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ザンゲ屋も出現

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pipopipo555jp

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昭和史の謎を追う(上)
第8章 論争史から見た南京虐殺事件

ザンゲ屋も出現


南京事件をめぐる番外劇は、まだまだ種切れになったとは申せない状況である。最近も板倉由明が「南京虐殺のザンケ屋曾根一夫の正体」と題した論稿を『諸君!』の一九八八年十二月号に発表した。リードには、真に迫つた加害の告白に、学者までが"実体験"と信じた。だが調べてみると、これが巧みに辻褄を合わせた創作なのだ」とある。

ザンゲ屋とは耳慣れない表現だ。たしかにこの分類にあてはまる人がいないわけではない。一九八七年夏、筆者がワシントンに滞在中。ニューヨーク市立大学で開催された米系華僑組織のシンポジウムで同宿した元兵士は、どうやらこのたぐいの人物と見受けた。
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彼の"犯行現場"は南京ではない。会場で虐殺、強姦などの体験を涙ながらに告白するが、ホテルでは似つかぬ乱暴な言動をする男で、話のようすから、日本各地を講演してまわるプロとわかった。

待遇も別格扱いで、現地の華字新聞ではこの人だけが大きく紹介され、筆者をふくめ日本から招かれた研究家はその他大勢で扱われた。約束の航空運賃は不払いというめにあい、あれこれ不愉快になった筆者は発表をキャンセルしてワシントンヘ引き返した経験がある。

曾根の行状はよく知らないが、三冊の著書のうち第一作の『私記南京虐殺』(彩流社、一九八四)は、略奪、強姦、捕虜の処刑などの悪行を他人事でなく自身の体験、それも実名、写真入りで告白した最初の作品として、評判になった。

たとえぱ分隊の兵と徴発先で若い中国女性を輪姦したとき、ためらって見ているうち、事をすませた若い兵から「分サン(分隊長のこと)の男はよう立たんのか」と軽蔑され、にわかに反発心がおきて最初の強姦をやってのけた、というたぐいの迫力ある体験談がいくつも並んでいる。

筆者はそうした個々の行状よりも、非行に走る兵士たちの集団心理を分析した部分に関心を持ち、拙著で「類書にない特色を持つ」と評価した。リードで「学者までが"実体験"と信じた」というのは、筆者を指しているが、板倉が「創作」と決めつけるのは少々乱暴にすぎよう。曾根はこうした諸悪行の正確な日時や場所を記しているわけではないのに、板倉が所属部隊の戦闘日誌などから初年兵は多忙でそんなことをするひまはなかったはずだ式に論じているからだ。

考えてみると、真偽のほどはともかく、本人が「悪いことをしました」と告白しているのに、当時まだ生れていず、中国の土を踏んだこともない「南京事件研究家」が、事件から五十年後に「悪いことはしていなかったはずだ」とたたく風景ほど珍妙なものは他にあるまい。

当の被害者の中国はかつて田中正明の著書を「人だましの本」と呼んだことはあるが、叩きあいは日本人同土に任せ、高みの見物をきめこんでいる。

くり返すようになるが、正確な虐殺数は定義の問題もからんで「神のみぞ知る」であろう。

奥野元国土庁長官は「中国政府にかけあって紀念館のかかげる三十万の数字を訂正させろ」と迫って外務省を困惑させたが、代る数字の持ちあわせがあったのだろう
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か。へたな数字を持ち出して根拠をただされれぱ恥をかくだけで、終戦直後の泥ナワとは言え、生きのこり被害者の証言を積みあげた三十万に対抗できる数字をわが方から出すのは不可能と思う。

しかし、学術レベルにおける詰めや論議は別である。筆考が算出した四万は、かなり余裕を持たせたとりあえずの概算であり、新たな証拠が出現すれば、多い方へ向って修正されるのは当然である。事件から五十余年、そろそろ不毛の論争にケリをつけ、真の歴史研究の対象へ移行させてよいテーマではあるまいか。
(『正論』一九八九年二月号)

〈追記〉
『私記南京虐殺』の著者曽根一夫氏は第三師団歩兵第十八連隊または第三十四連隊の分隊長・軍曹と称してきたが、板倉由明氏の調査により、野砲兵第三連隊所属の馭者・初年兵であることが判明した。したがって曽根著のなかで分隊長としての行動の部分は虚偽ということになる。
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