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戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(2)

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『防衛研究所紀要』第4巻第3号(2002 年2月)100 ~ 119 頁。

戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(2)



5 日本人の歴史認識の特徴-複雑な意識の背景-


 日本人の太平洋戦争に関する歴史認識において、ドイツ人と比較した場合、被害者意識に比べ加害者意識が稀薄であるとしばしば指摘されるところであり、その点のみを批判するのは容易である。しかし、そうした複雑な意識の要因・背景を考察することによって、その日本人の歴史認識の全体像を理解することができるであろうことは想像に難くない。そこで、本節では、その点について分析を行なう。

 第一に指摘できるのは、太平洋戦争の多面性48 である。先ず、対米戦に関しては、真珠湾攻撃という日本の奇襲攻撃により始まった戦争であるにもかかわらず、原爆投下、大空襲、さらにはペリー以来の特殊な対米観の影響もあり、戦争原因は両者にあるとの認識とともに、被害者意識が顕著である。ソ連との戦争では、日ソ中立条約を一方的に破棄した侵攻、満州での悲惨な体験、そしてシベリア抑留と、一時期の日本人の社会主義への幻想もあり明確な非難の形はとらないものの、被害の側面が意識されがちである。

 ついでアジアにおける戦争であるが、中国との戦争は、戦争原因はともかく、南京事件をはじめとする日本軍による「残虐行為」のイメージが強い。東南アジアにおける戦争は、イギリス、オランダといった宗主国を相手に戦った戦争であり、現地住民を敵としたものではなかったが、その過程において強制労働など華僑を中心に住民に被害を与えた点は否定し得ない。一方、これら地域が戦後独立した結果から、「アジア解放」の戦いであったと見做す日本人も少なからず存在していると言えよう。又、朝鮮と台湾に対する植民地統治の問題が存在するが、これは直接太平洋戦争とは関係がなく、むしろ帝国主義時代を世界史のなかにいかに位置付けるかの問題である。もちろん太平洋戦争期におけるいわゆる「強制連行」の問題も存在するが、太平洋戦争と植民地支配は一応峻別して考えるべきであろう。

 このようにドイツと比較した場合、戦争局面は多様であり、それ故、「被害」と「加害」が重層的に混在しており、他方個人による戦争体験の相違の原因ともなっている。

 又、戦争の意味合いも、日中戦争という同じアジア人同志の戦争、アジアを戦場とする欧米諸国との「人種戦争」49 、さらにはソ連との「イデオロギー戦争」など様々な解釈が可能であ

48 多面性理解の重要性については、伊藤憲一も指摘している。「戦争責任 真の歴史的事実を語れ」『産経新聞』1993 年8 月11 日付。
49 太平洋戦争の人種的側面を描写したものに、ジョン・ダワー・斎藤元一訳『人種偏見』TBS ブリタニカ、1987 年。
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る50 。こうした文脈においてこそ、知識人をはじめとする多くの日本人が、12月8日の真珠湾攻撃を、重苦しい日中戦争からの脱却を可能にするものとして、感銘をもって迎えた現象を理解し得るのであろう51。竹内好は、日本の戦争は侵略戦争と同時に対帝国主義戦争といった二重性を有しており、後者については日本だけが一方的に責任を負う必要はないと指摘していた52。

 したがって、戦争原因についても、日本の侵略から、「自存自衛」、アジア解放まで様々であり、世論調査においても、「太平洋戦争は侵略戦争であった」=52パーセント、「資源の少ない貧しい日本が他国に軍事進出したのは、生きるため止むを得なかった」= 45 パーセント、「太平洋戦争において日米双方に責任がある」= 56 パーセントというように、一見相反する複雑な結果を示しているのである53 。

 第二に、主体的選択の有無である。ドイツにおけるナチスと比較した場合、当時の国民が積極的に政策決定に賛同・支援していたか否かは、明確ではない。戦時下という特殊な情勢のなかで、単に追随していかざるを得なかった多くの国民が存在したことも否定できないであろう。こうした事情が、原爆、空襲などの被害意識と相俟って、加害意識を持ち難くしているのも自然ではないだろうか。原爆が被害意識も含む日本人の戦争観に多大な影響を与えている点は、ドイツ人も指摘しているところである54 。

 第三に、第二点との関係で、ナチスにあたる組織がなかったがゆえに、戦前・戦中における負の側面の責任、換言すれば「戦争責任」の大半を旧日本軍、特に陸軍が一手に背負わざるを得なかったことも指摘しておかなくてはならない。ナチスのような私的な一政治組織であれば、国民と分離して、それを断罪・糾弾することは比較的容易であるが、徴兵制に立脚した軍隊の場合、問題は特定の軍隊組織にのみ留まらず、国民的広がりを持つことになる。遺族会をはじめ種々の団体が、「侵略」と見なすことに抵抗する所以は、まさにここに存在するのであろう。

 戦後の靖国神社、さらには国内外における自衛隊の認知をめぐる問題も、この点に起因している。

 近年、国防軍による直接的なホロコースト関与が明らかとなったドイツにおいては、これまでナチスに全面的に責を帰し、「全体の罪否定論」の立場から「無垢な国防軍」としての神話が

50 戦争形態の諸類型については、丸谷才一・坂本多加雄・半藤一利「『大東亜/ 太平洋戦争』論の類型学」『東京人』112 号(1997 年1 月)89 ~ 102 頁。
51 文化人の反応については、櫻本富雄『戦争はラジオにのって』マルジュ社、1985 年。
52 竹内好「戦争責任について」『現代の発見-戦争責任』春秋社、1960 年、13 頁。
53 門田允宏「戦後50 年・日本とアジア」『放送研究と調査』45 巻4 号(1995 年4 月)、25 頁、秋山登代子「日本人の平和観」『NHK 放送研究と調査』33巻4 号(1983 年4月)、11頁、辻知広・秋山登代子「日米開戦から50 年」『同前』42 巻2 号(1992 年2 月)、14 頁。
54 ヴァイツゼッカー元大統領の指摘。中日新聞社編・永井清彦訳『ヴァイツゼッカー日本講演録 歴史に目を閉ざすな』岩波書店、1996 年、65 ~ 66 頁。
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成立していただけに、大きな論争を呼び未だに決着はしていないのである55 。ドイツも戦後半世紀以上たって、漸く日本と同様の難問に直面したと言えよう。

 第四に、近世末まで続いていた、華夷秩序に象徴される東アジア特有の文化的階層の問題である。その後19 世紀後半以降は、日本が最も近代化に成功することにより、従来の関係が全く逆転するにいたる。こうした歴史的変遷に由来する、日本と中国、韓国といった近隣諸国との間に、劣等感と優越感との複雑な関係が生ずることになり、その微妙な関係は、人種的同質性ゆえ、より促進されることになったのである56 。植民地支配をめぐる日韓関係に、特に端的に表れており、創氏改名・神社参拝といった「皇民化政策」に象徴される、欧米とは異なった独自の植民地統治を日本が行ない、一方朝鮮においては絶えざる独立運動が展開され、現在にいたるもその「怨念」が容易に解消しない所以も、この文脈で理解することが可能であろう。

 加えて、近代以降にあって、中国及び韓国にとっては日本が対外関係の主な対象国であり、したがって「抗日戦争」、「日帝36 年」という言い方がなされるが、一方、日本にとっては欧米諸国、ソ連などを含めた国際関係のひとつに過ぎず、相互関係に対する重点のギャップが存在しており、歴史認識における相克を生む背景となっている。例えば、中国は日清戦争以降終戦までの50 年を重視し、日本は幕末・明治維新以降150年のなかで歴史解釈を行なうといった点である57 。

 一方、日本人の中国観に関しては、歴史認識同様変化が見られる点も指摘しなければならない。従来は、広大な大地、悠久の中国文明への憧れ、「同文同種」の意識、戦後日本において広く見られた社会主義への傾倒、そして日中戦争に対する贖罪意識、にもかかわらず大目に見ている中国の寛容さへの敬服(80年代前半まで)といった感情によって、中国観が規定されていた点は否定できないが、近年中国に対するタブーが徐々にではあるが払拭されつつあり、中国人及び中国史に関する、「蔑視」とは質の異なる辛辣な評論も目立つようになっている58 。しかし、軍拡などの軍事や、チベットに象徴される人権問題に関しては、一部脱しつつあるもののタブーは厳然として残っている。

 第五に、日本人特有の戦争・平和観がある。同じ敗戦国であるドイツと比較した場合、日本人の「反戦・平和」への思い入れは絶対的なものであり、猪木正道は、「国際的視野を欠いた独

55 庄司潤一郎「統一ドイツにおける『過去』の展示と歴史認識」『防衛研究所紀要』第3 巻第2 号(2000年11 月)50 ~ 59 頁。
56 田中正俊「アジア研究における感性と論理」遠山茂樹他編『歴史像再構成の課題-歴史学の方法とアジア-』御茶ノ水書房、1966 年、268 ~ 269 頁。
57 山田辰雄編『日中関係の150 年』東方書店、1994 年、2 ~ 3 頁。山田は、日中関係を「相互依存・競存・敵対」の側面から、多面的に見る必要性も説いている。
58 例えば、歴史・文化分野では中嶋嶺雄、渡部昇一、岡田英弘、古森義久、黄文雄、軍事分野では平松茂雄などの著作に代表される。中嶋、柴田穂などは、文化大革命の頃より批判を行っていた。
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善的な空想的平和主義」59と批判するが、一方、日本の平和主義は、ドイツ人に比べ日本人の方が、戦争責任と深刻に格闘している証であるとの意見もある。確かに、広島、長崎に対する人類初の原爆投下という特殊事情は存在するものの、こうした観念が戦後半世紀以上依然として影響力を持っているのは、日本固有の現象であろう。

 いずれにせよ、そうした観念を生み出した要因として、真の意味での戦争体験の欠如が指摘されている。例えば、村上兵衛は、「日本人は真に戦争を体験しなかったし、戦後戦争を直視することを忌避してきたため、『被害者の立場・加害者の立場』などコトバの遊戯に耽った」60 と指摘している。又、坂本多加雄は、「今日の日本ほど戦争について真剣に考える条件に恵まれていない国はなく、そのため戦争をめぐる安易で怠惰な思考と、しかもそのことを道徳的だと自認している倫理的安直さが広く見られる」61 と批判していたのである。

 確かに、一般の日本人にとっては、沖縄を除けば戦場が外国であり、満州など一部を例外として、実際の戦場での体験は皆無と言ってよい。したがって、世論調査などでも、「苦い戦争体験」といった場合、食糧難や空襲がその実例である62 。

 国土が戦場として焦土となり、敗戦によって惨めな境遇を強いられ、東方地域など枢要な領土を失い「追放」を体験したドイツ人が、「解放」と同時に「敗北」を実感するのに対して、日本人の意識にあるのは「終戦」であり、ある意味で「敗けて良かった」と感ずる人も少なくない。戦後の冷戦時代においても、ドイツ人は常に核をはじめとする戦争の危機に直面していたのに比較して、日本人の危機感は一部政治スローガンとして喧伝された程のものではなかった。

 と同時に、日本人には、ドイツ人と比較した場合、「戦争」と「虐殺」を混同して「戦争」全般を忌避する感情が濃厚である。ドイツは、両者を明確に峻別したうえで、「戦争」そのものは否定していない。それ故に、ヒトラーの再来を許してはならないとの「過去の反省」から、ミロシェヴィッチの虐殺を抑止するために、戦後初めてNATO域外に、連邦軍の実戦部隊を派遣したのである。彼らにとって、「新たな平和の構築」、「第二のホロコーストの抑止」が、「反戦」を凌駕しており、「過去の反省」の文脈においても何ら矛盾は存在しないのである。

 日独両国の戦争観を比較した『戦争の記憶』で脚光を浴びたオランダ人ジャーナリストのイアン・ブルマは、日本人の戦争観の特殊性を指摘し、「戦後の日本は、ドイツと異なり国防に関して『ノーマル』な国ではなかったが、『ノーマル』になることによって初めて、ドイツのように過去を討論できる国になる」と戦争観と歴史認識との関係に言及していたのである63 。

59 猪木正道『軍国日本の興亡-日清戦争から日中戦争へ-』中公新書、1995 年、まえがき。
60 村上兵衛『国家なき日本-戦争と平和の検証』サイマル出版会、1996 年、191 ~ 200 頁。
61 坂本多加雄「戦後50年 問われる日本人の歴史感覚」『中央公論』1995 年9 月、64 ~ 65 頁。
62 秋山登代子・謝名元慶福「戦後40年をふりかえる」『NHK 放送研究と調査』35 巻12 号(1985 年12 月)、2 ~ 3 頁。
63 イアン・ブルマ・石井進平訳『戦争の記憶-日本人とドイツ人』TBSブリタニカ、1994年、388~390頁。
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おわりに


 終戦直後の太平洋戦争に関する議論は「戦争責任」と不可分であり、「東京裁判史観」やマルクス主義などイデオロギー解釈が盛んであった。一方、このような見方に対して「昭和史論争」が行われ、さらにその反動として「大東亜戦争肯定論」まで現れた。その後マルクス主義から派生した「加害者責任」の検証・追及とともに、他方では脱イデオロギーの実証的な研究が新たに進展していったが、歴史認識をめぐる議論は回避され研究の分極化・細分化を促進していったのである。 

 一方、政治の場においても、太平洋戦争の解釈に正面から取り組むことを避けてきたため、「不戦決議」、戦後補償、教科書問題などの議論が起るたびに政治問題化するにいたった。外交上では特に近隣諸国の厳しい批判を浴び、閣僚が「失言」により辞任するといった状況が続いている。

 しかし、冷戦崩壊後、状況は大きく変わりつつある。日本では、社会主義の崩壊を受けて、「従軍慰安婦」をはじめとする日本による「残虐行為」の究明・糾弾がやや過剰になされたため、近年戦後初めてといっても過言ではない国民的な広がりをもった反発が運動となって展開されている。しかし、「素人」が主体となっていることもあり、極端な議論も散見され、それが近隣諸国をより刺激する結果を招いている。特に、昭和57 年の「教科書事件」以降、日本における歴史認識問題は、近隣諸国との外交・友好関係とリンクすることになり、より複雑さを増しつつある。すなわち、日本、中国、そして朝鮮半島の北東アジア地域における歴史認識をめぐる諸問題は、各国における「不透明なアイデンティティー」と「健全でないナショナリズム」に起因し、相互に悪循環を起こしているというのである64 。

 一方、歴史認識問題が「政治化」し易く、憲法、防衛問題、平和運動などと不可分となっていることが、歴史解釈についての冷静な議論を阻害する要因となるとともに、議論の両極化を誘発している。その象徴が、「不戦決議」であり、昨今の歴史教科書をめぐる論争である。最近の新しい歴史教科書をめぐる議論も、多くの国民が関心を有してはいるものの、「昭和史論争」で提起された問題が十分議論されることなく未解決のまま残されており、「なぜか知的興味にかきたてられるところもないし、何より冷戦時代の色あせたイデオロギー対立のぶり返し」に終始しているとの指摘もある65 。

 いずれにしても、以上のような日本人の歴史認識の背景には、イデオロギー、及び地理的・

64 Charles Hill,“Fighting Stories:The Political Culture of Memory in Northeast Asian Relations,” Remembering and Forgetting: The Legacy of War and Peace in East Asia, Gerrit W. Gong,eds(. Washington,DC:The Center for Strategic and International Studies,1996),pp.1-18.
65 横田洋一「積み残された『昭和史論争』」『THIS IS 読売』1997 年3 月、71 頁。
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歴史的要因に起因する戦争体験とそれに規定された特殊な戦争観が存在していることは否定できない。この点が同じ敗戦国であるドイツと異なるところでもある。前述したブルマは、「日本では憲法解釈をはじめイデオロギーが分裂しており、それが歴史解釈にまで影響を与え、歴史の仮面を被った国内政治論争となり、合理的な歴史論争にならない」66 と指摘しているのである。

 近年の動向の背景として、冷戦下封印されていた日本の戦争責任をめぐる問題が漸く表面化したとの議論もあるが67、むしろ「歴史」を舞台に日本そして東アジアでは今も「冷戦」が続いていると見るべきであろう。冷戦時代は、政治、経済政策や防衛問題を軸にイデオロギー対立がなされたが、社会主義崩壊以降歴史を軸に展開されているのである。

 一方、「自虐史観」をめぐる議論も、林健太郎が指摘するように、「事実相違のことは否定しなければならないが、自己の誤りを認めることを『自虐』などと言って拒否するのは『自卑』、すなわち自己を卑しめかえって自己を傷つけるもの」68 であろう。

 しかし、それが行き過ぎた場合は別であるとの見解もある。例えば渡辺利夫は、「自民族の歴史を悪しざまに論評してしたり顔の評論家や学者があとを絶たない。他方、栄光の歴史は引き受けるが、汚辱の過去はこれを抹消したいという幼稚な心理。他者の目に自分の行動がどう映じているかを極度に気にし、他者の視線に強迫的におびえる」といった特色を指摘し、それは「神経症」であると冷ややかに見ていた69 。

 本論で考察してきたように、戦後日本の歴史認識をめぐる複雑な状況においては、特に近隣諸国との関係に対して、相対的には「加害」の立場にある日本人として最も安易な処し方は、事実を無視する・触れない、開き直って自己を正当化するほか、逆に過度に自虐的になることであるとも指摘されている70。すなわち、「どうしても背負っていかねばならないジレンマに耐えられないとき、正義感に安易にとびつくのが、一番気楽な選択であると同時に『精神の惰性』である」というのである71 。

 いずれにしても、冷静かつ謙虚に歴史認識の問題と向き合うことが必要であるが、それが極めて禁欲的な作業であることは言うまでもない。

66 澤地久枝・イアン・ブルマ「日本とドイツの戦後を問う」『現代』1995 年6 月、64 ~ 65 頁。
67 吉田裕『日本人の戦争観』岩波書店、1995 年、231 ~ 232 頁、前掲『戦争責任論』251 ~ 253 頁、前掲「戦争責任論再考」30 ~ 33 頁。
68 林健太郎「教科書で書くべき歴史」『THIS IS 読売』1997 年3月、59 頁。
69 渡辺利夫『神経症の時代』TBS ブリタニカ、1996 年、13 ~ 15 頁。又、岸田秀は、「偽りの謝罪」としたうえで、マゾヒストというよりむしろナルシスト的傾向を指摘していた。岸田秀『日本がアメリカを赦す日』毎日新聞社、2001 年、178 ~ 182 頁。
70 特に朝鮮との関係では、角田房子『閔妃暗殺』新潮社、1988 年、364 ~ 365 頁、田中明『朝鮮断想』草風館、5~7頁。
71 中西輝政「歴史とどう向き合うか」『諸君』2000 年2 月、45 ~ 46 頁。

「太平洋戦争」観の変遷 付図
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