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第七節 中村大尉事件

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7、中村大尉事件


 中村大尉事件日本側の見解に依れば満州に於ける日本の権益に対し支那側が全然之を無視せる幾多の事件が遂に其の極点に達せるものなり。中村大尉は1931年盛夏の候、満州の僻遠なる一地方において支那兵に殺害せられたり。

 中村震太郎大尉は日本現役陸軍将校にして日本政府の認めたるが如く日本陸軍の命令による使命を有したり。哈爾賓通過の際、支那官憲は同大尉の護照を検査せるが同大尉は農業技師と自称せり。其の際、同大尉は其の旅行地域は匪賊横行地域なる旨警告せられ右事情は同大尉の護照に記載せられたり。同大尉は武器を携帯し且売薬を所持し居たるが支那側に拠れば売薬中には薬用に非る痺薬ありたり。

 6月9日、中村大尉は3名の通訳者及助手を伴い東支鉄道西部の伊勤克特駅を出発せり。同大尉がトウ南の方向において奥地へ相当の距離にある一地点に到達せる際、一行は屯懇軍第三団長関玉の指揮する支那兵に監禁せられたり。数日後、6月27日頃、同大尉及一行は、支那兵の為に射殺せられ死体は右行為の証拠隠滅の為、焼棄せられたり。

 日本側は中村大尉及其の一行の殺害は不正にして日本軍隊及国民に対する侮辱なりと主張し又在満支那官憲は事件の公式調査を遅延し事件の責任を回避し且支那官憲は事件の真相を確むる為あらゆる努力を為しつつありと称するも何等誠意なかりしと主張せり。

 支那側は当初中村大尉及一行は慣習上内地旅行の際外国人が所持すべき許可証を検査する期間中監禁せられたること、同大尉一行は厚遇せられたること及中村大尉は逃走を企てつつある際一歩哨に射殺せられたることを主張せり。支那側に拠れば中村大尉は身辺に日本軍事地図一葉及日記帳二冊を含む書類を携帯せることを発見せられたるが、右は同大尉が軍事偵察若しくは特別の軍事的使命を帯びたる将校なりしことを証するものなり。

 7月17日、中村大尉死去の報が在齊々哈爾日本総領事の許に到達せるが同月末在奉天日本官憲はは支那地方官憲に対し中村大尉が支那兵に依り殺害せられたる確実なる証拠を有する旨を通告せり。8月17日在奉天日本軍当局は中村大尉死去の最初の報道を公表せり(1931年8月17日「マンチュリア・デイリー・ニュース」参照)。同日林総領事及事件調査の為東京日本陸軍参謀本部より満州へ派遣せられたる森陸軍少佐は遼寧省主席臧式毅と会見せるが臧主席は即時同事件を調査す可きことを約せり。

 臧式毅主席は其の後直ちに北平の一病院に病臥中なる張学良元帥及在南京外交部長に之を通告し、又二名の支那人調査員を任命し直ちに所謂殺害の現場へ赴きたり。右二名の調査員は9月3日、又日本陸軍参謀本部の為独立に調査を為しつつありし森少佐は9月4日、奉天に帰還せり。同日、林総領事は支那参謀長栄臻将軍を訪問し同将軍より支那調査員の判定は不確実且不満足なりしを以て再度調査の必要ある可き旨の通告に接せり。栄臻将軍は満州事態の新たなる進展に関し張学良元帥と協議の為、9月4日、奉天に帰還せり。

 張学良元帥は満州に於ける事態の重大なるを知り、臧式毅主席及栄臻将軍に対し遅滞なく中村事件の現地再調査を訓令せり。張学良元帥は本事件に対し日本陸軍が多大なる関心を有することを其の日本人軍事顧問より知りたるを以て事件を有効的に解決せんと欲する意思を明らかならしむる為、柴山少佐を東京に派遣せり。柴山少佐は9月12日、東京に到着したるが其の後の新聞報道に拠れば張学良元帥は中村事件の速急且公平なる結末を得んことを切望し居る旨述べたり。其の間張元帥は満州に関する諸種の日支係争問題解決のため両国にとり何等共通点ありやを確めしむる目的を以て高級官吏湯爾和を外務大臣幣原男爵と協議せしむる為特別の使命の下に東京に派遣せり。


 湯爾和氏は幣原男爵、南大将及他の陸軍高級武官と会談せり。9月16日、張学良元帥は新聞記者と会見せるが新聞は張学良元帥が中村事件は日本側の希望に基づき臧式毅主席及満州官憲に依り処理せられ南京政府は與からざる可き旨述べたりと報道せり。

 第二回支那調査団は中村大尉殺害の現場を視察せる後、9月16日朝帰奉せり。18日午後、日本領事は栄臻将軍を訪問せるが其の際同将軍は関玉団長は9月16日、中村大尉殺害の責により奉天に召還せられ即時軍法会議において裁判せらる可き旨述べたり。日本側は奉天占領後関団長が支那側により陸軍監獄に監禁せられ居る旨発表せり。

 在奉天林総領事は9月12日及13日、日本外務省に対し「調査員の奉天帰還後恐らく友好的解決を見る可きこと」殊に栄臻将軍は遂に支那兵が中村大尉殺害に対し責任あることを認めたることを報告せる旨報道せられたり。日本電報通信社奉天通信員は「支那兵墾軍団の兵隊による日本陸軍参謀本部中村震太郎大尉の所謂殺害事件の有効的解決は近きにあり」と9月12日電報せり。然れども幾多の日本陸軍将校、殊に土肥原大佐は中村大尉の死去に対し責任ありと称さるる関団長は奉天において監禁せられ其の軍法会議の日取りが1週間以内なる可きものとして発表せられたる事実に鑑み、中村事件の満足なる解決を図らむとする支那側努力の誠意如何に付引続き疑惑を表明せり。支那官憲は9月18日午後開催せられたる正式会議において、在奉天日本領事官憲に対し支那兵は中村大尉の死に対し責任あることを認め又速やかに事件が外交的に解決せらる可き希望を表示せるにより中村事件解決の為の外交交渉は9月18日夜迄は好都合に進展しつつありしが如し。

 中村事件は多の如何なる事件よりも一層日本人を憤慨せしめ遂に満州に関する日支懸案解決の為実力行使を可とするの激論を聞くに至れり。本事件自体の重大性は当時萬寶山事件、朝鮮に於ける排支運動、日本陸軍の満州国境圖們江渡河演習並びに青島における日本愛国団体の活動に対し行われたる支那人の暴行等に依り日支関係が緊張し居たる際なるを以て一層増大せられたり。

 中村大尉は現役陸軍将校なりしが此の事実は強硬迅速なる軍事行動の理由として日本側により指摘せられかかる軍事行動に好都合なる国民的感情を純化する為満州及日本国において国民大会行われたり。9月最初の二週間中日本新聞は陸軍において問題解決の為他に方法無きを以て武力に訴えるばきことに決定せりと繰り返し述べたり。

 支那側事件の重大性は甚だしく誇張され居る旨並びに右は満州の軍事占領に対する口実とせられたる旨主張し支那側において事件処理上不誠意または遅延ありたりとの日本側主張を否認せり。

 斯くて1931年8月末頃までに満州に関する日支関係は本章に記述せるが如き幾多の紛議及事件の結果著しく緊張し来れり。両国間に三百の懸案あり且此等事件を処理すべき平和的手段が当事国の一方に依り利用し尽くされたりとの主張については充分なる実証あり得ず。此等所謂「懸案」は根本的に調和し得ざる政策に基づく一層広汎なる問題より派生せる事態なりき。両国は各地方が日支協定の規定を侵害し一方的に解釈し又は無視せりと責むるも両者何れも他方に対し正当なる言分を有したり。

 両国間の此等紛争解決の為一方又は他方に依り為されたる努力に付與えられたる説明に依れば外交交渉及平和的手段の正当なる手続きに依り処理する為多少の努力が為されたることを立証せられ居るも而も右手続は未だ十分用い尽くされざりき。然るに長期に亘る支那側の調査遅延は日本側をして之を隠忍し得ざる事態に立至らしめたり。特に軍部は中村事件の即時解決を主張し十分なる賠償金を要求せり。就中帝国在郷軍人会は世論喚起に與て力ありたり。

 9月、中支那問題に関する一般的感情は中村事件を焦点(ママ)として強大となり満州に於ける幾多問題を未解決のまま放置するの政策は支那官憲をして日本を軽視せしむるに至らしめたりとの意見しばしば表示せられたり。あらゆる係争問題の解決が実力に依るを必要とする場合には軍力に訴う可しとの決議は民衆の標語となれり。右目的を以てする計画を実行せしむ可き関東軍司令官に対する確定的訓令及9月上旬、東京に招致され且必要なる場合には実力に依り成る可く速やかにあらゆる懸案を解決す可しとする主張者として新聞に引用せられたる奉天駐在武官土肥原陸軍大佐等に関する記事が新聞紙上に遠慮なく掲げられたり。此等及他の団体に依り述べられたる所感に付いての新聞報道は漸増しつつありし時局の危険なる緊張を支持せり。


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