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第二節 満州に於ける日支両国間の根本的利害関係の衝突

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2、満州に於ける日支両国間の根本的利害関係の衝突


 支那人は満州を以て支那の構成部分と見做し同地方を支那の他の部分より分離せしめんとする一切の企てに対して憤慨す。従来東三省は常に支那及諸列国が共に支那の一部と認むる所にして、同地方に於ける支那政府の法律上の権限に付異議の称えられたることなし。右は多数の日支間諸条約及協定並びに他の諸国際条約により明らかなる所にして又日本を含む諸国の外務省より正式に公表せられたる多数「ステートメント」に繰返えされ居る所なり。

 支那人は満州を以て其の「国防の第一線」と考え居れり。支那の領土として満州は之と接壤する日本及ロシアの勢力が之等の地域より支那の他の地方に侵入するを防ぐ為の前哨とせられ居れり。北京を含む長城以南の支那へ満州より侵入することの容易なるは歴史上の経験に依り支那人の熟知する所なるが、右東北よりの外国の侵略を虜るる念は鉄道の発達に依り近年一層増大し且前年の事件中一層激化せられたり。

 支那人は又経済的理由によるも満州の彼等の為に重要なるを認むるものにして、数十年来彼等は満州を「支那の穀倉」と呼び更に近年に至りては之を近隣諸省の支那農民及労働者の季節的勤労地と認むるに至れり。

 支那は全体として人口過剰なりと謂い得べきやは疑問なるも、或地方又は或省例えば山東省の如きが住民を他地方に移出する要ある程度に人口過剰なることは此の問題に関する権威者の一般に認むる所なり(付属書第3号の特別研究参照)。従って支那人は満州を以て現在及び将来に於ける支那の他地方の人口問題を緩和し得る辺境地方と認め居れり。

 支那人は満州の経済的開発が主として日本人の力に依るとの主張を否定し、其論駁の根拠として特に1925年以降に於ける支那人の植民事業、彼等の鉄道建設及其の他の事業を挙げ居れり。

 満州における日本の利益は諸外国の夫れと其の性質及程度に於いて全く異なるものあり。1904-5年、奉天及遼陽南満州鉄道沿線、鴨緑江、並びに遼東半島等、満州の野に於いて戦はれたる日本のロシアに対する大戦争の記憶は総ての日本人の脳裏に深く印せらるる所なる。日本人にとりては対露戦争はロシアの侵略の脅威に対する自衛の為生死を賭したる戦として永久に記憶せらるべく此の一戦に十万の将士を失い且二十億円の国費を消費したる事実は日本人をして此の犠牲を決して無益に終らしめざらんことを決心せしめたり。

 然れども満州における日本の利益は其の源泉を日露戦役より十年以前に発す。1894-5年の主として朝鮮問題に関する日清戦争は大部分旅順及満州の野に於いて戦われたるか、下関に於いて調印せられたる講和条約に依り遼東半島は完全に日本に割譲せられたり。日本人にとりてはロシア、フランス及ドイツが此の獲得したる領土の放棄を強制したる事実は日本が戦勝の結果満州の此の部分を獲得し之に依りて日本は同地方に対する道徳的権利を得、其権利は今尚存続するものなりとの確信に何等の変更を及ぼすものに非ず。

 満州はしばしば日本の「生命線」なりと称せられ、満州は現在日本の領土たる朝鮮に境を接す。支那4億の民衆が一度統一せられ強力となり且日本に敵意を有し満州及東部アジアに幡距するの日を想像することは多数日本人の平静を撹乱するものなり。然れども彼らが国家的生存の脅威及自衛の必要を語る時多くの場合彼等の意中に存するのは寧ろロシアにして支那に非ず。従って満州における日本の利益中根本的なるものは同地方の戦略的重要性なり。

 日本人中には日本はソ連邦よりの攻撃の場合に備える為満州に於いて堅き防禦線を築く要ありと考え居るものあり。彼等は朝鮮人の不平分子が隣接せる沿海州のロシア共産主義者と連携して将来北方よりの軍事的侵入を誘致し、又はこれと協力することあるべきを常に惧れ居れり。彼等は満州を以てソ連邦及支那の他の部分に対する緩衝地帯と認め居れり。殊に日本の陸軍軍人はロシア及支那との協定に依り、南満州鉄道沿線に数千の守備兵を駐屯せしむる権利を得たるは日露戦争に於ける日本の莫大なる犠牲に対する代償としては尠(スクナ)きに失し、同方面よりの攻撃の可能性に対する安全保障としては貧弱に過ぐると考え居れり。

 日本政府は日露戦争以来随時ロシア、フランス、英国及米国より満州における日本の「特殊地位」、「特殊勢力及利益」又は「最高の利益」の承認を得んことを試みたるが、其の努力は単に部分的に成功したるに止まり斯かる要求が稍々明確に認められたる場合にも右承認を含む国際協定及了解の多くは時の経過と共に正式なる廃棄又は其他の方法に依り消滅するに至れり。旧ロシア帝政政府と結ばれたる1907年、1910年、1912年及1916年の日露秘密協約、日英同盟協約、1917年の石井・ランシング協定は其の例なり。

 ワシントン会議に於ける1922年2月6日の九国条約の調印国(米、白(ベルギー)、英、支、仏、伊、日、蘭、葡(ポルトガル)の九ヶ国)は、「支那に於いて一切の国民の商業及工業に対する機会均等」を維持する為、支那の「主権、独立並びに其の領土的及行政的保全を尊重すること」を約定することに依り、支那に於いて「特別の権利又は特権を求むる為」支那に於ける情勢を利用することを差控えることに依り、また「支那自ら有力且安固なる政府を確立維持する為、最も完全にして且最障害なき機会」を之に供与することに依り、満州を含む支那の各地方に於ける調印国の「特殊地位」又は「特別の権利及利益」の要求を広き範囲において非とせり。

 然れども九国条約の規定及廃棄其の他の方法に依る前記諸規定の失効は日本人の態度に何等の変更を生ぜしめざりき。石井子爵が其の最近の「メモリアル」(外交余禄)中に左記の如く述べ居るは良く同国人一般の意見を表明し居るものと謂うべし。

 「石井・ランシング協定は廃棄せられたりと雖も日本の特殊利益は何等変化を受くることなく存在す。支那に於いて日本の有する特殊利益は国際協定に依り生じたるものに非ず。又廃止の目的物と為り得るものにも非ず」

 上記満州に関する日本の要求は支那の主権に抵触し又国民政府の翹望と両立し得ざるものなり。蓋し同政府は支那領土を通じて今尚諸外国の有する特別の権利及特権を減殺し、且将来之等の特別の権利及特権の拡張を阻止せんことを企図するものなるを以てなり。日支両国が夫々満州において行い政策を考察せば此の衝突が益々拡大すべきこと自ら明らかとなるべし。

 1931年9月の事件に至る迄1905年以来日本の諸内閣は満州において同一の一般的目的を有したるものの如く為るもその目的は成就する為最も適当なりとする方法に関して見解を異にし、又治安維持に対して日本の取るべき責任の範囲に付稍意見の相違ありたり。

 満州における彼等の一般的目的は日本の既存利益を維持発展し、日本の企業の拡張を助成し且日本人の生命財産の充分なる保護を得るに在りたり。以上の目的を実現する為に採られたる諸政策の総てに共通する一つの主要なる特徴は満州及東部内蒙古を支那の他の部分と明瞭に区別せんとする傾向にして、右は満州における日本の「特殊地位」に関する日本人の観念より生ずる自然の結果なり。日本の諸内閣の主張したる各特別なる政策、例えば幣原男爵の所謂「友好政策」と故田中男爵の所謂「積極政策」との間に如何なる相違ありたるとするも前記の特徴は常に共通のものなりき。「友好政策」はワシントン会議の頃より始まり1927年4月迄継続せられ、「積極政策」之に代わり1929年7月に至り更に「友好政策」に戻り1931年9月迄外務省の正式の政策として継続せられたり。右両政策の原動力たる精神には著しき相違あり。「友好政策」は幣原男爵の言を以てせば「好意と善隣の誼を基礎」とし、「積極政策」は武力を基礎とするものなり。然れども満州において採るべき具体的方策に関する両政策の相違は大部分満州における治安維持及日本の利益保護の為為すべき行動の程度の如何に在りたり。

 田中内閣の「積極政策」は満州を支那の他の部分より区別することを強調し、其の積極的性質は「若し動乱満州及蒙古に波及しその結果として治安乱れ、同地方に於ける日本の特殊地位及権利利益の脅威を受くる場合、其の脅威の如何なる方面より来るを問わず日本は敢然其の権益を擁護すべき」旨の腹蔵なき宣言に依って明らかにせられたり。田中政策は其以前の諸政策が其の目的を満州における日本の利益の擁護に限定せるに反し満州における治安維持の責を日本国がとるべき旨を明らかにしたり。

 日本政府は満州において有する特殊なる権益を維持発展せしむる為満州においては概して支那の他の地方に於けるより一層強硬なる政策を行えり。或内閣は武力に依る威嚇を伴う干渉政策に傾けり。右は1915年支那に対する21ヶ条要求の際に於いて殊に然るものありしが、21ヶ条要求並びに他の干渉及武力政策の得失に関しては日本国内に常に著しき意見の相違ありたり。

 ワシントン会議は支那の他の地方の事態に著しき影響を及ぼしたるも満州においては実際殆ど変化の見るべきものなかりき。1922年2月6日の九国条約は支那の領土保全及門戸開放に関する規定あり又同条約の効力は条文上満州にも及ぶべきものなるに拘らず、満州に付いては日本の既存利益の性質及範囲に鑑み単に其制限的適用ありたるのみ。前述の如く日本は1915年の条約に依り許与せられたる借款及顧問に関する特別の権利を正式に放棄したるも、九国条約は満州に於ける既存利益に基づく日本の要求を実質上何等縮小することなりき。(ママ)

 ワシントン会議より1928年の張作霖将軍の死に至る期間、満州に於ける日本の政策は東三省の事実上の支配者との関係に関するものなりき。日本は彼に或る程度の支持を與えたるか、特に前章記載の郭松齢謀叛の際に於て然りとす。張作霖将軍は日本の要求中の多数に反対したりと雖も、右支持の報償として、日本の希望に対し適度の承認を与えることを必要なりと感じたり。右希望は優越せる兵力に依り何時にても強要せられ得えるものなりを以てなり。張作霖は又時に北方に於けるロシアの敵対に対し、日本よりの支持を得られんことを希望せり。

 換言すれば、日本の張作霖将軍との関係は日本の見地よりして相当に満足なるものなりき。

 尤も彼の晩年には、彼が日本側主張の約束及協定の一部を履行せざりし結果右関係は次第に不穏を加えるに至れり。1928年6月における彼の敗北及奉天への最後の退却前の数ヶ月前に於いては、日本側の感情が張作霖に反対に激変せむとする徴さえ顕然たるに至れり。

 1928年春、支那国民軍が張作霖軍を駆逐せんが為、北京に進軍中なりし時、田中男爵を首相とせる日本国政府は、日本国の満州に於ける「特殊地位」に鑑み右地方に於ける平和及秩序を維持すべき旨の声明を発せり。国民軍が内乱を長城以北に及ぼさんとする惧れあるに至るや日本国政府は5月28日、指導者たる支那将軍に左の通告を送れり。

 「満州の治安維持は、日本国政府の最も重視する所にして、苟も同地方の治安を紊し、若しくは之を紊すの原因を為すが如き事態の発生は、日本国政府の極力阻止せむする所なるが、既に戦乱京津地方に進展し其の禍乱、満州に及ぼさんとする場合には日本国は満州治安維持の為適当にして且有効なる措置を執らざるを得ざることあるべし。」

 右と同時に、田中男爵は日本政府は「敗退軍又は其の追撃軍」が満州に入るを防止すべしとの一層確然たる「ステートメント」を発せり。

 右遠大なる政策の宣明は、北京及南京の両政府よりの抗議を招致したるが、南京政府の「ノート」は日本の提議するが如き措置は、唯に「支那国内事項の干渉たるに止まらず、又領土主権相互尊重の原則の甚だしき侵犯」なりと陳述せり。

 日本においても、田中内閣の右「積極政策」は一党より強き支持を受けたる一方、他の一党特に幣原派に依り全満州における治安維持は日本の責任に非ずとの理由を以て、非議せられたり。

 1928年、亡父の後を承けたる張学良と日本との関係は、当初より次第に緊張を加える所ありき。日本は、満州が南京に新に樹立せられたる国民政府より分立し居らむことを希望したるが、張学良将軍は南京政府の政権を承認せんことに傾き居たり。日本官憲より張学良に与えられたる中央政府に忠順を誓うべからずとの緊忽の忠言に付いては、既に記述する所ありき。然れども奉天政府が1928年12月、奉天における政府諸官所に国民党旗を掲揚したるとき日本政府は干渉を試むることなかりき。

 日本と張学良将軍との関係は、緊張を継続し1931年9月直前の数ヶ月に於いては険悪なる軋轢の進展を見たり。


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