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出発点としての尖閣諸島領有問題 2010年10月17日 毛利正道

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出発点としての尖閣諸島領有問題

2010年10月17日 毛 利 正 道
http://www.lcv.ne.jp/~mourima/10.10.13senkaku-2.pdf


尖閣諸島

  • 魚釣島・久場島・大正島・北小島・南小島の5島と3つの岩礁
  • 面積は、魚釣島4.32平方キロ、5島の総面積6.3平方キロ
  • 北緯25度44分から25度57分 東経123度30分から124度35分の間にある  南北約30キロメートル 東西約110キロメートルの範囲
    位置図 別紙 図1・図2
    http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page007.html
  • 中国から伸びている大陸棚の縁部分に位置している。その東には、1000-2000㍍の海溝=沖縄トラフが伸びていて、琉球列島はその沖縄トラフの東側に位置する
  • 魚釣島でみると、中国本土から350キロ、台湾から170キロ、沖縄本島から410キロ、石垣島から170キロの位置にある
  • 5島は、石垣市登野城の地籍であり、地番も付されている


事実経過

(ぜひすべてを読んでください)
  • 1683 中国が台湾を領有 1971年の中国外務省声明によると、「明の代に中国の海上防衛区域のなかに含まれており」「中国の台湾の漁民は従来から釣魚島などで生産活動に携わってきた」 参照:高橋庄五郎「尖閣列島ノートⅠ」http://akebonokikaku.hp.infoseek.sk/page032.html
  • 1876.10 小笠原島南群島について、これを小笠原島の所轄とする旨を告示し、各国にも通告した
  • 1879.4  琉球処分 琉球王国を武力で日本の領土に組み入れた
  • 1881  内務省編纂の全国地図で、尖閣諸島を沖縄県に含めている
  • 1885  1884年頃から尖閣列島の島々でアホウ鳥の羽毛・海産物の採集・販売などの事業を営んでいた福岡県出身の古賀辰四郎から土地借用願が沖縄県に対して提出された(前掲:高橋庄五郎「尖閣列島ノートⅠ」が引用する「尖閣列島と日本の領有権」など)
  • 1885.9.20  沖縄県知事より政府に対し、尖閣諸島につき、沖縄県の所管として、国標をたてたいとの上申がなされたが、政府は、清国から日本の中国進出の企図を疑われていることなどの理由から許可せず
  • 1890.1.13  1893.11.2 このの2度に亘り同様の上申がなされた
  • 1895.1.14  93年11月の沖縄県の申請を認め、「尖閣諸島を沖縄県の所轄とし、標杭を打つことを承認する」との閣議決定 但し、政府からも沖縄県からも、どこにも公表されず(また、実際に標柱が打たれたのは、紛争が表面化した1969年5月である) ・1972年外務省情報文化局発行の「尖閣列島について」で、「1885年以来数回実地に調査して清国の所属に属する証跡がないことを慎重に確認した」後に閣議決定したとの記載
  • 1895.4.17  日清戦争講和条約で、台湾などを日本に割譲すると取り決める ここで、中国側が、尖閣諸島に言及したとは議事録に記載されていない 以来、台湾省が日本国の領土として扱われることになった
  • 1896.4  沖縄県が、尖閣諸島すべてを、八重山郡に編入した
  • 1896.9  政府が、古賀辰四郎の申請を認め、(久米赤島=大正島を除く)魚釣島・久場島・北小島・南小島の30年間無償貸与を許可した
  • 1897  古賀氏が(大正島以外の)4島に大規模な資本を投下して、家屋・貯水施設・船着場・桟橋を造り、尖閣諸島のアホウ鳥の羽毛など海産物の採取販売事業を展開。「古賀村」と称された。事業を継いだ息子善次の代を含め、最大200名の漁夫・職人が作業に従事したが、1915年ころに事業を廃止
  • 1902.12  沖縄県知事が、尖閣諸島を石垣島大浜間切登野城村地籍に所属させた
  • 1903.12  沖縄県による最初の測量
  • 1905.2.23  竹島について、島根県知事が、竹島が閣議決定によって、島根県の管轄になったことを告示の方法で公表した
  • 1919  中国の漁民31名が近海で遭難、古賀らが救助し、全員を中国に送還した。中華民国政府より、遭難場所を「日本帝国・・・」とする感謝状が贈られた
  • 1921.7  久米赤島を、大正島と名称変更して、国有地に指定
  • 1932.3.31  政府が、息子古賀善次の願いにより、4島を2000円余で同人に売却した このころから、無人島になり、現在に至る
  • 1945.7  ポツダム宣言 尖閣諸島は、中国に返還する地域として明示はされていない
  • 1950.3  明治以来の尖閣諸島に関する外交文書が初めて一般に公開された 但し、一冊の価格が大卒初任給ほどする「日本外交文書」の発行という方法で
  • 1951.9  対日講和条約成立 ここでも、尖閣諸島は、中国に返還する地域には含まれていないが、これに対し、中国は、当初からこの講和条約自体に明確に反対していた(尖閣諸島領有権には触れず)
  • 1953.1.8  人民日報が、尖閣諸島を、日本領である「琉球群島」の一部であると明示している
  • 1953  米国政府が発表した「琉球列島の地理的限界」で、尖閣諸島は、琉球の一部であり、台湾の付属書島には含まれていないことが明示されているが、中国側からの異議はなかった
  • 1955.10  米軍が、久場島と大正島を、実弾演習地として使用開始 米民政府は、古賀氏から久場島を賃貸借していた
  • 1958  国連海洋法会議で、大陸棚条約採択
  • 1958  発行された中国全土地図に、尖閣諸島は中国外に記載されている。・1966年発行のものでも同じ
  • 1968  国連機関調査で、黄海・南中国海の大陸棚に豊富な石油類埋蔵の可能性が確認された 日本国民のほとんどは、これまで尖閣諸島があることすら知らされていなかった
  • 1968  これ以降、琉球政府・日本政府の巡視船がパトロールしている
  • 1968.6―8  台湾省の労働者59名が、南小島・久場島で、沈没船解体作業をしていたので、巡視船が退去を命じたが、台湾政府から正規の入域申請があったため、米民政府が許可した
  • 1969.5  石垣市長が、地籍表示として、尖閣諸島各島に魚釣島などと記載した標柱を立てた
  • 1970.7  琉球政府が、米民政府の資金で、不法入国者を取り締まる旨の警告版を5島に立てた
  • 1970.9.10  愛知外相が、尖閣列島は日本の領土と答弁
  • 1970.9.17  琉球政府が、無主物先占論で声明
  • 1970.11.12  日韓「台」三国連絡委員会が、共同石油開発構想を合意
  • 1970.12.3  中国が、「共同開発は海賊行為、尖閣諸島は中国の領土」と言明
  • 1971.4  台湾政府が、公式に領有権を主張
  • 1971.6.17  沖縄返還協定調印 米国が尖閣諸島の施政権を日本に返還する、「しかし、主権をめぐる問題には関与しない」と米国声明
  • 1971.10.26  国連総会、中国の代表権を認め、台湾政府の追放を決議
  • 1971.12.30  中国外交部声明「明の代に中国の海上防衛区域のなかに含まれており」「中国の台湾の漁民は従来から(=1895年以前から)釣魚島などで生産活動に携わってきた」「日本は、日清戦争を通じてかすめとった」と主張
  • 1972.3.8  外務省、日本領有の根拠として、先占による取得、を始めて主張
  • 1972.5  外務省情報文化局パンフ「尖閣諸島について」を発行 全文:http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page065.html
  • 1972.9.29  日中共同声明調印 尖閣諸島には触れず 周恩来「国交回復に比べ、問題にならない」
  • 1974.1.30  「日韓大陸棚共同開発協定」が調印された 韓国主張の大陸棚主権を大陸棚自然延長線まで認めた
  • 1978.4.12  自動小銃などで武装した中国漁船100隻以上が魚釣島周辺に終結し、うち40隻が「日本領海」内に進入
  • 1978.6.3  日韓大陸棚共同開発協定、批准
  • 1978.6.26  中国、この協定は、中国の主権を侵害する不法無効なもの、と声明
  • 1978.10.25  トウ小平副総理が、今度の条約でも双方この問題に触れないことを申し合わせた、と記者会見で発言
  • 1979.6  中国が、尖閣諸島について「論争棚上げ、共同開発」を正式に提案
  • 1982  国連海洋法条約成立 領海12海里・200海里の排他的経済水域・大陸棚についての主権などを明記する
  • 1988.3  南沙諸島で、中国とベトナムの正規軍が軍事衝突し、ベトナム側に80名の死傷者出る 中国が、数個の島を占領した
  • 1992  中国が海洋法を制定 その中で、「釣魚台」(尖閣諸島)を領土と記載 以来、尖閣諸島近海で中国漁船が多数操業したり、ガス田開発も始まる
  • 1999.7  フィリピンがASEANに、「南シナ海行動規範案」を提出、以後交渉活発化
  • 2000.4.5  漁業に関する日本国と中華人民共和国との間の協定 締結 双方自由使用を決めたが、尖閣諸島については、対象外 現在、日中間において、なにも取り決めがない
  • 2002.4  政府が、魚釣島を古賀善治氏(かその承継人)から借り上げた
  • 2002.11  南シナ海南沙諸島 に対して6国が領有権を主張して争っている件で、紛争の平和的解決を内容とする「南シナ海での当事者の行動についての宣言(DOC)」成立  外務省:「アセアンの基礎知識」39頁 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/pdfs/gaiyo_02.pdf
  • 2005.2.19  日米安保協議委員会(2+2)で、「台湾海峡問題の平和的解決を促す」との共同発表がなされ、大野防衛庁長官が「中国の軍事動向に注意すべき」と発言 安保協議で、台湾について言及されたことは初
  • 2008.5.7  戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/visit/0805_ks.html
  • 2010.7.23  ASEAN地域フォーラムにて、DOCの遵守とこれを拘束力ある行動規範に前進させることを目指す作業部会を適切な時期に開催することで一致した
  • 2010.9.7  久場島の沖合15キロで、中国漁船と海保巡視船が衝突し(ビデオを見た仙谷由人官房長官(弁護士)によると、「操作ミスとは考えられない。明らかに故意だ」とのこと)、船長らを公務執行妨害罪の容疑で逮捕(以下、「逮捕劇」と略称する)

尖閣諸島は日本の領土

日本政府は、1884年頃から尖閣諸島の島で海産物業を営んでいた古賀氏からの借用願を契機に、10年かけた測量・調査のうえ、1895年に無人の尖閣諸島を日本の領土とする旨の閣議決定をして、翌年から30年の期限で古賀氏に無償貸与、同氏とその相続人は(大正島を除く)4島で諸施設を建てて最大200名を従事させて「古賀村」を形成し、1915年頃まで約30年間海産物採取販売事業を展開してきた。
位置図:別紙 図1・図2

自国の領土以外の土地を原始取得する方法として国際法上認められている「先占」は、(1)他国の領土になっていない土地について (2)領有する意思を示すことと、 (3)実効的な占有が必要 を要件とするが、

(1) については、1895年の時点ですでに中国の領土になっていたと言うことが証明されているとは言えないと思われる。それどころか、すでに1884年頃から日本の古賀氏が私人の立場で尖閣諸島で海産物業を営んでいたことに対し、日本政府が古賀氏に30年間貸与を決めた下記1896年まで10年間以上にわたり(むろん、その後においても)清国側からクレームが付けられた形跡がない。すでに清国の領土になっていたというなら、当然あるべきであろうものが。

(2)については、遅くとも1896年9月に、日本政府として古賀氏に30年間無償貸与した時点で、領有意思を公表したとみることが適切である(1895年1月の閣議決定については、公表されていない だが、それでもこの要件を満たすと言えるのかも知れない)。

(3)については、古賀氏に貸与していない大正島(1896年4月に沖縄県知事によって日本に編入されてはいる)についてはともかく、貸与した4島については、十分要件を満たしている。個人では国土を領有できないから、この古賀氏への貸与とその事業継続で、日本国としての実効支配と言える。

また、国際法では、他国による占有を知りながらこれを放置している場合は、その国の領有を認めたことになるとの法理が定着しているが、中国側は、日本が台湾を放棄した(すなわち、これとともにその付属地として尖閣諸島が返還されるべき)1945年8月以降も、1970年12月まで25年間=四半世紀に亘って、日本=米国による尖閣諸島の占有に全く異議を述べていない。このことも日本の領有とする根拠である。

「先占」による領土取得については、帝国列強が植民地を拡張していく論理であるとして全面否定する論者もあるが、小笠原諸島を始め、世界には、植民地拡張とは無関係の先占も無数にある。このような考えは、国際法の到達を無視するものであって、中国始め世界に通用するものではない。

よって、遅くとも古賀氏が事業を終えた1915年までには、日本が尖閣諸島の領有権を取得したと言える。

しかし、重要なことは、それによって日本が得たものは、古賀氏に貸与した4島と、その4島の周囲の領海3カイリ(1915年当時の日本法での領海線)(=各海岸線から5.6キロメートルまで)の領有権に過ぎない。現在、島自体はほとんど無価値なのであり、日本がこれだけしか権利を持っていないのであれば、何の紛争も起きなかったであろう。


残された、しかし、出発点としての問題


前述の通り、日本が尖閣諸島を領有しているとみるべきだが、その考えは中国の人びとに対して説得力があるであろうか。日本領有の根拠については、1972年5月に外務省情報文化局によって発行された「尖閣列島について」が詳しく、(現在も、私人が開設しているWEBページで読むことが出来る http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page065.html
日本共産党が本年10月4日に公表した見解もあるが、
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2010/20101004_senkaku_rekisii_kokusaihou.html

両国間で現に民衆を巻き込んだ深刻な紛争が長期間起きている以上、自説の根拠を述べているだけでは紛争が解消することは困難である。だとすれば、日本領有説の持つ重みを吟味してみる必要がある。

1982年の国連海洋法条約は、1973年から9年がかりの長期会議で、多くのAALA発展途上諸国も参加して到達したものであり、これぞ国際法の発展と言えるものである。ここで、領海線は世界的に12カイリ=22キロメートルに拡張された(日本自身は、すでに1977年に12カイリと定めている)。尖閣諸島近くのこの領域に原油が埋蔵されていれば、この3カイリから12カイリへの拡張も問題になる。他国による漁業の対象地も異なってくる。現に、本年9月7日の「逮捕劇」は、久場島の沖合15キロで操業していた中国魚船に関するものであるから、その「領海侵犯した」地点は、日本が久場島を「先占」によって領有した時点では、日本の領海外だったのである。

同じく1982年の国連海洋法条約で明確に認められた排他的経済水域、大陸棚主権についても、尖閣諸島の領有問題との絡みもあって、日中間において全体として未解決となっている。しかし、そもそも、日中双方において、自らが尖閣諸島を領有していると公然と主張され始めたのは、尖閣諸島を含む広大な排他的経済水域や大陸棚海域に大規模な原油が埋蔵されている可能性が高いとされた1968年以降である。にもかかわらず、この問題について未解決ということは、「領有権問題」についても未解決ということではないか。

この問題をめぐり、日本と東北アジアの平和をいかに築いていくかが問われている。特に近時の沖縄普天間基地即時閉鎖と辺野古新基地建設阻止を求める課題との関係で、今回の「逮捕劇」をめぐり、日本の中で「中国が脅威であるから、米軍に守ってもらう必要がある」との声が高まっている。これにどのように対応すべきであろうか。


中国に「日本領有」が理解されるか


日本が、中国から見える状態で尖閣諸島を実効支配していたのは、古賀氏が4島で海産物業を営んでいた1897年から1915年頃までの約30年間である。1932年からは、無人島になっており、それ以降、紛争が起こった1968年までは巡視船も含め誰も何も管理行為をしていない(戦後の占領米軍による実弾射撃訓練は別として)。ところが、その「見える実効支配」をしていた30年間は、日本が日清戦争後の講和条約によって、「合法的に」台湾省を自国の領土に編入していた時期の一部であった。

この時期、中国としては、台湾省が日本領土になっていたのであるから、その台湾省と日本領土との間にある尖閣諸島についても、日本領土になっているものと捉えていたとしても何ら不思議ではない。この点では、年表に記載してある、1919年に中華民国政府が尖閣諸島を日本帝国の一部と認めていたという感謝状も、中国側からみて説明がつかなくもない。

従って、この時期=少し長く捉えて、台湾省が日本から返された1945年までは、中国側から日本が尖閣諸島を実効支配していることに異議を唱えることは、仮に唱えようと思ったことがあったとしても極めて困難だったと思われる(台湾省を日本が領有する事態がなかったとすれば、「古賀村」の出没に対して中国側が異議を唱えることがありえなかったとも言えないし、当時であれば、中国側に従前の実効支配を裏付ける資料が保存されていて呈示されたかも知れない)。

日清戦争は、直接には朝鮮半島の支配権を争う戦争であり、1932年からの中国に対する日本の明らかな侵略戦争とは異なる性格があることは否定できないが、中国側にとっては、台湾省を奪われた「侵略戦争」であった。中国も当事者になっており日本が受け入れた1945年7月のポツダム宣言でも、台湾省は日本から後に奪われた地域ともに日本が放棄する範囲に含まれている。このような経過であるから、中国側にとっては、1971年12月声明が述べるように、「日清戦争を通じて尖閣諸島をかすめ取った」「かつて中国の領土を略奪した日本侵略者の侵略行動」との認識が生じてもやむを得ないところがある。
(なお、戦後についても、1968年までは、中国国内での内戦や新中国建設などのために、米軍の実弾訓練などについて日本側に異議を唱える余裕がなかったとの弁明になるのか)。

となると、日本側がいくら日本領有の根拠を懇切丁寧に説明しても、(他国には分かってもらえたとしても)こと中国国民から真に承認してもらうことは著しく困難ではないか。そうだとすると、
(1) 歴代日本政府が述べているような「領土問題は存在していない」との態度ではなく、領土問題についても中国側と真摯に協議していく姿勢が日本政府に求められる。内容としての解決策として、国境の価値が薄れゆく後の世代までは、実質棚上げにして共同で管理していくことも選択肢に入れるべきではないか。
(2) 併せて、日本による1945年までの中国侵略について、きちんとした謝罪と賠償を行うことが日本
政府に求められる。


国連海洋法条約を遵守する視点


前述したように、領海が3カイリ(5,6キロ)から4倍の12カイリ(22キロ)に拡大したことは、日本が尖閣諸島の領有権を取得した1915年頃までとは明らかに異なる。そうすると、例えば、2000年成立の新日中漁業協定に準じ、尖閣諸島一帯も双方が自由に漁業が出来る海域にするか、少なくとも、3カイリを超える領海での中国漁船の操業を認めるなどの方策と、これに至る交渉が必要なのではないか。

同条約5部で、領海基線(海岸)から200カイリ=370キロまでは、沿岸国の生物・非生物資源に対する主権が認められている。尖閣諸島が日本の領土だとすると、200カイリと言うとほぼ中国本土沿岸まで日本の排他的経済水域が拡がることにもなる。日本は実際には日中の排他的水域の中間線を主張しているが、中国側がその大陸棚が伸びる尖閣諸島以東の沖縄トラフまでを主張しているため、
(沖縄トラフ図:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%95
巾200キロ前後の広大な海域が、尖閣諸島を日本の領土にすることによって日中主張が競合する海域になっている。

沖縄県に属する日本領土からの日本主張の中間線も含めると、日中がそれぞれ法律で定める排他的経済水域が競合する範囲は広大である。


ガス田開発をめぐるトラブルもその近くで起こっている。日中双方にとって、未だ解決したとは言えない事態であることを踏まえ、共同管理・共同開発などの取り決めが必須であり、その解決のための交渉実現を迫る双方民衆の声を高める必要がある。

同条約6部で規定する大陸棚の天然資源に対する主権も確立されたものであるが、これは、自国の法律で定めれば一応効力がある排他的経済水域とは異なり、関係国間においてその範囲が合意されて始めて効力がある。国際司法裁判所で定めてもらうこともできるが、双方申請か応訴管轄(他方の申請に受けて立つこと)であることが必要である。

この点では、沖縄トラフの縁まで大陸棚主権があるとする中国にとって、日本との合意を得ることに大きな価値があるように思える。

このように、東シナ海(東中国海)をめぐる日本・中国の海域をめぐる紛争は、領土・排他的経済水域・大陸棚の各問題が重層的に係わっている。その解決のためには、方法においてねばり強い交渉、内容において共同管理・共同開発、ということを避けて通ることはできない。今必要なことは、日中双方の民衆が、互いに非難するのではなく、この解決を求める姿勢を双方の政府に強く求めることである。

1972年の日中共同声明・1978年の日中平和条約の締結時に、中国側が尖閣諸島領土問題を持ち出さない態度を取った。そのためにこれらが成立し、その後の日中関係の平和的発展に多大な貢献をしたことは確かである。その精神を今、日中双方の政府民衆があらためて想起する必要がある。最近でも、2008年5月の「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」が、「双方は、協議及び交渉を通じて、両国間の問題を解決していくことを表明した」と述べているとおりである。


平和をどう築くか


今回の「逮捕劇」後の中国の反応に対し、中国を「日本の敵」として扱うような論調・発言が少なくない。本当にそうか。確かに中国は、例えば2010年版「中国外交白書」で新設された「中国外交の中の国境と海洋政策」の章では「国境と海洋政策は国家の主権、安全保障、発展の利益にかかわり、中国外交の重要な部分となっている」と強調し、尖閣諸島についての直接の記述はないが、中国政府が海洋問題を極めて重視しているとしたうえで、「周辺国家との領土や海洋権益の争いを公平で合理的に解決していく」とした(2010年9月21日付朝日新聞)。しかし、この記事は続けて、「中国政府が海洋権益を強調するのは、急速な経済発展を受けて、資源の確保が重大な急務となっているからだ」と述べる。

そのとおり、中国政府は、日本の10倍=13億人の衣食住を保障する責任がある。これを、実践することは並大抵のことではない。中国国民にとっても、私が中国の同じ農村を間をおいて2回訪ねた経験では、経済成長で底辺も一見豊かになって来ているが、より豊かになっている上流階級との格差が一層拡がっているように思えた。となると、不満も大きくなりやすい。(そもそも、私は、10億人を超える人口を抱える単一国家というもの自体に無理があるのではとの実感があるが、それはさておき)中国の人々と腹を割って度々交流してみれば、13億人の生存を保障することは至難の業だが、それをやり切らなければとの使命感を感ずる。同じこの地球上に生きるものとしての共感を覚える。中国の姿勢を読むとき、この視点を失ってはならないと思う。

中国の海洋に対する姿勢をみるときに、南シナ海南沙諸島について中国を含む6か国が領有権を主張して争っている件で、2002年11月に中国とASEANとの間で成立した、紛争の平和的解決を内容とする「南シナ海での当事者の行動についての宣言(DOC)」を忘れることはできない。外務省:「アセアンの基礎知識」39頁 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/pdfs/gaiyo_02.pdf

ここは、1988年3月に、中国とベトナムの正規軍が軍事衝突し、ベトナム側に80名の死傷者出る一方で 中国が、数個の島を占領したことがあるというほど、緊張した地域であった。しかし、1999年から4年かけて関係国が協議を重ねた結果、武力によらない紛争の平和的解決を誓い合うに至ったものである。そして、その後も紆余曲折はあったが、本年7月23日の中国を含むASEAN地域フォーラムにおいて、この「宣言」を法的拘束力ある「規範」にまで高めるために、予備段階の作業部会を設置することなどに合意している。

今回の「逮捕劇」後における、WTO規約に反する事実上の輸出規制など理が通らない中国の行動についても、ASEAN・インド他多くの国々から、中国に対する警戒感が報じられ、その中で中国の姿勢が軟化した面がある。小さな国々が集まるASEANであっても、13億人を抱える中国の立場を思いやりつつ正論を持ってねばり強く働きかければ「大国中国」も従わざるを得ない面がある。

2005年2月19日の日米安保協議委員会(2+2)で、「台湾海峡問題の平和的解決を促す」との共同発表がなされ、大野防衛庁長官が「中国の軍事動向に注意すべき」と発言した。安保協議で台湾について言及されたことは初めてであった。台湾海峡有事の際は、米軍が日本の基地の自由に使用して核兵器を含む攻撃をなし、日本の国土と国民が全面的な協力を強いられる事態になる。台湾海峡での軍事衝突はあってはならないことだが、それは、あくまで中国内部のことであり、米軍が攻撃することは内政干渉であって決して許されないことである。

このような事態をみれば、普天間代替基地を米軍に自由使用させることは、中国を一層硬い態度に追い込むことであり、その点からも決して認めることはできない。プエリルトリコ・フィリピン・エクアドル・そして砂川基地を始めとするこれまでに返還された国内の少なくない基地に続き、民衆の一層の闘い高揚によって普天間基地も撤去させよう。

むろん、現在の情勢下で、自衛隊を石垣島などの先島諸島に常駐させることも、台湾攻撃の意図を中国から邪推される危険があり、認められない。

設立40年に及ぶASEANの経験は大きい。複雑な民族問題から多様な領土・国境問題を持ち、互いに不信感を持っているが故に、域内全10カ国が毎年、各級レベルで300回もの交渉・交流を重ねるなかで、紛争の平和的解決を確固としたものにしている。軍事同盟が解消され、非核兵器地帯条約も締結された。このようなASEANの経験を北東アジアで生かし、日中を含む地域共同体結成のために奮闘することこそ、非軍事憲法を持つ日本の政府と民衆がなすべきことである。






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