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昭和史の謎を追う(上)
第8章 論争史から見た南京虐殺事件

(イントロ)

二ーチェによると、歴史記述には「記念碑的歴史、骨董的歴史、批判的歴史」の三種があり、したがって「歴史はたえず書き替えられる」のだという。現代風に言いかえると、体制派と反体制派、その両派に挟まれ、実証に徹しようとして骨董的と煙たがられる歴史家の三すくみという図式なのであろうか。

もっとも、良心的な歴史家にとっては、歴史が実証的であることは、人間が動物の一種であるのと同じ自明の理であって、他に二種の歴史が存在すること自体を否認するだろう。しかし、二ーチェが皮肉った三種の歴史が存在し、需要に応じて日々新たな再生産がつづいているのは、厳たる事実である。

歴史論争がとかく不毛の「ののしりあい」におちいるのは、論者も読者も、三種の歴史観をごちゃごちゃにして、取り組むせいかと思う。ここ数年、マスコミを主舞台に学界の一部を巻きこんで世を騒がせた南京虐殺事件論争が、その好例である。

政治学に政治学史が、経済学に経済学史があるように、歴史学にも学説史、論争史の分野はある。しかしヤマタイ国の所在をつきとめようと書かれた本は数多く、論争も盛んなのに、学説の比較考証史を試みた本は少ない。歴史家は他人の学説を拾うより、自説を展開するほうに熱中するからだ。

南京虐殺も同様で、ざっと数えてこの十年問に二十冊を超える単行本が刊行されている。雑誌記事のたぐいもおぴただしく、歴史論争というより社会的現象の観を呈しているが、論争史の側面に焦点を置いた本は一冊もない。

筆者自身も、すでに『南京事件』(中公新書、一九八六)を刊行している立場だが、交通整理の意味も兼ねて、ここではあえて論争史の観点から南京事件をとらえてみたい。

自著を持つ人が他人の主張を公正に評価する資格ありや、と異論を唱える向きもあうが、同じ史実を追跡した人には、登場者がどこで行きづまり、何を見落し、なぜ誤認したかが見える利点もある。骨董風の歴史記述は、こうした分野でこそ、多少の威力を発揮するのかも知れない。



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