15年戦争資料 @wiki

rabe12月7日

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン

十二月七日


昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい五時ころ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!

あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。

そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。

これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。

今日の午前中に、軍にトラックを二台取り上げられた。これまでに一台しか取り返していない。もう一台、塩が二トン積んであったほうはいまだに返ってこない。いまゆくえを探しているところだ。最高司令部から、たったいま、さらに二万ドル、私のところに払いこまれた。約束の十万ドルの代わりに、全部で四万ドル受け取ったことになる。これで満足しなければならないのだろう。献金の分割払いのことなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句もいえまい。

明日、城門が閉められ、いままで残っていたアメリカ人も船に乗る。今日ジーメンスに電報を打った。満期になった生命保険料を保険会社からもらってくれるように頼んだのだ。

上海放送は、トラウトマン大使が、今日漢口に到着したと伝えていた。彼の和平案が、蒋介石に拒否されたといっている。ローゼンからの極秘情報によれば(すでに書いたが)、もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが。そのいっぽうで、目下最後の戦闘準備がすすめられている。最後の一兵が倒れるまで戦う。兵士たちは口々にこういい張っている。

城門の近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。たったいま、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。こじ開けられ、ところどころ荒らされていたという。現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。

十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。

門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。凍え、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通れるかどうかはわからない。


目安箱バナー