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まえがき コリア論の偏り 鄭大均

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まえがき コリア論の偏り 鄭大均



日本におけるコリア論(一韓国論・北朝鮮論・在日論)には今も昔も偏った言説が少なくない。一九六〇年代から七〇年代にかけて、韓国の軍事独裁政権を激しく批判しながらも、北朝鮮の側の本物の軍事独裁について語られることが少なかったというのはその例であり、当時、韓国の民主化闘争への連帯を叫び、独裁政権の人権侵害について情熱的に語った人々が、今日、北朝鮮の人権について語ることを避けているというのは、そのもうひとつの例であろう。

なぜこんなことになるのか。それは日本におけるコリア論の成り立ちと無関係ではない。コリア論はおおまかに「書く人」「書かれる人」「読む人」の三者関係によって構成されると考えられるが、この分野に特徴的なのは、「書かれる人」が「書く人」に大きな影響力を行使しているということとともに、「書かれる人」が北と南、平壌とソウルというように対立・分裂していて、「書く人」に価値自由な立場、イデオロギー的に自由な立場をなかなか与えてくれないということである。

といっても、六〇年代から七〇年代にかけて、影響力を発揮していたのは「書かれる人」本人というよりは、その代弁者であり、具体的には、朝鮮総連―在日本朝鮮人総連合会―の人々が日本人や在日からなるコリア論者に影響力を発揮していたのである。やや古手のコリア論者で、この朝鮮総連の思想的影響から自由であったといえる者は数えるほどしかいない。本書に登場する神谷不二や田中明はその稀有な例である。朝鮮総連の影響力といってもピンと来ない人には、朝鮮総連は朝鮮労働党によって操作された在日組織であり、朝鮮労働党はかつて日本社会党と友党関係にあったとか、朝鮮総連は日教組や総評や中立労連や国鉄労組や自由法曹団や日本婦人団体連合会や部落解放同盟やその他多くの知識人や議員や出版社と友好関係にあったということを記しておきたい。コリア論の世界は長い間、平壌の意志を規範としていたのである。

かつて韓国の軍事独裁には痛烈な批判が加えられても、北朝鮮の軍事独裁については語られることが少なかったという状況は、こうした「書く人」と「書かれる人」の関係から説明できるものであり、それは当然のことながら「読む人」の隣国観にも大きな影響を与えた。七〇年代末に行われたある世論調査によると、日本人の多くは北朝鮮よりも韓国に「自由がない国」とか「独裁的な国」という印象を抱いていたが、それは不可能を可能にするコリア論者たちの努力の成果であったのである(拙著『韓国のイメージ」中公新書参照)。
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だが、内外の状況はその後大きく変化する。隣国に関心を寄せる日本人といえば「アカか拝み屋かブローカーか」などといわれた時代があったが、今では老いも若きも、男も女も隣国に関心を寄せるようになっており、当然のことながら、コリア論の担い手も多様化している。より重要なのは朝鮮半島自体の変化であろう。韓国と北朝鮮は自分の意志とは無関係に引き離され、生育した一卵性双生児のようなもので、一方は資本主義を、他方は共産主義を理念として持たされ、理念を共有する仲間たちとの交流を経験し、そのアチーブメントには当初は北の優位を印象づけるものもあったが、今やその優劣は明瞭である。南がOECD(経済協力開発機構)のメンバー国になっているのに対し、北は今や独裁や核や飢餓や覚醒剤や人権蹂躙で知られる国であり、韓国が北朝鮮よりも「自由がない国」であるとか「独裁的な国」と考える日本人は今やだれもいないであろう。

しかし、にもかかわらず、コリア論をめぐる三者関係には意外なほどの安定性が維持されていることに私たちは注目していい。確かに一方には、変化がある。何よりも、北朝鮮は今や「ならず者国家」「拉致国家」や「カルト国家」といった否定的脈絡で語られる国であり、北朝鮮を称賛するような人間はいなくなったし、在日コリアン世界の勢力分布にも大きな変動があった。「書かれる人」が「書く人」に影響を与えようとする態度は今も維持されているが、今日影響力を発揮しているのは平壌というよりはソウルの側であり、また在日組織の場合でも、
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朝鮮総連よりは民団(在日本大韓民国民団)のほうが影響力を行使する時代になっている。

だが、ここには「変化によってもたらされた無変化」とでも形容できるような不思議な状況があり、この点で重要なのは韓国の変化であろう。周知のように、特に金大中政権(一九九八~二〇〇三年)以後の韓国に見てとれるのは「反共ナショナリズムの国」から「民族ナショナリズムの国」へという変化であり、かつて北に対する南の異質性を強調し、共産主義に対する自由民主主義の道徳的優位性を語っていたはずの韓国が、今では北との同質性を強調し、その否定性については見て見ぬふりをするようになっているのである。

この風景にしかし私たちは、ある種の既視感(デジヤ・ビユ)を覚えることはないだろうか。なぜなら、ここに見てとれるのは、かつて東京の左派・進歩派系知識人によって主導されたコリア論が、今ではソウルの知識人たちによって継承されているという風景であり、朝鮮総連に代わって今では民団が、日本の知的世界や政界への影響力を行使しているのであり、その民団は朝鮮総連の工作によって大きく変貌している。結果的に「書かれる人」「書く人」「読む人」という三者関係には不思議なほどの一貫性が維持され、それは、かって北を称揚し、南を貶めることに生きがいを見いだしていた人間にも自己欺瞞や自己矛盾を自覚させることなく、心や身体の習慣を維持する機会を与えてしまっているのである。これはしかし、おかしくはないかと私は思う。

というわけで、私は日本におけるコリア論に違和感が少なくないのだが、本書が扱う視野はより広い。本書は東京から発信されるコリア論の俗説や通説にも批判を加えるが、ソウルや平壌から発信される「韓国論」や「朝鮮論」や「日本論」にも関心を寄せるもので、そのテーマは歴史認識の問題から韓国ナショナリズムや焼き肉の話まで多岐にわたる。著者の多くはそれぞれの分野で最も明瞭にモノを語れる人々であるが、玉城素、田中明、神谷不二というこの世界の三人の長老たちの最新の論考を加えることができたのは幸運であった。グローバル化や情報化の時代などというが、日韓や日朝にまつわる言説には、党派的・イデオロギー的な棲み分けもあれば、言語や国境の垣根による棲み分けもあって、異論や反論が向きあう機会は意外に少ない。その意味では、本書は誰よりも著者たちとは心や身体の習慣を異にする読者たちに、とりわけ若い読者たちに読んでほしいと思う。

鄭 大均


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