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尖閣(釣魚)諸島の先占は一時凍結か

 2010/11/01
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半月城です。
 ある日、突然起きた中国漁船と日本巡視船の衝突事件はあれから2か月になろうとしま
すが、両国の関係はぎくしゃくするばかりで、日中友好の修復にはほど遠いようです。
 このように両国に緊張を強いる尖閣(釣魚)諸島問題は、両国の間の抜くに抜けないト
ゲであり、ちくりちくりと両国に痛みを与えているようです。
 かくも重大な影響をもたらした尖閣(釣魚)諸島問題について、改めてその歴史的な原
点を見直したいと思います。中でも、日本による尖閣(釣魚)諸島の編入手続きや「無主
地先占」にはどのような問題があるのかなどを中心に検証したいと思います。

1.内務省の内命
 1885(明治18)年、日本政府は沖縄近海にある無人島の日本領編入を積極的に進めまし
た。内務省は在京の沖縄県大書記官 森長義に沖縄近海の無人島を調査し、国標を建てるよ
う内命をくだしました。その詳しい内容は指令文書が残っていないので不明です。
 しかし、だいたいの指令内容は、森が内命事項を確認するために内務省へ提出した伺書
「大東島巡視取調要項の義に付伺(注1)」などから知ることができます。
 大東島では伺書の中に「同島を沖縄県管下と定め 名称は従来称呼に拠り大東島と唱へ
国標を建設すること」という一項があるように、内務省は大東島を沖縄県に組み込んで国
標を建てるための調査を森に命じたのでした。
 内務省の内命は、沖縄県と清国の福州間に散在する無人島、すなわち尖閣(釣魚)諸島
に対してもくだされました。沖縄県は久米赤島(大正島=赤尾嶼)他二島、すなわち尖閣
(釣魚)諸島に関する資料や、清国の冊封使が航海した航路図などを詳細に調べ、次のよ
うな内容の伺書「久米島 赤島 他二島 取調之儀ニ付上申」を同年9月22日に内務省へ提出
しました。
       ――――――――――――――――――――
 それらの島は清国の史書『中山伝信録』に記載された釣魚台や黄尾嶼、赤尾嶼かも知れ
ない。もし同一なら清国が琉球王を冊封する使節が詳細に記述しているのみか、それぞれ
名前を付けて琉球への航海の目標にしていることは明らかである。
 とりあえず10月に島の実地調査をするが、その後、大東島のようにただちに国標を建て
るわけにはいかないと思われるので、国標の件はどのようにすればいいのか、ご指揮を受
けたい。
       ――――――――――――――――――――

 この伺書に対して内務省は、久米赤島 他二島は『中山伝信録』に記載された島嶼のよう
だが、清国は船の針路を取ったに過ぎず、清国に所属するという証拠がないので国標の建
設は差しつかえないと判断し、太政官の承認を得るべく内申案を作成しました。
 その内申案を念のために外務省へ送って外務卿の意見を求めました。ところが外務省
は、当時は宮古・八重山諸島を清国の所属にする方向で清国と交渉中であったためか、内
務省へブレーキをかけました。
 井上馨外務卿は10月21日付の回答書にて「近時、清国新聞にも我政府に於て台湾近傍 清
国所属の島嶼を占拠せし等 風説を掲載し 我国に対し猜疑を抱き しきりに清政府の注意を
促し候」と清国の実状を紹介し、内務省へ「実地を踏査せしめ 港湾の形状ならびに土地・
物産・開拓見込み有無詳細報告せしむるに止め 国標を建て開拓に着手するは他日の機会に
譲る」よう提案しました。
 これら一連の史料はアジア歴史資料センターのサイトで簡単に見ることができます(注2)。
 外務省がふれた清国の新聞とは『申報』と思われますが、その記事(1885.9.6)は台湾
警信として台湾の東北の海島に最近日本人が日本の旗をかかげ、島を占拠する勢いである
と伝えました(注3)。
 このころ、清国が日本の動向に神経を使っていたのにはわけがあります。当時は大国で
あった清国は日本政府の「琉球処分」に対して不満をもち、その件で日本と交渉中であっ
たので、とくに琉球の動向を注視していたのでした。
 ここでひとまず、このように尖閣(釣魚)諸島問題に大きな影響を与えた日清関係につ
いて、その概要を簡単に見ることにします。

2.「琉球処分」と清国の反発
 1871年、日本では廃藩置県が実施されましたが、これとは逆に沖縄では「琉球藩」が設
置され、明治政府により尚泰が「藩王」に任じられて華族に列せられました。これは日本
政府による琉球王国解体の序章でした。
 1879(明治12)年、日本政府は琉球処分官 松田と共に450人の軍隊、160人の警官隊を首
里城へ送りこみ、尚泰王代理の今帰仁王子に琉球藩を廃して沖縄県を設置する廃藩置県を
通告しました。これがいわゆる「琉球処分」ですが、武力占領に等しいやり方でした。
 そうした武力を背景にした日本の沖縄県設置に対して現地では根強い反対がありました
が、中でも清国の影響力の強かった八重山や宮古島では特に反対が激しく、日本政府への
協力者が制裁を受けて殺される事件まで起きました(注4)。
 こうした事態に清国が動き出し、アメリカの仲介で日清会談が開かれました(1880)。
会談において日本は清国の「琉球三分割案」に対して次の「分島・増約案」を提案しまし
た(注4)。

 1.沖縄諸島以北を日本領土する。
 2.中国に近い、宮古・八重山を中国領土とする。
 3.上記を認める代わり、日清修好条規(1871)に、日本商人が中国内部において欧米
   諸国なみの通商ができるよう条文を追加(増約)する。

 交渉の末、清国は日本案をのんで調印することになりましたが、いざ調印の直前になる
や、清国は増約による国内市場の混乱や、日本への帰属反対運動などを再考し、調印を保
留しました(1881)。
 ここで特記すべきは、この時点では尖閣(釣魚)諸島どころか宮古・八重山諸島の帰属
すら流動的だったことです。両島は、清国が日本に妥協さえすれば清国領になる予定でし
た。また現地でも、特に宮古島では多くの島民が日本領になるのを嫌ったようです。
 こうした宮古や八重山諸島は日本の固有領土といえるのかどうか、少し疑問が残るとこ
ろです。それは固有領土をどのように定義するのか、用語の問題になるものと思われます。
 それはさておき、その後も日清間で分島・増約案や条約改定をめぐって交渉がおこなわ
れましたが、結局は決着せずに交渉は打ち切られました(1888)。
 このような日清関係だったので、清国が琉球問題に格別の関心を持つのは当然でした。
ましてや1874年には琉球漁民の台湾遭難事件を口実に日本が清国の台湾へ出兵を強行した
だけに、琉球問題は清国のかねてからの特別な関心事でした。当然、日本が「台湾近傍 清
国所属の島嶼を占拠」する事態を憂慮したのでした。

 このような清国の情勢を熟知する外務省のアドバイスを受けた内務省は、尖閣(釣魚)
諸島の編入は清国との協議が必要であると判断し、太政官へ当初の案とは正反対に「国標
建設の儀は清国に交渉し かれこれ都合もこれ有り候に付 目下見合せ候方しかるべく(注
5)」と内申し、沖縄県へもそのように指令しました。
 ここで注目されるのは内務省の判断変更です。同省は、尖閣(釣魚)諸島は清国にとっ
て琉球への使節の単なる航路の目印に過ぎず、清国に所属する証拠がないが、と言って
も、それだけの理由で一方的な領土編入はできず、清国との交渉が必要であると最終的に
判断したのでした。その判断は太政官も承認しました。

3.沖縄県の二度目の伺書
 その後、沖縄県は1890(明治23)年1月に二度目の尖閣(釣魚)諸島に関する伺書「無人
島 久場島 魚釣島の義に付伺」を提出し、「水産取締の必要より所轄を相定められたき旨
八重山島役所より伺出」があったので、そのようにしたいと申請しました。
 当時は八重山島から久場島=黄尾嶼や魚釣島=釣魚嶼へ漁夫が出漁していたようです。
このころからなぜか、かつての久米赤島はほとんど無視され続けました。
 この伺書に対して内務省は過去の関係文書の写しを沖縄県に要求し、送られたそれらの
書類を検討したようですが、特段の措置をとりませんでした。1885年当時と何ら事情は変
わらなかったためと思われます。

4.沖縄県の三度目の伺書
 沖縄県は1893年11月にも「久場島 魚釣島へ本県所轄 標杭建設の義に付 上申」を内務
省、外務省の両省へ提出しました。これに対して内務省は沖縄県へ(1)該島港湾の形
状、(2)物産および土地開拓見込みの有無、(3)旧記・口碑等につき、我国に属せし
証左、その他 宮古島・八重山島等との従来の関係を問い合わせました。
 この(1)、(2)に対し、沖縄県は1885年当時の現地調査書を内務省へ提出したにと
どまりました。基本的に沖縄県は1885年の現地調査以来、新たな調査をおこなわなかった
ので、追加情報はありませんでした。
 次に(3)に関しては、「該島に関する旧記書類および我邦に属せし証左の明文 又は口
碑の伝説等もこれ無し」と回答しました。他の島との関係については「古来 県下の漁夫
時々八重山島より両島へ渡航 漁猟致し候」と明らかにしました。
 沖縄県はいろいろ調査しても、久場島と魚釣島が日本領であるとの証拠書類はおろか、
それらしき伝説すら示せませんでした。尖閣(釣魚)諸島は日本領という認識がまったく
なかったといえます。これでは当然「日本の固有領土」たり得ません。
 この沖縄県が出した三度目の伺書に対して内務省は1年以上も保留にしたのですが、そう
する内に東アジアの情勢が大きく変化しました。1894年4月、韓国豊島沖での日清海戦を機
に日清戦争が勃発したのでした。
 戦況は日本の連戦連勝で推移したのですが、清国の降伏が確定的になるや、内務省が動
き出しました。同年12月27日、内務省は沖縄県の伺書を外務省と協議すべく、内務省の閣
議請議案を外務省へ送り、「(1885年)当時と今日とは事情も相異」しているので、沖縄
県からの伺書どおり久場島と魚釣島を同県の所轄とし、標杭を建てさせたいと提案しまし
た。
 外務省は、今度は清国への配慮などおくびにも出さず、内務省案に全面的に賛成しまし
た。日清戦争で清国の弱体ぶりが明確になったので、清国を侮って交渉など不要と考えた
のでしょうか。
 翌1895年1月、内務省は沖縄県からの伺書を閣議にかけ、承認されました(注6)。十年
前には果たせなかった尖閣(釣魚)諸島に国標を建てるという宿願が日清戦争に勝利した
ことで可能になったのでした。
 閣議の承認結果は沖縄県に伝えられたようですが、その指令書の原文は残っていないよ
うです。しかし、指令が伝えられても、沖縄県ではそれを告示するとか、標杭を建てると
かの行政措置は何も取らなかったようです。これが重大な問題をかかえることになりまし
た。

5.無主地先占論をめぐる問題点
 国際法学者である緑間栄の『尖閣列島』によれば、「尖閣列島に対する国内法上の領土
編入措置は明治29(1896)年3月5日の勅令13号が施行されるのを機会におこなわれた」と
されます。
 しかし、この時点はすでに台湾が日本の植民地になった後なので、尖閣(釣魚)諸島の
領土編入措置が台湾割譲に付随するものなのか、それとも閣議決定によるものなのか判然
としません。
 もし、編入が台湾割譲に付随するものであれば、戦後になって日本は台湾を放棄したと
きに尖閣(釣魚)諸島も台湾の中に含まれることになるので、同島は日本領でなくなりま
す。中国や台湾はこの立場に立つようです。
 さらに、勅令13号にも問題があります。緑間は「勅令は沖縄県を島尻、中頭、国頭、宮
古、八重山の五郡に設定し、久場島、魚釣島を八重山郡に編入」と記すが、実は勅令13号
には久場島など尖閣(釣魚)諸島の名前は一切ありません(注7)。
 勅令には島尻郡として島尻各間切、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島・・・など
の島名が詳細に記載されました。それにもかかわらず尖閣(釣魚)諸島の名は記載されな
かったので、勅令13号に同島が含まれるという緑間などの解釈は我田引水の感があります。
 余談ですが、勅令13号には宮古諸島と八重山諸島がそれぞれ宮古郡、八重山郡として記
載されました。所属が流動的であった両諸島は日清戦争が終わった後に不動の日本領にな
ったのでした。

 以上のような尖閣(釣魚)諸島の編入について、百瀬孝は「官報に出たわけではなく、
外国にも通告されておらず、領土編入について無主地先占の万全の手続きをふんだとは到
底いえない(注8)」と記しました。
 ただし、百瀬は日本政府を擁護する立場から「通知していないので中国側は知る由がな
かったという言い分はあるが、1885年当時は古賀の久場島上陸を中国は把握していたので
あり、このときに限って知らなかったとはいえまい」と付け加えるのでした。
 しかし、閣議決定後から台湾割譲までの半年間に何らの行政措置も島の利用もなかった
ので、その短い間に清国のみか日本国民でさえ領土編入の事実を知ることはとうてい困難
です。こうした事情を整理して芹田健太郎は『日本の領土』(2002)にこう記しました。
       ――――――――――――――――――――
 尖閣諸島は、先に見たように、明治二十八年一月十四日に閣議決定によって日本領に編
入され、同年六月十日、古賀辰四郎が「官有地拝借御願」で国有地借用願を申請し、翌二
十九年九月に政府は、魚釣島、黄尾嶼、北小島、南小島の四島を三〇年間、開拓奨励のた
め、無料で古賀に貸与することを許可した。
 ところが、この間の二十八年四月十七日 日清講和条約調印、五月八日 批准書交換、そ
して、六月二日には台湾の受渡しが完了していたのである。確かに、尖閣諸島に対する日
本の実効的支配は明らかであるが、そのほとんどは日本が台湾の割譲を受けた後の台湾統
治時代のものである。
 そのため、中国からの抗議はないものの、無主地先占をした島嶼に対する支配なのか、
割譲された地域に含まれる島嶼に対する支配なのか、必ずしも分明にすることができない
かもしれない。
 その意味では、敗戦の一九四五年(昭和二十年)八月十四日までの日本の行為はいわば
凍結され、実効的占有として意味ある行為は戦後のものに限られてしまうかもしれない。
       ――――――――――――――――――――

 要するに、万国公法にいう日本の尖閣(釣魚)諸島に対する実効支配は、台湾割譲の結
果なのか、無主地先占に対するものなのかはっきりしないので、戦前の日本の無主地先占
は万国公法上にて凍結されるもののようです。
 この説にしたがえば、1920年に中華民国長崎領事が古賀に送った感謝状に「日本帝国沖
縄県八重山郡 尖閣諸島・・・」と書かれても万国公法上はほとんど意味がないようです。

(注1)江崎龍雄『大東島誌』1929;百瀬孝『史料検証 日本の領土』河出書房新社、2010。
(注2)外務省資料1417「沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年
 十月」『帝国版図関係雑件』外交史料館所蔵。原文は漢字カタカナ交じり文であるが、
 読みくだし文にてカタカナは平仮名に変換。以下同様。
(注3)「文匯報登有高麗伝来信見、謂台湾東北辺之海島、近有日本人懸日旗于其上、大有
 占拠之勢、未悉是何意見、姑録之以后聞」(鞠徳源『日本国窃土源流』二〇〇一年)、
 百瀬孝『史料検証 日本の領土』河出書房新社、2010、p.66より引用。
(注4)新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画、1997。
(注5)公文別録・内務省・明治十五年~明治十八年・第四巻・明治十八年「沖縄県ト清国
 福州トノ間ニ散在スル無人島ヘ国標建設ノ件」(国立公文書館所蔵)
(注6)「標杭建設に関する件」『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二巻・政綱一・
 帝国議会』国立公文書館所蔵
(注7)明治29年 勅令第13号「朕 沖縄県の郡編成に関する件を裁可し〓(ここ)に之を公
 布せしむ」
(注8)百瀬孝『史料検証 日本の領土』河出書房新社、2010。




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