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第三節 満州に於ける日支鉄道問題

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3、満州に於ける日支鉄道問題


 4分の1世紀間、満州に於ける国際政戦は、主として鉄道政戦なりき。純粋なる経済上及鉄道運輸上の性質に付いての考量は国策の命ずるがままに無視せられ満州諸鉄道は、同地方の経済的発展の為、其の全能力を発揮したりと云うこと能わざるの結果を来せり。吾人の満州鉄道問題研究が示す所に依れば満州においては包括的にして相互に有益なる鉄道計画を達成せんとする協力は支那及日本の鉄道建設当事者及官憲間には殆ど皆無なりき。鉄道の拡張が主として経済的考量に依り決定せられたる西部カナダ及アルゼンチンの如き地方に於ける鉄道の発達に反し、満州に於ける鉄道の発達の歴史は主として日支両国間の拮抗問題に終始せり。従来満州に建設せられたる重要なる鉄道にして支那及日本は他の利害関係を有する外国間の公文交換を伴わざるものなし。

 満州に於ける鉄道の建設は、ロシアが投資及支配下に在りたる東支鉄道を以て始まり、日露戦争後南部に於いては日本の管理する組織即ち南満州鉄道之に代わり斯くして支那日本間の将来の対抗を必然ならしむるに至れり。南満州鉄道会社は名義上私営会社なりと雖、事実上においては日本政府の企業なり。其の職能は、単なる鉄道の経営のみに非ずして、政治的行政の特殊権能をも包含す。会社設立の当時より、日本人は同鉄道を純なる経済的企業として見たることなし。同社の初代社長たりし故後藤子爵は、南満州鉄道は満州に於ける日本の「特殊使命」を果さざるべからずとの基本的原則を定めたり。南満州鉄道網は発達して、能率高き良く管理されたる鉄道企業と成り、満州の経済的発展に大に貢献すると共に、支那人に対し学校、研究所、図書館及農事試験所の如き鉄道以外の諸施設に付模範を示す所ありき。然れども会社は其の政治的性質、日本における政党政治との連繋及何等相応せる財政的利益を期待し得ざる或種の大なる支出の為に生ずる制限及積極的障害を免れざりき。右鉄道会社の組織以来、其の政策は其の鉄道線に連絡せらるるが如き支那鉄道の建設に対してのみ資本を供給し、斯くして直通運輸協定の手段に依り、貨物の大部分を租借地内大連に於ける海運輸出の為南満州鉄道に転向せしめんとするにありき。此の種鉄道の投資に巨額の支出ありたるが、其の建設は或る場合においては、純粋の経済的根拠に照らし妥当なりと為し得べきやは疑問なり。殊に与えられたる大なる資本の前貸及包含せられたる貸付条件に鑑み然りとす。

 支那国土に南満州鉄道の如き外国管理の施設存在することは、自然支那官憲に依り嫌悪せられ、条約及協定による権利及特権に関する問題は、日露戦争以来常に発生せり。特に1924年満州に於ける支那官憲が、鉄道発達の重要なるを認むるに至り、日本の資本より独立せる自身の鉄道を発達せしめんとことを企図したる後においては右問題は一層危機を孕むに至れり。本問題には経済的及軍事的考慮の両者包含せられたり。例えば打虎山・通遼線は、新地域を開発し且北京・奉天鉄道の収入を増加せんが為、計画せられたる次第なるが一方1925年12月の郭松齢謀叛は、独立に所有せられ運用せれるる支那鉄道の有することあるべき軍事的政治的価値を示す所ありき。日本の独占を覆し其の将来の発達を妨害せんとする支那の試みは、南京政府の政治的勢力が満州に及ぶの時期以前より存せしところにして例えば打虎山―通遼、奉天―海龍城及呼蘭―海倫の諸鉄道は、張作霖将軍の時代に建設せられたるものなり。中央政府及国民党の助成に依り蔓延せる「利権回復」運動に依り強硬を加えたる1928年政権獲得後における張学良の政策は、恰も当時南満州鉄道を中心とし集中せられたる日本の独占的膨張的の政策と衝突を来たせり。

 1931年9月18日及其の以後満州に於いて兵力に訴えたることを正当なりとする日本側の主張に於いて、日本は其の「条約上の権利」の侵害せられたることを挙げ且1905年11月―12月、北京に於いて開催せられたる日支会議中支那国政府の為せる左記趣旨の約束を支那が履行せざりしことを強調せり。

 「清国政府は南満州鉄道の利益を保護するの目的を以て該鉄道を未だ回収せざる以前に於いては該鉄道付近に之と併行する幹線又は該鉄道の利益を害すべき枝線を建設せざることを承諾す。」

 満州に於ける所所謂併行線問題に関する紛争は久しきに亘る重要なるものなり。同問題は1907-08年、日本国政府が右権利を主張し、支那が英国商会との契約の下に新民屯―法庫門鉄道を建設せんとするを防止したる時、初めて発生せり。1924年満州に於ける支那人が更新の意気を以て日本の財政的関係より独立せる自身の鉄道を発達せしめんことを企図してより以来、日本政府は支那側の打虎山―通遼及吉林―海龍城鉄道建設に抗議したり。尤も右両鉄道は日本側の抗議にも拘らず完成開通せり。

 調査委員の極東到着以前にありては日本の主張するが如き約束が現に存在するやに付大いに疑問ありき。右紛争は久しきに亘る重要なるものに鑑み、委員は緊要なる事実に関する情報を得る為特別の苦心を払えり。東京、南京及北京に於いて一切の関係文書を審査せり。而して今や吾人は彼の所謂「併行線」に関する1905年11―12月の北京会議における支那全権の約束なるものは何れの正式条約中にも包含せられあらざること、彼の問題の約束は1905年12月4日の北京会議の第11日目の会議録中に存することを陳述し得。御仁は右北京会議録中に記載ある他彼の約束を包含する文書はほかに存せざることに付日本国及支那国参与員よりの同意を得たり。

 故に論点たる真の問題は、支那側に依り満州に於いて或る鉄道が右の如き約束に違反して建設せられたることを日本が主張するに足る「条約上の権利」ありや否やには非ずして、1905年の北京会議録中の前記記載辞句が「プロトコール」と称せらるると否とを問わず正式約定の効力を有し、其の適用において期間又は事情の制限なく支那側を拘束するの言質なりや否やの点にあり。

 北京会議録中の右記載辞句が、国際法上の見地よりして拘束力ある約定なりや、若し然りとすれば、右に与えらるるべき妥当なる解釈は唯一なりやの問題の決定はまさに公正なる司法的裁判所に依り判定せらるるべき事項なり。

 会議録中の右記載辞句の支那側及日本側の正式訳文に依れば「併行線」に関する右問題の辞句が支那側全権の意図も宣言又は声明なることに付いては疑いの余地なし。

 右の如き意図の声明を為したることに付いては支那側においても之を否認せざりき。然れども論争を通し表明せられたる意図の性質に付、両国間に意見の相違ありき。日本は右使用せられたる辞句は南満州鉄道会社が同鉄道と競争線なりと認むる如何なる鉄道をも、支那が之を建設し又は建設することを許可することを禁止するものなりと主張せり。他方支那側が論争の辞句に包含せらるる唯一の意思表示は南満州鉄道の商業上の効用及価値を不当に侵害するの故意の目的を以て鉄道を建設することなしとの意図の陳述なりきと主張す。新民屯―法庫門鉄道計画に関する1907年の公文の交換に際し、慶親王は支那政府を代表して日本公使林男爵宛1907年4月7日付の通告中北京会議において日本全権は南満州鉄道よりの特定哩数に依り「併行線」なる語の定義を定むることには同意を拒否したるも「日本は満州の開発の為支那国の将来執ることあるべき措置を妨ぐるものに非ず」と宣言することを述べたり。故に支那政府は日本が南満州に於いて鉄道建設を独占する権利ありとする正当なる主張権を有したりとすることに付いては常に之を否認し来れりと雖も右期間中事実上南満州鉄道の利益を明白且不当に害する鉄道を建設すべからざるの義務あることは之を承認したるものの如し。

 支那側において何が併行線なりやに関する定義を希望したるも、右定義は未だ定められたることなし。日本政府が1906-08年新民屯―法庫門鉄道の建設に反対したるとき日本は「併行線」とは南満州鉄道より略35哩以内に在る鉄道なりと思考したりとの印象を生ぜしめたるが1926年日本は計画鉄道と南満州鉄道との間の距離は平均70哩以内なることを指摘し「競争併行線」として打虎山―通遼鉄道の建設に抗議したり。充分満足なる定義を作成することは困難なるべし。

 鉄道運用の見地より言えば「併行線」とは「競争線」を云うものにして即ち他の鉄道より其の吸集し得べかりし貨物の一部を奪う線なりと云うことを得べし。競争的運輸は、地方的運輸及直通運輸の両者を包含す。而して特に後者を考慮するときは、「併行線」の建設に反対する規定は如何に甚だ広き解釈となり得べきやを知ること困難ならず。尚又何が「幹線」又は「枝線」なりやに付ても支那および日本間に何等の意見の一致なし。此等の語は、鉄道引用の見地よりすれば変化するものなり。打虎山より北方に延長する北京支奉天鉄道は、当初其の鉄道当局に依り枝線と見做されたり。然るに同線が打虎山より通遼迄完成せられたる後においては、之を幹線と見ることを得。

 並行線に関する約束の解釈が、支那及日本間の激しき論争に至らしめたるは素より自然の数なりき。支那側は南満州に於いて自己の鉄道を建設せむることを企てたるが、殆ど総ての場合において、日本よりの抗議を惹起せり。

 同年9月の事件発生以前、日支間の緊張を加えしめたる鉄道問題の第2類は、満州に於ける支那国政府の諸鉄道建設の為、日本側が資金を貸付けたる契約より生ぜるものなり。遅延金及利子をも含み、1億5千万円の現在価格に達する日本資本は、左記支那鉄道即ち吉林―長春、吉林―敦化、四平街―トウ南及トウ南―昴々渓鉄道並びに或る狭軌鉄道の建設に支出せられたり。

 日本側は支那側が右債務の支払を為さんとせず、又債務に対し適当なる準備を為さんとせず、尚又日本人鉄道顧問の任命に関するが如き契約中の諸条項を実行せんとせざることを訴えたり。日本側に於いては日本側財団が吉林―会寧鉄道の建設に参与することを許さるべしとの支那政府に依り為されたる約束を、支那側が履行せんことを繰返し要求したり。右計画線は。吉林―敦化鉄道を朝鮮国境まで延長し、日本の為其の海港より満州の中心に至る新たなる海陸路の利用を可能ならしめ、他の鉄道と連結して内地との交通を短縮すべし。

 支那側は債務支払履行を弁疏し、右は正常なる貸借行為に非ることを指摘せり。支那側は貸付は主として南満州に於おける鉄道建設を独占せんが為、南満州鉄道に依り為されたること、其の目的は元来軍事的及政治的なること及何はともあれ新線は甚だしく過剰に資本を投下せられたるものなるを以て少なくとも当分は建設費及債務の償還に必要なる金銭を収得することの財政上不可能なることを主張したり。支那側は債務不履行の何れに付いても、公正なる審査を為すにおいては、其の行為の正当なることを証すべしと抗議せり。

 吉会鉄道については日本側の主張せる協定の道徳的及法的効力をも排除せり。

 借款論争を自然惹起せしむる此等鉄道協定に関連し存在せる一定の事態ありき。南満州鉄道は事実上何等支線を有せず。而して貨物及旅客運輸を増加する為栄養線網を発達せしむることを欲せり。仍て会社は假令借款が近き将来において償還せられ得るの望少なき場合と雖も新線の建設に出資することを乱せざりき。又初期の借款が行悩める場合にもより以上の出資を継続することを乱せざりしなり。

 斯かる状態に於いて、而して新規に建設せられたる支那線が南満州鉄道の栄養線たるの役目をなし且或程度迄右南満州鉄道の勢力下に運営せられたる限り、南満州鉄道は借款の償還を強制する為何等の特別の努力を為さざりしものの如く、支那線は常に増大する借款義務を負いて運用せられたり。然れども此等鉄道線の或るものが新規の支那鉄道網に連結せられ且1930年乃至1931年に南満州鉄道と激烈なる競争を起こすに及んで借款の不償還は直に苦情の目的となりたり。

 此等借款協定の或る場合に於ける他の紛議を生じ易き要素は其の政治的性質なり。吉長鉄道が南満州鉄道会社の支配下に置かれ、同線未済の負債が1947年に満期となる長期借款に借換えられたるは所謂「21ヶ条要求」の結果なり。所謂「満蒙四鉄道協定」の結果として1918年に出資せられたる前渡金2千万円は其の使用の目的に付何等の制限なく「安福派」軍閥政府に対し為されたる所謂「西原借款」の一なり。吉会鉄道建設を目的とする1918年の借款呼び契約に関連して安福派に一千万円を前渡せるも西原借款の結果なり。支那国民の感情は「西原借款」に関し其の交渉以来激発せるにも拘らず支那政府は右借款を拒絶せざりき。斯かる状態に於いて支那国民は借款契約の条件を履行すべき道徳的義務を殆ど感ぜざりき。

 日支関係に於いて特に重要なるは吉会鉄道計画に関する問題なり。最初の問題は1928年建設完成せる吉林より敦化に至る線の一部に関連す。爾来日本側は支那側が建設を目的とする日本前渡金を鉄道収益に依り保障せらるる正規の借換せざるを理由とし不平をならし又支那側が同線の為日本人会計吏の任命方を拒絶し契約に違反したる旨を主張せり。

 一方支那側は建設費が日本人技師の見積高より遥かに大なるのみならず、馮証提出せられたる金額をも超ゆること大なる旨を主張し、建設費の決済せらるる迄正式に同線を引受くることを拒絶し且右決済に至る迄日本人会計吏を任命すべき何等の義務をも負わざる旨を抗議せり。

 何等の主権または政策の問題を包含せるかかる特定の技術的問題は明らかに仲裁又は司法的解決に付するを適当とするも、本問題は未解決のまま残され日支人相互の憤怨を助長せしめたり。

 一層重大且複雑なるは敦化より会寧に至る鉄道の建設に関する問題なりき。同線は長春より朝鮮国境に至る鉄道を完成すべく右国境に於いて付近の朝鮮港に通ずる日本鉄道と連絡すべし。中部満州に直接開通し且木材及鉱物資源の豊富なる地方を開拓すべき本線は経済的価値あると共に日本にとりて大なる戦略的重要性を有すべし。

 日本側は本線は必ず建設せらるべく且右資金供給に與からざるべからず旨を固執し又支那側は既に右の為の条約上の保障を與へたる旨を主張せり。又日本側は支那政府が1909年9月4日の間島協定に於いて「日本政府と商議の上」同線を建設すべきことを約せる旨指摘せるが右約束は満州の間島地方に対する朝鮮従来の要求を日本が放棄する代償として与えられたるものなり。後年1918年に於いて支那政府及日本諸銀行は本線建設の為の借款に対する予備的協定に署名し右協定に依り銀行側は支那政府に一千万円の金額を前渡せるが右は支那側より見れば協定の効力を阻害する事実たる西原借款の一なり。

 然れども此等契約は孰れも無条件に且特定期日前に支那側をして日本資本家の右鉄道建設参加を認めしむべき確定的借款契約協定には非ざりき。

 本線建設の為の正式且確定的締約は1928年5月、北京に於いて署名せられたる旨主張せられたるも、其の効力に関しては幾多の疑義ありき。斯かる契約は5月13日乃至15日に非常的状態の下に張作霖元帥当時の北京政府の交通部代表者に依り確かに調印せられたり。然れども支那側は当時国民軍に依り強抗に圧迫せられ且将に北京を撤退せんとせる張元帥は若し彼にして本契約を承認せざれば奉天への退去は危殆に瀕すべしとの日本側の威嚇に因る「強迫の束縛」の下に、其の代表者をして署名せしむることを承諾せるものなる旨を主張す。又張作霖元帥自身も果たして契約に署名せりや否やは論争の点なりき。張元帥の歿後奉天東北政治委員会及張学良元帥は共に本契約は形式に欠陥あり且束縛の下に締結せられ北京内閣又は東北政治委員会に依り未だ嘗て批准せられたることなしとの理由に依り契約を承認することを拒絶せり。

 敦会線建設に対する支那側反対の理由は日本の軍事的及戦略的目的を恐れ且国家の権利及利益は日本海より満州への日本の新たなる接近に依り威嚇せらるべしと信じたることに在りたり。

 此の特殊の鉄道問題は元来財政的又は商業的問題に非ずして日本及支那の国家的政策の衝突を包含するものなりき。

 又支那及日本線間の運輸連絡措置、運賃率問題及大連港と営口(牛荘)の如きは支那港との間の競争に関する問題もありき。

 1931年9月迄に支那政府は独力にて全長約千基米の鉄道を布設し所有し、且運用せり。其の最も主なるものは奉天海龍間、海龍吉林間、齊々哈爾克山間、呼蘭海倫間及打虎山通遼間(京奉網支線)鉄道にして、支那政府は京奉鉄道及日本資本の投ぜられたる線即吉長線、四トウ線及トウ昴線を所有せり。現在の紛争勃発前2年間支那側は此等諸線を一大支那鉄道網として運用せんとし且支那港たる営口(牛荘)可能の場合には胡蘆島において海口を有する支那側運用線路のみを使用して能う限りの一切の貨物を運輸すべく努力せり。其の結果支那側は其の全鉄道網に亙り運輸連絡の措置をなすと共に重要線区に於いて支那線と南満州鉄道との間に同様なる運輸連絡協定をなすことを拒絶せり。日本側は右差別は普通少なくとも満鉄線の一部を通過し大連に出口を求むべき北満よりの多大の貨物を南満州鉄道より奪取するものなる旨主張せり。

 此等運輸連絡紛争と併行して激烈なる運賃率問題日支両線間に勃発せり。右は支那側が打通線及吉海線の開設後賃率を低減したる1929年乃至1930年に始まれり。支那線は当時支那銀貨幣価値の暴落し従って此等諸線に於ける銀貨による賃率が南満州鉄道における金円による賃率より低廉となりし結果自然的利益を得たるもののごとし。日本側が支那の賃率の余りに低廉なる為右は不正競争を構成するものなる旨を主張せしも、之に対し支那側は其の目的は南満州鉄道の場合の如く元来収益を獲得するに非ずして国土を発展せしめ地方住民をして能う限り低廉に市場に到達せしむるに在る旨答え居れり。


 将又運賃率引下げの競争に偶然随伴して双方より夫々他方は其国民の利益の為賃率の差別を又は秘密なる割戻金の支払をなす旨主張せり。日本側は支那側が支那産品を外国品より低廉に支那線上を運搬せしめ得るが如き鉄道等級の区分をなし居るを非難し且支那管理の諸港に向け支那線を通じ仕向けらるる自国産品及貨物に対し普通よりも低廉なる賃率を与えるを難詰せり。又支那側においては之に対し南満州鉄道は秘密の払戻をなすを非難し特に日本の運送業者が其の取扱に係る貨物に対し南満州鉄道の正規表定賃率より低廉なる運賃率を掲げ居ることを指摘せり。

 此等問題は全く技術的にして複雑なるものなりき。而して日支双方が夫々相手方に対して為せる非難は何れが妥当なるやを決定するは困難なりき。本問題の如きは鉄道委員会又は司法的決定(本報告諸付属特別研究第一参照)に依り通常解決せらるべきものは明らかなり。

 満州に於ける支那官憲の鉄道政策は胡蘆島に於ける新たなる港湾発展に集中せられたり。牛荘は第二次港たる唯だ胡蘆島の完成に至る迄主港たるものなり。事実満州のあらゆる部分に至るべき数多の新規の鉄道が計画せられたり。日本側は支那側に依り実施せられたる運輸連絡の施設及低廉なる賃率の為通常大連に向けて運輸せらるべき多くの貨物を大連より奪取し右状態は1930年に特に顕著なりし旨主張せり。日本側は南満州鉄道に依り大連に向け輸出せらるる輸出貨物は1930年に於いて百万米噸以上の減少を見たるに牛荘港は現実に前年より増加を示したる旨指摘せり。然れども支那側は大連に於ける貨物の減少は主として一般不況及普通南満州鉄道に依り輸送せらるる貨物の大部分を占むる大豆の著しき暴落に起因せるものなる旨を指摘せり。支那側は又牛荘に於ける貨物の増加は新規の支那鉄道線に依り最近開拓せられたる地方よりの貨物運送の結果なりと主張せり。

 是等数多の鉄道問題を全般的に考察するに其の問題の多くは其の性質技術的にして且通常の仲裁又は司法手続に依り解決し得らるるものなること明白なれ共或るものは国家的政策に深き根拠を有する紛争より来れる日支両国間の激甚なる競争に因れるものなり。

 事実上一切の此等鉄道問題は尚1931年の当初に於いて未解決なりき。此等懸案たる鉄道問題に付政策を調和せしむるを目的とする会議の開催方に付日支双方に依り為されたる最後的且友好的努力は1月より夏迄断続的に継続せられたり。所謂木村・高間の商議は何等の効果を齎さざりき。交渉が1月に開始せられたる際には双方に誠意の証跡ありたり。然れども種々の遅延あり(右に対して日支双方に責任あり)結局周到なる準備をなせる正式会議は現今の扮装の起これる時には尚行われ居らざりき。


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