15年戦争資料 @wiki

大虐殺否定派が敗北するまで

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン
週刊金曜日 1997.12.5
南京大虐殺60周年特集

大虐殺否定派が敗北するまで

次々に破綻してゆく否定派の諭拠

吉田裕

虐殺否定の三つの波

戦後の日本社会の中で、南京事件をめぐる虐殺否定論は三度にわたって大きな高まりをみせた。

第一の波は、朝日新聞社の本多勝一記者(当時)が一九七一年に『朝日新聞』紙上に「中国の旅」を連載したことをきっかけに起こった。この時の虐殺否定論の代表的著作は、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(文嚢春秋・七三年)である。そして第二の波は、田中正明の『“南京大虐殺”の虚構』(日本教文社・八四年)によって、第三の波は自由主義史観研究会の中心的「活動家」藤岡信勝の『近現代史教育の改革』(明治図書・九六年)によって引き起こされ、現在に至っている。第一の波は日中国交回復、第二の波は八二年の教科書検定の国際問題化に象徴されるようにアジア諸国からの対日批判が激化する時期、第三の波は「戦後五〇年」の時期にほぽ照応しており、一五年戦争の侵略性や加害性が内外の注目をあびた時期に、それに対する反動として虐殺否定論が登場してくるのがわかる。

しかし、こうした虐殺否定論のたび重なる擡頭(たいとう)にもかかわらず、南京事件をめぐる論争にはある大きな変化が確実に現れている。それを象徴しているのが、士官学校出身の旧陸軍将校の親睦団体・偕行社の方向転換である。偕行社は数年前に、会の総力をあげて『南京戦史』(偕行社・八九年)を編纂したが、その中で当初の会の公式見解であった南京事件=「まぼろし」説を完全に撤回して、少なくとも約一万六〇〇〇名にのぼる「捕虜等」の殺害があった事実をようやく認めた。また最近では、南京攻略戦に参加した旧海軍将校・奥宮正武の『私の見た南京事件』(PHP研究所・九七年)が、自由主義史観研究会の所説を批判しつつ、少なくとも四万人前後の虐殺があったことを認めている。

このような変化を促した要因としては、何よりもここ十数年ほどの間に、南京攻略戦に参加した兵士の証言や記録、各部隊の戦闘記録、南京在住の欧米人の記録などが次々に発掘・公表されたことがあげられる。そして、そうした新史料や新証言を基礎にして南京事件の実態の解明が急速に進む中で、虐殺否定派の論拠自体が次々に破綻してゆくことになったのである。以下、ここでは、その論拠が破綻してゆく状況をあらためて整理してみることにしよう。

事件の組繊性を無視する否定論者

第一の論拠は、この事件が日本軍による組織的な戦争犯罪ではなく、首都の陥落という混乱の中で発生した偶発的な事件であり、軍の統制を離れた個々の兵士による非組織・散発的な非行にすぎないというものである。

しかし、この間の南京事件の実態解明の進展は、このような主張に対する完全な反証を提供している。なぜなら、それによって、南京陥落の前後に軍上層部が捕虜の殺害を命じたことが明らかになっているからである。さすがに、一般市民の殺害を命じたような軍司令部や師団司令部の公的な命令の存在そのものは、現在までのところ確認されていない。しかしその場合でも、一般市民の殺害を示唆・黙認するような各部隊の指揮官による命令や指示があったことは、兵士の日記や証言から明らかである。

第二の論拠は、遺体の埋葬記録の信憑(しんぴよう)性の問題である。南京攻略戦の終了後に、中国軍民の遺体の埋葬にあたった紅卍字会(こうまんじかい)や崇善堂の埋葬記録は、東京裁判の際に虐殺の証拠書類として採用され、今日の中国の三〇万人虐殺説にもその根拠の一つとして、そのまま取り入れられている。しかし当初は、これらの団体の性格や活動の実態が充分に明らかにされていなかったこともあって、虐殺否定派はこれらの団体、特に崇善堂は架空の団体であり、その埋葬記録は信頼に値しないと主張していた。

ところがその後、中国側関係者の証言や、中国側の公文書が相ついで公表され、今日では、この崇善堂が実際に遺体の埋葬にあたった事実が確認されている。もちろん、この埋葬記録には重複があるようであり、その遺体埋葬数をそのまま採用することはできないが、崇善堂の存在そのものは、もはや否定することはできない。

第三の論拠は、虐殺の定義にかかわる問題である。事件の存在そのものは否定することのできない現実である以上、虐殺否定派は、当初から虐殺をなるべく狭く定義することによって、事件の深刻な実態を曖昧にしょうとする明白な傾向性を持っていた。具体的にいえば、彼らの議論は次の三点に収斂(しゅうれん)してゆくことになる。

虐殺を狭<定義する否定論者

一つは、投降兵の殺害は必ずしも不法なものではなく、捕虜として収容するのが不可能な場合などには、その殺害は合法であるというものである。しかし、いかなる理由があるにせよ、投降兵の殺害は「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」を禁じた一九〇七年の「陸戦ノ法規慣例二関スル条約」に対する明白な違反行為であって、奥宮前掲書が「処刑合法論を明確に裏付ける条約文はない」と断じているように、殺害合法論には国際条約上の根拠がまったくない。

二つ目は「便衣兵狩り」の位置づけである。南京陥落直後、戦闘意欲を完全に喪失した多数の中国軍将兵が武器と軍服を捨て、便衣(民間人の服)を身にまとって城内の難民区などに潜伏した。これに対して、日本軍は仮借のない掃蕩戦を実施し、充分な検査もないままに一方的に中国兵だと断定した青壮年男子を片端から連行して、大規模な集団処刑を強行する。虐殺否定派は、この「便衣兵狩り」を正規の戦闘行動とみなして、その違法性を否定するのである。

しかし、ここでも彼らの主張はすでに破綻している。なぜなら、本来の意味での「便衣兵」とは、武器を携行して実際の敵対行動を行なう戦闘者のことをさすが、そのような意味での「便衣兵」は南京にはほとんど存在しなかったからである。またあくまで仮に、そのような「便衣兵」が存在したとしても、その処刑には正規の軍事裁判の手続きが必要であり、南京の日本軍のように、それを省略して処刑を行なうこと自体が、明らかな違法行為だった。

三つ目は、敗残兵の殲滅(せんめつ)の問題である。南京攻略戦は、典型的な包囲殲滅戦として、軍事的には日本軍の完全な勝利に終わった。このため中国防衛軍の崩壊は急であり、多数の将兵が戦意を完全に喪失して敗走する。これに対して日本軍は、すでに戦闘の帰趨(きすう)が完全に決していたにもかかわらず、投降勧告すらしないままに、これらの敗残兵の群に襲いかかって、その大多数を殺害した。

虐殺否定派は、この敗残兵に対する殲滅は正規の戦闘行動であると主張してきたが、その主張には大きな無理がある。そのことをよく示しているのは、秦郁彦『南京事件』(中公新書・八六年)である。同書は敗残兵の殲滅を正規の戦闘行動であるとしているが、その一方で敗残兵の殺害と投降兵の殺害との実態上の差が「紙一重」であることを認めている。事実、前掲『南京戦史』をみても、この二つの行為は実態上は完全に重なりあっているのがわかる。だとするならば、投降兵の殺害が違法である以上、敗残兵の殺害を正当化することができないのは自明の理というべきだろう。また日本軍としても、こうした敗残兵をまず捕虜として収容する努力をすべきだったのであり、そのような努力を最初から放棄して一方的な殲滅に終始したのは、いかなる形でも正当化することのできない非人道的行為である。

この敗残兵の殲滅問題は、その論拠を一つずつ崩されていった虐殺否定派にとって最後の砦である。最も遅れてやってきた虐殺否定派たる藤岡信勝が、もっぱらこの問題に議論を集中させているのは、そのことをよく示している。それだけに、今後もこの問題が繰り返し蒸し返されることになるだろうが、敗残兵の殲滅戦の実態をいっそう明らかにすることによって、彼らをさらに追いつめてゆくことが必要だろう。

よしだゆたか・一九五四年生まれ。一橋大学教授。著書に『天皇の軍隊と南京事件』『現代歴史学と戦争責任』(以上青木書店)など。



目安箱バナー