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大命による南京攻略戦

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週刊金曜日 1997.12.5
南京大虐殺60周年特集

大命による南京攻略戦

昭和天皇は対中国決戦諭者だった

藤原彰

昭和天皇が中国を敵国と呼んだ

一九三七年一一月二〇日、日露戦争以来三二年ぶりに、天皇の大纛(たいとう)(旗じるし)の下の陸海軍の最高統帥機関として大本営が設置された。同月二四日には、第一回の大本営御前会議が開かれ、その席上で九月末に石原莞爾に代わって参謀本部第一(作戦)部長となった下村定(さだむ)が、南京の攻撃を考慮していることを説明した。ついで一二月一日、大本営は中支那方面軍の戦闘序列(天皇の命ずる作戦軍の編組)を命令し、さらに大陸命(大本営陸軍部の発する天皇の命令)第八号をもって、「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」と命令した。昭和天皇が中国を初めて敵国と呼び、その首都南京の攻略を正式に命令したのである。防衛庁編纂の『戦史叢書』によれば、「大本営は南京攻略により、敵の戦争意志を挫折させ戦局終結の動機を獲得することをねらったもの」だという。

しかし蒋介石は、日本の強力な武力に対しては、決戦を避けて中国の広さで対抗するとしており、南京を失えば武漢で、武漢を失えば四川で戦うと宣言していた。毛沢東も、こうした戦略を理論化した『持久戦論』を著したくらいだから、大本営の敵国首都の攻略による短期決戦論は、中国の実情、特にその抗戦意志に対するはなはだしい認識不足といわなければならない。だが日本側では、誰よりも昭和天皇が中国に対する決戦論者で、強力な一撃で相手を屈伏させようという意見を示していたのである。

これに先立つ同年八月一五日、近衛内閣は「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲(ようちょう)シ南京政府ノ反省ヲ促ス」という、宣戦布告に代わるものとして出された帝国政府声明を発表した。この日に天皇は、上海派遣軍の編組と上海への出兵を、臨参命(参謀総長の伝宣する天皇の命令)第七三号で命令した。その三日後の八月一八日、『戦史叢書』によれば、天皇は軍令部総長(伏見宮)と参謀総長(閑院宮)に対し、次のような御下問をしている。

戦局漸次拡大シ上海ノ事態モ重大トナレルガ青島モ不穏ノ形勢二在ル由、斯クノ如クニシテ諸方二兵ヲ用フトモ戦局ハ永引クノミナリ。重点二兵ヲ集メ大打撃ヲ加ヘタル上ニテ我ノ公明ナル態度ヲ以テ和平ニ導キ速ニ時局ヲ収拾スルノ方策ナキヤ。即チ支那ヲシテ反省セシムルノ方途ナキヤ。(注1)

すなわち強力な一撃で相手を屈伏させる方法はないのかと、両総長に質したのである。

これに対し両統帥部で検討を重ねた上で、二一日に両総長が奉答した要旨は以下のようであった。第一に航空兵力をもって敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して、「敵国軍隊拉ニ国民ノ戦意ヲ喪失セシム」、つまり大規模な戦略爆撃を行なうということであった。それでも目的を達成できないときは、第二に、華北における、平津地方(北京を当時は北平といったので、北平、天津地方のこと)、華中では上海付近を確保し、さらに中国沿岸の封鎖を行なうというものであった。このときはまだ南京は爆撃だけで、南京攻略は構想されていなかった。とにかくこの段階でも、昭和天皇は積極的な対中国短期決戦論者であったことが、この御下問、奉答のやりとりで示されている。

当初の上海派遣軍の兵力は二個師団に過ぎず、中国軍の激しい抵抗で思いがけない苦戦に陥った。石原作戦部長が不拡大論の立場をとって、上海に多くの兵力を向けることを嫌っていたからである。これに対して天皇は、拡大論の立場に立って、兵力の増派を督促した。そのことを『昭和天皇独白録』の中で、次のように語っている。

当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割<ことを嫌ってゐたのだ。湯浅内大臣から聞いた所に依ると、石原は当初陸軍が上海に二ヶ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云った相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ヶ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵カの増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵カを送らぬ。(注2)

実際に上海の陸上戦闘が遅々として進まないのに苛立った天皇は、九月六日参謀総長を召して増兵を催促した。石原は不拡大を主張し、参謀本部内でも孤立していたが、天皇の督促が転機となり、九月一一日さらに三個師団を上海に増強する大命が出された。上海への増兵が決定されると、石原は作戦部長を辞任して下村と交代した。ここでも昭和大皇が、対中国決戦論者であったことが現れている。

中央主導で拡大した盧溝橋事件

昭和天皇が対中国戦争に積極的だったことは、すでに戦争開始の際にも示されていた。三七年七月七日の盧溝橋事件が、日中間の全面戦争に拡大していく経過は、六年前の三一年の満州事変勃発のときとはまったく様相を異にしていた。満州事変の際は、関東軍の満鉄附属地以外への出動も、朝鮮軍の国境を越えての派兵も、大命なしに勝手にやったことであった。後になってからつじつまを合わせるための命令を出して、大命干犯が問題になるのを防いだくらいで、常に出先の軍が行動を起こした結果を、軍中央も政府も天皇も事後承認させられたのである。ところが盧溝橋事件の際は、逆に中央主導で戦争を拡大していったのである。

事件勃発の報を受けた七月八日の東京では、拡大派と不拡大派がはげしく対立するが、参謀本部は石原作戦部長の意向で、七月八日夕に現地に不拡大方針を指示した。七月九日の閣議も、現地で停戦の協議ができたとの報が入ったので、不拡大の方針を決めた。ところがこの間にも参謀本部や陸軍省内の拡大派は、派兵の準備を進めるなど活発に動いていた。

昭和天皇はこのとき、避暑のため葉山の御用邸に滞在していた。しかし事件のなりゆきを心配して、参謀総長閑院宮を葉山に呼ぼうとした。このときのことを原田日記は、湯浅内大臣の話として次のように書いている。

「十一日に参謀総長の宮さんを陛下がお召しになるといふことをきいたので、自分はすぐ参内して拝謁を願ひ、『参謀総長宮にお会ひになる前に、総理にお会ひなったらどうか』といふことを陛下に申上げたところが、陛下は『満州事変の時、総理に先に会ったところが、後から陸軍から統帥権云々といふことを言はれて、総理も非常に迷惑したやうなことがあったから、この際近衛には後で会はう』とのことで、まづ参謀総長宮に会はれた。陛下から参謀総長に『もしソヴィェトが後から立ったら、どうするか』といふ御下問があったが、閑院宮殿下は『陸軍では立たんと思つてをります』と奉答された。すると重ねて陛下から『それは陸軍の独断であって、もし万一ソヴィエトが立ったらどうするか』といふ御下問があったが、殿下はただ『致し方ございません』といふやうな御奉答をされた。このため陛下には非常に御不満の御様子であらせられた。」(注3)

結局この七月一一日には、天皇は統帥優先の立場から首相より先に参謀総長を呼んで、華北に出兵した場合ソ連から背後を衝かれるおそれがないかを確かめた。その直前の六月三〇日満ソ国境のカンチャズ島の紛争で、関東軍がソ連の砲艇を撃沈する事件が起こったが、双方が自制して事件は拡大しなかったので、陸軍はソ連は慎重だと判断していたのである。この日の閣議は派兵を承認し、近衛首相は夕刻葉山に赴いてその旨上奏、つづいて参謀総長と陸相も派兵の件を上奏して裁可を受けた。その結果同日付で、関東軍から混成二個旅団、朝鮮軍から第二〇師団を華北に派遣する臨参命が発令されたのであるが、この日現地では、現地停戦協定が調印されていたのである。

ついで増援部隊がほぼ北京、天津周辺に到着した七月二七日、「支那駐屯軍司令官ハ現任務ノ外平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定二任ズヘシ」という大命と、内地からさらに三個師団を増派する命令が出され、翌二八日華北一帯での総攻撃が行なわれて、一挙に戦争は全面化するのである。まさに中央主導の大命による戦争であった。昭和天皇はこうして日中戦争の拡大、南京攻略に深くかかわっていたのである。

(注1)防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書・支那事変陸軍作戦〈1〉』朝雲新聞社、一九七五年、二八三ぺージ。

(注2)『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』文芸春秋、一九九一年、三七ぺージ。

(注3)原田熊雄述『西園寺公と政局』第六巻、岩波書店、一九五一年、二九・三〇ぺージ。

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ふじわらあきら・南京事件調査研究会員。


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