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戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(1)

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『防衛研究所紀要』第4巻第3号(2002 年2月)100 ~ 119 頁。

戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(1)



はじめに


 終戦50 年を記念して衆議院において採択された「不戦決議」、さらには近年の新しい歴史教科書をめぐる議論に象徴されるように、日本において太平洋戦争に関する歴史認識は常に論争の的となっている。

 ところで、歴史認識は大きく3分類することが可能であろう1 。第1に、個人の体験を通して得られた回想・思い出であり、それは戦場、抑留、空襲等、人や地域によって大きく異なっている。近年しばしば言及される「記憶」や「証言」もこの範疇に属している。第2に、教育、メディアや家庭などによって形成された国家・社会に共有されている「パブリック・メモリー」である。第3に、歴史家が史料の分析通して導いた学問としての歴史認識である。

 この3者は必ずしも一致するとは限らず、個人の記憶は検証・淘汰されて初めて「パブリック・メモリー」、又は歴史学の対象足り得るし、歴史教育と歴史学における目的の相違もしばしば指摘されるところである。例えばアメリカにおいては、戦後50 年を記念して企画されたスミソニアン博物館における原爆に関する展示は大きな論争を生んだ。多くの米兵の命が救われたと原爆投下を正当化する「パブリック・メモリー」と、その使用は不必要であったという一部研究者の説が対立し、最終的には後者が屈したのである。

 一方日本では、個人としての体験・記憶は存在するが、「不戦決議」をめぐる激しい議論が物語るように、諸外国と異なり太平洋戦争の歴史解釈に関する一定のコンセンサス-「パブリック・メモリー」-がいまだ形成されていないというのが実状である。

 そこで本稿では、戦後日本における太平洋戦争に関する歴史認識を、学会、言論界での議論の変遷、太平洋戦争の呼称をめぐる諸問題、歴史認識をめぐる論争の主要な論点、歴代内閣の立場、閣僚の「失言」、「不戦決議」など政治の場における歴史認識、そして以上を踏まえた日本人の複雑な歴史認識の背景について分析を行う。

1 分類は、入江昭による。入江昭「太平洋戦争とは何だったのか」『防衛研究所戦史部年報』第2号(1999年3 月)1~3頁。
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1 戦後日本における歴史認識の変遷-学界、言論界を中心として-

(「付図」参照)

 終戦後の日本に現われた太平洋戦争に関する歴史認識は、大きく2つに分類することができる。先ず、いわゆる「東京裁判史観」であり、昭和21 年から23 年にかけて開かれた極東国際軍事裁判の判決をもとにした歴史認識である。特色としては、満州事変から太平洋戦争にいたる日本の行動を、「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略と理解する点にある。従来この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識であり、戦後日本における歪んだ歴史認識のシンボルとして、保守派から批判を受けていたが2 、近年、東京裁判において昭和天皇や731部隊などの戦争責任が免責された点に関して、進歩派からも問題点を指摘されている3 。

 この「東京裁判史観」は、連合国軍総司令部民間情報部により昭和20 年年末から新聞各紙に連載され、のち単行本にもなった特集「太平洋戦争史-奉天事件より無条件降伏まで-」(中屋健弐訳『太平洋戦争史』高山書院、1946 年)によって広く一般に普及することになる。

 次に、戦後解放された共産主義者を担い手に、1949年の中華人民共和国の成立、翌年の朝鮮戦争の勃発、さらには国論を二分した昭和26 年のサンフランシスコ講和条約及び日米安保条約の調印といった国内外の情勢を契機として台頭した「マルクス主義史観」をあげることができる。この史観は、戦争責任が、東京裁判が認定した「一部軍国主義者」というよりは、明治維新以来の近代日本の資本主義に内在する問題であり、むしろ天皇制の中核をなしている諸勢力にあるという見方である。したがって、太平洋戦争を、帝国主義相互の戦い、ファシズム対反ファシズムの戦い、そして被支配民族による解放戦争という3つの枠組で把握しようとするものであった4 。

 昭和28 年から翌年にかけて刊行された歴史学研究会編『太平洋戦争史』(東洋経済新報社、全5巻)、及び遠山茂樹を中心に編纂され岩波新書として刊行された『昭和史』などが代表的著作である。

 特に後者は、資本主義対社会主義という冷戦の影響を強く受け、太平洋戦争を資本主義体制の矛盾に由来する帝国主義諸国間の戦いであると強調するとともに、大多数の国民を「被害者」

2 東京裁判に関する議論の一定の総括は、昭和58 年に開催された「『東京裁判』国際シンポジウム」においてなされた。詳細は、細谷千博・安藤仁介・大沼保昭編『国際シンポジウム 東京裁判を問う』講談社、1984 年を参照。
3 大江志乃夫「克服されなければならない『東京裁判史観』とは?」『東京タイムズ』1989 年1 月9 日付。荒井信一『戦争責任論-現代史からの問い-』岩波書店、1995 年、163 ~ 175 頁。又、全く別の視点から、「東京裁判史観」を日米合作と見なす考えもある。保阪正康「だから『東京裁判史観』を超えられない」『諸君』1998 年1 月号、142 ~ 150 頁。
4 波多野澄雄「対米開戦史研究の諸段階」『軍事史学』第17 巻第3号(1981 年12 月)2~5頁。
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として描写する点が特色であり、イデオロギー色が濃いものであった5 。そのため、亀井勝一郎などの批判を浴び、「昭和史論争」という国民的な議論を惹起するにいたった6 。

 亀井は、唯物史観が戦前の皇国史観と同様に一定の党派性を有しており、又過去の人間よりも現在の自分の方が進歩しているという考えは、歴史家が陥りやすい「傲慢な迷信」であると指摘しつつ、1)階級闘争中心の描写で「国民」という人間が不在である、2)共産主義者はすべて正しかったのか、3)単に支配階級によって煽動されたのではない、戦死者の真の声が全く響いてこない、4)参戦や満州における暴虐などソ連の行為に対する批判が避けられているといった批判がなされた7 。

 一方、こうした「マルクス主義史観」は、戦後思想の底流にある「治安維持法への復讐」であり、『怨念史観』の一種であるとの指摘もある8。

 「昭和史論争」はまさに、「戦後のマルクス主義史学全体にたいする批判としての意味をもち、現代史のあり方をめぐる論争、『現代史論争』の発端ともいうべき役割」9 を果たし、ほかにも竹山道雄(『昭和の精神史』新潮社、1956 年)、上山春平(『大東亜戦争の意味』中央公論社、1964年)らによって、亀井と同趣旨の議論がなされたが、保守派以外からも批判がなされた10。

 その後昭和30 年代にかけて、独立を達成すると同時に経済復興の始まりにより自信を回復したことを背景として、左右両者においてアメリカへの嫌悪感が散見され始めた。保守派の代表は、林房雄の『大東亜戦争肯定論』(昭和38 年9月より『中央公論』に連載、昭和39 年に番町書房より刊行)であり、林はマルクス主義から転向した文芸評論家であったが、太平洋戦争を、ペリー来航以来の日本によるアジア解放の戦いの集大成であるとして積極的に肯定していた。こういった主張は、保守派の典型的な議論のひとつとして、継承されていくことになる。又、進歩派においても、日米安保条約といった対米従属を打破するとともに、アメリカにより占領期になされた「偽りの民主化」を克服しなければならないといった、反米色を基調とする戦後批判の色彩を濃くしていった11。

 こうした進歩派に決定的な影響を与えたのが、ベトナム戦争であり、日本の加害に着目する

5 遠山茂樹は以下のように述べている。
 「基本的には27 年テーゼ、32 年テーゼの上に、歴史批判の立場を求めたい。軍部を先頭にたてた支配者の戦争政策に対して、平和を守る戦線は、共産党を核とする以外にはありえなかった」「現代史研究の問題点」『中央公論』1956 年6 月、60 頁。
6「昭和史論争」全般については、堀米庸三『歴史と人間』日本放送協会、1965 年、及び犬丸義一「『昭和史』論争」『現代と思想』第13 号(1973 年9 月)、223 ~ 257 頁、同「『昭和史』論争(続)」『現代と思想』第19 号(1975 年3 月)、177 ~ 201 頁を参照。
7 亀井勝一郎『現代史の課題』中央公論社、1957 年、11 ~ 27 頁。
8 清水幾太郎『戦後を疑う』講談社、1980 年10 ~ 11、59 頁。清水はすでに、「自虐症患者、日本悪玉論者」との言葉を使用している(261 頁)。秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984 年、146 ~ 147頁。
9 前掲「『昭和史』論争」232 頁。
10 代表的なものとして、ねずまさし『「現代史」への疑問』三一書房、1974 年。
11 有泉貞夫「太平洋戦争史観の変遷」『季刊 アステイオン』第9 号(1988 年夏)72 ~ 74 頁。
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「15 年戦争論」が生まれる契機となった12。「15 年戦争論」は、鶴見俊輔の評論をへて、家永三郎の著作『太平洋戦争』(岩波書店、昭和43 年)により初めて具体的にその内容が提示されたが、満州事変から太平洋戦争にいたる15 年間(実際は13 年11ヵ月)に及ぶ、中国を中心とするアジアに対する侵略戦争と見なし、アジアに対する種々の残虐行為を糾弾するとともに、治安維持法などの戦前・戦中における日本の国家体制をも問題視していた。したがって、太平洋戦争は、日本のアジアへの加害と、それに対する中国をはじめとするアジア人民の勝利として理解され、そのことに対する認識・反省の欠如が、日米安保条約のもと、ベトナム戦争において再び「アジアの侵略」に加担したと批判されたのである。すなわち、太平洋戦争とともに、日米安保条約、自衛隊といった戦後史(戦後体制)そのものにも、批判の矛先が向けられ、むしろその論拠として太平洋戦争に関する歴史認識が使われていた。又、こうした文脈のなかで、太平洋戦争における戦没者などの日本人犠牲者は、「英霊」ではなく、侵略戦争に奉仕した「犬死」として切り捨てられたのであった13 。

 この家永の見解に対して池田清は、「昭和史論争」の流れを受け「歴史的客観性」の欠如を批判しつつ、「自ら安全な立場に依拠して、安易に史上の人物の思想や行動をその安全な立場から裁くことにどれ程の意義があるのだろうか」と述べ、当時の価値基準に自分を置いてみる「追体験」が必要であると指摘したのである14 。

 いずれにせよ、『昭和史』、そしてそれを発展させた家永の『太平洋戦争』に示された歴史観は、その後の日本における歴史認識に多大な影響を与え、ひとつの原型となった。

 昭和40 年代から50 年にかけて、各国における史料公開と研究手法が精緻化したことを背景としつつ、ベトナム戦争の終結、文化大革命、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻など、米中ソといったかつての戦勝国の「正義」の行き詰まりは、日本においても、左右両翼のイデオロギーから距離を置いた冷静な「実証主義」研究の台頭をもたらした15 。しかし、当然のことながら、こうした研究は、マルクス主義陣営からは、侵略・加害といった問題意識が稀薄であり、歴史理論も欠如しているとの批判がなされた。さらに、戦前の日本がファシズムであったのか、ファシズムの明確な定義が存在するのかなどの点をめぐって、歴史家の伊藤隆とマルクス主義陣営の間で「ファシズム論争」が行われた16 。さらに伊藤は、敗戦という結末から、夢や理想を「偽り」、現実的な利害を「悪」として断罪しすぎるのは問題であり、「善玉と悪玉の葛藤というき

12 マルクス主義自体にも、支配層ではなく、国民一般の加害-戦後責任-を問題にし得ない欠点を内在していた点が指摘されていた。荒井信一『現代史におけるアジア』青木書店、1977 年、5 ~ 13 頁、吉田裕「一五年戦争史研究と戦争責任問題」『一橋論叢』第97 巻第2号(1987 年2月)202 ~ 205 頁。
13 前掲『昭和史を縦走する』143 ~ 145 頁。
14 池田清「同時代史研究のむずかしさ」『社会科学の方法』第4 巻第4 号(1971 年4 月)1~ 7 頁。
15 前掲「太平洋戦争史観の変遷」77 頁。
16 伊藤隆『昭和期の政治(続)』山川出版社、1993 年、9 ~ 25 頁。
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わめて単純でイデオロギー的な歴史観からの脱却」を主張していた17。

 その後も、日中戦争での日本軍の「残虐行為」をリポートした本多勝一『中国の旅』(朝日新聞社、1972 年)、731 部隊を扱った森村誠一『悪魔の飽食』(光文社、1981 年)など、日本による加害が取り上げられていった。

 こうした見方をより促進するとともに「国際化」させたのが、昭和57 年のいわゆる「教科書事件」である。検定中の歴史教科書において、「侵略」が「進出」に修正させられたとの「報道」(のちに誤報と判明)をもとに、中国・韓国による抗議を受けて、国内においても、その修正を批判する声があがったのである18 。以降、歴史認識の問題は、近隣諸国との外交問題の大きなイシューとなっていった。

 天皇の戦争責任についても、特に昭和46年の訪欧と同50年の訪米において脚光を浴び、様々な議論がなされるとともに、その責任を追及する著作も現れ19、昭和天皇崩御を機にピークを迎えた。

 昭和天皇崩御と冷戦の終結(すなわちある意味における「社会主義」の崩壊)は、歴史認識に新たな局面をもたらすにいたった。従来の「マルクス主義史観」の人々が、「戦前日本の侵略性」、特に日本による残虐行為の発掘・糾弾、戦争犯罪の追及、戦後補償、そして昭和天皇の戦争責任究明へと特化していったのである20。例えば、1990 年代に入って、戦争責任に関する著作の刊行が、それ以前に比べ激増するとともに、分野も多様化しつつある点が指摘されている21 。

 こうした現象を、伊藤隆は、「マルクス主義の有効性が崩壊したため、『正邪弁別』による日本近現代史批判へと転換した」22 と指摘し、評論家の保阪正康は、反戦・平和といった戦後日本のイデオロギーが、社会主義が幻想に終わったため立脚点を失い、新たに「従軍慰安婦」などの歴史認識と環境問題に活路を見出したと指摘している23 。

 こうした動向は、あまりに「自虐的」であるとの、広範な国民的反発を生み、平成8年以降「自由主義史観研究会」、「新しい教科書をつくる会」などが結成された。歴史家の林健太郎は、こうした動きを「強い左翼史観への反発」24 であるとしていたが、その結果、「従軍慰安婦」問

17 伊藤隆『日本の歴史第 30 巻十五年戦争』小学館、1976 年、16 ~ 20 頁。
18 「教科書事件」の詳細については、渡部昇一『万犬虚に吠える』文芸春秋,1985 年、及び後藤文康『誤報-新聞報道の死角-』岩波新書、1996 年、93 ~ 97 頁を参照。
19 井上清『天皇の戦争責任』現代評論社、1975 年、D・バーガミニ・いいだもも訳『天皇の陰謀』れおぽーる書房、1973 年。
20 黒沢文貴「戦後日本の近代史認識」『法学研究』第73 巻第1号(2000 年1月)521 ~ 522 頁。
21 石田雄「戦争責任論再考」『年報現代史 第2 号 現代史と民主主義』東出版、1996 年、30 ~ 31 頁。
22 伊藤隆『日本近代史の再構築』山川出版社、1993 年、「はじめに」ⅰ~ⅲ。
23 保阪正康「大東亜戦争・太平洋戦争はいかに語られてきたか」前掲『防衛研究所戦史部年報』第2号、15 ~ 16 頁。同『オモテの言論 ウラの言論』秀明出版会、1999 年、8 ~ 76 頁。
24 林健太郎「戦争をめぐる閣僚たちの歴史認識」『朝日新聞』1994 年5 月25 日付。
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題、歴史教科書の記述、「平和博物館」における展示、さらには映画『プライド』、『ムルデカ』や小林よしのりの漫画『戦争論』といった大衆文化においても、歴史認識をめぐる活発な論争がなされている。

 確かに、「昭和史論争」以来の国民的規模の歴史認識をめぐる活発な論争であることは否定し得ないが、その担い手は両者とも、歴史家というよりそれ以外の「素人」であり、なかには市民運動家や弁護士も含まれ、それ故に安易に「政治化」し易い側面をもっていることは否定できない。多くの「実証主義」といわれる歴史家が、一定の距離を置かざるを得ないところに25、こうした論争の問題点と同時に、戦後日本におけるイデオロギー過剰の歴史学界の現状をも物語っていると言えよう。さらに、こうした歴史学の大衆化は、お粗末な議論に終始しており参入する気にもなれないと、冷ややかな反応もみられる26。

 いずれにしても、近年のこういった議論をいかに解釈すべきであろうか。「自虐史観」と批判された人々は、相手方の歴史認識を、ヨーロッパにおいてネオナチに顕著に見られる「歴史修正主義(レヴィジョニズム)」の一類型に過ぎないと批判している27。「歴史修正主義」とは、既に実証された「歴史事実」を、一部史料・証言の矛盾を繰り返し突くことにより、その「歴史事実」全体を否定する手法のことであり、アウシュヴィッツのガス室やアンネの日記の真贋問題がその代表的なものである。

 そういった傾向が、特に手法を中心として散見されるのは事実であるが、社会主義の終焉による「歴史の見直し」の一環としても理解することができるとの指摘28 もあり、両者が同時に進行していると見るべきであろう。「歴史の見直し」とは、イデオロギーなど政治的に歪曲・誇張された「虚像」を修正して、「歴史事実」を確定することで、カティンの森事件(かつてドイツ軍の仕業とされていた、ソ連軍によるポーランド軍将校虐殺)やナチスの犯罪をより誇張するために利用されていたアウシュヴィッツ強制収容所犠牲者数の下方修正などがそれである。

 社会主義の崩壊をはじめとする世紀末の価値観の混乱のなかで、かつてイデオロギーの影響を強く受けた日本の歴史認識において、「歴史の見直し」と「歴史修正主義」の両者がともに展開されていると見るのが適当ではないだろうか。

25 秦郁彦は、こうした傾向を、「禁欲主義にこだわって、歴史家としての任務を放棄」と批判している。秦郁彦『現代史の争点』文芸春秋、1998 年、256 ~ 257 頁。
26 蓮實重彦・山内昌之『20 世紀との訣別』岩波書店、1999 年、16 ~ 17、267 ~ 268 頁。
27 議論を総括したものに、高橋哲哉『歴史/修正主義』岩波書店、2001 年を参照。
28 山崎正和「歴史の真実と政治の正義」『季刊 アステイオン』第52 号、1999 年11 月、9 ~ 33 頁。
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2 「太平洋戦争」の呼称をめぐる諸問題


 日本における太平洋戦争に関する歴史認識の難しさを物語っているのが、その呼称をめぐる議論である。世界史的に見て、一般的に戦争の呼称は、交戦国名、交戦地域、戦争の期間、戦争勃発の日時、戦争の当事者、戦争の規模、戦争の原因・目的などの基準によりなされている。又、第二次世界大戦については、社会主義諸国において、中国では「反ファシズム抗日戦争」、ソ連は「大祖国戦争」というように、その歴史的意義を強調する呼称が使用されている29。

 他方、現在日本において太平洋戦争を呼ぶ場合、主なものとして以下のような呼称がある。

1)「太平洋戦争」

  昭和20 年12 月8日からGHQにより新聞に連載された特集「太平洋戦争史」に由来し、現在でも最もポピュラーなもののひとつである。しかし、「Pacific War」はアメリカでは一般に、1879年から1883年にかけてのペルー・ボリビア連合軍とチリの戦争を指し、「the Pacific Theater in the Second World War」が太平洋戦争を意味するとの説もある30 。

2)「大東亜戦争」

  「大東亜新秩序」というアジア解放の戦いであったとの趣旨で使用されるとともに、法的正当性も主張されている。すなわち、昭和16 年12 月10 日大本営政府連絡会議、12 日の閣議において、「支那事変ヲ含メテ大東亜戦争」と正式に決定された呼称であり、終戦後一時期GHQの指令により使用を禁止され、政府は暫定的に「今次の戦争」を使うこととした。しかし、独立回復後の昭和27 年4月11 日に発せられた法律第81 号により、GHQの指令はすべて無効になり、その後政府は「大東亜戦争」という呼称を一度も否定していないというのである。一方、アジア解放といった戦争目的を肯定する恐れがあるとの理由で、その使用を批判する声も根強い。

3)「第二次世界大戦」

  「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の対立を踏まえて、イデオロギー的に無価値なものとして使用されている。歴史家の斎藤孝がこの呼称を提唱したが、同じ信夫清三郎は、戦争目的を肯定するとか否定するとかの問題ではなく、当時の日本人は「大東亜戦争」を戦ったのであり、最も実体がともなっていると主張し、両者の間で論争が行われた31 。

  又、一般に「第二次世界大戦」は、1939年のドイツによるポーランド攻撃により始まった

29 戦争の呼称に関しては、木坂順一郎「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」『龍谷法学』第25 巻第4号(1993 年3月)、386 ~ 434 頁を参照。
30 前掲『昭和史を縦走する』149 頁。
31 信夫清三郎「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」『世界』1983 年8 月、222 ~ 231 頁、同『聖断の歴史学』勁草書房、1992年、ⅰ~ⅱ、斉藤孝「『大東亜戦争』と『太平洋戦争』-歴史認識と戦争の呼称」『世界』1983 年11 月、280 ~ 284 頁。
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というのが通説であり、それ以前の満州事変、日中戦争などをいかに扱うかとの疑問の声もある。

4)「15 年戦争」

  昭和31 年評論家の鶴見俊輔が初めて使用したが、一般に普及する契機となったのは、昭和43 年刊行の家永三郎の『太平洋戦争』であり、その後現在にいたるまで進歩派を中心に頻繁に使用されている。満州事変以降を連続した不可分の戦争ととらえ、主戦場は中国大陸であり、勝者は中国人民である点に力点が置かれている。戦後体制への否定的解釈も含意されており、反米主義と同時に、中国への贖罪意識さらには「劣等感」があるとの指摘もある32 。

5)「アジア・太平洋戦争」

  「15年戦争」の流れを受け、昭和60年木坂順一郎により提唱され、近年急速に普及しつつある。実際には13 年11ヵ月といった「15 年戦争」に対する批判を受け、より発展させたもので、「東アジアと東南アジア及び太平洋を戦場とした日本の侵略戦争」を意味する。趣旨は、太平洋を主戦場にアメリカの物的国力に敗けたとのイメージがある「太平洋戦争」に代って、アジアに対する侵略を強調する点にある33 。

6)「今次の大戦」、「先の大戦」、「過ぐる大戦」、「あの不幸な戦争」など

  政府が占領期、暫定的な呼称として「今次の戦争」と定めたことは前述したが、その後も内閣や天皇は公的な場においては、価値判断を回避して、こうした呼称を使用している。

7)その他

  ・「東亜100 年戦争」
  林房雄の『大東亜戦争肯定論』で展開された呼称で、ペリーの来航以降終戦までの、アジアに侵攻してきた白人勢力に対する日本の抵抗と反撃を意味する。 

  ・「70 年戦争」、「50 年戦争」など
  いずれも、台湾出兵、もしくは日清戦争から終戦までの日本のアジアへの侵略を趣旨とし ている。さらに、日清戦争から現在の自衛隊のPKO派遣までを日本による一貫したアジア 侵略と見なす「100 年戦争」といった呼称も近年現れている。

  ・「昭和大戦」
  太平洋戦争の持つ侵略と解放の両義性を踏まえつつ、朝鮮・ヴェトナム両戦争も包含したものとして、藤村道生が提唱した34。 

  以上のように、日本においては、前節で考察したようなイデオロギーの影響により戦争の

32 前掲『昭和史を縦走する』143 ~ 145、148 ~ 151 頁。
33 木坂順一郎「『大日本帝国』の崩壊」歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史 10 近代4』東京大学出版会、1985 年、338 ~ 339 頁。
34 藤村道生「『昭和大戦』という呼称の提案」『軍事史学』第32 巻第3号(1996 年12 月)4 ~ 13 頁。
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呼称は多岐にわたり、いかなる呼称を使用するかは、歴史認識はもちろんその政治的立場をも示すリトマス試験紙、さらには「踏絵」として機能していると言っても過言ではない。

3 歴史認識における論点


 これまで歴史認識の変遷、及び歴史認識を象徴的に示す太平洋戦争の呼称について述べてきたが、本節ではその具体的な論点を整理する。

 第一に、日本の近現代史における「侵略」の有無、そしてその始点・連続性の問題である。始点については、幕末の海防論にまで遡及するものもあり、一方、戦後アジアへの「経済侵略」をへて、PKOなど現在にまでその連続性を指摘する意見もある。日本の行動を、世界史全体、特に帝国主義時代の流れのなかでいかに位置付けるべきか、又20 世紀の日本そして世界を考える際に無視できない社会主義をいかに判断すべきかとも密接に関係しており、さらに戦後体制の解釈を通して現在の政治上の争点とも関連しているといえよう。

 第二に、日本の対外膨張、もしくは「侵略」の要因に関してである。「マルクス主義史観」は、「侵略」の要因として政治・社会・経済体制としての天皇制を指摘し、「侵略」の必然性を強調する。又、アジア蔑視、島国といった日本人の国民性に原因を求める説も散見されるが、いずれの場合もこうした決定論に対しては、それ程短絡的に因果関係を導き出せるかなど、疑問が呈せられている。

 第三に、「戦争責任」といった場合、誰の、誰に対する、いかなる行為を対象とするのかといった問題である35。例えば、法的、政治的なものか道義的なものか、開戦責任か敗戦責任か、さらには戦争犯罪に対する責任か、明確に定義されず曖昧なまま結論のみが先行している。特に、昭和天皇の「戦争責任」について、平和主義者であったか否か、さらに「戦争責任」の有無について議論がなされている。

 第四に、「侵略」の有無と関連する問題であるが、太平洋戦争がアジア解放の戦いであったか否か、換言すれば「大東亜戦争」か否かをめぐっては、現在にいたるまで活発な論争がなされている。独立には一定の役割を果たしたとしても、当初より「目的」としていたのか、単なる「結果」に過ぎないのかも議論の分かれるところである。

 その亜流として、「自存自衛」の戦いであった、英米なども植民地を有しており同罪である、さらには戦争を戦った結果として戦後繁栄の礎となったといった議論があるが、それらの是非

35 丸山真男によりすでに指摘されている。「戦争責任について」『思想の科学会報』第17号(1957年3月)1~3頁。
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をめぐっても論争がなされている36。

 第五に、こうした太平洋戦争の位置付けと関連して、戦没者をはじめとする日本人犠牲者の取り扱いの問題である。一方に、戦没者に対する遺族等の私的かつ自然な追悼の感情、「平和の礎」としての慰霊、さらには「英霊」として顕彰することにより、国家のために殉じた公的な死として見なすべきであるといった遺族を中心に広く日本に受け入れられている認識がある。

 他方、加害の側面を強調する人々は、戦没者は国家に服従を強いられた「被害者」であるとともに、侵略戦争においては「加害者」であり、したがってその死は「犬死」であると主張するのである37 。

 近年、戦没者の問題に関して、二種の新たな論争がなされた。思想家の加藤典洋を中心に展開された「歴史主体論争」は、アジアの犠牲者の前に、先ず日本人300万人の犠牲者に思いを寄せるべきであり、それを通してこそ初めてアジアの犠牲者に対する真の追悼が可能であるとした加藤の主張に対して、それは日本のアジアに対する加害を曖昧にするものであるとの批判がなされた38 。

 又、漫画家の小林よしのりは、漫画『戦争論』のなかで、「公」と「個」を対比しつつ、「公」のために「個」を犠牲にすることの尊さを主張し、太平洋戦争における犠牲者の意義を積極的に肯定したのであった39 。

 第六に、南京事件、「従軍慰安婦」などのいわゆる「残虐行為」の問題である。南京事件の犠牲者数、「強制」か否かといった「従軍慰安婦」の実態など「歴史事実」の認定をめぐって現在でも議論が続いている。さらに、こうした出来事の日本近現代史のなかでの意義、国際比較、国際法的に犯罪か否かといった点でも、意見が対立しており、その歴史教科書への記載が焦点となっている40 。

 第七に、過去を踏まえたうえで戦後50 年以上経過した今、積極的に未来に向けて建設的な議論を行なう方が生産的であるといった「未来志向」と、これまで回避してきただけに、より一層過去の歴史と向き合わねばならず、さもなければ将来にも盲目になるとの「過去の直視」との対立である。

 この対立は、「不戦決議」に際しても見られたが、近年建設ブームを迎えている「平和博物館」の展示をめぐる議論が象徴的である。多くの「平和博物館」において、太平洋戦争中の日本による惨たらしい「残虐行為」が写真や映像によって展示されたが、「平和博物館」には戦争

36 江口圭一『日本の侵略と日本人の戦争観』岩波書店、1995 年を参照。
37 荒井信一編『戦争博物館』岩波書店、1994 年、10 及び33 ~ 34 頁。
38 加藤典洋『敗戦後論』講談社、1997 年、高橋哲哉『戦争責任論』講談社1999 年。論争を総括したものとして、安彦一恵・魚住洋一・中岡成文編『戦争責任と「われわれ」』ナカニシヤ出版、1999 年がある。
39 小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言』小学館,1999 年。
40 前掲『現代史の争点』254 ~ 268 ページ。
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の残酷な展示は不要であり、いかに平和を築くかといった将来の問題を積極的に取り扱うべきであるとの批判がなされた41 。

4 歴代内閣の歴史認識と「不戦決議」


 歴代内閣の歴史認識を概観42 すると、第1次中曽根康弘内閣を転機に大きく変化している。それまでの内閣では、遺族会の影響、戦後補償問題との関係で、明確に「侵略」には言及しなかった。例えば、昭和48 年2 月田中角栄首相は、「侵略であったかなかったかという端的なお答えは、後世史家が評価するものであること以外にはお答えできません」と述べていたが、この発言はほとんど問題視されなかったのである。

 中曽根首相は昭和57 年12 月、「国際的に侵略であるという厳しい批判を受けている事実は、政府としても十分認識する必要がある」と答弁しているが、「国際的に……」は、同年に生起した「教科書事件」を指しており、すなわち、本事件を契機として内閣にとって「侵略」の問題が強く問われるようになっていったのである。

 同首相は、第2次内閣においても昭和60 年10 月、「太平洋戦争、大東亜戦争ともいっておりますが、これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。中国に対しては侵略の事実もあったということも言うております」と、初めて日中戦争を侵略戦争と認めるにいたったのである。

 その後は内閣として、「侵略」を否定することはできなくなり、例えば昭和64 年2 月竹下登首相が前述した田中首相と同様の発言を行なったところ問題化し、「わが国が過去の戦争を通じて近隣諸国などの国民に対し重大な損害を与えたことは事実だ。かかる行為について、侵略的事実を否定することはできない」との釈明を行なわざるを得なかったのである。

 こうした潮流の典型は細川護熙首相で、平成5年8月、「私自身は侵略行為であったと、間違った戦争であったと認識している。過去のわが国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」と述べたが、のち与党内からも批判が出たため、細川首相はその後は同種の発言を控えるようになった。

 このように、内閣としては「侵略」を認めるようになっていたが、細川首相への批判が物語るように、十分なコンセンサスを得たものではなかった。それを象徴しているのが、歴史認識

41 庄司潤一郎「『平和博物館』から見た歴史認識」『諸君』2000 年10 月、158 ~ 169 頁。
42 首相及び閣僚等の発言については、当時の新聞より引用。引用の注は省略。
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に関する閣僚の「問題発言」(「失言」)43である。戦後政治史上、数多くの閣僚が「問題発言」により陳謝、さらには罷免・辞任に追い込まれているが、内容別にみた場合、歴史認識に関するものがトップであると言っても過言ではない。最近でも昨年2月、野呂田芳成衆院予算委員長が、「大東亜戦争のおかげで植民地支配が終わり、アジア諸国は独立した」と発言して、問題となったばかりである。

 その内訳は大別すると、「侵略(戦争)」の否定、朝鮮半島に対する植民地支配の正当化、そして南京事件、「従軍慰安婦」など論争となっている問題の「否定・又は過小評価」である。

 島村宣伸文相(平成7年8月)による「侵略戦争か否かは、考え方の問題だ。侵略のしっこが戦争だ、一方的に日本だけがやったならば突き詰める必要があるが、世界中にはいろいろな事例がある」との発言をはじめ、「侵略」の有無に関する発言は、藤尾正行文相(昭和61 年9月)、永野茂門法相(平成6年5月)、桜井新環境庁長官(平成6年8月)、橋本龍太郎通産相(平成6年10 月)などが行なっている。

 植民地支配については、平成7年10 月江藤隆美総務庁長官による「日韓併合条約を無効と言い始めたら、国際協定は成り立たない。植民地支配のなかで日本はいいこともした」といった発言で、ほかにも藤尾正行文相(昭和61 年9月)などの発言である。

 又、中国との関係では、南京事件に関して、中国側が言う「大虐殺」は捏造であるといった発言は、永野法相(平成6年5月)、石原慎太郎衆議院議員(平成2年9月)が代表であろう。

 近年の「従軍慰安婦」問題においても、平成10 年7月中川昭一農水相が、「歴史的事実として教科書に載せることに疑問を感じている」と発言を行っている。

 こうした状況のもとで、平成7年6月の「不戦決議」を迎えることになる。本決議は、自民・社会・さきがけの連立政権成立時の3党合意を受けて、検討してきたものである。相反する歴史認識を有する自民党と社会党の対立は、「侵略」の定義、世界史上における位置付け、戦後補償に結びつく「謝罪」の文言の挿入の是非、「戦争責任」などをめぐって表面化し、最終的には、下記のような折衷案として誕生することになる。

『歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議』(「不戦決議」)

 「本院は、戦後50 年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社

43 閣僚等の「失言」については、失言王認定委員会『大失言』情報センター出版局、2000年、土屋繁『日本を決めた政治家の名言・妄言・失言』角川書店、2001 年、及び加藤典洋「失言と病言-『タテマエとホンネ』と戦後の起源」『思想の科学』第29 号(1995 年6 月)4 ~ 29 頁を参照。
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会を築いていかなければならない」

 この折衷案は、英米も同罪であるといった観点から、世界近代史の背景に言及するとともに、「侵略」、「謝罪」の文言を、それぞれ「侵略的行為」、「深い反省」に置き換えるとともに、冒頭に日本を含めた全戦没者に対する哀悼を表することにより、最終的に決着したのである44 。

 しかし、衆議院本会議における本決議の採決には、新進党と共産党が欠席し、さらに連立3党からも約70 名の欠席者が続出したため、全会一致を旨とする国会決議であるにもかかわらず、半数をわずかに上回る賛成を得たに過ぎなかった。

 同年8月村山富市首相は、終戦50 周年談話として、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くのアジア諸国の人々に苦痛を与えました」と一歩踏み込んだ発言を行ったが、外国には、「不戦決議」とのニュアンスの相違故、どちらが日本の真意かといった誤解を与えかねないものであった。

 一方、侵略戦争を美化・合理化するものであると決議を批判するとともに、採決を欠席していた共産党は以下のような決議(案)を発表していた。

 「政府にたいし、侵略戦争への深い反省と関係諸国への真摯な謝罪、誠意ある国家補償、日本国憲法の恒久平和の原則をまもり、戦争を二度と繰り返さない決意をあきらかにすることを求める」45

 さらに社会民主党は、党の「政策の基本理念と政策の基本課題」の第3項に、「過去の植民地支配と侵略戦争の反省と謝罪をおこない、その過ちを繰りかえさないことを諸国民に誓い……」との歴史認識に関する文言を挿入したが46 、『読売新聞』はそれを「これ以上なにをするのか。社会党綱領案の自虐史観」と批判していた47 。

 海外を含めた本決議に対する反応も、「明確な謝罪が欠如している」、「曖昧な内容で真意が理解できない」、「より未来を志向すべき」といった多様なものであった。

44 「不戦決議」をめぐる動向については、安村廉『歴史を裁いた政治家たち-戦後50 年、国会の狂騒-』展転社,1995 年、「『戦後50 年決議』問題と日本のアジア・太平洋侵略」『前衛 臨時増刊 1996 政治経済総覧』日本共産党中央委員会、1996 年6 月、27 ~ 47 頁、「不戦決議は必要だったか」文芸春秋編『日本の論点 96』文芸春秋、1996 年、130 ~ 139 頁を参照。
45 前掲「『戦後50 年決議』問題と日本のアジア・太平洋侵略」34 頁。
46 『月刊 社会民主』1996 年2 月、46 頁。又、同党は、『植民地支配の謝罪・侵略への反省 未来の平和への決意 国会決議実現に向けて』と題したパンフレットを作成している。
47 朝倉敏夫「とれんど」『読売新聞』1995 年12 月28 日付。
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 本決議は、「歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び」と述べていたが、上記の動向は問題の困難さ・複雑さを物語っている。




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