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島薗進氏による中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年)の紹介

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島薗進氏による中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年)の紹介


  東京大学の宗教学の島薗進さんが、絶版となっている中川保雄「放射線被曝の歴史」1991の内容を、緊急的にTwitterで紹介してくださいました。http://twitter.com/#!/Shimazono
  これは、原発村「医学者」の骨の髄までしみ込んだ、放射能・放射線100mSv受容論。福島県民の健康管理調査を担っている学者たちもそうです。その根源を理解するための、喫緊の資料だと、島薗さんが判断したからです。
  Twitterでの紹介部分以外を含む全体のレビューは、島薗さんのブログをお読みください。http://shimazono.spinavi.net/
  なお、島薗進さんはwikipediaで検索すれば分かる通り、日本の近代医学史にのこる名医家の三代目でありながら、医学部から宗教学に転じた人です。7月8日東京大学で開かれたシンポジウムでは、あの東大病院放射科の中川恵一氏と丁々発止渡り合っていました。

  括弧つき中見出しは引用者によるものです。(2011.8.6 ni0615記)


再版されました
増補 放射線被曝の歴史―アメリカ原爆開発から福島原発事故まで― [単行本]
中川 保雄 (著)



  contents



(以下島薗)
中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年)はぜひ早急に復刊すべき書物。著者は1943年生、阪大工学部出身で神戸大学教授として科学史を教えたが91年に病没。この遺著は放射能の健康影響の科学的成果を見直す上で超重要。放射線医学の専門家の説明で分からないことがよく分かるようになる。



(「放射線被害の歴史から未来への教訓を――序にかえて」と「おわりに」から)


1 「秘密で覆われていることが、核・原子力問題の本質的な特徴ではある。しかし、公表されている資料と情報もまた膨大…それらの入手可能な資料から、隠されているものを丹念に拾い、それらを結びつけることによって、本質的に重要な事柄を見出すのがここでのやり方p10

2 「加害した側のアメリカ軍によって調査された事柄を被害者の側に立つべき日本の研究者たちも大筋において受け入れているという事情はなんとしても説明しがたいことではないか…なぜそのようなことがまかり通ってきたのか。それを明らかにするのもこの書の目的の1つ」p11

3 「アメリカ軍による原爆被害の隠ぺいや過小評価に、日本の代表的研究者たちも同意を与え続けてきた…。その結果、多くの被爆者たちが、その急性死や急性障害を放射線のせいではないとされたり、ガンや白血病などの晩発的な影響についての評価を歪められてきた…」p11

4 「最近になってICRPなど被爆問題のエスタブリッシュメントは、放射線のリスクの過小評価を否定し続けることがもはや不可能tみて、これまでの主調の手直しを1つまた1つとやり始めた。放射線影響研究所が、広島・長崎の原爆被爆者のデータに基づいて」p235

5 「放射線影響研究所が…ガン・白血病死のリスクの見直しをおこなったのもそのような手直しの1つである。問題は、その手直しがICRPなどによる過小評価された放射線リスクの大幅な見直しや、国際的な被曝防護基準の抜本的な改正へと進みうるかどうかである」p.235

6 「ICRPの被曝防護思想、経済性原理にたつALARAの考え方への批判はいまだ不十分である。ICRP批判は、まずそのリスク評価や被曝基準に対する生物・医学的な、科学上の評価が基礎になる。…世界的には上のように言えるが、日本の国内での…」p235-6

7 「日本の国内でのこの問題の議論は、ICRPそのものやその勧告の社会的性格についての評価と批判から始められる必要がある。なぜなら、放射線被曝防護問題に関する書物が多数発行されているが、それらはことごとくICRPと同じ立場、同じ思想から」p236

8 「それらはことごとくICRPと同じ立場、同じ思想から書かれているからである。また、放射線被曝を一般的には危険と認めはするが、ICRPが果たしてきた歴史的・社会的役割をみようとしない科学者も多くいる。…ICRPなど原発推進派は、人の健康上の」p236-7

9 「ICRPなど原発推進派は、人の健康上の判断からは、被曝を少なくすることを認めざるをえないが、それでは原子力産業の活動が不可能になるために、原子力利用の社会・経済的利益を考慮せよと迫って、線量限度内の被曝を強要する被曝防護基準を作り上げてきた」p237


  • 中川保雄『放射線被曝の歴史』の「放射線被害の歴史から未来への教訓を――序にかえて」と「おわりに」から一部、抜粋しました。復刊されるまで重要論点の抜粋紹介の継続が必要かも。87-88年にアメリカ滞在時に得られた資料が多く活用されており、この度の原発災害を見越したかと思われる程。

  • 復刊の計画進んでいましょうか福島の被災者他、多くの方々にとり大きな力となりましょう。@shiwwai 亡き中川氏の妻の慶子さんは、宝塚市をベースに脱原発に心血をを注いでおられます。RT @Shimazono 中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年)はぜひ早急に復刊すべき書物。

  • @y_itoh伊藤雄介  今後懸念されている内部被曝の日本の防護基準は、歴史的に米軍調査寄りの原発推進派ICRPに従っているため甘すぎると言う事ですね。

  • 中川保雄『放射線被曝の歴史』1991の紹介を続けてみます。いずれブログにまとめますが、それより早く復刊してほしいです。ICRPの放射能防護基準の歴史的背景をどう理解するか。それが分かると、なぜ多くの「専門家」が理解困難な放射能安全論を説くのか理解しやすくなるはず。

  • ほぼそういうこと。それでもICRP基準を厳格に受け止めれば今ほどの無策にはならない。日本の学者は被爆者を見捨ててきた過去を見直したくない。



(第2次世界大戦が始まるまで)


10 「第2次世界大戦が始まるまでは、放射線に曝される機会の大部分が医療などごく限られた分野であった。「アメリカX線およびラジウム防護諮問委員会」は主として医療におけるX線とラジウムを使用する…従事者を、放射線被曝による職業病からまもることを任務」p15-6

11 アメリカX線およびラジウム防護諮問委員会に対応する国際組織が国際X線およびラジウム防護委員会(IXPRC、1928年)。ガン多発や遺伝的影響への懸念を受けて線量の引き下げを科学的に進めていた。それにかわってNCRP,ICRPの時代へ(2章)。

12 全米放射線防護委員会(NCRP、1946年)はマンハッタン計画を引き継ぐアメリカ原子力委員会の影響下で構成。続いて形成される国際放射線防護委員会(ICRP)も次第にその路線に従う。作業者の安全のための組織から、核開発遂行のための組織へと転換。

13 NCRP.ICRPは放射線被害が生じない線量限度を設定してしまうと核開発が困難になるので、リスク受忍論を形作っていった。1950年の「許容線量」概念がそれをよく示す。「許容線量とは…原子力・放射線施設の存在と運転の必要を軍事的・政治的および経済的」

14 「原子力…施設の存在と運転の必要を軍事的・政治的および経済的理由から認めたうえで…放射線作業従事者、あるいは一般公衆に対して、それらの被曝を受忍させる為に、政府等が法令等の規則で定めた放射線被曝の基準であり、狭くはそれらの線量限度を意味する」p34-5

15 要約。40年代に提起された「許容線量」や「リスク受忍」の考え方はその後次第に変わっていくが、他に追求すべき利益がある為、被害があることを承知の上、ある限度内で害ある被曝を許容するという考え方は維持され強化されていく。核開発を続けるための論理(3章)。


(1940年代の終わりから1950年代のはじめにかけて)(戦後占領下の広島・長崎調査)


16 「核兵器の開発と結びついた放射線に関する研究にたずさわった科学者たちが何よりも恐れ、対処すべき難題の第1のものと考えたのも、放射線被曝による人類の緩慢な死に対する人々の恐怖が広まることであった。このためアメリカの原子力委員会やNCRPは」

17 「…1940年代の終わりから1950年代のはじめにかけて、放射線による遺伝的影響の問題において、いかにすれば主導権をにぎって国際的議論をリードし、リスク受忍論を主柱とする許容線量体系を全面的に導入することができるか、というテーマに…取り組む…」p44

18 「その目的から当時アメリカが力を注いだ研究分野…第1に、広島・長崎の調査…。加害者が被害者を調査し、その科学的データをもっぱら自らの占領下において、核戦争勝利作戦と放射線被曝の被害の受忍を世界中の人々に迫るという当時の歴史的状況」p44

19 (戦後占領下の広島・長崎調査)「当時の歴史的状況を少しでも考慮するなら、アメリカによる広島・長崎でも原爆障害調査の本質的問題点を洗い出す必要がある。この課題はまた、日本の研究者がとりわけ重きを担うべきでもある」p.44第4章(本日はこのあたりまで)



  • 児玉龍彦東大アイソトープ総合センター長の衆議院厚労委での発言の文字化は以下のサイトにhttp://t.co/89aPRrR また、それに続く質疑http://t.co/AbJNyG3 も有益。前半部分の文字化は以下のサイトにありますhttp://t.co/q3vFop5



20  広島・長崎での遺伝的影響調査は、有名な「原爆障害調査委員会(ABCC)」によって行われてきたが、ABCCは自らについて「…全米科学アカデミー・学術会議と日本の国立予防衛生研究所との純粋な学術的事業である」と一貫して主張してきた。」

21 「この主張への批判が不十分であったため、ABCCについてはその組織と研究内容の軍事的性格に対する評価が、過去一貫して不明確のままにされてきた。そのことは、ABCCが行った研究の中心的内容を支持することへとつながっている。」p45

22 「たとえば、『広島・長崎の原爆調査』(岩波書店、1979)は、この分野における日本の研究の包括的な到達点を示していると考えられるが、そこではABCCの主張が基本的に支持されている。」「そこで…ABCCの歴史全体を振り返ってみることにしよう」

23 「アメリカは…日本政府と日本人科学者の協力を取りつける方策をとった。それは「日米合同調査団」以来のアメリカの巧妙な戦術であった。…アメリカ本国においては「日本のおいて原爆の効果を調査するための軍合同委員会」というのが正式の名称であった。

24 「国立予防衛生研究所…を1947年初めに設立させ…「ABCC-予研共同研究」体制を作り上げた。しかしこの場合も共同研究とは名ばかりで…ブルーズとヘンショウの調査団以降、ABCCの実態は名実ともにアメリカ軍関係者とアメリカ原子力委員会の支配下にあった」

25 ABCCはまず遺伝的影響の調査に集中。「…ABCCの遺伝的影響の調査は、対象とされた被爆者人口が小さいことなどから統計的に有意な結果が見いだせるかどうか非常に疑問視されるものであった。なぜならABCCが追跡調査した妊娠例はおよそ7万例であったが」

26 「100レントゲン以上あびたと推定される父親の数はおよそ1400人、母親の数もおよそ2500人に過ぎず、圧倒的大部分が低い線量の被曝例であったからである。しかしその予想通り影響が見いだされない場合には、放射線による遺伝的影響に対する大衆の不安を」

27 「抑えることができるという政治的な判断が最優先されて、ABCCの遺伝学的調査が行われた…(1致死、突然変異流産、2新生児死亡、3低体重児増加、4異常や奇形の増加、5性比の増加)。そのような少ない人口であったので、調査の結果は…原爆被爆者の間に生まれた」

28 「子供たちに放射線による遺伝的影響があるともないとも言えない、という、案の定とも言えるものであった。しかし、アメリカ原子力委員会や原子障害調査委員会、そしてABCCが事前の予想には一言も触れないで、遺伝的影響はなかったと大々的に宣伝した」p50

29 「放射線による遺伝的影響が基礎となって公衆の被曝線量をどうするかということが、1952年から1953年にかけてのICRPでの議論の最大の対立点であった」p53「アメリカは以上のようにその核戦争政策の展開に対応させてリスク受忍論を主柱とする許容線量体系を

30 「国際的な放射線被曝防護基準に導入することを繰り返し企てた。ICRPもそれに妥協的であったが、放射線の遺伝的影響による人類の将来を危惧し、核兵器に反対する世界的な運動が広がり始めたことを考慮してリスク受忍論の全面的な導入に慎重な姿勢をとり続けざるを」

31 「とり続けざるを得なかった。しかしICRPは、次第にアメリカの許容線量の考えに近づいていった。ICRPは、人類の遺伝的障害を問題にはしたが、核開発のために許容線量被曝が無理強いされること自体には何らの本質的疑問も見いださなかった」p56(4章)

(原子力発電の推進とビキニ死の灰の影響)


32 5章「原子力発電の推進とビキニ死の灰の影響」「しかしマーシャル諸島の住民が実際に受けた放射線の被害は、3月1日当日の直接の放射線にとどまるものではもちろんなかった。もはや放射線は減衰したと説明されて、汚染した島々へと帰ったロンゲラップ(1957年)」

33 「ウトリック(1954年)、ビキニ(1977年)、エニウェトク(1980年)の住民たちおよそ832人とその後の出生者たちは、帰島した島々で残留する放射能で汚染された土壌から放射線をあびただけでなく、そこに生育するヤシの実等の植物や、環礁の魚介類や」

34 「ヤシガニ等の食べ物を通じて身体の内部に放射能を取り込まざるをえなかった。1982年にアメリカのエネルギー省は、ロンゲラップ等の残留放射能による年間の最大被曝線量は0.4レム(4mSv)で、一般人の許容線量以内で影響はないと発表した。しかしその後も

35 「人々の健康と生活、そして社会を破壊し続けることが、ビキニでも示されているのである」p65。以下p66「原子力委員会は、当初は放射能汚染は大したことはなく危険はない、と主張したが、久保山さんの死をはじめとする被害の事実が次々とその主張を打ち消した」。

36 「この事件を契機にして、核兵器と核実験に反対する運動が日本だけでなく世界的に広まった。が、なんといっても大きな変化は、当のアメリカで批判が高まったことであった。それにはわけがあった、前にも述べたように、アメリカは国内での核実験も行うようになったが」

37 (修正版)「それによる放射能汚染の問題が、すでにビキニ事件の前年の1953年からネバダの周辺で問題になりはじめていた。さらに1954年の4月には、核実験による死の灰が、はるか遠くのニューヨーク州トロイ市の水道水を汚染していることが発見された。」

38 「全世界が核戦争で一瞬のうちに死滅するということにならない場合でも、放射能の長期的な影響で人類はじわじわと死に追いやられる。この人類の緩慢な死滅に対する恐怖と不安の世界的広がりが、ビキニ後の世界の人々の放射能問題への対応の出発点となった。」

39 「広島・長崎後との一番の違いは、微量な放射線被曝にも大きな危険性が潜んでいる、と人々の理解が広まったことにある。…当時はごく限られた人のみが知るにすぎなかったトロイでの水道水の放射能汚染の事実が、1955年には一般の人々にも広く知られる問題となった

40 「核兵器に反対する市民と科学者の代表とも言えるポーリング(L.Pauling)が、原子力委員会のリビー(W.F. Libby)と大論争を展開し、それが新聞でも大きく報道されて、死の灰の問題が一層広い人々の不安と関心を集めた」p67低線量被曝問題の始まり

41 「放射線被曝が大きな社会問題になると、学術界があたかも第三者であるかのような顔をして必ず登場する。その歴史上最初の例がアメリカのベアー(BEAR)委員会である。(中略)ロックフェラー財閥はすでに1930年代から放射線の商業的利用に着目しはじめたが」

42 「マンハッタン計画の下で原子力を一大産業部門に育て上げた。(中略)ロックフェラー財団を通じて、生物、医学、公衆衛生の研究・教育の奨励事業に力を注ぎはじめていた。その最中にビキニの死の灰による放射線汚染問題がアメリカの一大社会問題となったのである」。

43 「時の国務長官ダレス(J Dulles)は、ロックフェラー財団の前の理事長である、原子力委員会にも太いパイプが通じていた。同財団は原子力委員会の大物ビューア(John C. Bugher)と密接な関係を保っていた。彼は1952年に原子力委員会の」p69

44 「生物・医学部長となり、ABCCの体制整備で腕をふるい、ビキニ事件のさいには放射能による被害をひたすら隠し、過小評価することに努めた人物であった。かれはまた、1953年以来NCRPの委員にもなっていた」。ビキニ事件のフォールアウト(放射性降下物)問題で

45 ロックフェラー閥が支える「アメリカが主導権を握るには、原子力委員かよりも科学界が表に立つ方がはるかに好都合であった。こうして、第三者機関と称される科学者の組織が、アメリカ原子力委員会、NCRPおよび私的独占体とが陰で連携して生み出されることになる」。

46 「ビューアは、それらをつながく要の人物であった。」「このようにしてロックフェラー財団は、1955年の秋に全米科学アカデミーに対して「原子放射線の生物学的影響に関する委員会(BEAR委員会)」の設立を公式に要請し、その資金に当時としては破格の」

47 「50万ドルを提供した。」「BEAR委員会の報告書は、異例の早さでまとめられ、1956年6月に発表された。……(1)遺伝学上の見地からは、放射線の利用は可能な限り低くすべきであるが、医療、原子力発電、核実験のフォールアウト、核科学実験からの」

48 「放射線被曝を減少させることは、世界におけるアメリカの地位をひどく弱めるかもしれないので、合理的な被曝はやむを得ないと考える。(2)遺伝的影響を倍加させる線量は、5から150レム(50~1500mSv)の間にあると考えられるが…。労働者の許容線量を、」

49 「それまでの週0.3レムすなわち年間15レムから年5レムに引き下げるとともに、公衆に対してもその10分の1の許容線量5mSvを設定した。」アメリカはこの路線でICRPと「原子放射線の影響に関する科学委員会(UNSCEAR)」の説得にかかり成功するP73

50 「ICRPが1958年勧告で掲げた放射線防護の基本的考えは、「リスク-ベネフィット論」であった。原子力開発等によって新たにつけ加えられる放射線被曝のリスクは「原子力の実際上の応用を拡大することから生じると思われる利益を考えると」」p76

51 「「生じると思われる利益を考えると容認され正当化」されてよいと、ICRPは全面的にリスク容認の考えを導入した。これこそ、かつてICRPが反対したアメリカの原子力委員会とNCRPのリスク-ベネフィットの考えに他ならなかった。かつと異なっていたのは」

52 「先進工業国がこぞって原子力開発へと動き出した点であった」「その哲学の下に、許容線量の体系が導入された。許容線量とは「個人および集団全般に許容不能ではないような危険を伴う」線量と定義された」「それらの被曝の制限は、もはや「身体的障害を防止する」もの

53 「ではなかった。」「リスク受忍論を導入することが明らかになったからであろうが、ロックフェラー財団がICRPに財政的援助を申し出た。」「そのICRPの方針転換に大きな影響をおよぼしたものは…1955年の原子力平和利用会議であった。」(以上第5章p81まで


(ウインズケールの重大事件)(原子力委員会派の科学者たちによるガン・白血病問題での攻勢)


54 「1957年には、放射能汚染の問題が新しい時代を迎えたことを世界に示す大事件が発生した。イギリスのウインズケールで、原子力発電の歴史上初めての重大事件が起き、20000キュリーを超えるヨウ素131を含む膨大な量の放射能が環境中にまき散らされた」。

55 「事故の全容は、軍事機密と原発推進策を守るために隠され続けたが、事故から30年も経ってやっと明るみに出された当時の秘密文書によると、放射能汚染は当局の説明よりもはるか深刻なものであった…」こうした状況を受け「アメリカ原子力委員会は」p85

56 「1957年末に核施設で働く労働者の許容線量を従来の3分の1に引き下げ、安全性に気を配っていることを印象づけようとした。もちろん…死の灰への不安と批判は…おさまる気配はみられなかった。1957年から1958年にかけてのこれらの議論において」

57 「新たな重要な論争点になったのがガン・白血病の問題であった。すでにみたようにICRPも国連科学委員会も放射線被曝に安全な線量はないと認めたが、それは遺伝的影響に限ってのことであった。ガン・白血病についても安全線量が存在しないのか」が新たな争点(休憩



  • 健康被害問題で重要な中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、今秋再刊予定)。ブログとツイッターの双方で紹介中。ブログは第11章前半部http://t.co/ZPPu6u0 新期追加しました。ツイッターは以下でまとめて下さってあります。 http://t.co/fZVEqgT

  • 中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、今秋再刊)。ブログとツイッターの双方で紹介中。ブログは第11章(1)(2)(3)の3回分載。(3)では後半で、この本が福島原発災害に苦しむ現代の私たちに何を教えてくれるか、要点のみまとめてみました。http://t.co/ZPPu6u0

  • 地元で水俣病の診療・解明に取り組んで来た高岡滋医師が水俣病と比べながら今回の放射能被ばく問題にふれた論文、 「水俣から福島への教訓―医学・公衆衛生の側面から―」。医療現場サイドから現在の国\福島県等の対策の問題点を整理しており、役立ちます。http://t.co/sbuKgKV



58 「ICRPの主要メンバーは、アメリカ原子力委員会やNCRPと同様に、ガン・白血病の発生には「しきい線量」が存在する、と考えた。しかしながら…ガン・白血病においても、しきい線量が存在するという確たる証拠があったわけではなかった。」p88(以下8/6の抜粋

59 「このためICRPは、しきい線量の存在を強く主張することができなかった。/仕方がないのでICRP勧告には、「もしも線量があるしきい値よりも低ければ白血病は生じないと仮定してよかろう」が、「最もひかえめなやり方」として発生率が線量に」

60 「比例するであろう、と仮定するというややこしい表現が盛り込まれたのだ。」「低線量被曝は安全、という宣伝をことあるごとに行っていたアメリカ原子力委員会などの原子力推進派には、曖昧な表現といえどもそれらの言及は少なからざる痛手であった。」

61 「1958年後半あたりから、原子力委員会派の科学者たちはガン・白血病の問題で一斉に攻勢に出た。彼らはガン・白血病などの身体的影響にはしきい線量が存在する、としきりに宣伝した。…その根拠とされたのは、長崎被爆者の白血病に関するABCCデータ等であった」。

(アメリカ軍合同調査委員会、ABCCによる調査、過小評価の構造)


62 「ABCCが広島・長崎で行ったガン・白血病の調査研究の内容に触れる前に、彼らがその研究の前提とした事柄についてまず検討しておかなければならない。なぜなら彼らの行ったガン・白血病を含む放射線の晩発的影響の研究は、ABCCの調査研究に先立つ」

63 「アメリカ軍合同調査委員会による放射線急性障害の調査研究の、基本的内容を受け継ぐものであったからである。」その主な結論「(1)放射線急性死には「しきい線量」が存在し、その値は100レム(1sV)」で、それ以下の線量をあびても死ぬことはない。」

64 「(2)放射線障害にも「しきい線量」が存在し、その値は25レムで、25レム以下の被曝なら人体にはなんらの影響も生じない。この結論は、ABCCはもちろんアメリカ原子力委員会や国防省などにも引き継がれ、放射線の影響を定量的に評価するさいの最も重要な内容と」

65 「みなされ続けてきた。しかし、「急性死100レム」「急性障害25レム」のしきい線量の値は全く人為的に作り上げられた結論と言えるもので、それぞれのしきい線量の値は高めに評価されすぎたものである。」「まず、急性死しきい線量100レムという結論は、」p91

66 「米軍合同調査委員会が1945年10月初めまでの急性死を対象として引きだしたもので、1945年10月から12月まで続いた急性死がそこでは除外されていた。第2に、被爆者が示した急性障害には脱毛、皮膚出血症(紫斑)、口内炎、歯茎からの出血、下痢、食欲不振」

67 「悪心、嘔吐、倦怠感、発熱、出血等があった。それらの症状は次頁の図に示すように爆心地か4ないし5キロ以遠で被曝した人々にも見られた。しかし、アメリカ軍合同調査委員会は、それらの急性障害のうち、脱毛、紫斑、口内炎のみを、放射線急性障害と恣意的に定義」

68 「彼らがそれら3つの症状のみを放射線急性障害と定義したのは、そのいずれの症状も爆心地から2km以内では高い割合で発生したが、2kmを過ぎたあたりから急減し、それ以遠ではほとんど見られないという調査結果が得られたからにほかならない」。

69 「ABCCはガン・白血病をはじめ放射線の晩発的影響の調査研究を「放射線被爆者」を対象として行ったが、彼らの言う放射線被爆者とは「有意な放射線量をあびた被爆者」を意味していた。…2km以遠の被爆者を実質上放射線の影響を受けなかった「非被爆者」として扱った

70 「彼らはまた、死の灰を含んだ黒い雨が降った地域の人々、死の灰を含んだ黒い雨が降った地域の人々、早期に入市し残留放射能からの放射線をあびた人々などの放射線被爆者もまた「非被爆者」として扱った」「このようなABCCの調査研究は、放射線の影響を過小評価する」

71 「過小評価することにつながらざるをえない。なぜなら、第1に、ABCCは「有意な線量」をあびた被爆者と比較対照するべきものとして、同じような社会的条件にあったものとして、2キロ以遠で被爆した低線量被爆者を選んだ。このように、高線量被爆者を、」p93

72 「低線量被爆者を比較の基準として放射線の影響を見出そうとする方法を採用すれば、その影響の過小評価につながるのが当然である。同時にこのような方法の採用は低線量被爆者の間に現れていた放射線の影響を切り捨てることにつながらざるを得ない」。

73 「同じことが「非被爆者」を対象とする調査研究にも言える。ABCCは低線量の被爆者の間では白血病の発生率は有意なものではなく、「非被爆者」や日本全国平均の発生率とほぼ同一水準にあると主張した」(中略)「しかしその評価では、もともと広島市の白血病死亡率が」

74 「広島市の白血病死亡率が低かったことが見落とされている。すなわち…1930~34年の5年間の平均値をもとにすると、広島市の白血病死亡率はもともと全国平均の約半分の低さであったことが分かる。…1960年代には全国平均の約半分…戦前とほぼ同じ水準に戻った」

75 「1970年代に入ると、広島の非被爆者白血病死亡率が急増した。その原因は何か。広島市は、政令指定都市をめざして1971年以後周辺地域を合併した。その中には黒い雨が降った地域も含まれていた」。中略「この広島市の非被爆者白血病の例が示すように」

76 「「非被爆者」と言えどもその中には早期入市者や黒い雨で汚染された人など、種々の形で放射線をあびた人々が含まれていることを見落とすわけにはいかないのである。」以上(71-76)、ABCC調査が放射線の影響の過小評価になっている理由の「第1」。

77 「第2に調査対象時期を1950年10月1日以後としたことから、つぎのような問題が生まれた。第1にアメリカ軍合同調査委員会とABCCは放射線による急性死は原爆投下後ほぼ40日ほどで終息したと評価したが、それ以後もおよそ3ヶ月間引き続いた急性死が」

78 「そこでは切り捨てられている。…第2に急性死と急性障害の時期を生き抜いたとしても…骨髄中の幹細胞の減少によるリンパ球、白血球の減少は避けられない。…それらの減少は免疫機能の低下をもたらし、その結果感染症等による死亡の増加となって現れたにちがいない」。

79 「また、骨髄中の幹細胞に残された障害による突然変異に起因して、晩発的影響である白血病、再生不良性貧血や血液・造血系の疾患が発生する。このように、感染症等にかかって死亡する被爆者が1950年以前には多数存在したと考えられるが、ABCCの調査にはそれらの」

80 「死亡は全く考慮に入れられていないのである。言い換えれば、原爆投下後の高い死亡率が避けられなかった時期を生き延びた、相対的に健康な被爆者を対象として、ABCCがガン・白血病等放射線による晩発的影響関係調査を行ってきたのである」(77~80理由の「第2」

81 「第3にABCCが広島・長崎両市に在住した被爆者に調査対象を限定したことは、次のような過小評価につながっていると考えられる。すなわち、爆心地近くで高線量の被爆をしたが爆心地の離隔の建物の破壊が最もひどかったために長く広島市に戻りことができず」p95

82 「市外に移り住んだ高線量被爆者を調査対象から除外したという点である。さらにまた1950年当時広島、長崎両市に住んでいた被爆者には(その後―島薗注)就職等により他都市に移住するなどしたために、若い年齢層が非常に少なかったが、このように若年齢層が調査から」

83 「除外されたこともまた放射線の影響の過小評価につながった。すなわち若い年齢で被爆した者ほど放射線の影響は顕著に現れる。現に被爆40数年たってガン発生が増加しているのは原爆投下時に若かった被爆者の人たちの間に見られる…現象である」(81~83理由の「第3

84 「このようにして過小評価されたABCCのデータに基づいて、ガン・白血病のリスクを1万人・レムあたり1人(100mSvで0.1%―島薗注)という値を引き出した。…正しいリスクを求めるには、上で述べたような数々の過小評価の原因となっている事柄を改めて」

85 「考慮に入れなければならないであろう。後に述べるように、被曝線量を見直し、最近のガン・白血病の高い発生を考慮に入れると、ガン・白血病のリスクは1000人・レムあたり1人の死亡(9,10章。89年のBEIR-5では1万人・レムあたり8人――島薗注)」

86 「という結論導かれるが、さらにここで述べたような事柄を評価に入れるなら、実際のリスクはこれまで考えられてきたよりもはるかに危険なものという結論が引き出されるのである」。(以上、54-86は第6章p83~99のまとめ。原爆の影響評価として重要でした)。



  • 中川保雄『放射線被曝の歴史』。ブログhttp://t.co/ZPPu6u0 とツイッターで紹介してきましたが 、本日8/6までで基本的な内容を示したのでここまで。7~10章の紹介は省略。中川説すべてを肯定するかどうかは別として、重要な問題提起に満ちた渾身の力作であることは確か。

  • 中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、今秋再刊)。残る諸章の題のみ紹介。7章「核実験反対運動の高まりとリスク-ベネフィット論」、8章「反原発運動の高まりと経済性優先のリスク論の“進化”」、9章「広島・長崎の原爆線量見直しの秘密」、10章「チェルノブイリ事故とICRP勧告」



島薗進「宗教学とその周辺」

◆日本学術会議会長は放射線防護について何を説明したのか?
http://shimazono.spinavi.net/?p=233
◆中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(1)
http://shimazono.spinavi.net/?p=236
◆中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(2)
http://shimazono.spinavi.net/?p=238
◆中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(3)
http://shimazono.spinavi.net/?p=240


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