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日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その1>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
第2部 戦争の時代
第2章 日中戦争-日本軍の侵略と中国の抗戦

日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その1>

波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員)
庄司潤一郎:防衛省防衛研究所戦史部第1 戦史研究室長(委員会委員)

  • 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2> 
    • 第2節 戦線拡大と持久戦
      • 2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争
        • a.武漢・広東攻略と長期持久体制
        • b.中国の抵抗
      • 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認
        • a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱
        • b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖
      • 4)汪政権の樹立と重慶和平工作
    • 第3節 日中戦争と国際関係
      • 1)列国の中国援助と対日経済制裁
      • 2)欧州大戦「不介入」と南進政策
      • 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72
      • 4)日米交渉と中国問題
        • a.事変解決と対米交渉
        • b.中国駐兵問題と破局


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はじめに


1937 年7 月に勃発した日中間の衝突事件は、全面戦争に発展したにもかかわらず、双方とも41年の太平洋戦争の開始まで宣戦布告を避けたという特徴がある。主な理由は、宣戦布告がアメリカ中立法の適用を受け、経済制裁と同様の効果をもたらす恐れがあったからである。さらに日本では、「戦争」への格上げは事態の早期収拾の妨げとなる、と判断された。日中紛争の長期化は、本来の敵と想定されたソ連や英米との対決に備えるためにも避けねばならなかった。こうして日本は、この戦争を当初「北支事変」と呼び、戦火が拡大した37 年9 月以降は「支那事変」と正式に呼称した。

もう一つの特徴は、全期間に及ぶ無数の和平工作が様々なルートで日本側から試みられたことである。それは早期収拾への期待と焦慮の反映でもあった。しかし、早期収拾への焦慮とは裏腹に戦闘は8 年を越え、宣戦布告による戦争以上に熾烈なものとなり、両国国民に大きな負担と犠牲を強いることになった。とくに戦場となった中国に深い傷跡を遺したが、その原因の大半は日本側が作り出したものといわなければならない。

第1 節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大


1)盧溝橋事件の勃発と拡大要因


1937年の華北は、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会が河北、チャハル両省を統括していた。この冀察政権は国民政府がいわば「緩衝機関」として設置したという成立事情から、冀東政権とは性格が異なり、支那駐屯軍にはその親日姿勢に不信感を抱く者も少なくなかった。他方、支那駐屯軍による頻繁な夜間演習は宋哲元の率いる第29軍には「挑発行動」と映り、必要以上に冀察政権側の警戒心を煽っていた。

7 月7 日夕刻、豊台駐屯の支那駐屯歩兵第1 連隊第3 大隊第8 中隊は、宛平県城北側の永定河にかかる盧溝橋畔でこの日も夜間演習を行っていた。午後10 時40 分頃左岸堤防陣地の方角から二度の銃撃を受けた。清水節郎中隊長は伝令を送って豊台の大隊本部に報告した。一木清直大隊長は警備召集によって約500 名の部隊を宛平県城近くの一文字山に出動させた。翌8 日午前3 時半頃に一文字山に到着した部隊は竜王廟方面で銃声を確認したため、北平の牟田口廉也連隊長に現状を報告すると牟田口は戦闘を命令した。一木大隊は5 時に攻撃命令を発して戦闘態勢をとる一方、堤防陣地の中国軍を包囲攻撃するため第8 中隊を前進させた。前進する第8 中隊と中国軍との間に戦闘が始まると、一木は5 時半に総攻撃を命じた。この間、二度の銃撃直後から同中隊の兵士一名が行方不明となり、まもなく無事に帰隊したが、その情報はかなり後まで大隊本部などに報告されず、事態を緊迫化させる一因となった。

現地で断続的な交戦が続く中、7 月8 日、参謀本部作戦部長の石原莞爾が療養中の今井清次長にかわって参謀総長に説明し、参謀総長名で事件の拡大を防止するため、「更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クヘシ」と支那駐屯軍司令官に命令した。翌9 日、参謀次長名で、中国軍の永定河左岸

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駐屯の禁止、謝罪と責任者の処分、抗日系団体の取締り等の停戦条件が指示された。停戦交渉は、北平特務機関と第29 軍代表との間で実施され、7 月11 日、29 軍は(1)陳謝と責任者の処分、(2)宛平県城、龍王廟に軍を配置しない、(3)抗日団体の取締り等の要求を受け入れ、11 日午後8 時に現地協定が成立した 1。

一方、近衛文麿内閣は8日の臨時閣議で事件の「不拡大」を決定したが、不拡大は華北への動員派兵の抑制を意味しなかった。翌9日の臨時閣議で杉山元陸相が内地3個師団派遣の必要を提案した際には、他の閣僚の反対で取りやめとなる。しかし、7月10日に現地龍王廟で再度の衝突が起こると、翌11日の閣議は不拡大・現地解決の方針とともに、陸軍省部の要望を容れ、3個師団の派遣を承認した(実際の派兵は留保)。同日午後6時過ぎの派兵声明は、「今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力的抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ」と断定しつつも、「局面不拡大ノ為平和的折衝ノ望ヲ捨テス」と述べていた 2。

近衛首相は同じ11日夜には言論界、政財界の指導者を集め、国民政府に反省を促すために「関東軍、朝鮮軍それに内地から相当の兵力を出すことはこの際已むを得ぬ」として派兵への全面協力を求めた。近衛は事態の拡大を望んではいなかったが、派兵という強硬姿勢を示すならば「中国側は折れて出る」はずであり、事件は短期間で片付くと信じていた 3。いずれにしても、派兵決定とその公表は同時に進行していた現地の停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした 4。

一方、中国の側でも、抗日気運の高まりのなか、妥協的な停戦を受け入れる可能性は狭まっていく。中国共産党は、事件翌日の8 日には、「抗日自衛戦争」の発動と国共合作を要求する通電を全国に発していた。他方、国民政府軍事委員会委員長・蒋介石は、対日抗戦のための内外体制の整備が途上にあったことから、当面事件の平和的解決に重きを置いていた。したがって、7 月17 日の廬山談話(19 日公表)では、外交的解決の期待を込めつつも、事件の解決が不可能となるような「最後の関頭」に立ち至ったときは必ず抗戦する、と決意を述べた 5。

この間、天津では事態解決の努力が継続され、7 月19 日には現地軍間で、中国側が日本側条件を呑む形で排日言動の取締まりに関する実施条項(停戦細目協定)が調印される 6。駐屯軍は21 日、

1 盧溝橋事件の経過については、以下の文献による。秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会、1996年、138-211 頁。防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975 年〔以下、「戦史叢書」〕、145-51 頁。安井三吉『盧溝橋事件』研文出版、1993 年、141-257 頁。寺平忠輔『盧溝橋事件』読売新聞社、1970 年、54-125 頁。外務省編『外務省執務報告・東亜局 第三巻 昭和十二年(1)』クレス出版、1993 年、第1・2 章。
2 外務省編『日本外交年表並主要文書(下)』原書房、1955 年、366 頁。
3 庄司潤一郎「日中戦争の勃発と近衛文麿の対応」(『新防衛論集』第15 巻3 号、1988 年)78-81 頁。臼井勝美『日中外交史研究』吉川弘文館、1998 年、212-42 頁。
4 天津特務機関員として第29 軍と停戦協議にあたった今井武夫は、「日華双方が局地解決に努力中の、極めて微妙な時機だっただけに、この廟議決定はわれわれ現地の日本側代表の行動を困難にすると共に、他方中国側にも連鎖反応を惹起して態度を硬化させ、両方面に破局的影響を及ぼした」と回想している(今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964 年、31-32 頁)。
5 日本国際問題研究所編『中国共産党史資料集・第8 巻』勁草書房、1974 年、資料75(434-35 頁) 、84(468-71 頁)。石島紀之『中国抗日戦争史』青木書店、1984 年、59-60 頁。
6 香月清司司令官は「之で現地交渉は完全に纏ったことになったのでありまして、従ひまして支那駐屯軍が中央の指示である不拡大の方針に依って行った現地解決と云ふことは形式上成立した」と判断したという(「香月清司中将回想録」『現代史資料(12)』みすず書房、1965 年、538 頁)。


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「29 軍は全面的に軍の要求を容れ逐次実行に移りつつあり」として派兵慎重論を東京の陸軍に打電したが、前日の20 日、閣議は華北派遣を容認していた。陸軍省部の要求に応えたものであったが、駐屯軍の意見や参謀本部から派遣したスタッフの現地情勢の報告によって参謀本部は再び派遣を見送った。

しかし、25日、26日と連続して起こった小衝突事件(廊坊、広安門事件)を契機として、陸軍省部は延期していた3個師団の動員実施を決定し、27日の閣議はこれを了承した。駐屯軍は28日に全面攻撃を開始し、翌日には永定河以北の北平・天津地区をほぼ制圧した。その直後に起こった通州事件 7 は、日本の中国に対する強硬な世論を決定的なものにした。

こうした事態拡大にもかかわらず、不拡大方針はなおも堅持され、参謀本部の派兵計画も作戦の範囲を北平、天津に限定することを基本方針としていた。石原作戦部長は、7月末から柴山兼四郎軍務課長と共に外務省や海軍に働きかけ、国民政府の側から停戦を求める可能性を追求した。陸海外3省の間で停戦条件を定めたうえ、在華日本紡績同業会理事の船津辰一郎に上海での中国側との接触を依頼した(船津工作)。船津は8月7日に上海に到着し接触を開始するが、上海情勢の緊迫のため進展しなかった 8。

盧溝橋における最初の発砲事件は「偶発的」であり 9、現地においては局地的解決の努力がなされた。しかし、この衝突事件を好機とみなした支那駐屯軍(のち北支那方面軍)や関東軍は、蒋介石政権の打倒と華北占領という構想を圧倒的な軍事力によって実行していく。現地軍の行動を抑制できなかった大きな理由の一つは、陸軍部内のいわゆる「拡大派」と「不拡大派」の対立にあった。石原作戦部長ら「不拡大派」は、中国との戦争は長期化を免れず、国力を消耗して対ソ軍備に支障を生じ、ソ連の介入を招く恐れがあるとして局地的解決を主張していた。他方、田中新一軍事課長や武藤章作戦課長らの「拡大派」は、事件勃発直後から、国民政府軍に一撃を加え、国民政府の抗日姿勢の転換を迫り、一挙に日中問題を解決するという「一撃論」を展開していたが、こうした一撃論は「不拡大派」を圧倒し、陸軍部内の多数派となるのである10。

事件発生から最も重要な最初の数日間に、外交ルートを通じた接触は南京の日高信六郎参事官と中国外交部との間の数回のみであり、事件処理の主導権は陸軍に握られ、外交当局は無力であった。事件の「拡大」の要因は政府や世論にもあった。上述のように、現地の停戦努力を無視した早い段階での派兵声明、それに同調する近衛首相や「暴支膺懲」一辺倒となるマスメディアの論調などは、日本軍を華北侵略に向かわせる複合的要因であった。近衛内閣も事態の拡大を抑制するより、この

7 北京郊外の通州で、冀東政府の保安隊が約 200 人余の日本人居留民などを殺害した事件。
8 戸部良一『ピース・フィーラー-支那事変和平工作の群像』論創社、1991 年、31-35 頁。
9 日本の研究者は偶発的発砲説が主流であり、中国の研究者には日本軍による計画的発砲説、謀略説が多い。秦『盧溝橋事件の研究』(前掲)は、29 軍兵士による偶発的発砲と推定している(138-82 頁)。安井『盧溝橋事件』(前掲)は、偶発説であるが直後の日本軍の対応を問題としている(168 頁、300-16頁)。
10 前掲、秦『盧溝橋事件の研究』282-339 頁。高橋久志「日華事変初期における陸軍中枢部」(『年報・近代日本研究(7)』山川出版社、1985 年)188-93 頁。「石原莞爾中将回想応答録」(『現代史資料(9)』みすず書房、1964 年)305-13 頁。


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事件を行き詰まっていた中国政策の打開の好機ととらえ、蒋介石政権の早期敗北を想定して大兵力の派遣を容認し、現地解決の努力を押し流していく。

この間、蒋介石は7 月29 日の緊急記者会見で、今や事態は「最後の関頭」にいたったことを認め、「局地的解決の可能性はまったくない」と、抗戦決意を改めて明らかにし、共産党との提携による対日統一戦線の形成(第2 次国共合作)に向けて両党間の懸案解決に動き出す。蒋介石は統一戦線における主導権掌握をねらった中ソ不可侵条約の締結(8 月21 日)、ソ連の対日参戦の要請(11月26 日)、華北の事態の国際連盟への提訴(9 月12 日)など戦争の「国際化」による最終的勝利をめざすことになる11。

2)関東軍の積極介入と北支那方面軍の南下


事件勃発前、支那駐屯軍よりも強硬な中国政策を東京に迫っていたのは関東軍であった。陸軍省は、5 月末に柴山軍務課長を奉天に派遣し、華北分離工作の停止を求めた四相会議決定「対支実行策」(37 年4 月16 日)を関東軍に説明したが、関東軍は南京政府との国交調整の必要を認めず、武力による「一撃」を説くのみであった12。事変勃発後、関東軍は内蒙工作の促進と中国軍の熱河、チャハル進出を防ぐため、華北作戦と連携した内蒙古における兵力使用を参謀本部に再三具申していたが、不拡大方針の参謀本部は7 月末まで認めなかった。しかし、関東軍の強い意見具申の前に8 月7 日、参謀本部はチャハル作戦を容認した。元来、チャハル作戦はチャハル省内の中国軍を掃滅するため支那駐屯軍が担う作戦であったが、脇役であった関東軍が主役となる主客転倒の作戦と化した。チャハルに派遣された蒙疆兵団は張家口方面に進撃し、8 月末に占領した。その後も関東軍は南下を続け、チャハル、綏遠両省を勢力下に収め、次々に傀儡政権を樹立した。華北・内蒙を中国政府の影響下から切り離し、要地に駐兵権を獲得して重要資源の優先的開発を行うことが目標であった。

一方、華北では、8月31日、支那駐屯軍が北支那方面軍(寺内寿一司令官)に改編される。朝鮮軍や内地から増派を得て8個師団の大兵力となった北支那方面軍は2軍に分かれて南下し、河北、山西、山東の各省に侵攻した。9月末には保定を占領したが、中国軍が退避戦法をとったため作戦目的は達成されなかった。しかし、北支那方面軍は作戦地域を保定-滄州付近と示していたが、勢いに乗じてこれを突破してしまった。参謀本部はこれを追認し、さらに石家荘―徳州の線に拡大したが、北支那方面軍はこの制限線も大きく越えてしまう。そして10月中旬までに石家荘を占領した。保定作戦で終わるはずの攻勢作戦が、北支那方面軍に引きずられて石家荘作戦に発展したのである。さらに方面軍は、南京政府の抗戦意思の挫折のためには、徐州進撃が必要と判断するようになる。

3)上海派兵



11 樹中毅「蒋介石の民族革命戦術と対日抵抗戦略」(『国際政治』152 号、2008 年3 月)76-78 頁。鹿錫俊「世界化する戦争と中国の『国際的解決』戦略」(石田憲編著『膨張する帝国 拡散する帝国』東京大学出版会、2007 年)211-19 頁。
12 臼井勝美「史料解題 昭和十二年『関東軍』の対中国政策について」(『外交史料館報』第11 号、1997年6 月)64-65 頁。


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海軍の動向に眼を向けると、事変勃発後、軍令部や中国警備を担当する第3艦隊には強硬な空爆論も存在したが、米内光政海相は外交的解決に期待し、水面下で進んでいた船津工作に望みを託していた。しかし、上海での8月9日の海軍将兵の殺害事件(大山事件)は海軍部内の強硬論を刺戟した13。佐世保に待機中の陸戦隊が急遽派遣され、上海は一触即発の危機に陥った。

8月12日、国民党中央執行委員会常務委員会は、戦時状態に突入する旨秘密裏に決定した。14日払暁、中国軍は先制攻撃を開始し、空軍も第3艦隊旗艦「出雲」及び陸戦隊本部を爆撃した。蒋介石が上海を固守するために総反撃を発動したのは、ソ連の介入や列国の対日制裁に期待し、さらに日本の兵力を分散し、華北占領の計画を挫折させるためでもあった14。上海防衛戦には国民政府軍の精鋭部隊が投入され、その兵力は70万人を越え、戦死者も膨大な数にのぼった。

8月13日の閣議は、派兵に消極的であった石原作戦部長らの意見を抑えて、陸軍部隊の上海派兵を承認した15。米内海相も陸軍の上海派兵には積極的ではなかった。しかし、旗艦「出雲」の中国空軍による爆撃によって態度を急転させ、14日の政府声明作成のための臨時閣議では、「不拡大主義」の放棄を主張し、南京占領の提言にも及んだ。8月15日の政府声明は、対ソ戦考慮の観点から、依然、不拡大方針のもとで早期解決に努力すべきであるとする杉山陸相の意見によって不拡大方針の放棄は示さず、南京政府の打倒ではなく「反省を促す」ための出兵であることを強調していた16。

米内の積極的な派兵論への転換は、海軍の強硬姿勢への傾斜に歯止めを失ったことを意味した。15日に下令された上海派遣軍は、純粋の作戦軍としての「戦闘序列」としてではなく、一時的な派遣の「編組」の形を取っていた。その任務も、上海在留邦人の保護という限定されたものであった17。しかし、上海戦は中国軍の激しい抵抗のなかで、事件を局地紛争から実質的な全面戦争に転化させる。

9月末、石原作戦部長は更迭され、後任には下村定少将が就任した。下村は石原と同じく戦争の長期化がソ連介入を招くことを恐れていたが、主戦場を華北から華中に転換し、むしろ積極作戦によって敵の主力軍を潰滅させる短期決戦が必要と考えた18。8月に参謀次長に就任していた多田駿中将もこれを支持した。この積極作戦の第1歩が、11月5日の第10軍による杭州湾への奇襲上陸であった。その直後、上海派遣軍と第10軍が統合され、松井石根を司令官に暫定的に中支那方面軍が編成された。その任務はもはや居留民の保護ではなく、北支那方面軍と同様に敵の戦意を挫くことであった。杭州湾上陸の成功は上海方面の戦況を一変させ、中国軍は退却を開始し、11月中旬、日本軍は上海全域を制圧した。

13 相澤淳『海軍の選択』中央公論新社、2002 年、104 頁。細川護貞ほか編『高松宮日記 第2 巻』、中央公論社、1996 年、530、533 頁。
14 楊天石(陳群元訳)「1937,中国軍対日作戦の第1年」(波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』慶應義塾大学出版会、2006 年)99,108 頁。楊天石『我尋真実的蒋介石』三聯書店、2008 年、244頁。
15 「中支派兵の決定」(『現代史資料(12)』)364-94 頁。
16 前掲、相澤『海軍の選択』105-10 頁。戦史叢書『大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯(1)』朝雲新聞社、1979 年、214 頁。
17 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(1)』266 頁。正式な「戦闘序列」の発令は9 月11 日(同書、298 頁)。
18 「下村定大将回想応答録」(『現代史資料(9)』)378-81 頁。


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しかし、第10軍は、敵の退路を遮断するためさらに追撃を求めた。作戦部は作戦地域を蘇州―嘉興のライン(制令線)の東側と設定した。方面軍は制令線まで急速に進出すると、今度は制令線を撤廃して南京に迫るべきであると主張した19。南京はすでに8月15日から日本海軍による激しい渡洋爆撃に見舞われていたが、南京のみならず上海、漢口など諸都市に対する無差別爆撃は国際的非難を浴びていた。

4)南京攻略と南京虐殺事件


参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対していた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた20。

11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中のトラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。

この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた21。

国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた22。しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた23。

中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定

19 井本熊男『作戦日誌で綴る支那事変』芙蓉書房、1984 年、161-79 頁。
20 南京戦史編集委員会編『南京戦史』(増補改訂版)偕行社、1993 年、17-20 頁。
21 孫宅巍主編『南京大屠殺』北京出版社、1997 年、72-73、83 頁。笠原十九司『南京事件』岩波書店、1997 年、120 頁。米国メディアの報道(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』青木書店、1992 年、387-388、390、394、431-432、473-475 頁など)。
22 唐生智「南京防衛の経過」(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ』(増補改訂版)偕行社、1993年)623-26 頁。蒋介石の南京死守作戦の強行は、ソ連の軍事的介入を期待していたため、とする指摘もある(笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年、281-82 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日抗戦の第1 年」116-18頁。前掲、楊『我尋真実的蒋介石』240-41 頁)。
23 唐司令官は、陣地の死守を命じ揚子江の無断の渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まり、多くの兵士が徒死するにいたった(前掲、孫宅巍主編『南京大屠殺』70-71、76、78 頁。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、83-85 頁)。


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して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している25。

日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ 26、さらに陸軍中央部にも伝えられていた。その結果、38 年1 月4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった27。

虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(捕虜)の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている28。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6 師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった29。南京国際安全区委員長のジョン・ラーベは、唐司令官は「無分別にも、兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と懸念し、中国国民の生命を省みない国民政府・軍首脳の無責任さを批判していた30。

さて、首都南京の占領は「勝利者」意識を日本の朝野に広め、事変の収拾方策や和平条件に大き

24 秦郁彦『南京事件』中央公論社、2007 年増補版、317-19 頁。
25 日本で刊行された最も包括的な資料集は、南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ、Ⅱ』(増補改訂版、偕行社、1993 年)であり、第16 師団長・中村今朝吾の日記、上海派遣軍参謀長・飯沼守の日記、歩兵第30 旅団長・佐々木到一の手記、中支那方面軍司令官・松井石根の陣中日記などを収めている。
26 石射猪大郎東亜局長は、38 年1 月6 日の日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と記していた(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁)。
27 前掲、『南京戦史』(増補改訂版)398-99 頁。
28 前掲、秦『南京事件』103-07 頁。捕虜の取扱いも、殺害、解放、労役と部隊により異なっていた(原剛「いわゆる『南京事件』の不法殺害」軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年、139-55 頁)。北博昭『日中開戦』中央公論社、1994 年、54-68 頁。笠原十九司『南京難民区の百日』岩波書店、1995年、25-54 頁。
29 孫宅巍(笠原十九司訳)「南京防衛軍と唐生智」(藤原彰ほか編著『南京事件を考える』大月書店、1987年)153-58 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日作戦の第1 年」113-22 頁。笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄ほか編『南京大虐殺の研究』晩聲社、1992 年)214-41 頁。
30 ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社、1997 年、83-90 頁。なお、日中の「建設的対話」と「共通の理解」という観点から事件をとらえた研究として、楊大慶「南京アトロシテイズ」(劉傑ほか編『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年、139-68 頁)。


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な影響を与えた。近衛内閣が12月末の閣議で決定した「支那事変対処要綱」にも華北や上海周辺を政治的にも、経済的にも日本の強い影響下におくという、勝利者としての意識が反映している31。

5)和平をめぐる葛藤-トラウトマン工作32と9ヶ国条約会議


事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第3 国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9 月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのはイギリスであった。9 月中旬、新着任のクレーギー駐日大使が仲介の可能性について広田弘毅外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、華北の非武装地帯の設定、排日取締と防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、満州国の不問などであった。これらの条件は蒋介石に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待する蒋は受諾に否定的であった33。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9 月中旬から日中紛争を審議中であった。

その連盟総会では、中国代表・顧維鈞が日本の侵略行為に対し、国際的な緊急措置を訴えていたが、賛同する加盟国はソ連のみであり、日華紛争諮問委員会にこの問題を委任することとなった。諮問委員会は日本の行動を9 カ国条約違反とする報告書を総会に提出し、9 ヶ国条約会議の召集を勧告した。諮問委員会に非加盟国として参加していたアメリカの要請によるものであった。10 月6日総会はこれを採択し、連盟の勧告により10 月15 日、開催国ベルギーが中心となりブリュッセル会議(9 ヶ国条約会議)が呼びかけられた。一方、10 月5 日ローズヴェルト大統領は、こうした連盟の動きに呼応して直ちに参加を表明し、いわゆる「無法国家」を非難する隔離演説を行ったが、アメリカの意図は集団的圧力による調停にあって、具体的な制裁行動ではなかった34。

一方、欧米諸国による事変介入を警戒していた日本は、10 月22 日の閣議で不参加を決定した。不参加声明では、日本の行動は「支那側ノ挑発ニ対スル自衛手段」と主張したうえで、「両国間ノ直接交渉ニ依リテノミ之ヲ解決シ得ル」という立場を改めて表明した35。他方、広田外相は10 月27 日、各国大使に不参加理由を説明した際、閣議決定を踏まえ、第3 国の「好意的斡旋」は受諾の用意がある旨を通報したが、実際に和平条件を提示したのはドイツだけであった。

ドイツによる和平斡旋は参謀本部が熱心に取り組み、石原作戦部長の了解のもとで情報部員がドイツ大使館側と頻繁に接触していた。それが奏功し、10月下旬には上海で駐華ドイツ大使トラウトマンに和平条件が提示される。一方、東京では、陸軍の要望を容れた広田外相が駐日ドイツ大使ディルクセンに対し、クレーギーに示したと同様の和平条件(10月1日首相・陸・海・外の4相決定)を中国側に伝達するよう要請していた。11月初旬、トラウトマンは日本側の和平条件を蒋介石に伝

31 臼井勝美「日中戦争と軍部」(三宅正樹編『昭和史の軍部と政治(2)』第一法規出版、1983 年)74-5頁。
32 トラウトマン工作については、前掲、戸部『ピース・フィーラー』第2・3 章、劉傑『日中戦争下の外交』吉川弘文館、1995 年、第2 章。
33 前掲、戸部『ピース・フィーラー』67-71 頁。
34 入江昭『太平洋戦争の起源』東京大学出版会、1991 年、67-71 頁。上村伸一『日本外交史 第20 巻 日華事変(下)』鹿島研究所出版会、1971 年、170-75 頁。
35 前掲『日本外交年表並主要文書(下)』372-75 頁。


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えるが、開催中であった9ヶ国条約会議の対日制裁に期待していた蒋はこれを拒否した。

その9ヶ国条約会議では顧維鈞が、経済制裁や抗戦継続のため中国への物的援助などの具体策を訴えるものの、参加各国はそれぞれの思惑から制裁措置を躊躇し、対中援助にも、一方への援助は停戦の可能性を閉ざすとして大半の国が慎重であった。結局、11月15日の本会議は対日非難の声明を採択して事実上終了した。

9 カ国条約会議が実効的な行動をとることなく11 月下旬に閉幕したこと、さらに上海戦における敗勢は蒋介石の態度を変化させる。12 月7 日、蒋はディルクセン大使を通じて、日本側の和平条件を基礎として交渉に応ずる意思を伝えたが、広田は最近の情勢変化は講和条件の変更を必要としている、として即答を避けた。南京攻略が迫っていたからである。

しかし、日本の朝野には、南京の陥落は国民政府の崩壊をもたらすであろう、という戦勝気分が横溢し、蒋政権はもはや和平の相手ではなくなっていた。とくに現地軍や関東軍には、蒋政権が降伏に応じないのであれば、その正統性を否認し、新たな中央政府を育成すべきである、とする主張が勢いを増してくる。他方、参謀本部は、南京陥落が蒋政権の降伏や崩壊にはつながらず、戦争の長期化を招くのみとし、この機会に比較的寛大な条件によって講和すべきであると考え、こうした考え方がトラウトマン工作を支えた。しかし、政府首脳の意見は、蒋政権の弱体化や崩壊を前提として厳しい講和条件を要求するか、あるいは、もはや蒋政権を否認し、講和交渉自体の必要性を認めないか、いずれかに収斂していく。

一方、国民政府のなかでも日本との講和をめぐって議論が分かれたが、最終的に38 年1 月2 日、蒋介石は、ドイツの調停を拒否し、抗戦を貫くことを決定した36。

1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。指導者たちは「戦勝国」としての意識につつまれ、和平条件が中国にとって受け入れ難いものとなったことを示している37。参謀本部は最後まで交渉による和平を主張するが、1月15日、政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。

こうして南京陥落という絶好の日中講和の機会は失われてしまう。1月11日の御前会議決定によれば、和平が不成立の場合、「帝国ハ爾後之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政権ノ成立ヲ助長」する一方、国民政府の潰滅を図るか、または新興政権の傘下に吸収することになっていた。1月16日、この方針の下で「対手トセス」声明(第1次近衛声明)が発表される38。

36 前掲、楊「1937,中国軍対日作戦の第1年」118-19 頁。
37 「昭和十三年一月十一日御前会議に於ける参謀総長、軍令部総長、枢府議長の説明要旨」(『現代史資料(12)』395-398 頁)。
38 数日後、「対手トセス」とは、「国民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスル」ものと補足説明された(『日本外交年表並主要文書(下)』、387頁)。


第2節 戦線拡大と持久戦

1)事変解決策の混迷


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a.徐州作戦と「新興支那政権」
南京占領後、参謀本部作戦課は38年夏までは新しい作戦を実施しない方針(戦面不拡大)を固めていた。しかし、北支那方面軍は徐州付近の主力軍を包囲殲滅する作戦に固執し、執拗にその必要性を訴えたため、河辺作戦課長が北京に赴き、ソ連の介入に警戒を強める必要から占拠地域の安定的確保が急務と説得したが、華北の各軍は受け入れなかった39。徐州作戦は38年4月初旬に発動され、5月下旬に徐州を占領した。しかし、中国軍は日本軍が包囲網を完成する前に退却戦術をとったため、中国軍主力の包囲殲滅という目的は達成できなかった。

徐州占領後、近衛首相は内閣改造を行い、外相に宇垣一成を、陸相に板垣征四郎を任命した。改造後の近衛内閣は、6 月10 日には休眠状態であった大本営政府連絡会議に代えて五相会議(首相、蔵相、外相、陸海相)を設置し、事変の早期解決のため方策を改めて審議する。

蒋介石否認政策を前提とする中国政策は、現地軍の指導によって華北・華中の占領地に続々と作られた新政権(「新興支那政権」)を国民政府に代わる中央政権として育成する一方、国民政府を崩壊させるか、あるいは国民政府を新政権の傘下に吸収することであった。

問題は南京陥落によっても蒋政権に変化が見られないことであった。政府・軍部内には、中央政権の早期樹立を避け、国民政府との直接交渉を重視する指導者も少なくなかった。宇垣外相がそのような立場であった。他方、なおも国民政府の軍事的圧迫による瓦解、あるいは謀略工作による蒋介石の下野に期待する指導者は、現地軍の主張に同調していた。板垣陸相がその代表であった。また、蒋否認論を強硬に主張した関東軍も、中央政権の樹立には直ちに賛同しなかった。関東軍は華北・内蒙の自治政権樹立を優先し、過早に親日政権を糾合して中央集権化を図るより「分治による統一」の必要性を主張した40。五相会議は、まず、蒋政権が「屈服」(蒋の下野や転向)すれば、新中央政権の構成分子として認めるとの方針を打ち出し、限定的ながら和平交渉の可能性が生れるが、最大の問題は「新興支那政権」の基盤が弱体であったことである。38 年3 月、中支那方面軍が南京に樹立した中華民国維新政府も同様であった。

b.宇垣工作と日英協力構想
この間、外務省の石射猪太郎東亜局長は38 年6 月の意見書で、新興政権の合流による新中央政権樹立論や、臨時・維新両政府に国民政府を合流させる方法は、蒋の下野を前提としたもので現実性がなく、国民政府を正統政府として認め、漢口攻略までに和平交渉を開始するという「国民政府相手論」の推進を外相に進言している41。

石射の「国民政府相手論」に賛同していた宇垣外相は、38 年6 月の国民政府行政院長・孔祥煕の秘書・蕎輔三と香港総領事・中村豊一との接触を機として、国民政府との和平会談の実現に向け熱心に取り組む(宇垣・孔祥煕工作)。中村・蕎輔三会談は7 月までに6 回に及び、蕎輔山は、蒋

39 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(1)』483-87 頁。河辺作戦課長はまもなく転出するが、河辺の転出によって作戦部内の「不拡大思想は完全に一掃」されたという(前掲、井本『作戦日誌で綴る支那事変』202-03 頁)。
40 前掲、戸部『ピース・フィーラー』168-88 頁。『続・現代史資料(4)陸軍:畑俊六日誌』みすず書房、1983 年、148-49 頁。
41 外務省編『外務省の百年(下)』原書房、1967 年、315-37 頁。


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と孔が協議したとする和平条件を示すなど積極的な姿勢を示した。日本側が蒋の下野を必須条件としたため交渉は難航したが、中村は宇垣の意を汲み、実質的な蒋下野の棚上げ案など柔軟な姿勢をもって臨んでいた。他方、宇垣は他のルートにも関心を寄せ、とくに萱野長知を仲介として同じ孔との接触をはかっていたが、9 月末に突如として辞職し、和平工作も頓挫する。宇垣の辞職の原因は明らかでないが、国民政府を交渉相手とする宇垣の和平工作に、近衛首相をはじめ国内の支持が得られなかったことが一因であった42。

他方、この宇垣外相のもとで、中国に関する日英協力をめざした外交工作が進展している。この日英協力路線は、近衛改造内閣に入閣した池田成彬蔵相を中心としたもので、懸案問題を日英間で解決し、日本の優位の下で中国に「講和」を迫り、戦後経営も日英協力によって行う、というもので、財界や元老など「親英勢力」の支援も得て宇垣外相による外交工作の一環となる。イギリス側では、「穏健派」が対日関係の修復、さらに日中調停をも視野に入れ、クレーギー大使が宇垣と交渉に臨む。しかし、日中直接交渉を重んずる宇垣はイギリスの仲介には消極的であり、交渉は進展しなかった43。

42 前掲、戸部『ピース・フィーラー』213-52 頁。
43 松浦正孝『日中戦争期における政治と経済』東京大学出版会、1995 年、第3 章。前掲『続・現代史資料(4)』157 頁。Anthony Best, Britain, Japan and Pearl Harbor: Avoiding war in East Asia, 1936-1941(London: Routledge,1995),pp. 55-60.




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