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日中対比9月21日

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9月21日


裕福な中国人たちはとうに船で漢口へ避難しはじめていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輪で防空壕が作られた。とはいっても、十九、二十日と、続けて四度の空襲にみまわれるまでは、ごく平穏な毎日が続いた。 所有富裕的和经济情况比较好的中国人都早已溯扬子江而上,逃到汉口去了。在所有的院子和花园里,在公共场所和街道上,人们都在紧张地构筑防空洞。除此以外,一切仍然很平静,直到——(中文9月7日)
昨天(9月20日)通过德国大使馆传来上海日军司令官的消息,从今天(9月21日)中午起,将再次开始加强对南京的轰炸,因而告诫所有的外国人尽快离开南京。日本人甚至要求英国、法国和美国以及几个有军舰航行在扬子江下关段的较小国家的大使馆,通知他们的军舰离开现在的停泊处,转移到长江的上游或下游去,否则它们会因轰炸受到危害,日本对可能造成的损害概不负责。

结果是:英国和法国在其答复中声明,他们认为没有理由改变他们军舰的停泊地点,假如英国和法国的财产受到损害或是英国和法国公民受到伤害的话,理所当然地要由日本负责;与此相反,美国大使则带着他的全体使馆人员登上了美国军舰“吕宋”号,打算按照日本人的建议行事。但事实上,“吕宋”号当时仍然停在下关原来的泊位上。可能是英国人和法国人的榜样引起了他们的思考。(英雄精神会传染!)


アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていた。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。安全な北戴河からわざわざここへ戻ってきたのは、なにも冒険心からなどではない。まず財産を守るため、それからジーメンスの業務のためだ。むろん、社のために命を差し出せなどといわれてもいないし、いうはずもない。第一、私自身、会社や自分の財産のために命をかける気などこれっぼっちもないのだ。だが、伝統あるハンブルク商人である私にとって、どうしても目をそむけることのできない道義的な問題がある。それは中国人の使用人や従業員のことだ。かれらにとって、いや、三十人はいるその家族にとっても、頼みの綱は「ご主人(マスター)」、つまり私しかいないのだ。私が残れば、かれらは最後まで忠実に踏みとどまるだろう。以前、北部の戦争で私はそれを見届けている。逃げれば、会社も家も荒れ果てる。それどころか略奪にあうだろう。それはともかく、たとえどんなにつらいことになろうとも、やはりかれらの信頼を裏切る気にはなれない。こんなときでなければさっさとお払い箱にしたいような役立たずの連中すら、いちずに私に信頼をよせているのをみると思わずほろりとする。
德国的大使及其使馆全体人员今天上午9时做好了出发去上海的准备。许多美国人和德国人(例如施罗德博士、希尔施贝格大夫家的女士们和哈普罗公司的部分职员)据说同样记住了日本人的告诫,逃走了。

昨天夜里,我自己对这情况从各个方面作了充分的考虑。我从比较安全的北戴河回到这里来不是出于冒险的兴趣,而首先是为了保护我的财产,为了代表西门子洋行的利益。当然洋行不会期待(也决不会这么做)我为洋行而被打死在这里。我绝对不想为了任何东西(洋行的或是我自己的一些破东西)轻率地去拿我的生命冒险。但是,这里还有一个道德问题,我作为一个“正派的汉堡商人”至今还无法跳越过去。我们的中国佣人和职员连同他们的家属约有30人,他们都在看着“主人”。如果他留下来,他们就忠实地站在他们的岗位上直到最后一刻(这情况我以前在中国北方的战争中见到过);如果他跑了,那么洋行和私人的房子不仅会无人居住,而且有可能被人抢劫一空。撇开最后一点不说(尽管这会使人感到难受),迄今我还无法作出辜负人们对我寄予信任的决定(像我这样一个在平时毫不起眼的无用人,人们还如此信任,这怎能不令人感动)。
アシスタントの韓湘林が給料の前払いを頼みにきた。妻子を済南へ避難させたいという。韓はきっぱりといった。

「所長がおられる所に私もとどまります。よそへ行かれるなら、私も参ります!」

うちの使用人も大半がやはり北部の出身だが、貧しく、逃げようにも行く所がない。せめて妻子だけは安全な所へと思い、旅費を出そうといったが、かれらはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。むろん、みな故郷へ帰りたい気はある。だが、帰ったところでそこも戦いのさなかなのだというわけで、口々に、ここに、私のそばにいる方がいいという。

こういう人たちを見捨てることができるか? そんなことが許されるだろうか? いや、私はそうは思わない! 一度でもいい、ふるえている中国人の子どもを両手に抱え、何時間も防空壕で過ごしたことのある人なら、私の気持ちが分かるだろう。
我给了我的助手韩(湘琳)先生一笔预支款,使他能够把他的妻子和两个孩子送到安全的济南去。他十分坦率地说“您在哪里,我就在哪里。如果您离开,我就跟您走!”其他那些可怜的勤杂工绝大部分来自华北地区,他们根本就不知道到哪里去为好。我多么想至少能把那些女人们和孩子们送走。我给了男人们一笔旅费,但他们不知道应该怎么办。他们当然很想回到华北去,回到他们的家乡去,但那里也在打仗呀。于是他们更愿意跟随我。在这种情况下,我可以而且应该逃走吗?我认为我不能这么做!谁要是两只手各抓住一个身子颤抖着的中国孩子,空袭时在防空洞里蹲上几个小时,他就会与我抱有同感。
それに、結局のところ、私の心の奥底にはここに残り、ここで耐えぬくべきだ、という強い思いがある。私はナチ党の党員だ。しかも、支部長代理さえつとめたことがあるのだ。わが社の得意先は中国の役所だが、仕事で訪れるたびに、ドイツという国、それからナチ党や政府について尋ねられた。そういうとき、私はいつもこう答えてきた。

いいですか&&
ひとつ、我々は労働者のために闘います
ひとつ、我々は労働者のための政府です
ひとつ、我々は労働者の友です
我々は労働者を、貧しき者を、見捨てはしません!

私はナチ党員だ。だから、私がいう労働者とは、ドイツの労働者のことであって中国のではない。だが、かれらはそれをどう解釈するだろうか? この国は三十年という長い年月、私を手厚くもてなしてくれた。いま、その国がひどい苦難にあっているのだ。金持ちは逃げられる。だが貧乏人は残るほかない。行くあてがないのだ。資金もない。虐殺されはしないだろうか? かれらを救わなくていいのか? せめてその幾人かでも? しかも、それがほかでもない自分と関わりのある人間、使用人だったら?
在我的潜意识里终究还有一个最后的、不是不重要的、但对我显得是理所当然的原因,使我坚持留在了这里。我是一名德国国家社会主义工人党的党员,是有职务的,甚至还当过短时间的地区小组副组长。在我对作为我客户的中国当局和各个部委进行商务拜访时,他们一再向我提出关于德国、关于我们的党和政府的问题,我总是这么回答说:

是的——
我们是劳动者的士兵,
我们是工人们的政府,
我们是工人们的朋友,
我们不会抛弃困境中的工人(穷人)。

诚然,我作为国家社会主义者讲的只是德国的工人们,而不是中国的工人们。可是中国人对此会怎样评价呢?今天在善待了我30年之久的我的东道主的国家里遭遇到了严重的困难,富人们逃走了,穷人们不得不留下来,他们不知道该到哪里去,他们没有钱逃走,他们不是正面临着被集体屠杀的危险吗?我们难道不应该设法帮助他们吗?至少救救一些人吧?假如这些都是我们自己的同胞呢??
私はついに肚(はら)を決めた。そして留守に使用人たちが掘った陥没寸前の汚い防空壕を作り直し、頑丈なものにした。

そこへわが家の薬箱をそっくり持ちこんだ。とっくに閉校になった学校からも運んできた。毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ。飲食物は篭と魔法瓶につめた。
我不在南京时,我们的中国人挖了一个防空洞,现在已快要倒塌了。于是,我们把这肮脏的防空洞进行了整理,重新作了很好的布置:加了牢固的梁木,铺上了地板,垒上了沙袋(今天一只空袋子价值一元钱),右边当然有入口和出口。当我们发现一根内梁木有折断的危险时,我们没有气馁,仍费力地换上了另一根。干到这里,一夜就过去了三分之二。为了对付炸弹爆炸产生的气浪,我们还在两个洞的门口垒起了沙袋。我把全部家用药品和这期间已关闭的学校的药品都搬进了防空洞里,还准备了用于遭到毒气进攻时的浸醋绷带。从上午11时起,食品和饮料就已经放在篮子里和热水瓶里准备妥当,可是现在已经是下午3时30分了,那些日本鬼子还没有在天空出现,简直让人无法相信!他们已经发出严厉警告了,怎么会不来呢?我想,他们总不会是因为看见我挖了一个坚固的防空洞才不来的吧。我打开收音机,听到这么一条消息:“上海有雨!”这就是日本人不来的原因吗?这不正好吗?我为什么要着急呢!我宁愿丢脸,也不愿意日本人来。到底是怎么一回事,我自己还是没有把握。


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