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【正論】学習院大学教授・井上寿一 異質中国との歴史研究のリスク

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【正論】学習院大学教授・井上寿一 異質中国との歴史研究のリスク

2010.3.12 03:29


 2005年の近隣諸国の反日デモをピークとして、外交・政治・社会問題としての歴史教科書問題は、今では表面上ではあれ、沈静化している。このような状況のなかでこそ、本格的な議論を始めるべきではないか。以下では外務省のウェブサイトが公開している日中歴史共同研究の報告書を手がかりに考えてみたい。

 ≪多国間の国際関係の中で≫

 すでにいくつかの新聞が報じているように、この報告書は、中国側の事情による戦後史部分の非公開、討議要旨の削除など、問題が多い。だからといって、放っておくわけにはいかない。専門家による今後の研究の進展に期待する、といった傍観者的な態度も無責任だ。事は私たちの歴史認識にかかわっているからである。

 報告書の近現代史の部分は2部構成になっている。第1部は1920年代までの時期を扱う。注目すべきは次のような認識である。「この時期にはまだ多くの政策の可能性や選択肢が残されており、友好から敵対への転換点とすることは適当ではない」。この観点を生かすとすれば、今後は、たとえば日清戦争回避の可能性、あるいは第一次世界大戦後の日中協調関係の条件などを解明すべきだ。

 その際に重要なのは、日中関係の歴史的な展開を2国間レベルに止めることなく、侵略-被侵略(加害-被害)の二項対立図式を超えて、多国間の国際関係のなかで分析することである。この時期の日中関係の「可能性や選択肢」が具体的に明らかになれば、それはこれからの日中関係に大きな示唆を与えるにちがいない。

 ≪検証の科学的方法の重要性≫

 第2部は満州事変から太平洋戦争までの「戦争の時代」である。この部分に関しては、2点、言及したい。一つはいわゆる南京事件のことである。もう一つは戦争の社会変革作用についてである。

 第1の南京事件はどのように記述しても、中国側からであれ、日本国内からであれ、何らかの批判は避けがたい、政治的な争点になりやすいテーマである。社会的な関心も高い。

 このことを当然の前提として、執筆者は史料実証主義に徹して記述している。史料に基づく客観的な叙述に政治的な配慮の痕跡は認められない。ここにあるのは執筆者が求めた「真実」である。

 もとより南京事件に関して異なる解釈の余地はある。それでも報告書が指摘する次の点は共通認識とすべきだ。「犠牲者数に諸説がある背景には、『虐殺』(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している」。検証作業は科学的な(反証可能性が担保された)方法によっておこなわなくてはならない。

 しかし自然科学の実験室における追試験とは異なり、歴史の検証作業は特別な困難が伴う。「われわれはみな、過去のイメージを現在において作り出し…心地よく思うイメージに、過去を当てはめようとする」(ケネス・フィーダー『幻想の古代史』)からである。

 それでも「さまざまな独立した証拠が収斂する」(同書)時、私たちはそこに歴史の真実を発見することができる。この観点から、南京事件に限らず、日中関係史の検証作業を続けるべきだろう。

 第2の点を指摘したいのは、報告書の記述の大半を占める軍事史、戦争外交史以外の視点も必要ではないかと考えたからである。戦後、中国はなぜ共産化したのか。戦後の日本はなぜ戦前との連続性を強く持っていたのか。これらの疑問を解く鍵となるのが戦争の社会変革作用である。言い換えると、軍事史、戦争外交史だけでなく、社会史を加えることによって、日中関係史を再構成する試みがあってよいのではないか。

 ≪「友好」を前提とするにも≫

 社会史の視点の導入による新しい日中関係史像の提示は、両国の外交関係の改善にとって、必ずしもプラスとはならず、リスクを伴うものになるかもしれない。「悪いのは日本の軍国主義者である。日本の人民は、中国の人民と同様に、日本の軍国主義者の被害者である」。戦後の日中「友好」関係の前提となる、このような共通認識の基本的な枠組みが崩れかねないからである。

 それでも戦争をとおして共産党権力が確立していく中国と、戦争と民主化を同時に進めていく日本との国家間関係史として、日中関係史を構築することができれば、政治的なイデオロギー対立を相対化して、議論を深めることができるだろう。

 日中歴史共同研究の日本側座長北岡伸一教授によれば、今回の研究は議論の「入り口」だという。共同作業の第2期においては、以上に述べた点も含めて、研究のいっそうの進展を求めるとともに、私たち国民一人ひとりも、それぞれの立場から何らかの形で、日中関係の歴史を考え続けていかなくてはならないと思う。日中歴史共同研究の成否は、同じアジア地域の隣国でありながら、異質な他者の中国と日本が共存できるか否かの試金石だからである。(いのうえ としかず)


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