15年戦争資料 @wiki

rabe12月9日

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pipopipo555jp

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十二月九日


いまだに米を運ぶ作業が終らない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、ドイツ大使館のシャルフェンベルグ、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。

さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。

午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。作戦上火をつけたのだ。町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。残念ながらいつも外れていた。いや、幸運にもいつもそれた、というべきか。とにかく日本は同盟国なのだから。今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったとヒトラー総統に電報を打つといってやった。大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。

そうこうしている間に、思い切った手を打ってみようということになった。といっても私自身はあまり当てにしているわけではないのだが。つまり、もう一度唐将軍に接触して、防衛を諦めるよう説得しようというのだ。ところが、なんと唐は承知したのだ。そちらが蒋介石委員長の許可をとりつけるなら、といって。

〔編者註〕
そのためラーベはアメリカ人と中国人をそれぞれ二人つれてアメリカの砲艦パナイに赴いた。彼らは二通の電報を打った。一通は漢口の蒋介石に、もう一通は上海の日本の軍当局にあてたものである。
アメリカ大使に仲介を頼んだ蒋介石あての電報で、ラーベは次のように記している。
「国際委員会は、安全区が設置された城壁内には攻撃をしかけないとの日本軍当局による確約を望んでいる。もしこれが得られれば、委員会は南京近郊のすべての軍隊に対して三日間の休戦を提案する。その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する」---これらの電報には署名がある「代表 ジョン・ラーベ」

燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終る直前、夜の七時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まで来ているとのことだ。あるいはその手前に。中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区じゅうに響いている。明かりが消され、暗闇のなかを負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによってどうにか持ちこたえている。安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちはちきれそうになった。われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。兵器と爆弾を見つけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と兵器を差し出した。



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