15年戦争資料 @wiki

rabe12月8日

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン

十二月八日


昨日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。のこりの家族が四十マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けてくれていたので迎えにいく時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここにきているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。

二年ほど前、トラウトマン大使が北載河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党の地方支部長代理をしているのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪(ひょうたん)から駒が出た。といったからって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務をなにからなにまでやらざるをえなくなったいま、私は事実上の「市長代理」のようなものになったわけだ。まったくなんてことだ!

何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちがさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日がくれていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。

外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。中国人の抵抗はどうせただのポーズだ、面子を失わないよう、形ばかり戦うだけだろう、と。だが私はそうは思わない。南京防衛軍をひきいる唐が、無分別にも兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないかと不安でしかたがない。

両替屋を開くことにした。小銭が足りなくなる。政府の役人に友人が二人いるので、助けてくれるだろう。

われわれはみなおたがいに絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく掲げた安全区の旗をまたもやぜんぶ持っていかれてしまった。安全区は縮小されることになったというのだ。大砲や堡塁のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?そうなったら、なにもかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。日本にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。こんな汚い手をつかわれるとは・・・・。予想もしていなかった。すでに十一月二十二日に、ここは国民政府から正式に認められているというのに。

一九三七年十二月八日夕方、中国の新聞のある報告より

一週間前、すなわち一九三七年十二月一日、市長の馬氏は、南京安全区国際委員会に対して、安全区の管理責任を負うようにと要求した。

苦力(クーリー:低賃金労働者)とトラック運転手若干名を除き、委員およびその関係者は、任務を自発的にかつ無償で果たしている。



目安箱バナー