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子どもは見ていた:東京大空襲65年/中 聾唖学校の生徒たち

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子どもは見ていた:東京大空襲65年/中 聾唖学校の生徒たち


 ◇警報下、線香の火で筆談 宝物も家族も失った/疎開先で見た赤い空

 首都東京が初めて空襲を受けたのは1942年4月18日。小石川区(現在の文京区)にあった官立東京聾(ろう)唖(あ)学校の近くなどで39人が命を落とした。

 その9日後、新聞がある無理心中を報じた。宇野さんという母親が聴覚障害のある3人の子を殺害、自らも首をつった。母親は戦況が悪化する中で、我が子の将来を悲観したようだった。「僕たちも殺されてしまうんだろうか」。聾唖学校の生徒たちの間ではそんな話もしていたという。

 <蓮(はす)の上 宇野兄弟 の かくれ坊(んぼ)>

 当時14歳だった伊藤輝一さん(82)は戦後、こんな句を詠んでいる。殺された兄弟は聾唖学校の友人。「もう一度、宇野くんたちに笑って会いたい」との思いを込めた。輝一さんの家族も、その後日常化していった空襲の犠牲になった。

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 暗闇の中、一筋の小さな明かりが宙で文字をたどる。「ク、ウ、シ、ユ、ウ」

 4歳のとき脳膜炎でろう者になった輝一さんのために、母は線香の火で筆談し、空襲警報を知らせた。当時の日本は米軍機による夜間攻撃を避けるため、灯火管制下にあった。闇の中では相手の唇を読んで対話する口話も手話も役に立たない。警報解除までの間、防空壕(ごう)の中で妹たちと線香を使ってしりとりをして遊んだ。いつも「カ、イ、ジ、ヨ」で終わった。

 自宅は神田区(現在の千代田区)にあった。45年3月10日未明、眠っていると妹が馬乗りになってきて、身ぶりで窓を見ろと必死に訴える。光が滝のように降り注いでいる。美しくさえ思え、立ち尽くした。妹に「見ている場合じゃない」と連れ出された。

 家族5人で神田川に向かって逃げる途中、大切にしていた本が頭をよぎった。江戸時代の狂歌師、大田南畝(なんぽ)の歌集。息をのむほど美しい装丁で、小口には金(きん)箔(ぱく)が張ってあった。娯楽もなかった時代、本を読むことが唯一の楽しみだった。

 「いけません」。訴える母を残して家に戻った。畳が燃えるなか、20冊ほどを夢中でかごに入れた。通りに戻ると、熱気で息すらできない。電信柱が燃えて次々と倒れてくる。たまらず本を捨てた。

 神田川に飛び込もうとして、目を疑った。川面には胸から上だけを出す顔、顔、顔……。炎が背後からどんどん迫ってくる。飛び込み、石垣にしがみついて降ってくる火の粉を払い続けた。

 5人家族の中で、助かったのは自分一人だった。

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 輝一さんが逃げまどった激しい炎を、遠くから見ていた後輩たちがいた。

 埼玉県百間(もんま)村(現在の宮代町)。寺に学童疎開していた官立東京聾唖学校初等部5年の節子さん(78)=仮名=は教諭に揺り起こされた。境内の木立の間から、家族が暮らす東京の空に目を凝らした。夕焼けよりも濃い、不吉な赤だった。

 やがて疎開先にも被害の大きさが伝わってきた。教諭らは黒板に児童52人全員の名前を書き出し、家族や親せきから連絡があった子たちの名を消していった。最後まで残った子は2人。そのうちの一人が節子さんだった。「泣いているとみんなが心配してくれました」。今でも胸が締めつけられる。

 10日ほどして、教諭に付き添われ、自宅のある浅草に向かった。下町は焼け野原が広がるばかり。近所にあった神社の鳥居を見つけるのがやっとで、家族の消息をつかむどころではなかった。

 夏。親せきのおじさんが疎開先の寺に来てくれた。「私は一人じゃない」。涙がほおを伝った。おじさんの身ぶりで、空襲の被害がいかに大きかったかが分かった。唇の動きを必死で追った。「半身にまひがあったお父さんと一緒に逃げようとして、優しかった節子の家族はみんな死んでしまったようだ。人のことを考えていたら、生きられない状況だった」と言っていた。

 遺骨もない家族の死を実感したのは、後に戸籍謄本を見た時だ。自分以外の名前に「×」の印が並んでいた。

 洋裁の仕事で独立するまで、節子さんは親せき宅を転々とした。「聞こえないというだけで冷たくされ、親のないことで寂しい、悔しい思いもした。空襲で大切なものをすべて失ったのです」

 まだ語れない記憶がたくさんあるという。【田後真里】

 ◇本土空襲、44年冬から本格化

 44年夏にマリアナ諸島のサイパン島を陥落させた米軍は基地を建設し、本土の大半をB29の爆撃圏内に収めた。こうして空襲は44年11月から本格化、45年8月の終戦まで断続的に続くことになった。軍需工場や軍事施設を標的に、隣接する密集住宅地も爆撃を受けた。

 3月10日の東京大空襲以降も、名古屋、大阪、神戸と大都市が相次ぎ焦土と化した。大阪、神戸だけでも約2万人が犠牲になったとされる。障害のある児童らも学童疎開の対象となったが、戦時下でどのように暮らし、どれほどの被害を受けたかについての資料は乏しい。

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毎日新聞 2010年3月9日 東京朝刊


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