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日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その2>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
第2部 戦争の時代
第3章 日中戦争と太平洋戦争

日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その2>

波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員)



第3 節 日本の降伏


1)大東亜会議と連合国の戦後構想


43 年11 月、日本のアジア占領地に樹立された「独立国」の代表(満州国、汪兆銘政府、ビルマ、フィリピン、タイのほか自由印度仮政府代表が陪席)が東京に参集し大東亜会議が開催された。

東条首相のねらいは、この年の秋と予測されたアジア太平洋における連合国軍の本格的反攻に備えるため、占領地の指導者を集めて共同宣言を発表することによってアジア諸民族の結束をアピールすることであった。しかし、この共同宣言の立案を担った外務官僚と重光外相は、共同宣言に新たな戦争目的の表明を託そうとした。すなわち、「大東亜共栄圏の建設」といった排他的で、日本の盟主的地位を強調した戦争目的に代わって、自主独立、平等互恵、人種差別撤廃、資源の開放といった普遍的な国際理念を宣言に盛り込むことによって、戦後世界における発言力の確保をねらいとした。実際、43 年8 月に外務省内の共同宣言の立案過程では、連合国の戦争目的である大西洋憲章を参照しつつ行われた53。重光はこの共同宣言を共通理念として、アジアの独立国が相互に平等の立場で「大東亜機構」を創設することを目標としていたが、各国が対等平等の立場で機構へ参加することは、日本のアジアにおける盟主的地位を否定するものであり、「国際連盟的思想を包蔵するもの」として陸軍省や参謀本部の反対によって実現しなかった54。最終的な共同宣言も、大東亜省、陸軍省や参謀本部の修正によって、戦争目的の再定義という外務省の意図は曖昧なものとなり、連合国にとっては単なる戦時プロパンガンダでしかなかった。

しかし、日本にとって大東亜会議は、日比・日緬同盟条約によるビルマやフィリピンの「独立」許与、汪兆銘政権との対等な同盟条約の締結(43 年8 月)など一連の「大東亜新政策」の一環であり、外交当局が大西洋憲章の意義に注目しつつ、「大東亜共栄圏」構想とは異なる、新たな戦後アジアに対する日本の構想を示そうとしたものであった。また、大東亜会議を含む一連の大東亜新政策に日本が託した重要な狙いの一つは、重慶国民政府を連合国陣営から切り離すことであっ

53 波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会、1996 年、161-73 頁、278-84 頁。伊藤隆・渡辺行雄編『重光葵手記』中央公論社、1986 年、155-56 頁。
54 前掲、『杉山メモ(下)』、440-41 頁。


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たが、蒋介石や中国人民を惹きつけることはできなかった55。

ところで、大東亜会議の開催と相前後して連合国側の「外交攻勢」が活発となり、モスクワ外相会談、カイロ会談、テヘラン会談など一連の会談が開催される。とくに蒋介石が参加した英米中・カイロ会談は、対日軍事戦略の検討とともに、日本の占領地からの撤退を前提に戦後アジアにおける国際秩序の基本的枠組みを議論し、その成果をカイロ宣言(43 年11 月27 日)として公表した。後のポツダム宣言の基礎となるカイロ宣言は、開戦後、連合国側が初めて日本領土の処分に言及したもので、台湾、澎湖島の中国返還、1914 年以来日本の領有した諸島の剥奪、朝鮮の独立などを明記していた。待命中であった石射猪太郎大使は、蒋介石がカイロ宣言に署名していることに注目し、「全面和平は千里も先に行って了った」56と嘆いた。しかし、大東亜会議や対華新政策に国策の重点を置く日本政府は、カイロ宣言のねらいは、「抗戦の名目」を失いつつある蒋政権を連合国陣営からの離反を防ぐための宣言とみなし、その国際的な意義を重視することはなかった。しかし、朝鮮と台湾が連合国によって「独立」や日本からの「剥奪」を保証されたことは、日本が最も忌み嫌うこところであり、そこで日本政府は、カイロ宣言の報道にあたっては、具体的な領土問題には触れることを許さなかった57。

ところで、連合国の戦後経営の構想を注視しつつ、大東亜宣言に基づく具体的な機構案の検討を続けていた言論人が石橋湛山と清沢洌であった。大東亜会議からまもなく、清沢と石橋は、青木大東亜相に大東亜宣言を基礎に具体的な戦後機構案の作成について政府の取組みを促したが、政府にはその意思がないことに失望する58。しかし、両者は44 年の末にいたるまで、連合国側の戦後経営構想に着目しつつ。大東亜宣言の諸原則を基礎とする「新世界機構」を考案する必要があることを説き続けるのである59。

2)和平工作


日米開戦以来、日本政府の重慶政府に対する和平工作は南京国民政府の手にゆだね、日本政府は直接関与しないという方針であった。南京政府では、重慶側の諜報機関や特務組織と深い関係にあった周仏海を中心に重慶へのアプローチが試みられるが進展しなかった。44 年8 月に成立した小磯内閣は、8 月末と9 月の最高戦争指導会議で、対重慶工作を首相のイニシアティヴのもとに統一し、日中終戦のために直接会談のきっかけを作ることに主目的を置くことを決定した60。小磯首相が重慶工作に熱心に取り組むようになったのは、朝日新聞副社長から入閣した緒方竹虎国務相の強い進言による61。

和平条件の作成は外務省が中心なり、9 月5 日の最高戦争指導会議は、「和平条件は完全なる

55 大東亜会議と共同宣言の「意図」について、波多野『太平洋戦争とアジア外交』(前掲)及び入江昭「戦後アジアへの戦時日本の構想」(細谷千博ほか編『日英関係史、1917-1949』東京大学出版会、1982 年)。
56 伊藤隆編『石射猪太郎日記』中央公論社、1989 年、1943 年12 月3 日の条。
57 天羽英二日記・資料集刊行会『天羽英二日記』第4 巻(非売品、1982 年)、884-85 頁。
58 清沢洌『暗黒日記』評論社、1979 年、1943 年11 月25 日の条。
59 前掲、波多野『太平洋戦争とアジア外交』、200-05 頁。
60 参謀本部所蔵『敗戦の記録』原書房、1967 年、163 頁。
61 前掲、『畑日誌』1944 年9 月4 日の条。


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平等条件に據ることを建前とす」という方針のもとに、以下の「和平条件の腹案」を決定した。

(1)完全平等の立場による和平、
(2)和平にともなう重慶と米英との関係については出来る限り中国側の意向を尊重する、
(3)汪・蒋関係は国内問題、
(4)英米が撤兵すれば全面撤兵、香港は中国に譲渡する、
などの「画期的な和平条件」であり62、開戦前後に提示されていたならば、あるいは日中和平の可能性も開かれたかも知れない。

結局、9 月9 日の「国民政府に対する伝達要領」では、満州国は中国の領域であることを認めるという外務省の新方針や、香港、蒙疆、南方権益などの具体的問題については、「支那側の意向を尊重して協議すべし」とされた63。

これらは重慶に対する和平条件として南京政府に伝達されたが、周仏海ら汪政権首脳は、満洲の中国返還(満州国の解消)が曖昧であったこと、汪政権強化という従来の方針に反していることから重慶政府と交渉に入ることを躊躇した64。日本国内でも天皇や重光外相は、汪政権の立場に配慮し、批判的であった65。結局、44 年9 月の最高戦争指導会議決定は、蒋介石の南京帰還、統一政府の樹立、中国からの撤兵という事実上の敗北を、日本が自ら提案せざるを得ない立場に陥ったことを物語っている。しかし、日本降伏までにはさらに1 年弱を空費することになる。

小磯の対重慶和平への熱意を背景に、政界の注目を集めていた路線開拓工作が宇垣一成の中国旅行であった。宇垣には汪政権を解消して重慶を「正統支那政府」と認め、「全面和平交渉」を提案するという構想があった66。9 月下旬に北京に入り、10 月初旬には上海で重慶側より派遣されたと称する周一夫らと会見するものの、結局、これといった路線を開拓することなく10 月13 日に帰国した。小磯や彼を支える宇垣グループの重慶工作を「南京政府解消論」とみなして終始批判的であったのは、汪政権に対する国際信義を重んずる重光外相であった67。

宇垣の中国旅行の直後、「全面和平」に関する日本側の意図を確認するため、10 月中旬に南京政府考試院長・江亢虎が来日した。江は南京政府を解消する用意がなければ重慶政府との和平の可能性はないことを要人に説いた。蒋介石側近と連絡のある繆斌(考試院副院長)、それに西南各将領と連絡を有する青年党、国社党の領袖たちであった68。

江のこうした議論に重光と小磯の反応は異なっていた。小磯は、南京政府側に江院長の述べるような意図が固まり、「全面和平」への機運が醸成されてくるならば、満州国の放棄にも応じようという姿勢をみせている。他方、重光は、あくまで日本が承認した南京政府を中心に和平を考え、南京政府の解消といった事態は極力避けようとした。

江は部下の繆斌(考試院副院長)から緒方竹虎情報局総裁と田中武雄書記官長宛の書簡(内容は不明)を託されていたが、江の帰国後、小磯は汪政権を通じた重慶工作に懐疑的となり、繆斌の招

62 前掲『機密戦争日誌(下)』1944 年9 月5 日の条。
63 前掲『敗戦の記録』175-76 頁。
64 前掲『周仏海日記』1944 年10 月17 日、11 月4 日の条。
65 『機密戦争日誌(下)』1944 年9 月6 日の条、前掲『敗戦の記録』165-66 頁。
66 渡辺渡「感想日誌 巻七」(防衛研究所図書館蔵) (1944 年10 月2 日、10 月3 日)。
67 伊藤隆ほか編『重光葵手記』中央公論社、1990 年、486-87、436 頁。
68 江亢虎の来日については「重光大臣江亢虎考試院長第一次会談要領」(10 月17 日)、「同第二次会談要領」(10 月19 日)(外務省記録A7.0.0.9-61)。


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致に熱心となる。繆斌は、国民党中央委員や江蘇省民政庁長を歴任するが汚職の嫌疑などで、徐々に国民党を離れ、南京国民政府の立法院副院長となるが開戦後、密に重慶と通じていたことが発覚して考試院副院長に左遷されていた。小磯は、緒方のほか、緒方が朝日新聞編集局長時代の部下で、上海通信員の田村真作、朝日新聞記者の太田照彦、元陸軍大佐で小磯の信頼が厚かった山形初男といった人々からの情報と協力を得て、繆斌が蒋介石につながるルートであることを確信し、重光らの反対を押し切って45 年3 月中旬に来日を実現させる。繆斌が示した「中日全面和平実行案」は、
(1)南京政府の解消、
(2)重慶側が承認する「留守府」政権の組織、
(3)「留守府」政権を通じた日中停戦・撤兵停戦交渉の開始、
であった69。

しかし、最高戦争指導会議では、この条件の審議に入る前に、重光、米内海相、杉山陸相らが、繆斌という人物に対する信頼性、繆斌系統の人物は南京政府の倒壊を目的としていること、などの反対論を唱え、結局、和平提案を受け入れなかった。重光が最後まで反対したのは、南京政府の解消や全面撤兵という重大政策に踏み込むためには、「戦争終結の決心」が先決でなければならかったからである70。対英米戦争の終結の決断のない限り、南京政権の存在を無視した形での重慶和平工作はありえなかったのである。小磯は45 年4 月1 日、繆斌工作の続行を上奏したが、天皇は陸、海、外三大臣の反対を確認したうえ小磯に繆斌の帰国を命じた71。こうして繆斌工作は挫折し、それが一原因となって小磯内閣は総辞職する。

繆斌工作について、南京政府と日本の離間をはかり、日本の首脳部の分裂を図ろうとしたものという評価がある。繆斌工作が重光と小磯の亀裂を深めたという事実に着目すれば、そうしたねらいは成功したことになる72。しかし、そうした意図が蒋介石の胸中に秘められていたのか否か、なぜ、戦争の最終段階となってそれを実行に移すにいたったのか、これらを実証することは現在のところ困難である。繆斌工作と並行した動きが何世楨工作である。汪兆銘の和平運動に参加しながら重慶側の情報工作にも関与していた何世楨は、44 年10 月、天皇親政、戦争責任者の処罰、日本軍の撤兵といった重慶側の和平条件を近衛文麿の実弟、水谷川忠麿らに託し、水谷川から近衛や重光外相に伝えられたが政府は取り上げなかった73。

4)国民党支配の危機とヤルタ協定


アメリカ政府は、国民政府の腐敗と日本軍の攻勢による中国戦線の崩壊を憂慮していたが、ローズヴェルト大統領は、44 年7 月、中国戦線の建て直しをはかるためスティルウエルのもとに国

69 田村真作『繆斌工作』三栄出版社、1953 年、175-76 頁。外務省編『終戦史録(上)』、新聞月鑑社、1952年、220 頁。
70 前掲、『重光葵手記』470-71 頁。
71 前掲、外務省編『終戦史録(下)』217-20 頁。
72 戸部良一「日本の対中国和平工作」(前掲、細谷千博ほか編『太平洋戦争の終結』)、43 頁。
73 繆斌工作、何世楨工作ともに、戴笠を指導者とする藍衣社系の諜報機関(軍統)が関与していた可能性が高い(前掲、戸部「日本の対中和平工作」38-42 頁)。また、汪熙「太平洋戦争と中国」(細谷千博ほか編『太平洋戦争』東京大学出版会、1993 年)によれば日中戦争の全期間を通じて日中双方が直接、間接に試みた和平接触は少なくとも29 回に及ぶ。中国側の意図は、日本軍の軍事攻勢の緩和、敵のカードを探るための情報収集、英米からの援助獲得の取引材料などであったという(90-98 頁)。


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共両軍の統一を蒋介石に要求した。蒋介石は、共産党軍が国民政府の指揮を離れ、やがて国民党による一党支配体制が崩れることを危惧し、この要求を拒絶してスティルウエルの解任を要求した。こうして中米関係は危機的状況となるが、10 月には米統合参謀本部が対日反抗のルートとして、台湾・アモイ作戦を放棄し、硫黄島から沖縄にいたるルートを選択したことによって中国戦線の意義が低下していた74。ここにローズヴェルトは、蒋介石の要求を受け入れ、中米危機は回避された。共産党や民主勢力や党内からの批判に対して国内結束を図る指導力を示した形となったが、ローズヴェルトは共産党の民主連合政府を支持するより、蒋介石政権の強化による中共の封じ込めを優先し、その中国政策は蒋介石支援と反共に傾いて行く。

44 年後半から、ヨーロッパとアジア太平洋の両戦線は、圧倒的に連合国側に有利に傾き、戦後世界の勢力配置をめぐって米ソのかけひきが激しくなる。焦点はヨーロッパでは東欧、アジア太平洋では日本撤退後の「満洲」であった。スターリンはすでに43 年11 月のテヘラン会談で対日参戦を約束していたが、45 年2 月のヤルタ会談では、その代償として、大連港の国際化とソ連の優先使用権、旅順港の租借、中東・満鉄両線の中ソ合弁経営などを要求し、英米はこれを受け入れた。ローズヴェルトは、中国の主権にかかわる条項について、中ソ交渉の必要を認め、スターリンもこれを受け入れ、45 年6 月から中ソ交渉が始まる。国民党政府は、旅順のソ連による租借に強く反発し、海軍基地として共同使用することを提案し、ソ連も同意するが、実際にはソ連側が旅順を海軍基地として単独で使用することになる。8 月9 日のソ連の対日参戦が交渉を急がせることになり、8 月14 日、中ソ友好同盟条約が調印される。国民政府は、ヤルタ協定の中国に関する項目の大部分を認めることになったが、ソ連の援助は国民政府を通じて実施されること、ソ連軍は日本降伏後、3 週間以内に東北から撤退を開始することを約束させた。ソ連参戦後の共産党支援や中国内政への干渉を封ずるという点からすれば中国にとって満足できるものであった75。

この間、共産党は、45 年4 月下旬から6 月にかけ、17 年ぶりに第七回全国代表大会(七全会)を開催し、毛沢東の権威と指導権を確立した。いまだ華南、華中の枢要地域は日本軍の占領下にあり、国民党軍の内戦挑発の行動が頻発するなか、毛沢東は、正規軍91 万、民兵220 万を擁する共産軍が抗日戦争の主力となっていると発言し、蒋介石国民党の消極的抗日路線を批判して、国民党が一党独裁を廃止し、当面、「民主連合政府」の形成に参加することを提唱した。国民党の一党独裁政権を強く意識し、多くの勢力を結集して国民党に対抗しようとした。一方、国民党地区の民衆にも民主化や連合政府を求める運動、政治参加の拡大を求める要求が高まり、国民党は抗戦初期に享受した政治的地位が危うくなっていた。こうしたなかで国民党は、5 月初旬から下旬にかけて重慶で第6 回全国代表大会を開催し、基本的に他の党派の参加を排除する国民党独裁に固執する戦後政権構想を打ち出し、日本の敗北が迫るにつれ、中共の民主連合政府論との対立関係は抜きさしならぬものとなって行く76。

74 加藤公一「『スティルウェル事件』と重慶国民政府」(石島紀之・久保享『重慶国民政府史の研究』東京大学出版会、2004 年)、147-67 頁。
75 石井明「中ソ関係における旅順・大連問題」(日本国際政治学会編『国際政治』95 号、1990 年)、46-62頁。
76 山田辰雄『中国近代政治史』放送大学教育振興会、189-92 頁。前掲、石島『中国抗日戦争史』、200-02頁。


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5)日本の降伏


日中戦争最後の大作戦-〓江作戦(〓は草かんむりに止)が日本軍の敗北に終わった45 年5 月末、参謀本部は兵力を華南から撤退して華北、華中に集結する方針を固め、派遣軍は、湖南、広西、江西方面の湘桂・粤
漢鉄道沿線の占拠地域から兵力を引揚げ、その兵力を華中・華北方面に転用して後退作戦に移った。しかし、大軍の後退が完了しないうちに、7 月27 日、日本降伏を勧告する英米中3 国首脳によるポツダム宣言が発表される。『大公報』は天皇制の排除が明記されていない点は不満であるが、カイロ宣言の履行が明示されている点など他の条項は全て同意すると論じた。しかし、日本政府はこれを事実上拒絶したため、原爆投下に続いて8 月9 日のソ連参戦という「外圧」のなかで、8月9 日の天皇臨席による御前会議は天皇制維持を条件としてポツダム宣言の受諾を決定した。12日の連合国の回答は、天皇制維持という条件を明確に保証したわけではなかったが、日本政府は保証されたものと理解し、14 日の再度の御前会議によってポツダム宣言の受諾を決定した。

国共両軍は日本がポツダム宣言の受諾の意思を表明した直後の8 月10 日から、争って日本軍の接収に乗り出す。延安総司令朱徳は、解放区の全部隊に日本軍と傀儡軍の武装解放を命じ、各地の部隊に降伏受入のための進軍を指令した。一方、蒋介石は11 日、日本軍に対して、しばらく武器と装備を維持し、治安維持と交通確保にあたり、中国陸軍総司令何応欽の命令を待つよう訴えた。また、蒋介石は、抗日戦勝利のラジオ演説のなかで、「暴を以て暴に報ゆる勿れ」と述べ、軍閥の戦争責任は追及されねばならないが、日本人民に報復や侮辱を加えてはならないと訓告した。

こうした対日宥和的な態度に期待する日本政府は、8 月16 日、「日支間の行懸りを一掃し、極力支那を支援強化し以て将来に於ける帝国の飛躍と東亜の復興に資す」ため、事業者、技術者及び企業の残留を奨励し、「誠意を以て支那の復興建設に協力し日支の提携を促進する」ことを決定した。8 月21 日、これを重光外相名で現地公館に伝えている77。この指示の効果は不明であるが、中国にとどまって技術支援や復興支援にあたろうとする数千の日本人が残留(流用)したことは事実である。

他方、蒋介石は15 日、日本占領地に向けて、偽軍(南京国民政府軍)は現駐地で治安維持に当り、機を見て罪を償うよう努力することを指示した。主席陳公博は、36 万の偽軍を南京、上海、杭州に集め、国民政府軍による武装解除を待つと報告し、翌16 日には汪政府は解散を宣言した。

一方、共産党側は、朱徳中国共産党軍総司令が、国民政府は解放区の人民を代表し得ないこと、解放区抗日軍は対日平和会議に代表を選出する権限をもつこと、などを米英ソ三国に申し入れるとともに、解放区の日本軍に対しては共産軍への投降を命じた。この間、蒋介石は何応欽にすべての中国戦区内の敵軍の降伏を処理する任務を与え、共産党に対しても現駐地に駐屯して命令を待つよう指示したが、共産党軍が従うことはなかった。国共両軍の抜きさしならぬ対立が早くも現れていた。

戦争終結時に中国本土に展開する日本軍の兵力は概ね105 万人に上り、十分な兵員数と武器・装備、指揮命令系統も保持され、将兵の士気も高いまま降伏を迎えた。岡村総司令官は、8 月15

77 江藤淳編『占領史録(上)』講談社学術文庫、1995 年、524-31 頁。


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日、派遣軍は「戦争には破れたりと雖も、作戦には圧倒的勝利をしめあり、斯くの如き優勢なる軍隊を弱体の重慶軍により武装解除さるるが如きは有り得べからざること」と上申している78。この日本軍は、華北全体と長江中下流域における主要都市とそれらを結ぶ鉄道沿線一帯をなおも占領していた。華北の日本軍占領地域を取り囲むように中共の抗日根拠地が存在し、四川・雲南といった奥地が国民党の支配地域であった。

こうした配置状況のなかで、日本軍の武装解除に迅速に動けるのは中共軍であった。日本の降伏が予想を越えて早く、国民政府は奥地に後退していた軍隊を結集して接収に赴かせることができなかった。中共軍は8 月16 日頃から華北一帯・江蘇北部において、日本軍に対して武器引渡しの要求を行ったが、派遣軍総司令部は「不法なる治安撹乱者に対しては蒋委員長の統制下に無きものと見做し、止むを得ず、断乎たる自衛行動に出ずべきこと」を通告した79。この「自衛行動」の容認命令は、8 月21 日からの降伏交渉において国民政府軍によって側によって支持され、この「自衛行動」の容認命令は、8 月21 日からの降伏交渉において国民政府軍によって支持され、両軍が協力して中共軍に対して「自衛戦闘」を展開する素地がつくられる80。こうして、中国本土では一部で強制的に武装解除された例を除けば、日本軍が中共軍に投降することはなかったが、華北・江蘇省北部の日本軍は中共軍の攻撃に対する自衛戦闘のため、7000 名の死傷者を出した。他方、華中(江蘇省北部を除く)・華南では終戦後に戦闘はほとんどなかった。

中共軍の日本軍占領地域への進撃を躊躇させたのは、中ソ友好同盟条約(前述)であった。ソ連による国民政府への支持と援助を約束した中ソ条約は、中共軍の進撃にソ連の後ろ盾を期待できなくなったことを意味した。こうした状況は、中共に戦略の方針転換を余儀なくさせた。8 月22 日になると、中共は華北における大都市及び主要幹線占領をあきらめ、小都市と農村の確保に乗り出し、満洲に主要部隊を満洲に移動させた81。

アメリカは対日戦勝利後、国民党軍を上海・南京・北京を含む華中・華北の主要地域に輸送し、国民政府による主要都市の接収を支援した。南京進駐部隊は9 月5 日から続々と空輸によって到着し、国民党軍は8 年ぶりに首都南京に入城した。そして、9 月9 日、岡村寧次派遣軍総司令官が南京中央軍官学校において降伏文書に調印し、何応欽中国陸軍総司令に降伏した。また、台湾では10 月下旬に投降式が挙行され、50 年に及ぶ日本の台湾支配が終焉した。

しかし、中国本土の日本軍の投降・武装解除は、国民党軍の北上時期によって異なり、その過程も決して平坦なものではなかった。華中・華南では、大半の部隊が45 年10 月までに武装解除が完了するが、華北においては、国民党軍の到着が遅れ、武装解除がずれ込み、全面的な武装解除の完了は46 年1月のことであった。

派遣軍にとっても国民党政府側とっても、予想外の事件が山西省の日本軍部隊が閻錫山軍に合流し、同軍とともに中共軍と戦う事態にまで至ったことであった。国民党政府は閻錫山側に対し、

78 前掲、『現代史資料(38)』403 頁。
79 岡村寧次『岡村寧次大将資料(戦場回想編)』原書房、1970 年、10 頁。
80 前掲、『現代史資料(38)』340 頁、346-48 頁。
81 門間理良「利用された敗者―日本軍武装解除をめぐる国共両党のかけひき」(前掲『日中戦争の軍事的展開』)67-83 頁。


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日本軍将兵の閻軍への参加志願の提出を制止せよとの訓令を発出しているが、国民党軍が現地に到着してからも第一軍所属の日本人将兵約2600 名は閻錫山軍と共同して中共軍と戦うため山西省に残留する道を選んだ82。そのうち、約1600 名は中共軍による山西省制圧直前の48 年までに帰国したが、1500 名余はなお山西省に留まって内戦に従事し、中共の支配下で囚われの身となった83。


おわりに


盧溝橋事件以後の中国東北部(満洲)を含む中国における日本軍人・軍属の戦死者数は約42 万名、戦傷病者が約92 万名である。このうち太平洋戦争開戦後の戦死者は23 万名(戦傷病者50 万名)と推定され、この数は盧溝橋事件から太平洋戦争開戦までの数を上回っており、進攻作戦期よりも、後半期の中共軍との戦いに苦戦したという特徴が表れている。一方、国民政府軍の死者は約132 万名、負傷者180 万名にのぼっているが、そのうち太平洋戦争開戦後の戦死者、戦傷者数はともに激減傾向にある。この傾向は、国民政府が共産軍との対決に備えて軍を温存したこと、日本軍の東南アジアや太平洋方面への転用が続き、戦闘能力が低下していたことを示していよう。ただし、44 年は戦死者、戦傷者とも10 万名を越えており、一号作戦による人的損害の大きさを物語っている。また、中共軍の死傷者数(失踪者を含む)は58 万名を越えると推定される84。

また、日中全面戦争は、双方の軍人だけではなく、とくに中国の非戦闘員に多くの犠牲を強いることになった。非戦闘員の犠牲の多さや日本軍による様々な「非違行為」は、戦後の日中両国民のなかに、新しい関係構築を妨げる深い傷跡を遺すことになった。国交回復を実現した72 年の日中共同声明において、中国政府が「戦争賠償の請求を放棄する宣言」を明記したにもかかわらず、細菌ガス使用問題、戦場における慰安婦問題、日本軍の遺棄兵器問題、中国人労務者の強制連行や強制労働問題など、日本軍による戦争犯罪を問い、戦後補償を求める運動が世代を超えて展開され、日本政府を相手とした裁判が今日まで続いていることは、そのことを物語っている。

82 前掲、『現代史資料(38)』367、510-12 頁。
83 厚生省引揚援護局編『続々・引揚援護の記録』クレス出版、2000 年、327 頁。
84 日本軍の被害は、厚生省社会・援護局監修『援護50 年史』、靖国神社資料(合祀数)等によっており、中国側の被害の推計は前掲、臼井『新版 日中戦争』、207-11 頁によっている。




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