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直二試斬ヲ為サシム

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昭和史の謎を追う(上)
第8章 論争史から見た南京虐殺事件


直二試斬ヲ為サシム


3 借行社戦史をめぐる騒動

借行社(会長竹田恒徳)は、陸軍士官学校卒業生(および遺族)の親睦団体で、卒業生以外の有志をふくめ会員一万八千余人を数え、機関誌として月刊の『借行』を印刷配布している。会員は平均するとやや右寄りの傾向はあるが、藤原彰のような左派もメンバーに入っていて、不偏不党と中立を建前にしている。

その借行社へ、南京戦史の企画が持ちこまれたのは一九八三年秋で、田中正明が畝本正已を説いて、編集部に協力委員会を作り、畝本の名による「証言による南京戦史Lシリーズが翌年四月号からスタートした。

借行社内には、南京事件のような政治的テーマをとりあげることに異論もあったようだが、結局は社の事業として取り組むことになり、『借行』の八三年十月号に小林理事長の名前で「南京問題について緊急お願い」を掲示し、会員に協力をよびかけた。

とくに南京戦に参加経験のある会員に期待して「『12月○日○時頃、○○部隊に所属して○○付近にいたが、そのようなことは<b>何も見なかった、聞いたこともない</b>』ということなどを寄せて欲しい」と要望したが、傍点の部分はわざわざゴチック活字を使って強調している。シロの証言が欲しい、という期待感が丸見えといわれても、しかたあるまい。

ところが、畝本連載が十一回つづく過程で、シロばかりでなく灰色ないしクロのデータも集まってきた。またこの連載に刺激されてか、マスコミが次々にクロの資料や証言を掘りおこす事態が出現した。なかでも八四年末、『歴史と人物』が掲載した「南京攻略戦・中島第十六師団長日記」は大きな衝撃を与える。

中島はかねがねサディズム的性癖のある将軍、南京虐殺の中心人物と噂されていたが、初公開のこの日記には
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「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とか「此七八千人(注、投降捕虜)之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ」とか「時恰(アタカ)モ捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム」など、噂を裏づけるような記述が散在していた。

一方、『借行』編集部は、松井司令官の専属副官だった角良晴少佐(のち大佐)が六回にわたりマックロを主張する投書を送ってきたことなどで、方針転換をはかり、連載最終回の八五年三月号に編集部を代表して加登川幸太郎が執筆した総括的考察を掲載した。

角は九十歳近い老人でもあり(まもなく死去)、不正確な記憶が混入しているとはいえ、松井大将が捕虜の釈放を望んだのに、部下の長勇参謀が「ヤッチマエ」と勝手に命令したこと、松井大将と同乗した車が江岸の道に累々と横たわる死体の上を約二キロ走ったことなどを記していた。

全体のトーンから南京虐殺を確認した加登川は「この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と書いた。

『歴史評論』(八六年四月号)で、この経過を紹介した君島和彦らは「極めて高度な政治的判断」と皮肉ったが、宮崎繁樹明治大学教授(借行社会員)は朝日新聞の論壇(八五年三月二十日付)で、旧軍人が日本軍の虐殺を認めて詫びたのは、真実追究の良識があるもの、として評価した。

このように外部では加登川論文は好評だったが、会の内部から強烈な反発が起きた。とくに松井日記の改ざん事件を契機に遠ざけられた田中が、老将軍や地方借行会幹部に「皇軍の名誉を傷つける本を借行社が出してもよいのか」という主旨の手紙をばらまき訴えた作戦がきいて、連載を単行本化する作業は頓挫した。やっと八八年十一月の総会で了解がとれ、八九年中には刊行できる見通しがつき、二年越しのゴタゴタは収拾に向っているようである。

(注)借行社編『南京戦史』は一九八九年十一月に刊行され、資料集として評価されている。

4 朝日新聞と都城連隊会の苦い対決

南京事件をめぐるリング外の決闘で、いちばん奇怪であと味が悪いのはこの事件であろう。
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発端は一九八四年八月五日の朝日新聞報道である。見出しは「南京虐殺 現場の心情 宮崎で発見 元従軍兵土の日記」と控えめだったせいか、一般読者からはあまり注意されなかったが、宮崎県下とくに都城二三連隊戦友会の周辺には衝撃を与えたようだ。

記事では参戦した元上等兵(当時二十三歳)の遺族が提供した当用日記(一三七頁写真)から「近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり」(十二月十五日)、「今日もまた罪のない二ーヤを突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが……」など目をそむけるようなシーンが紹介されていた。


また一二人の生首がころがった写真など三枚も提供され、撮影場所は記されていないが、元兵士は生前家族に「南京虐殺の際の写真」と語り思い悩んでいた、とのエピソードが添えられていた。連隊会はその二週間後に八十六歳の坂元元第二大隊長が先頭に立って、日記の持主を当るため現地調査に向かった。

坂元はその前々年に『借行』へ「南京では世間に宣伝されているような大虐殺などなかった」と投稿した人だけに、見逃せなかったのだろう。

しかし朝日が取材源を秘すため出身地や没年を少しずらせていたため、心当りの別人を該当者と思いこみ、新聞の自作自演を疑った戦友会は、宮崎支局へ乗りこんで抗議と訂正を申し入れた。

支局長は日記は本物だと説明、筆跡がわからないよう五メートルぐらいの距離から日記を見せたりしたが、連隊会の疑いは解けない。交渉を重ねて翌年二月、朝日側が「都城連隊は……無関係と表明」の記事を出すことで合意、第一ラウンドは終った。

ところが同年末、「訂正」記事が出たのは宮崎版だけで全国版には出ていなかったとわかり、『世界日報』が介入してきたこともあって第ニラウンドが始まる。ふしぎな話だが、この時点までには連隊会も『世界日報』も、問題の日記が宇和田弥一のもので、一九七八年に連隊史を編纂したさい、遺族から問題の日記を借り出し、二ヵ所を引用したことに気づいていた。未亡人も朝日への提供は否定したが、亡夫が日記のほかに写真三枚を所有していた事実を認めていた。

それなのに、あくまで日記を見せろと粘り、不買運動
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から訴訟提起まで突進したのは不可解の至りだが、その気迫に負けたのか朝日の対応も拙劣をきわめた。

『世界日報』がまず写真に焦点をあて、生首写真は、昭和初年、満州で銃殺された馬賊の首で市販されたものと立証、「朝日、今度は写真悪用」ときめつけた。その直前に台湾政府国防都の軍事博物館で、まったく同じ生首写真が南京虐殺のシーンとして特大バネルで展示してあるのを見てきた筆者は、かつてお詫びした例のない朝日新聞が、あっさり写真ミスの「お詫ぴ記事」を出したのを見て、びっくりした。

阿羅健一はさっそく「朝日新聞の降伏」と題した一文を発表して快哉を叫んだが、どうやら、この誇り高い新聞は謝るべき時に謝らず、しなくてもよい時に謝る、というチグハグなくせがあるらしい。

ところが戦友会は勢いに乗じて「日記もニセもの」を立証しようと、小倉簡裁に対して朝日西部本社が保管している日記保全の申し立てを行った。そして四カ月後に簡裁は申し立てを認め、写真に撮らせるよう言い渡したが、朝日側は直ちに抗告、こちらも認められた。

連隊会としては、本訴に持ちこむかどうか協議したが、これ以上は体力と資金がつづかないと判断して、朝日と話しあい、八七年一月二十三日付の全国版に次のような記事を出す条件で引きさがることになった。

「都城二十三連隊会は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の証拠保全の申し立てを小倉簡裁に行っていたが、二十二日申し立てを取り下げた。取り下げに当り<連隊は南京虐殺とは無関係>と表明した」

このあたりの経過は元中隊長の吉川正司が書いた「朝日新聞との闘い われらの場合」(『文塾春秋』一九八七年五月号)に詳しい。形の上では痛み分けにも見えるが傷だらけになった多数の関係者を知れば、喜劇と笑ってもおられない。吉川手記によれぱ、坂元元大隊長は心労のあまり入院、御本人も酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。もっとも苦しんだのは、最初のうち日記提供老と誤認された河野未亡人で、村人から白眼視され肩身の狭い思いで暮しているという。

また仮処分などの手続きで数百万円の金銭的負担が生じ、本訴を断念する理由にもなったが、せいぜい百万円+実費が相場なのに、老人から法外の金額をしぽりとる弁護士のいたことも、ついでに書きそえておこう。

吉川はすべての責任を朝日にかぶせているが、連隊会の方も途中から日記は本物と知りながらつっ走ったのだ
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から、相打ちであろう。どうやら真相は、連隊会からだされた宇和田未亡人が、面倒を恐れて日記は焼き捨てたと述べたこと、その前に連隊史のため宇和田日記を借り出して読んだ人が、読んだと言いそびれてしまったことにあったようだ。

なお虐殺風景を書きとどめた宇和田日記の信頼性だが、都城連隊には、たしかに虐殺はあった、と主張する元兵士(秋吉正行伍長)もいるし、確実と考えてよいと思う。



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