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第五節 満州に於ける朝鮮人問題

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5、満州に於ける朝鮮人問題


 日本の法律に依り日本の国籍を有する八十万朝鮮人の満州内居住は日支間の諸政策の衝突の先鋭化を促進せり。右自体の結果諸種の紛争惹起せられ為に朝鮮人自身犠牲となり厄災と惨禍とを蒙りたり(本報告付属書第九章参照)。

 朝鮮人が売買又は租借に依り満州において土地を取得するに対し支那の反対ある処、日本側は朝鮮人も等しく日本臣民として1915年の条約並交換公文によりて獲得せる商租権に均霑すべきものなりと主張して之に反対せり。而して日本人は朝鮮人が帰化によりて支那臣民たることを否認せるが為茲に亦二重国籍の問題発生せり。朝鮮人の関し及保護の為日本領事館警察の使用は支那側の忿満を招き屡日支警察の衝突を惹起せり。殊に朝鮮の北境に接する間島地方の如く朝鮮人の居住者四十万人に及び同地支那人をして1927年に至るに及満州に於ける朝鮮人の自由居住を禁止するの政策を採るに至らしめたり。右政策は日本人側より許すべからざる弾圧の一例として目せられたり。

 満州に於ける朝鮮人の地位及権利は主として日支間に於ける左記3協定に依りて決定せらる。即ち1919年9月4日の間島協約、1915年5月25日の南満州及東部内蒙古に関する条約及交換公文並びに1925年7月8日の所謂「三矢協定」之なり。而して朝鮮人の場合に起こり来る二重国籍に関する機微なる問題に関しては日支間に何等の協定なし。1927年に至るに及び支那官憲は一般に事実朝鮮人は満州に対する「日本の侵略並びに併合の前衛」なりと信ずるに至れり。斯かる見解よりすれば日本が朝鮮人の帰化して支那臣民たることを認めず殊に日本の領事館警察が常に朝鮮人に対する監視を怠らざる以上、朝鮮人の数も恐らく四十万人を超過すべく而して彼等は各処に広く分布し特に満州の東半部に拓れり。彼等は吉林省中朝鮮の北境に近き地方に多く居住し。又東支鉄道の東部線地方、松花江下流地方及朝鮮の東北部より烏蘇里、黒龍両江の流域地方に及ぶ露支国境方面に迄浸潤し、彼等の居住並びに定住は隣接ソ連邦の領域内迄溢れ出たり。加之其の祖先が数代以前に移住して満州民族となり終せる朝鮮人の群れ夥多ある一方、朝鮮人中には日本の覊絆を脱し帰化支那臣民となれるものがある為、朝鮮人中事実間島以外の満州各地において所有権又は租借権により農地を取得せるもの多数に上れり。然れども彼等の大部分は支那人地主との間に収穫分配の基礎の上に結ばれたる租借契約に依り、単なる小作人として米作に従事するに過ぎず。而してその契約は概ね一年乃至三年の期限に限られ、且其の更新も地主の自由に委せらるるを常とす。

 支那側は朝鮮人が間島地方以外の満州各地において土地を買収し、又は租借する権利を否認す。何となれば本件に関する日支間の唯一の協定は1909年の間島協約あるのみにして右は其の適用を此の地方に局限し居ればなり。故に唯支那臣民たる朝鮮人のみか満州内地において土地を売買し又は居住並びに土地租借の権利を有す。支那政府は朝鮮人の満州に於ける土地の自由租借の権利に関する要求を否認し間島地方に限り朝鮮人に対し土地取得の特殊なる権利を伴う居住権を与え之等朝鮮人が支那の法権に服すべき旨を取極めたる1909年の間島協約は、夫自身「当時日支間において懸案となり居たる地方的諸問題を互譲によりて解決せんとせる」独立せる取極めなりしなりと称せり。即ち間島協約は支那が朝鮮人に農地を所有すべき特殊権利を与える代償として、日本が之等朝鮮人に対する法権を放棄すべき筋合いのものたりしなりと謂う。

 斯て日支両国は1910年日本が朝鮮を併合したる後も、同協約を遵守し来りし処、支那側においては1915年の条約並びに交換公文は、右間島協約の規定に変更を加えること能わず。何となれば特に新条約はその一条項中において「満州に関する日支現行各条約は本条約に別に規定するものを除くの他一切従前の通実行すべし」と規定すればなりと謂う。而して間島協約に関し、何等の例外規定は設けられざりき。尚支那政府は1915年の条約並びに交換公文は間島地方には適用せられず、何となれば右地方は地理的に云えば南満州―由来本語は地理的並びに政治的に誤用せられたり一部には属せざればなりと謂う。

 右支那側の見解に対しては1915年以来は絶えず論争し来れり。彼等は曰く、1910年朝鮮併合に依り朝鮮人は日本臣民となりたるを以て日本心民に対し南満州に於ける居住権並びに東部内蒙古における合弁農業企業参加を許与したる南満州並びに東部内蒙古に関する1915年の条約並びに交換公文の規定は等しく朝鮮人に対しても適用せらるべきものなりと。即ち日本政府の主張に依れば、間島協約の条項中1915年の協約の条項と矛盾するものは後者よりて廃棄せらるべく(間島において朝鮮人の獲得せる権利は実に日本が右地方を支那の一地方なりと承認せる結果に基づくものなるを以て)支那側が間島協約を目して全然独立なる取極めなりと主張するは全然誤れるものと謂うべし。日本側においては若し満州に於ける朝鮮人に対し他の日本臣民の許与せられたると同様の権利及特権を要求せざらんか、右は朝鮮人に対し差別を設くることとなるべしと主張す。

 日本側が満州に於ける朝鮮人の土地獲得を奨励せる理由の一つは日本のために米穀の輸出を得んとする願望による処右願望は今迄の処一部分達成せられたるのみなり。何となれば恐らく1930年産出の700万ブッシェル以上の米の中約半分が地方的に消費せられ、残部の輸出は制限せられたればればなり。日本側は朝鮮人小作人は支那人地主の為に荒蕪地を開墾して利益あるものと為したる後不法に追放せられたりと主張す。

 一方支那側は可耕低地が米を産出することを等しく希望するも彼等は土地其のものが日本人の手に入ることを防がんが為に概ね朝鮮人を小作人又は労働者として雇用せり茲に於て多数の朝鮮人は土地を所有せんが為に、帰化支那臣民と為りたるが、其の中の或者は地権を獲得すると共に、之を日本人の土地抵当会社に譲渡せり。右は即ち日本人自身の内に於ても日本政府が朝鮮人の帰化して、支那臣民たるを認むべきや否やに関し議論の分かれたる一理由を暗示し居るものと云うべし。

 1914年制定の支那国籍法によれば外国人にして支那に帰化し得べきものは其の本国法によりて他国に帰化することを認められ居る者に限れり。然るに1929年2月5日の修正支那国籍法は支那の国籍を取得するが為には、外国人が其の原国籍を喪失することを要する旨の規定を包含す。従って朝鮮人は日本の法律の下においては其の帰化を認めざる旨の日本側主張に関係なく支那に帰化せり。日本の国籍法は未だ嘗て朝鮮人がその日本国籍を喪失することを認めず。而して1924年の改正国籍法は「自己の死亡によりて外国の国籍を取得したる者は日本の国籍を失う」との趣旨の条項を有すれども未だ右一般的法律を朝鮮に適用すべき旨の勅令の発布を見ず。然るにも拘らず満州に於ける朝鮮人の多数は支那に帰化し、或地方殊に比較的日本の領事官憲の手の及ばざる地方に在りては其の数全朝鮮人人口の5%乃至20%に達せり。又偶々満州の国境を越えソ連邦の領域に移住したるものにして同国の市民と成りたるものもあり。


 右朝鮮人の二重国籍問題は支那の国民政府及満州の地方官憲をして挙げて朝鮮人の無差別的帰化を喜ばず、彼らが假に支那国籍を取得したる後将来農地獲得に関する日本の政策の手先となるべきことを恐れしむるに至れり。1930年9月、吉林省政府の公布せる同省内の土地売買に関する規則中には「帰化朝鮮人が土地を買収せんとするときは右朝鮮人は永久に帰化市民として居住する手段として右土地を買収せんと欲するものなりや、将又日本人の為に買収せんと欲するものなりやを審査するを要す」との規定あり。然れども地方官吏は時に上級官庁の命令を励行することあるも屡省政府及南京内政部の認可を擁する正式証明書の代わりに、仮帰化証を発給する等其の態度一貫せざるものあり。之等地方官吏中特に日本領事館より遠隔の地にある者は朝鮮人よりの出願ありし場合は、直ちに斯の種証明書の発給を承諾せることしばしばなり。而して彼等は時に実際朝鮮人に帰化を強制し、或は之を国外に追放せるが、右は日本側の政策及帰化手数料より得る収入の影響を受けたるものなり。更に支那人側の主張する所によれば日本人中には之を傀儡地主として使用し又は之等帰化朝鮮人よりの譲渡により土地を獲得せんが為にしばしば自ら通謀して朝鮮人帰化の企みを為すものある由なり。然れども概括的に言えば、日本官憲は朝鮮人の帰化を排し出来得る限り其の法権を彼らに及ぼしたり。

 日本が治外法権を有する結果としての満州に於ける領事館警察維持の権利の主張はこれに朝鮮人の関連する場合絶えざる紛争の原因を形成せり。朝鮮人が彼等の為にする表立ちたる日本の干渉を欲すると否とに拘らず、日本の領事館警察は特に間島地方においては啻に保護的任務に当りたるのみならず、朝鮮人居宅の捜索及差押を行うの権利を欲しいままに支那側、右は独立運動者又は共産若は反日運動に関係ありとの嫌疑ある朝鮮人に対し特に甚だしかりき。又支那警察は支那の国法を実施し、治安を維持し又は「不逞」鮮人の活動を抑圧せんと努るにあたり、しばしば日本警察と衝突せり。東部奉天省において支那側が「不逞鮮人団」を弾圧し、且日本側の要求に応じ「不逞鮮人」を引渡すべきことを協定せる1925年所謂「三矢協定」に規定せる如く、日支両国の警察は幾多の場合において協力の実を挙げたるも、実情は寔(マコト)に不断の紛争軋轢に他ならず、斯くの如き形勢が紛擾を惹起すべきは当然のことなりき。

 朝鮮人問題並びに之に基づく間島地方に関する日支関係は特に複雑且重大なる性質を帯びるに至れり。間島(日本語にては「カントウ」朝鮮語にては「カンドウ」と呼ばる)は遼寧奉天省の延吉、和龍、汪清の三県より成り、且慣習上は日本政府の態度により明らかなるが如く、琿春県をも包含し、之等四県は円們江を隔てて朝鮮の東北隅に隣接す。

 日本側は間島地方に対する鮮人の伝統的態度を叙説し、1909年の間島協約により該地方が支那又は朝鮮の孰れに帰属すべきやの問題が、永久に終結を告げたりと認むることを欲せず。蓋し右は、同地方に於ける朝鮮人住民数は圧倒的多数を占め、耕作地の過半は朝鮮人の耕作する所に係り、「同地方は事実上一鮮人地域と看做し得る程度に朝鮮人は牢固たる地歩を樹立したり」と云うに在り。日本政府は間島において他の満州各地に比し一層朝鮮人に対し法権並びに監視を励行せんことを主張し四百名以上の領事館警察官を多年同地に配置したり。又日本領事館は朝鮮総督府の任命せる日本人官吏と協力し同地方において行政的性質を有する広汎なる権力を行使し、其の職能は日本人学校、病院及政府の補助する朝鮮人に対する金融機関の維持を包含せり。該地方は米田を耕作する朝鮮移民の自然的捌口と看做さるる一方、永く朝鮮独立主義者共産団体及其の他不逞反日徒輩避難の地なるを以て政治上においても特殊の重要性を有す。而して又間島は1920年琿春における鮮人の反日暴動により明らかにせられたる如く朝鮮における独立運動勃発後日本が朝鮮統治の全般的問題と密接なる政治的諸問題を有したる地方なり。

 この地域の軍事的重要性は即円們江の下流が日本、支那及ソ連邦領土の境界を為すものなるにより明白なり。

 間島協約は「従来の通り円們江北の農耕地における朝鮮人の居住」は支那国より許容せらるべき旨、右地域に居住する朝鮮人は以後支那国地方官憲の管轄裁判に服すべき」旨、右朝鮮民と支那人と同等の待遇を許与せらるべき旨、及右朝鮮人に関する民事及刑事一切の事件は「支那国官憲に依り審問及判決せらる」べしと雖も一命の日本国領事官は法廷に出席するを許さるべく特に人命に関する重要事件において然り。而して特別の支那司法手続きの下に「支那国官憲に対し再審を要求する」の権利を有すべき旨を規定せり。

 然れども日本側は司法問題に関する限り1915年の日支条約及各処は間島協約を超えて適用あるものにして1915年以後は朝鮮人は日本国臣民として日支諸条約の下に治外法権に関する一切の権利及特権を認められるべきものとなす立場を取来れり。此の議論は支那国政府に依り認められたることなく、支那側は若し朝鮮人の農耕地居住権に関し間島協約の適用あるものとせば、朝鮮人は支那の管轄裁判に服すべしと規定する同条約の諸条項も亦適用あるものなる旨を固執せり。日本側は朝鮮人の農耕地居住を認むる条項は間島において右土地を購入及商租するの権利を意味するものと解し、支那側は右解釈に反対して、同条項は字句通りに解せらるべきものにして只帰化に依り支那国臣民と為れる朝鮮人のみ同地において土地購入権を有すと為す立場をとり居れり。

 故に現状は変態を呈す。何となれば間島には支那に帰化せざる朝鮮人にして支那国地方官憲の黙認に依り土地所有権を獲得せる者あり。尤も朝鮮人自身は通例間島において土地購入権を得る為には支那国籍を取得すること必要条件なりと認め居れり。日本側当局の統計に依れば間島(琿春を含む)の可耕地の半以上は朝鮮人の「所有」と為り居る処、同時に同統計は同地の朝鮮人の15%強が帰化して支那国臣民となり居れることを認め居れり。右土地「所有」者か之等帰化朝鮮人なりや否やは茲に確言することを得ず。斯かる状態は自然幾多の不規則及不断の紛争を惹起し、日支警察官憲間の公然たる衝突となりたること一再ならず。

 日本側は1927年末頃より一般的排日運動に伴い、支那国官憲の煽動に依り満州に於て朝鮮人迫害運動起これることを主張し又此の圧迫は満州諸省が南京国民政府に忠誠を宣言せる後更に熾烈を加えたることを陳へ居れり。或は朝鮮人を強制して支那に帰化せしめ、或は米田より彼らを駆逐し、或は彼らに移住を強制し、或は彼らに不当の納金及法外なる租税を課し、或は彼らをして家屋及土地の商租または貸借契約を結ぶことを禁じ、或は彼らに幾多の暴力を加えるなど、朝鮮人に対する支那の徹底的圧迫政策の証拠として満州に於ける中央及地方の支那官憲の発したる多数の命令の翻訳委員会に提供せられなり。日本の主張に依れば右惨虐なる運動は特に「親日」朝鮮人に対して行われ、日本政府より補助金を受ける朝鮮人居留民会は迫害の的となり、朝鮮人により又は朝鮮人の為に設立せられたる支那学校に非る学校は閉鎖せられ、「不逞鮮人」は朝鮮人農民より脅迫に依り金銭を徴収し又之に暴行加害を為すことを許され、又朝鮮人は支那服を着用することを強制せらるると共に其の悲惨する状態に対し日本の保護又は補助に依頼する一切の権利を放棄するのやむなかりし趣なり。

 満州官憲が帰化せざる朝鮮人に対し差別的命令を発せる事実は、支那側之を否定することなし。此種命令の数及性質特に1927年以後のものを見るに満州の支那官憲は一般に日本の司法管轄を伴う限り朝鮮人の侵入は一つの脅威にして反対すべきものと認めたること明白なり。

 日本の主張の重大なるに鑑み、又満州に於ける朝鮮人の哀れむべき状態に鑑み、委員会は本問題に対し特別の注意を払えり。而して本委員会は必ずしも右非難の全部が事実を適当に叙述せるものとは認めず又朝鮮人に適用せられたる右抑圧手段の或ものか全然不正なりしものと断ずることなしと雖も、只満州の或地方における朝鮮人に対する支那の行動に関する右一般的記述を確認するものなり。委員会は其の満州滞在中朝鮮人団体の陳情委員と称する多数の代表者を引見せり。


 満州に於ける此の大なる少数民族なる朝鮮人の存在が土地商租、司法管轄権及警察、並びに1931年9月事件の序幕を為せる経済的抗争に関する日支紛争を複雑ならしめたることは明白なり。大部分の朝鮮人の欲する所は只自由は其の生計を稼がすとするに在るも、其の中には支那人又は日本人より又は其の両者より「不逞鮮人」と呼ばるる団体ありて、右は日本の統治より朝鮮を独立せしめんと主張する者及其の同志、共産主義者、職業的犯罪人密輸入者及売薬業者を含む職業的犯罪人、並びに支那人匪賊と結託して其の同胞より恐喝取財を行い又は金銭を強制する者を包含し居れり。朝鮮人農民自身も其の無智、無用心により又彼らより更に狡猾なる家主又は地主より借財せる為、しばしば自ら圧迫を招来せり。

 朝鮮人が支那側見解よりすれば日本の満州に対する一般政策の不可避的結果たる争論の渦中に不識々々巻き込まれることは別とし、支那側は所謂朝鮮人「圧迫」なるものの多くは之を圧迫と称すること正当らず、又朝鮮人に対し支那の執れる方法の或ものは日本国官憲より現に是認せられ又は黙過せられたりと述べ居れり。支那側は朝鮮人の大部分は極めて反日的なること、日本が彼等の故国を併合せることに終始反対なること及朝鮮人移民は決して其の故国を去るを欲せるものに非ず政治的及経済的困難に基づく苦痛の為に故国を去れるに他ならずして一般に満州に於て日本の監視より免るるを欲するものなることを忘るべからずと主張し居れり。

 支那人は朝鮮人に対し或程度の同情を示すも、1925年6-7月の「三矢協定」の存在に付注意を喚起し、之を以て日本国民が「不良分子」と目し又朝鮮における日本の地位に対する脅威と目する朝鮮人の行動は支那側官憲においても進んで之を抑圧したることの証拠となし、又日本側において支那側の朝鮮人「圧迫」の実例として挙げんとするが如き右記行為の或ものに対し日本自身公式の承認を與えたる証拠なりと為す。外間には未だ広く知悉せらるるに至らざる本協定は朝鮮総督府警務局長と支那奉天省警察長官との間に商議せられたるものなり。同協定は東部奉天における「朝鮮人結社」(反日的のものと推定せらる)の禁遏に関する日支警察官の協力を目的とするものにして「支那官憲は朝鮮官憲の指名せる朝鮮人結社の首領を直ちに逮捕し之を引渡すべき」こと、及「不良分子」たる朝鮮人は支那警察官之を逮捕し裁判所及処罰の為め日本警察官に引渡すべきことを規定す。故に支那側は「朝鮮人に待遇に関し或種の禁遏的手段を執れるは主として此の協定に実際的効果を与えるを目的とす。若し右手段が支那国官憲の朝鮮人圧迫を示す証拠として考えらるるにおいてはかかる圧迫手段は假令事実なりとするも是れ主地して日本国の利益の為に行われたるものなり」と主張す。更に支那側は「自国農民との激烈なる経済競争に鑑み、支那官憲が其の同胞の利益を保護する手段を講ずる固有の権利を執行すべきは実に当然なり」と主張す。


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