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第四節 1915年の日支条約及交換公文並びに関係問題

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4、1915年の日支条約及交換公文並びに関係問題


 鉄道紛争を除き1931年9月に起これる重大なる日支問題所謂21ヶ条要求の結果たる1915年の日支条約及交換公文より勃発せるものなり。漢治萍鉱山(漢口付近)問題を除き1915年に締結せられたる他の協定は或る新たなるものに替えられ又は日本国に依り自発的に放棄せられたるものあるを以て此等論争は左記諸規定に関するものなりき。

  1. 関東州租借地の日本所属期限を99年(1997年)に延長すること。
  2. 南満州鉄道及安奉鉄道の日本所属期限を99年(夫々2002年及2007年)に延長すること。
  3. 「南満州」の内部に於いて即ち条約に依り或は外国人の居住及商業の為に開放せられたる地域外に土地を賃借するの権利を日本臣民に許与すること。
  4. 南満州の内部に於いて旅行し、居住し及営業をなすの権利並びに東部内蒙古に於いて日支合弁に依り農業の経営をなすの権利を日本臣民に許与すること。

 日本人の是等特権及特典享有の適法なる権利は全然1915年の条約及交換公文の支那政府を拘束することを否認し来れる。如何に技術的説明又は議論をなすとも「二十一ヵ条要求」なる語は事実1915年の条約及交換公文と同意語なること並びに支那国の目的は此等より自由となることに在りとする信念を支那国国民、管理の心情より奪うことを得ず。1919年のパリ会議において支那は是等の条約は「日本国の開戦強迫の最後通牒の強迫に基づき」締結せられたものなりとの理由に依り其の廃棄を要求せり。1921年乃至22年のワシントン会議においては支那代表は「此等諸協定の公平及公正に付及従って其の根本的効力に付」問題を提示せり。而して支那が1898年ロシアに許与せる関東州の25年租借期限の満了に先立つ少し以前即ち1923年3月に支那政府は日本に対し1915年の諸条項の廃棄要求の通告を発し且「1915年の条約及交換公文は支那に於ける世論に依り頑強に非難せられ来れる旨」を述べたり。支那は1915年の条約は「根本的効力」を欠如せる旨を主張せるに依り情勢に依り実行するを便宜なりとせる場合を除き満州に関する諸条項の実施を怠れり。

 日本は痛烈に支那に依る屡次の条約上の権利侵害を非難せり。日本は1915年の条約及交換公文は正当に署名せられ完全なる効力を有するものなる旨を主張せり。確かに日本国における世論の相当部分は当初より「二十一ヵ条要求」に同意せざりき。次いで日本の言論界は本政策を非難すること普通となれり。然れども日本政府及国民は満州に関する此等条項の有効なることを固執するに一致し居るものの如くなり。

 1915年の条約及交換公文の二大重要規定は関東州租借期限を25年より99年に並びに南満州及安奉鉄道の特許を同じく99年の期限に延長せるの規定なり。此等延長は1915年の条約の結果なること並びに以前の政府の租借せる地域の回復は支那に於ける外国の利益に反対せる国民党の「国権回復」運動中に含まれ居ることの二つの理由に依り関東州租借地及南満州鉄道はしばしば煽動の目的となり又時には支那外交部の抗議の目的となれり。


 斯かる問題は実際政策の背後に隠れ居りたるも、中央政府に対する満州の忠順を宣言し満州に国民党の勢力の伝播を許容したる張学良将軍の政策に依り此等問題は1928年以後深刻性を加え来れり。

 又1915年の条約及交換公文に関連して南満州鉄道の回収或は之を純粋なる経済的企業と為す為に其の組織より政治的性質を剥奪せんとする運動ありたり。之が資本金及利子を払戻たる上此の鉄道を回収し得べく定められたる最も早き時期は1939年(ママ※1919か29だろ)なりしを以て、単に1915年の諸条約を廃棄することに依りては支那は南満州鉄道を回収すること能はざりしなるべし。何れにせよ、支那が此の目的のために必要なる資金を調達し得べかりしや否やは極めて疑問とすべき所なり。支那国民党「スポークスマン」等が折に触れ南満州鉄道の回収を唱えたることは、日本人にとりては一の刺激となり彼らの合法的権益は之に依りて脅威を感ぜしめられたり。

 元来南満州鉄道の妥当なる機能の範囲如何に関する日支間の紛議は、1906年、同鉄道会社組織当時より存続し居れり。もちろん技術的には同鉄道会社は日本の法律の下に株式組織の民間企業として成立し居るものにして、実際上全然支那の管轄県外に在り。特に1927年以来、在満支那人諸団体の間には南満州鉄道よりその政治的行政的権能を剥奪して之を「純粋なる商業的企業」たらしめんとする運動ありたるが、此の目的貫徹の為の具体案は何等支那に依りて提議せられざりしものの如し。

 事実上該鉄道会社は一つの政治的企業たりき。日本政府は其の株の過半数を掌握し居り該会社は同政府の代理者たり。即其の業務上の方針は密接に同政府に依りて左右せられたるが故に、日本において新内閣成立の際は該会社の高級社員は殆ど常に更迭せられたり。更に又、該会社に常に、日本の法律の下に警察、徴税及教育を含む広汎なる政治的行政的機能を付与せられ居れり。従って該会社より此等の権能を剥奪することは、当初考案せられ其後拡大せしめられたる南満州鉄道の「特別使命」全部を放棄せしむることを意味したりしならむ。

 南満州鉄道付属地内における日本の行政権に関し、特に土地の取得、徴税、鉄道守備隊の駐屯に関しては無数の問題を生じたり。

 鉄道付属地は鉄道線路の両側数ヤード以外に、大連より長春並びに奉天に至る南満州鉄道全系統の沿線に於ける日本の「鉄道市街」と称せらるる十五市邑を含む。右鉄道市街の中、奉天、長春及安東市街の如きは人口稠密なる支那人町の大地域を包含し居れり。

 鉄道付属地内において南満州鉄道が実際上完全なる市政を施行する権利を有する法律的根拠は、1896年露清鉄道原約、当該鉄道会社に対し「其の土地に対する絶対的且排他的行政権」を付与せる一条項に存す。露国政府は1924年の蘇支協定にいたる迄、又南満州鉄道に関する限り東支鉄道の本来の権利を継承する日本政府はその後に於いても共に此の規定を以て鉄道付属地の政治的支配権を許与するものと解釈せり。然しながら支那側においては、1896年の原約中の他の条項は該規定が警察、徴税、教育及公共工事の管理等の如き広汎なる行政権を許与することを意味したるものに非ることを明瞭にし居る旨を主張して前記解釈を絶えず否定し来れり。

 又鉄道会社の土地取得に関する紛争はしばしば繰り返されたる所なり。1896年の原約中の一条項に基づき、鉄道会社は「鉄道線路の建設、経営及之が保護の為実際上必要なり」私有地を買入又は賃借する権利を有せり。然れども支那側においては日本側より多くの土地を獲得せんが為に此の権利を乱用せんとしてる旨主張せり。其の結果、南満州鉄道会社と支那地方官憲との間には殆ど紛争の絶ゆることなかりき。

 鉄道付属地内における課税権に関する主張の相違はしばしば紛議を醸したり。日本側は元来鉄道会社が「其の土地に対する絶対的且排他的行政権」を許与せられ居ることに其の主張の根拠を置けるに反し支那側は主権国の権利を以て其の論拠とせり。


 要するに実際の事態としては該鉄道会社は其の鉄道付属地に居住する日本人及外国人に対し租税を賦課徴収せるも、支那官憲はかかる権力を行使せずに単に法律上徴税権を有することを主張せるに止まれり。累次発生せる紛議の好例としては、日本側鉄道に依りて大連に輸送する為南満州鉄道市街迄列車にて運搬せらるる大豆の如き産物に対し支那側が課税せんとした場合に起これるものを挙げ得べし。支那側の主張は、該課税をなさざるにおいては南満州鉄道に依りて輸送せらるる産物に特恵を与えることとなるべきが故に、右は日本「鉄道市街」の境界に於いて当然統税として徴収すべしと云うに在り。

 日本の鉄道守備兵に関する問題は、間断なく紛争を惹起せり。此等の問題は、既に言及せる満州に於ける国是の根本的衝突を示すものにして、夥しき人命を犠牲にしたる数多の事変の原因を成せり。日本が此等守備隊駐屯権を有すと主張する法律的根拠は、既にしばしば引用せる如く1896年の原約中存在する東支鉄道に対し「其の土地に対する絶対的且排他的行政権」を許与せる条項に在り。露国は、右条項に依り露国軍隊の該鉄道を守備する権利が認められたるものと主張し支那は之を否定せり。1905年の「ポーツマス」条約中に、日露両国は該両国間に於いて1km毎に二十五人を超過せざる鉄道守備隊を保有する権利を留保せり。然るに其の後同年中、日支間に締結せられたる北京条約に於いては、支那政府は日露間に協定せられたる右の特別条項に同意を与えざりき。然れども日支両国は、1905年12月22日の北京条約付属協定第二条中に左の如く規定せり。

 「清国政府は満州に於ける日露両国軍隊並びに鉄道守備隊の成るべく速やかに撤退せられむことを切望する旨を言明したるに因り日本国政府は清国政府の希望に応せむことを欲し若し露国に於いて其の鉄道守備隊の撤退を承認するか或は清露両国間に別に適当の方法を協定したる時は日本国政府も同様に照弁すべきことを承諾す若し満州地方平静に帰し外国人の生命財産を清国自ら完全に保護したるに至りたる時は日本国も亦露国と同時に鉄道守備兵を撤退すべし」

 本條は日本の条約上の権利の根拠をなすものなり。然れども露国は1924年の蘇支協定に依り其の守備兵を撤去し右駐兵権を放棄せり。然るに日本は、未だ満州には平静確立せず且支那は外国人を完全に保護する能力を有せざるを以て尚鉄道守備隊を駐屯せしむべき有効なる条約上の権利を有する旨を主張せり。

 日本は右鉄道守備隊の使用を弁護するに当り、条約上の権利を根拠とするよりも寧ろ「満州の現存事態の下における絶対的必要」を根拠として論することに漸次傾き来れり。

 支那政府は日本の主張を絶えず論駁し、日本鉄道守備隊の満州駐屯は法律上においても事実上においても正当ならず、支那の領土及行政的保全を害するものなる旨を主張せり。前掲北京条約の規定に関しては支那政府は右は単に一時的性質なる事実上の事態を声明したるものにして、一ッ権利殊に永続的性質を有する権利を付与したるものと言う能わざる旨を主張せり。更に、露国は既に其の守備兵を撤去し満州の平静は回復せられ、且支那官憲に於いて日本の守備隊の妨害なき限り他の在満諸鉄道に対して為しつつあるが如く南満州鉄道に対しても適当の保護を与え得きが故に、日本は其の守備隊を撤退せしむる法律上の義務を負うものなる旨主張せり。

 日本の鉄道守備隊に関し発生したる紛争は鉄道付属地内における駐屯及活動に限られたるものに非ず。右守備隊は日本の正規兵にして、彼らはしばしば其の警察職権を持続地域に及ぼし又或は支那官憲より許可を得ず或は之に通告をなすことなく、鉄道付属地外において演習を挙行することしばしばなりき。

 此等の行動は、官辺民間を問わず支那人一般に特に嫌悪せられ、不法なるのみならず不幸なる事変を挑発するものと見做されたり。右演習は屡次誤解を生ぜしめ且支那人の農作物に夥しき損害を与え之に対し物質的賠償を為すも其の醸されたる反感を緩和し得ざりしなり。


 日本の鉄道守備隊問題に密接に関連したるものに日本領事館警察の問題あり。右警察は単に南満州鉄道沿線のみならず哈爾賓、齊々哈爾及満州里の如き都市並びに多数の在満鮮人の居住する地域たる所謂間島地方等在満各日本領事館管轄地域に存する日本領事館及同分館に所属せり。

 日本側は領事館警察存置の権利は治外法権に当然付属するものなり即此等警察官は日本臣民を保護し懲罰する上に必要なるを以て右は領事館裁判所の司法的権能の延長に過ぎずと主張せり。事実日本の領事館警察官は、其の数は満州に於けるよりも少なきも、満州以外の支那諸地方に在る同国領事館にも所属し居るものにして右は治外法権条約を有する他の諸国の一般に実行し居らざる所なり。

 実際問題として日本政府は同地方の現状に於いて特に日本の重大なる利益存在し多数日鮮人の居住し得る点を顧慮せば、満州に於ける領事館警察の存置は必要事なりと信じ居るものの如し。

 然れども支那政府は日本が満州に於ける領事館警察存置の理由として提示せる右論旨を常に反駁し、屡本問題に関し日本に抗議し満州の如何なる地方にも日本の警察官を駐在せしむる必要なきこと、警察官問題は治外法権と関連せしめ得ざること、並びに斯かる警察官の存在は何等条約上の根拠を有せず支那主権の侵害なることを主張せり。事の当否は姑らく措き、領事館警察の存在は多くの場合に於いて右警察官と支那地方官憲との間に重大なる紛争を誘発せり。

 1915年の日支条約は「日本国臣民は南満州に於いて自由に居住し各種の商工業其の他の業務に従事することを得」と規定せり。右は一つの重要なる権利なるが、支那の他の地方に於いては外国人は一律開市場を除く他、居住及営業を許容せられ居らざるに付。右規定は支那側にとりては好ましからざるものなりき。支那政府は治外法権撤廃せられ外国人が支那の法律及司法権に服するに至る迄は右特権を許さるることを以て其の政策となし居れり。尤も南満州に於ては右権利には一定の制限を付せられたり。即日本人は南満州の内地を旅行中旅券を携帯し且支那の法規を遵守することを要せり。然れども日本人適用せらるべき支那の法規は先ず支那官憲に於いて「日本領事館と協議の上」に非されば施行し得ざるものとせり而して多数の場合に於いて支那官憲の行動は該条約の規定に合致せざりき。尤も右条約の有効性に関しては支那側は常に争い来れり。南満州の内地に於ける日本国臣民の居住、往来及営業に対して制限の存したる事実並びに日本人又は他の外国人の開市場外居住或は建物賃借契約の更新を禁止したる命令及規則が諸種の支那人官吏に依りて発せられたる事実に関しては、支那参与員が本調査委員会に提出したる公文書中に何等論及せられ居らず。然れども日本人を南満州及東部内蒙古の多数の市邑より退去せしむる為又は支那側家主が日本人に家屋を貸付くることを阻止する為しばしば苛酷なる警察手段に依り支持せられたる官憲の圧迫が加えられたるは事実なり。又日本側の声明したる所に依れば、支那官憲は日本人に旅券を発給することを拒み不当課税に依り彼らを悩まし又1931年9月以前数年間は日本人を拘束すべき規則は先ず日本領事に提出すべきことを約せる前記条約中の規定を遵守せざりし趣なり。

 支那側の目的は満州に於ける日本人の例外的特権を制限し以て東三省に対する支那の支配を強固ならしなんとする其の国策の実行に在りたり。彼らは1915年の条約を以て「根本的効力なきものと看做し其の理由の下に彼等の行動を正当なりとなし、更に条約の規定には南満州と局限しあるに拘らず日本人は満州全地域に亘り居住営業を為さんと試みるものなることを指摘せり。

 日支両国の相反する国家的政策及目的に鑑みれば、右条約規定に関し絶えず痛烈なる論争の生ずるは殆ど避け得ざりし所なり。両国は共に斯かる形勢が1931年9月の事件に至る迄の彼等の相互関係に漸次刺激を加重し来れることを認容するものなり。


 南満州内地に於ける居住並びに営業の権利と商租権とは密接なる関係を有す。右商租権は1915年日支条約に基づき日本人に許与せられたるものにして関係条文左の如し。

 「日本国臣民は南満州において各種商工業の建物を建設する為又は農業を経営する為必要なる土地を商租することを得」

 右条約締結の際の両国政府間に於ける交換公文は「商租」とは支那文に依る「30箇年より長からざる期限付きにて更新するの可能性ある租借」(不過30年之長期限及無条件而得続租)を含むものなりと定義せり。

 日本文は単に「三十箇年迄の長き期限付きにて且無条件にて更新し得べき租借」となり居れり。其結果日本側商租は日本側の選択に依り「無条件に更新せらるるものなりや否や」の問題に関し争論発生せるは蓋し自然なり。

 支那人側は日本人が満州に於て土地を獲得せむとする願望は其の租借に依ると、買入に依ると将又抵当権に依るの如何を問わず、之を以て「満州を買収せむとする」日本の国策の証左なりと解釈せり。従って支那官憲は挙つて右目的を達せむとする日本人の努力を妨害せんと試みたり。而も右は1931年9月直前三,四年間、支那の「国権回復運動」が最も猖獗を極みたる時、其の勢益々旺んとなれり。

 支那官憲が日本人の土地買収、其の完全なる所有権に依る保有、又は抵当に依る之が留置権の獲得に対し、峻厳なる規則を制定せるは元来前記条約が単に商租権を許与せるに過ぎざりしことに鑑み、其の正当なる権利に基づきたるものと見るを得べし。然れども日本人側は土地に対する抵当権の設定を禁止するは条約の精神に悖る旨苦情を述べたり。

 然るに支那官吏は条約の効力を認めず、日本人が土地を租借せむとするに当りては省令又は地方庁の命令を以て極力之を妨害し、日本人に土地を租借せしむる時は之を刑法を以て罰すべしとなし、或は其の租借にあたり事前に特別手数料及税を課し、或は地方官吏に訓令し日本人への土地譲渡の許可を禁止せんか為刑罰の脅威を以てせり。前記の如き各種の障害ありしにも拘らず、事実日本人は広大なる地域に亘る土地を端に租借せるのみならず、売買又は一層普通に行われ居る抵当流の方法に依り実際其の所有権を取得せり。但し之等地権が支那の法廷に於いて其の効力を認められしや否やは別なり。

 之等土地に対する抵当権は日本の金融業者、殊に大規模なる金融会社にして其の中の或るものの如きは特に土地の取得を目的として組織せられたるものの手に落ちたり。今日本の官庁よりの資料によれば、全満州並びに熱河に於ける日本人租借地の全面積は1922-25年に於ける約80,000エーカーより1931年における500,000エーカー以上に増加せり。―右の内日本人が支那法又は国際条約の何れによるも商租権を有せざる北満州に於いて僅少なり。

 日本人の土地獲得は其の売買によると租借によるとを問わず「満州に於ける支那人の生存を脅かす」経済的及政治的脅威たるべきなり。

 支那人間に広まれる見解に従えば、朝鮮人は日本よりの移住民をして朝鮮人にに代らしめ又は政治的は経済的は殊に所有土地の処分を余儀なくせしむることにより朝鮮人の生活を窮乏化し自然満州への移住を招来せんとする日本政府の深謀より出たる政策の結果其母国を追われたるものなりとす。即ち支那側の見解に依れば、朝鮮人は其の母国に於いて外国人の政府に依りて統治せらるる一切の重要なる官職を日本人に専有せらるる「被圧迫民族」たるを以て彼らは政治的自由及経済生活の途を求めんが為、満州に移住するの止む無きに至れるなりと云う。朝鮮移民の九割は農民にして、其の殆ど全部は米の耕作に従事す。然して彼らは当初支那人により経済的に有用なるものとして歓迎せられ、其の所謂圧迫に対し自然に流露せる同情よりして大いに好意を寄せられたり支那側をして言わしむれば若し日本にして朝鮮人が帰化して支那臣民たることを拒まず、且彼らに必要なる警察の保護を与うと称する口実の下に、彼らを満州内に追躡することなかりせば、朝鮮人の満州植民は重大なる政治的乃至経済的問題を惹起するに至らざりしなるべしと謂う。支那側においては特に1927年以後満州の支那官吏が単なる小作人若は労役者以外の朝鮮人の満州定住を制限せんと努めたることを以て直ちに「虐待」の例証と看做さるることを拒絶せり。

 日本側に於いては支那側の右の如き猜疑心が支那側の鮮人虐待の主たる原因なるべき認むるも、朝鮮人の満州移住を奨励する為に確定的政策を採りつつありとの非難は力強く之を否定し、「日本としては之に対し特に奨励し又は制限を加え居らず、朝鮮人の満州移住は自然の大勢の然らしむる所にして何等政治的乃至外交的動機に基かざる一現象と見る他なし」と述べたり。従って彼等は「日本は朝鮮移民を利用して之等二地方を併合せむと企画しつつありとの支那側の危惧は全然其の根拠なし」と声明せり。

 之等の相互に妥協し難き両者の見解は商租権、法権及日本の領事館警察に関する諸問題を先鋭化するの結果を招来し之等は朝鮮人にとり最も不幸なる情勢を齎し、日支関係をして益々悪化せしめたり(報告書付属書第九章参照)。

 現在日支両国間には特に朝鮮人に対し開港場以外の地において定住、居住又は営業を為すの権利、又は所謂間島地方以外の満州各地において租借又はその他方法に依り土地を取得するの権利を許与又は拒否せる何等の協定存せず。然りと雖も間島以外の満州各地に居住する右商租権問題の重要性に鑑み、1931年に至る十年間において、少なくとも三回に亘り日支直接交渉に依り何等かの協定に到達せんとの企図行われたり。而して商租権と治外法権撤廃の両問題を共に取上げ、即ち満州に於て日本人は治外法権を廃棄し、支那人は日本人に土地の自由なる租借を許すの建前による解決案か、両者において考究せられつつありしものと信ずべき理由あるも、右商議は遂に不成立に終われり。

 右日本人の土地商租権に関する日支間の長期に亘る紛争は記述の他の諸問題と等しく、其の依りて来る源は相反する両国の政策に於ける根本的の不一致にありて、国際協定の侵犯呼り又は之が反駁の如きは右両国政策の根本的目的に比すれば左まで重要なるものに非ず。


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