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彦坂 諦Re: [uniting-peace][13833] 右翼と協調的?2010/10/15

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pipopipo555jp

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彦坂 諦Re: [uniting-peace][13833] 右翼と協調的?2010/10/15


原田さん、

いま、こういったことに時間を使える状態ではないのですが、あなたのこういった「言いかた」に対しては、早めにひとこと意見を表明しておかないと、これまでもよくあったように、なにを言ったの言わないの、なにをやったのやらないの、どういう思想だ傾向だと言えるの言えないの、といったギロンにならないギロンがはじまりそうな予感がするので……。

言葉のつかいかたには細心の注意をはらってください。

まず、「2・3の方々からのバッシングが目立ちますが」といった言いかたによって、このメッセージを受けとるひとびとに感情的な「予感」をあたえるたぐいのレトリックは避けたほうがかしこいでしょう。
この「2・3の方々」のなかに、彦坂をも含めておいでなのでしょうか? ま、そうでしょうね。
このところの意見表明からこのわたしが推察しうるのは「ni0615さん」と近藤さんと東本さんとこの彦坂の4人だけで、これ以外には、だれも、あなたのこの言いかたによって示唆されうるひとはいないはずです。このことは、このMLでの発言を見ているひとたちならだれでもわかるでしょう。

その、だれでも名のわかるひとたちを「2.3の方々」と呼ぶこのレトリックは、おおくのばあい、それらのひとびとを暗にヘンなやからだと印象づけるのに用いられるレトリックであり、

「敵」をやっつけるばあいのやりかたではないでしょうか?
批判をなさるなら、「打撃的批判」をなすべき相手と、なかまに対する批判をなすべき相手とをとりちがえるようなことにならないように御配慮くださいますよう。

つぎに「バッシング」という言葉についてです。
この言葉を、いまここで、上記4人の意見表明を「概括」する用語として用いることは、

はたして、正確でしょうか? 
わたしは、「妥当」とか「正当」とかいう判断をではなく、あること(ひとの言動)を概括する
しかたとして正確かどうかをたずねているのです。
もし正確でないのなら、そういう表現は用いるべきではない。
もし不正確であることを知りながら用いたのであれば、そこに潜む「底意」を問題にしなければならない。

おわかりでしょうか?
わたしはあえて、これは「バッシング」ではないとか、
「バッシング」と呼ぶにはあたらないとか、そういう言いかたはしていないのですよ。



つぎに、「右翼と協調的」という言いかたについて。
先便でわたしは「右翼」とか「左翼」とかいったレッテルをまず貼りつけてからものを言うことは
しないほうがいいんじゃないかって書いてますね。
これは、ある種の「概念」によって、だれかを、あるいはなにごとかを「概括」してしまうのではなく、具体的に、そのときそのところで、そのひとがなにをしている(いた)のか、そのできごとが、そのときそのところで、このわたしに、どのような感じをあたえ、なにを考えさせたのか、といったことを問題にしたほうがいいよって言ってるんです。

「右翼」とはなにかについては、ここじゃとりあげません。
問題は「協調的」という表現です。これを「右翼と」とむすびつけることによって、ある種の「非難」(あえてここでは「誹謗」とは言いません)を成立させうると考えるような、そういう人間では、すくなくともこのわたしはありませんが、しかし、そのような非難のしかたがこの社会で(わたしたちのMLという「社会」でも)かなりしばしまなされることは知っています。
しかしねえ、「協調的」といった表現そのものが、かなりアイマイじゃありませんか?


河内さんは、いつでもどこでも「右翼と協調的」なのですか?
そうである、と、わたしや、うえに御名前をあげたひとびとは、断定しているのでしょうか?

もうひとつ、河内さんを「右翼と協調的」と誹謗するのを目にするに至り、ここでひとこと言わなければなりません」といった「言いかた」について。
悲壮な決意表明じゃないですか。
これまでガマンにガマンをかさねてきたが、もはや、ことここにいたってはカンニンブクロノオガキレタ」といったばあいに用いる表現ですよね、これは。

ほんとにそうだったのかしら?
ほんのこの数日の、それも、ほんのちょっとした意見表明からこれほど悲壮な決意をなさるとは、いったい、どういうことなのかしら?
それとも、これもまたレトリックなんでしょうか。
それに「誹謗」と言えるのでしょうかねえ、河内さんに対する批判を。
ま、わたしのさいしょの書きっぷりから、「誹謗だ!」って感じたのだとしたら、それについて弁解しませんがね。
もっとも、あれを誹謗と受けとるには、よほど強固な信念でもお持ちにならないといけないでしょうが。
そのほかのひとびとは、けっして、「誹謗」などしちゃいませんね、すくなくともこのわたしの目からすれば。


河内さんと小生は、世界の中での中国をどう見るかでは若干視点を異にしますが、河内さんは決して「右翼と協調」などと考える人でなく、また、「協調しろ」と主張・命令する人でもない。にも関わらず彼をそのように読み、見るということは、もはや幻覚症状に近いと言わなければなりません。情けない話です。

原田さん、
お気持ちはよぅっくわかりました。
なるほど、だから、反射的に「皆さんの目は曇っている」と言いたくなったのですね。


しかしねえ、わたしがこのところ言ってきてるのは(といっても、たったの2度だけですがね)、あるひとがどういうひと「である」のかではなく、そのひとが、いつ、どういう具体的な状況のなかで、どういう発言あるいは行動を具体的になしたか、という、まさにそのことに対して、具体的に関心をむけるようにしたい、ということなのです。

ほかのひとのことまで言うつもりはない。
このわたし自身について言えば、
わたしがひとことであれなにか言わなきゃって気になったのは、河内さんが「私は国民の右傾化を心配するよりも、日本を思う人たちとの連帯を考えるべきだと思うのです」と発言されていて、そのすぐ下に、日の丸の渦によって象徴される、「ni0615さん」にだけじゃなく、このわたしにも、「ni0615さん」に対してほど頻繁にではないかもしれないけれど、肉体的危害をくわえてきそうになっている、そういうひとたちのふるまいがわかるような映像を引証され、こういったひとたちとの「連帯を考えるべきだと思う」と発言しておられたからなのです。

先便でも書きましたが、
河内さんというひとそのひとを全面的に否認しているのではなく、すくなくとも、このひとのとった具体的な行動の一つには共感も同調もできない、と言っているだけです。
そして、こういう行動をくりかえすであろうことがかなりたやすく予想しうるひとに対して、このわたしたちのグループがどういうふうに対していけばいいのかについての、「ni0615さん」の
具体的な問題提起に接して、このことについては運営委員会において真摯に討議すべきだという東本さんの意見に同意している、それだけのことです。

ダソクをひとこと、つけくわえておきます。
いまは亡き小田実が予備校の英語教師をしていたころの思い出を語っていたそのなかで話されたことなのですが、あなたのお父さんはどういうひとですかといったたぐいの質問にたいして、ニホンジンの生徒たちは、たいていのばあい、わたしの父は学校の教師ですとか、会社員ですとかいった答えかたをする。
おなじ質問に対して、たとえばアメリカ人の生徒たちは、わたしの父はハイスクールで数学を教えています、とか、建築会社でビルの設計をしています、とか、そういった答えかたをする。
こう話したのです。

このちがい、おわかりですか?
名詞的に答えるか動詞で答えるかのちがいなんです。
名詞的表現は、いわば静止的です。
なになにはなになに「である」という表現は、普遍的であり不変的であることを、たいていは、意味します。
これに対して、動詞的表現は力動的(ダイナミック)です。
具体的な行為・行動を表現するのが動詞なんですから。


彦坂 諦
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amorfatis@nifty.com
平和省プロジェクト http://ministryofpeace.jp




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