における日本の陸海軍の目も当てられぬ残虐行為を知っておらない。日本の爆撃は故意に何等の警告もなしに、支那の最も人口過密な都市の真中に落とされつつあり、日本軍のファシスト将校共の残忍なる命令によって幾千の非戦闘員、老幼男女が虐殺されつつあるのだ」(『大洋新報』サンフランシスコ発行、-九三七年十月三十日発行)

これは「大衆ヲ目的トシ全面平易ナル筆致ヲ以テ反軍思想ノ宣伝ヲナスモノニシテ」の理由で禁止になった。

こうした虐殺の記事は内務省の手によって抹殺されたが、結局は秘密文書で今に伝えられていることは、皮肉なことに歴史の真実は、消し去れないことの証明でもあろう。

内務省警保局図書課が勝手に禁止したこの中のほんのわずかなセンテンスを読むだけで、虐殺のすさまじさの一端が浮かび上がってくる。

外来出版物にこれだけの日本軍の残虐非道が数多く報道され、国内にも入ってきていたことは、多数の人が当時からすでに南京大虐殺については知っていたことを意味する。

軍部はもちろん、政府、警察、マスコミ、海外在住者らは目にしていた。それが一般国民へ広く知られることを恐れて内務省は発禁にし、厳しく取り締まったのである。

『朝日』の元論説主幹、森恭三は一九三七(昭和12)年から四一(同16)年12月の開戦までニューヨーク特派員だった。森は南京大虐殺について、こう回想している。

「日本軍による南京虐殺はアメリカの新聞に大々的に報道され、ニューヨーク特派員として当然、これを詳細に打電しました。ところが、東京から郵送されてきた新聞を見ると一行もそれがでていない。そればかりでなく、東京のデスクからは、たとえば『台湾の基地を発進した海軍航空隊は中国本土にたいする渡洋爆撃に成功した。これは画期的な壮挙である。これにたいするアメリカの反響を至急打電せよ』といった種類の指令を送ってくるのです。私は出先と本社のズレを痛感せざるをえませんでした」(1)

●『News week』(1937 年12月20号)の『南京陥落、蒋介石は逃亡』は次のように書いた。

「東洋では、メンツは生命以上に大切なものとされる。日本軍の勝ち誇った軍靴の響きは、13世紀以来の中国の歴史に最も屈辱的な一頁を刻み込んだ。それはジンギスカンが中華帝国の大都市群を羊の牧草地に変えてしまって以来の出来事である。そして南京の陥落は、日本の東アジア侵略の第一段階が終わったことを告げた」
                                  (つづく)

<引用資料・参考文献>       
(1)『私の朝日新聞社史』 森恭三 田畑書店 一九八一年刊 24P


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