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満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その2>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
第2部 戦争の時代
第1章 満州事変から盧溝橋事件まで

満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その2>

戸部良一: 防衛大学校教授(外部執筆委員)


2.関係安定化の模索と挫折


4)梅津・何応欽協定


広田や重光が、満洲国の実在を所与のものとして、中国統一を進める国民政府との間に安定した関係を構築しようとしたのに対して、これに逆行する動きが華北で繰り返される。現地の関東軍や支那駐屯軍が、国民政府による中国統一に否定的であったからである。現地軍は、失地回復を諦めない国民政府の本質を「抗日」であると見なし、それゆえ満洲国の防衛や対ソ戦略の観点から、華北にそのコントロールが及ぶことを阻もうとした。対ソ戦の場合、国民政府は抗日のためにソ連に協力するかもしれないと危惧された。出先の軍人たちは、国民政府の「誠意」はポーズにすぎないとして大使交換にも批判的であった36。

こうした中、華北で事件が発生する。戦区内で活動する抗日反満の武装集団はときおり熱河に侵入し関東軍を刺激していたが、1935 年5 月中旬、業を煮やした関東軍は長城線を越えてこれを討伐した後、満洲国領内に引き揚げた。このとき日本側では、河北省主席・于学忠がこの武装集団を陰で支援していたと睨んだ。また、同じ5 月の初め、反蒋・反国民党の親日新聞社の社長2 人が天津の日本租界で暗殺された。日本側の調査では、犯人は国民党の特務組織のメンバーであるとされた。ここでも、河北省当局と国民党機関の責任を問う声が上がったのである37。

5 月29 日、支那駐屯軍参謀長の酒井隆は、軍事委員会北平分会委員長代理の何応欽に対して二つの事件の責任を問い、国民党機関の河北省撤退、于学忠の罷免、于学忠軍(東北軍系)と中央軍の河北省外への移駐などを要求した。軍司令官・梅津美治郎の不在を狙った酒井の独断であったが38、要求通告の事後報告を受けた梅津や陸軍指導部は、一時戸惑った後これを追認した39。

要求通告後、支那駐屯軍は天津の省主席官邸前に部隊を展開して威嚇し、関東軍も国境近辺に部隊を集中して圧力を加えた。中国側は日本政府に斡旋を要請したが、広田外相は、地方的軍事問題は外交交渉の埒外であるとして関与しなかった。苦況に陥った何応欽は6月10 日、結局、酒井の要求を受諾するとの口頭による回答を寄せ、後日、要求を受諾したという事実のみを記した書簡を送った。これがいわゆる梅津・何応欽協定である。中国側は合意内容を実行したが、それは日本との協定によるものではなく、中国自身の自発的

36 戸部良一「陸軍「支那通」と中国国民党」『防衛大学校紀要』第68 輯(1994 年3 月)48-50 頁。
37 島田俊彦「華北工作と国交調整(1933 年~1937 年)」『太平洋戦争への道』第3 巻、98-101 頁。
38 酒井の独断については、松崎昭一「再考「梅津・何応欽協定」」軍事史学会編『日中戦争の諸相』(錦正社、1997 年)35-39 頁を参照。
39 在中国若杉大使館参事官より広田外務大臣宛電報(6 月7 日)外務省編『日本外交文書昭和期Ⅱ第1 部第4 巻上』第299 文書。


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な行政措置であるとの立場をとった。つまり中国側からすれば、梅津・何応欽協定なるものは存在しないとされるのである40。

同じ頃、察哈爾省の張北でも事件が起こった。日本陸軍の特務機関員が同地で中国兵に不法監禁されたというのである。それまでにも察哈爾省に駐屯する宋哲元の第29 軍(西北軍系)と関東軍・満洲国側との間には、たびたび紛争が生じていた。関東軍はこの張北の事件を利用し、満洲国の国境防衛と内蒙古自治工作に役立てようとした。

関東軍から派遣された土肥原賢二(奉天特務機関長)は省主席(宋哲元)代理の秦徳純に対し、第29 軍の長城以南撤退、排日機関の解散などを要求し、6 月27 日秦徳純はこれを認める文書の回答を提出した(土肥原・秦徳純協定)。この結果、第29 軍は河北省に移駐していった。かつて長城の防衛戦で関東軍と激しく戦い、今度は察哈爾省から追われた第29 軍は、当然ながら強烈な抗日意識を持つことになる。

1934 年から1935 年前半にかけて、満洲国の実在を所与のものとして、国民政府との間に安定した関係を構築しようとした日本政府の試みは、限定的ではありながら、一定の成果を挙げつつあるように見えた。だが、華北での出先軍人の策動はその試みに冷水をかけ、中断させてしまう。日中提携の実現を図ってきた南京政府や北平政務整理委員会のいわゆる親日派の人々からは、日本軍人による傍若無人の行動と、それを掣肘しない日本政府に対して、嘆きの声が上がった。黄郛によれば、梅津・何応欽協定は彼らに対する国内的支持を弱め、彼らに「悲哀ト絶望トヲ感セシメタ」という41。

5)広田三原則


華北の状況変化によって困難さが増したとはいえ、日中関係全体の安定化を目指す動きが断念されたわけではない。むしろ、華北での出先軍人の突出を抑えるとすれば、大使昇格をテコとして全般的な日中関係安定化を進めることが必要であると考えられた。

こうした発想から、日中外交当局の間で国交全体を改善するための協議が開始される。1935 年1 月、広田外相が帝国議会で日中親善を謳った直後、国際司法裁判所判事の王寵恵が来日し、日中国交に関する三つの原則を提示したが、9 月になって初代大使の蒋作賓は、あらためてその原則を説明した。(1)相互の独立尊重と対等関係、(2)友誼に基づく交際、(3)平和的方法による問題解決、という三原則が実現されるならば、中国としては満洲国を当面不問に付し、さらに上海停戦協定と塘沽停戦協定の取消に同意してくれるならば経済提携を進め軍事的協力も検討したいと蒋大使は述べた。

一方日本では、中国に対する方針についての協議が7 月あたりから外務・陸軍・海軍の三省事務当局間で始まり、10 月4 日、関係大臣の了解事項となった42。その中の、(1)中国の排日言動の徹底的取締と欧米依存政策からの脱却、(2)満洲国独立の黙認(できれば正式承認)、(3)赤化勢力の脅威排除(防共)のための協力、がいわゆる広田三原則である。了解事項の付属文書として、中国の統一あるいは分立を助成したり阻止したりすることを行わない、という申し合わせがなされたが、これは華北の事態を睨み陸軍を牽制するために付

40 梅津・何応欽協定の成立経緯については、臼井『日中外交史研究』141-154 頁を参照。
41 在中国有吉大使より広田外務大臣宛電報(6 月25 日)『日本外交文書 昭和期Ⅱ第1 部
第4 巻上』第245 文書。
42 「対支政策[広田三原則]決定の経緯」『現代史資料8・日中戦争1』102-108 頁。


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け加えられたものと言えよう。

日中両国の三原則を比べてみると、中国側の原則はまだしも相互主義的であったが、広田三原則は一見して明らかなとおり、日本側の一方的な要求に終始していた。日本側の原則は、相手国との相互的なギヴ・アンド・テイクよりも、国内の関係者の主張や要求をどのように調整するかということに重点を置いていた。10 月7 日、広田外相はこの三原則を蒋大使に提示した。しかし、これによって日中関係安定化のための交渉が動き出すことはきわめて難しかった。交渉の前提となる「原則」それ自体に問題があったからである。その上、1935 年後半には、交渉の環境も悪化しつつあった。


3.華北の紛糾


1)幣制改革


国民政府は、国内敵対勢力を制圧しながら日本に抵抗するという政治的・軍事的問題のほかに、経済的にも深刻な問題に直面していた。世界大恐慌の影響に加えて、剿共戦の長期化や満洲事変以後の日本との武力紛争が、軍事費を増大させ国家予算を圧迫した。満洲の喪失は関税収入の大幅な減少を招いた。さらにこれに輪を掛けたのがアメリカの銀政策である。アメリカが内外の市場から銀を買い付けたため、銀貨が高騰し、中国から大量の銀が流出したのである。中国は実質的に銀本位制をとっていたため、甚大なダメージを受けた。

中国はアメリカに銀買上の中止と銀価抑制を要請したが、協力を得られなかった。次いで中国は各国に借款を要請する。この要請を受けた日本は、しかし、消極的であった。満洲国建設に資金を注ぎ込んでいたため、外債に応じる財政的余裕がなかった。仮に応じるとすれば、中国が債務を返済することが先決であるとされた。また、中国が外債を有効に使うためには複雑な貨幣制度(幣制)を根本的に改める必要があるとされたが、国民政府にはそれを実現する能力がないとも判断された。

イギリスでも、貨幣制度の改革なしには借款は一時しのぎにしかならないと考えられた。ただし蔵相のチェンバレン(A. Neville Chamberlain)は、日英の共同借款が日英協調を促し東アジアの安定に資することに期待をかけた。この大蔵省の後押しもあって、イギリスは政府首席経済顧問のリース=ロス(Frederick W. Leith-Ross)を中国財政再建援助のために現地に派遣することになる。

1935 年9 月、訪中前に来日したリース=ロスは日本側に注目すべき提案を行う。その提案とは、中国を経済的混乱から救うには銀本位制を放棄させる幣制改革が望ましく、幣制改革のためには借款を供与しなければならないが、これを具体化する方式として日英両国が1000 万ポンドの借款を満洲国に与え、それを満洲国が中国に対して満洲喪失の代償として引き渡したらどうか、というものであった。つまり、満洲国を経由しての日英共同借款によって、中国を経済的苦況から脱却させ、日英協調を実現し、さらに中国の満洲国承認も引き出そうとリース=ロスは提案したのである43。だが、日本政府はこの提案に否

43 木畑洋一「リース=ロス使節団と英中関係」野沢編『中国の幣制改革と国際関係』210頁。


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定的であった。中国の幣制改革の実現可能性については依然として懐疑的であり、共同借款についても反対であった。列国による借款は中国の国際管理につながる危険性があり、少なくとも列国の政治的影響力を維持・強化させるので望ましくはないと考えられた。それよりも中国は一時しのぎの借款に頼らず自力更生を図るべきであると広田外相や重光次官は論じた44。

日本の対応に失望したリース=ロスは中国政府に幣制改革を勧告する。それは中国自体がそれまで検討してきた改革構想にほぼ合致したものであった。こうして11 月4 日、国民政府は幣制改革を断行する。銀本位制を廃止して管理通貨制に移行し、貨幣の発行を三つの銀行にだけ限定して銀を国有化する、というのがその改革の骨子であった。イギリスは単独の借款供与には踏み切らなかったが、自国の銀行が保有していた銀を中国側に引き渡すことで、幣制改革の成功を助けた。アメリカは中国の銀を購入する協定(米中銀協定)を締結し、中国が保有銀を売却して得たドルあるいは金をベースにして銀本位制から脱却することを可能にした。

日本の否定的な予想にもかかわらず、中国の幣制改革は成功への道を辿る。国民政府は幣制改革によって西南派や華北将領等の地方勢力の経済的な基盤を掘り崩し、その面からも国家統一を進めようとしたのである45。

2)「北支」工作(華北「自治」運動)


国民政府の幣制改革は、日本陸軍にとって歓迎されざる事態を意味した。それはイギリスの差し金によるものと見なされ、イギリスの影響力の拡大を伴うことが警戒された。それに加えて、国民政府による経済的な面での華北コントロール強化も憂慮すべき事態であった。華北将領たちの間でも、地方的利害から幣制改革には抵抗があった。こうして華北では陸軍出先機関による反撃が始まる。

出先軍はまず、察哈爾省から河北省に移ってきた宋哲元ら華北将領に圧力を加えて、現銀の南送を防止し、幣制改革を妨害しようとした。また、梅津・何応欽協定の成立以来、出先軍は華北「自治」運動を陰で工作していたが、幣制改革後はこの運動を性急に強行しようとする。

関東軍は、華北将領に国民政府からの離反を促すため、満洲国国境の山海関付近に一部兵力を集中した。陸軍中央はこの措置に驚き、兵力移動は認めたものの、まだ「北支」工作のために武力を行使すべき段階ではないと関東軍に自制を説いた。外務、陸軍、海軍の三省事務当局は意見調整を行い、華北「自治」を支持することには合意したが、そのための行動には慎重さが必要であるとし、「自治」の程度は最初から過大な要求をすることを避け、漸進的に行うべきであると申し合わせた。

一方現地では、土肥原から華北「自治」を要請された宋哲元(平津衛戍司令)、商震(河

44 波多野澄雄「幣制改革への動きと日本の対中政策」野沢編『中国の幣制改革と国際関係』272-273、松浦正孝「再考・日中戦争前夜」『国際政治』第122 号(1999 年9 月)135-137 頁。
45 幣制改革の政治的側面に関する新しい解釈については、樋口秀実「1935 年中国幣制改革の政治史的意義」服部龍二ほか編『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学出版部、2007年)を参照。


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北省主席)、韓復榘(山東省主席)らが、その圧力をかわしながら、何とか「自治」へのコミットを回避しようとしていた。結局のところ、「自治」運動の成果として実現したのは、戦区督察専員(戦区の行政首長)の殷汝耕を長とし、戦区を領域として11 月25 日に成立した冀東防共自治委員会だけであった(12 月25 日、冀東防共自治政府に改組)。殷汝耕には叛逆者として国民政府から逮捕状が発せられた。

南京の国民政府は、華北将領に対して日本に屈服しないよう牽制しつつ説得するとともに、日本の要求に何らかのかたちで対応する必要に迫られた。そのため蒋介石は北平軍事分会を廃止し、宋哲元を冀察綏靖主任に任命するとともに、高度の自治権を持たせた「大官」を華北に派遣する、との案を提示した。在中国大使の有吉明はこの提案に注目し、「自治」運動を抑制して蒋介石による事態収拾を見守るべきではないかと意見具申した。ところが、本国政府は国民政府による大官の華北派遣に反対する。国民政府ないし国民党の影響力が華北に残存し強化されるのではないかと警戒したのである。国民政府が大官として何応欽を華北に派遣し、「自治」の態様や防共等について日本側と協議しようとしたとき、日本側は彼と会おうとしなかった。

現地陸軍は華北将領に対する圧力を一段と強めた。特務機関等が後ろで糸を引く「自治」運動が各地で繰り広げられた。こうした動きに対して、12 月9 日、北平では大学生を中心とした数千人のデモ隊が「抗日救国」を叫び、公安当局と衝突した。16 日には1 万人以上が参加したデモが北平で展開された。華北の将領は「自治」推進と反対の板挟みとなり、軍閥としての利益から自己保身を図った。物情は騒然とし、ついに何応欽も事態収拾不能を認めざるを得なくなった。

12 月18 日、最終的に妥協の産物として発足したのが冀察政務委員会である。8 月末に廃止された北平政務整理委員会(政整会)に代わる、国民政府の地方行政機関として設置された。ただし、国民政府が黄郛や何応欽のように華北に地盤を持たない有力者を派遣して地方行政を担当させたのではなく、冀察政務委員会は宋哲元を委員長にしたことに示されているように、あくまで華北の実力者を主体とした地方機関であった。日本側が華北将領による「自治」を要求していたからである。そしてその分、南京(国民政府)と北平(冀察政務委員会)は意思の疎通に欠けるところが多くなった。中央政府の思惑や地方軍閥の利害も複雑に絡み合った46。

日本は当初、華北五省(河北、察哈爾、山東、山西、綏遠)の「自治」を目指したが、冀察政務委員会は河北・察哈爾の二省と北平・天津の二市を管轄したにすぎなかった。また、国民政府からの分離を目指したのに、冀察政務委員会は国民政府の地方行政機関として設置された。こうした点で、現地陸軍が目指した華北「自治」の目標はまだ達成されていなかった。

一方、日本の外交当局は、国民政府が「自治」運動の抑制を求めてきたとき、それを中国の内政問題であるとして突っぱねながら、華北への大官の派遣に反対し、何応欽の北上に際しては彼との接触を避けた。1936 年1月、日本政府は「第一次北支処理要綱」を決定

46 南京の国民政府と華北将領、特に宋哲元との関係については、Marjorie Dryburgh, North China and Japanese Expansion 1931-1937: Regional Power and the National Interest (Curzon Press, 2000)、光田『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』を参照。


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し、現地軍の性急な行動には自制を求めつつも、華北の「自治」推進を追認した47。

こうして、出先陸軍の「北支」工作により、国民政府では、いわゆる親日派の影響力が低下していった。政整会廃止の数ヵ月前に黄郛は委員長の職を辞した。1935 年11 月、汪精衛は何者かによって狙撃され、やがて行政院長兼外交部長を辞任した。12 月には、外交部次長として対日外交を取り仕切ってきた唐有壬が暗殺された。国民政府内の親日派との提携によって対中関係を安定化させようとしてきた広田・重光外交は、その前提を失い、広田三原則をめぐる交渉もほとんど動かなくなった。

その上、1936 年2 月、東京では陸軍過激派将校によるクーデタ(二・二六事件)が発生し、日本の首都は一時、麻痺状態に陥った。反乱軍鎮圧後、広田を首班とする内閣が発足したが、暫くは政府も軍も事件の再発防止と国内の安定に関心と努力を注がねばならなかった。

3)多発する事件


中国では、華北でもそれ以外の地域でも、日中関係をこじらせる問題や事件が相次いで発生していた。両国の関係をこじらせた問題の一つは、冀東特殊貿易である48。中国から言えば、冀東地区での密貿易にほかならない。満洲事変以前も関東州から渤海湾を渡って河北省沿岸や山東半島へ向かう密貿易は少なくなかったが、事変以後は、日本商品への関税が高かったことと、戦区の沖合での密輸取締船の活動を日本側が禁止したこともあって、戦区を経由する人絹や砂糖等の密輸が飛躍的に増えた。

冀東政権が成立すると、その行政経費を捻出するため同政権は輸入品に特別税を課したが、それは国民政府の正規の関税の4 分の1 程度であったので、その特別税を払っただけの「特殊貿易」が横行し、国民政府の関税収入に大きなダメージを与えるとともに、国内経済を混乱させた。中国側はこれに抗議したが、日本は中国の内政問題であるとして取り合わなかった。

華北でもう一つ日中関係をこじらせたのは、1936 年5 月、支那駐屯軍が兵力を3 倍(約5800)に増やしたことである。この兵力増強は、長征を終え(1935 年10 月)陝西省延安に根拠地を構えた共産軍に対処することを目的としていたが、これには隠れた理由もあった。性急かつ強引に華北「自治」運動を画策する関東軍に、「北支」工作から手を引かせ満洲国育成に専念させるというのが、その理由である。「北支」工作は支那駐屯軍が主導するものとし、そのために兵力増強とともに軍司令官を親補職にして関東軍司令官と同格としたのである49。

支那駐屯軍の増強は、事前通告を行わず、新たに駐屯地とされた豊台が義和団事変最終議定書に明記されていなかったこともあり50、中国側から厳しい批判を招いた。関東軍に

47 『現代史資料8・日中戦争1』349-350 頁。
48 冀東特殊貿易については、藤枝賢治「冀東貿易をめぐる政策と対中国関税引下げ要求」軍事史学会編『日中戦争再論』(錦正社、2008 年3 月)を参照。
49 支那駐屯軍の増強については、松崎昭一「支那駐屯軍増強問題」『國學院雑誌』第96 巻第2 号・第3 号(1995 年2 月、3 月)を参照。
50 日本陸軍は当初、通州を新駐屯地にしたいと考えていたが、通州は義和団事変最終議定書で認められた列国の「占領」地に入っていなかったため、国際的な批判を招くとして断念された。豊台も同議定書には明記されていなかったが、以前にイギリス軍が駐屯していたことがあり、そのとき中国側が抗議しなかったので、陸軍はここを新駐屯地に選んだ。


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対する牽制という内向きの理由は当然ながら表面には出せず、むしろ日本は兵力を増強させてまた何か事を起こそうと画策しているのではないか、という疑惑を強めてしまった。

上海では1935 年11 月、海軍陸戦隊の水兵が射殺される事件が発生し、翌年2 月になって、犯人は中国の特務組織に関わる人物であることが判明した。華中・華南の権益や居留民の保護を担当する海軍を、上海の水兵射殺事件は強く刺激した。1936 年8 月には、一時閉鎖していた成都の領事館再開を前に、現地に赴いた新聞記者を含む日本人グループが暴徒に襲われ、死者2 名、重傷2 名の被害を出した(成都事件)。同年9 月、広西省の北海で薬局を営んでいた日本人が殺害された(北海事件)。広西省に移駐してきた19 路軍が排日を煽っていたことを重視した海軍は、艦船を北海に派遣して現地調査を行い、国民政府が責任を回避し事件解決を遷延させる場合には武力行使も辞さないとの強硬な姿勢を示した。北海事件直後には漢口で日本領事館の警察官が射殺され、上海でもまた水兵が殺害される事件が起こり、これらの事件も海軍を硬化させた。

ただ、このときは華北の事態を重視する陸軍が北海への陸兵派遣に消極的であり、成都事件を解決するために始まった川越茂大使と張群外交部長との交渉に、北海事件の解決委ねられることになった。

4)対ソ戦略と対中政策


その頃、日本政府は広田三原則の行詰りに応じて対中政策を見直し、新しい方針を打ち出していた。1936 年6 月、陸海軍が国防方針を改訂したとき、政府はこれと並行して同年8 月、国家戦略としての「国策の基準」を定め、これに準拠して「帝国外交方針」、「対支実行策」、「第二次北支処理要綱」を策定したのである51。

このうち「対支実行策」では、国民政府を反ソ・対日依存の方向に誘導し、華北の特殊性を認識させてその「自治」を容認させるとともに、具体的には防共協定・軍事同盟の締結、日本人顧問の傭聘、日中航空連絡、互恵関税協定の締結(冀東特殊貿易の廃止とその交換条件として排日高率関税の引下げ)、経済提携の促進等を提案することが方針とされた。

注目されるのは、防共協定の締結という方針である。ここには、日本の対ソ戦略バランスの悪化という事情が絡んでいた。そもそも満洲事変は対ソ戦略上有利な態勢を構築することを目的の一つとして始められたが、結果的には逆説的にも日ソ間のバランスは日本にとって不利な方向に傾いた。ソ連が外交的には日本に対して宥和的な態度をとりつつ、軍事的には日本の脅威を深刻にとらえ、極東領土の軍備強化を図ったからである。1934 年6月の時点で、ソ連陸軍の極東兵力は日本陸軍の総兵力に匹敵し、対ソ前線に位置する満洲と朝鮮の日本陸軍兵力はソ連極東陸軍の30 パーセントに達しなかった。しかもこの兵力の格差は広がりつつあった52。

陸軍が日ソ戦の場合の中国の向背を懸念し、抗日を本質とすると考えられた国民党の勢力を華北から排除しようとした背景には、こうした対ソ戦略バランスの劣勢があったのである。さらに、1936 年2 月、陝西省の共産軍が一時、山西省に進出してきたことは、現

51『現代史資料8・日中戦争1』361-371 頁。
52 防衛研修所戦史室『戦史叢書・大本営陸軍部1』(朝雲新聞社、1967 年)352 頁。


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地および本国の陸軍の警戒を強めた。これを受けて3 月末、多田(駿)支那駐屯軍司令官は宋哲元との間に、極秘裡に防共協定を結んだ53。また、前年12 月、華北「自治」に反対して繰り広げられた北平のデモにも、共産勢力の影響力増大が感知された。皮肉なことに、日本が国民党機関を排除した後の間隙に、その特務組織による苛烈な弾圧が姿を消したこともあり、共産勢力が浸透していたのである54。

以上のような対ソ・防共の考慮は、「第二次北支処理要綱」にも貫かれている。そこでは、中国の領土権の否定、独立国家の樹立、あるいは満洲国の延長を図るかような行動は避けるが、華北の「分治」を促進して防共親日満の地帯を建設し、国防資源の開発と交通施設の拡充を進めてソ連の侵攻に備えるとともに、日本・満洲国・中国の三国「提携共助」を実現することが謳われた。注目されるのは、華北「分治」が政府の確定した方針として掲げられたことである。開発すべき国防資源としては鉄、コークス用石炭、塩、石炭液化、棉花、羊毛等が挙げられた。既に関東軍や支那駐屯軍の依託を受けて、華北の経済資源に関する調査が進められており、1935 年12 月には満鉄の子会社として興中公司が設立され、華北資源開発に関する事業を開始していた55。

成都事件が起こったのは、このような国交調整方針が固まった頃である。日本側の要求は当初、犯人・責任者の処罰、排日の取締という事件解決に重点を置いていたが、やがて国交調整方針に含まれる全般的なものへと膨らんでいった。北海事件など、その後に続く事件の発生が日本側の態度を硬化させた。一方、中国側は事件解決と排日取締には応じたものの、それ以外の点では日本の要求に対して妥協を拒んだ。中国側は、塘沽・上海両停戦協定の廃棄、冀東政権の解消、華北自由飛行(満洲国と華北との航空連絡に消極的であった中国側を牽制するため、中国軍の監視を名目に関東軍が華北に軍用機を飛ばしていたもの)の中止、密貿易の停止、内蒙古に侵入した「偽軍」(傀儡軍)の解散、を要望し、日本側と正面から渡り合った。

成都事件をきっかけとして1936 年9 月に始まった川越・張群会談は、こうして進展を見せなかった。そのうちに関東軍の後押しする内蒙軍が綏遠省北部に侵入し、そこで中国軍と衝突した事件(綏遠事件)をめぐって会談は暗礁に乗り上げ、同年12 月、事実上、打ち切られた。

5)内蒙工作と綏遠事件


綏遠で中国軍と衝突したのは、察哈爾省で内蒙古自治を目指して活動していた蒙古の王族、徳王の軍隊である。南京の国民政府は蒙古人の自治要求に押されて蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)を設置したが、徳王はこれにあきたらず、土肥原・秦徳純協定で宋哲元軍を察哈爾省から押し出した関東軍に接近した。1936 年4 月、察哈爾省の徳化に徳王を主席とする内蒙軍政府が関東軍の指導下に成立し、満洲国との間に相互援助条約を結んだ。内蒙工作を強引に推進していたのは関東軍参謀の田中隆吉である。陸軍指導部は必ずし

53 臼井勝美「冀察政務委員会と日本」『外交史料館報』第16 号(2002 年6 月)34-35 頁、安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993 年)68-71 頁。
54 安井『盧溝橋事件』85 頁。
55 華北での日本の経済活動については、中村隆英「日本の華北経済工作」『年報・近代日本研究』第2 号(1980 年)を参照。


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もこれを支持しなかった。やがて徳王は財政的基盤の脆弱な内蒙軍政府を強化するために、綏遠省の東部を支配下に入れようとする。同年11 月、徳王のために田中が掻き集めた無頼の匪賊部隊が蒋介石打倒を唱えて綏遠省に侵入した。しかし、この部隊は紅格図で簡単に敗れ、百霊廟に駐屯していた徳王の内蒙軍も綏遠軍の攻撃を受けて潰走した56。

この綏遠事件での中国軍の勝利は、日本軍に対する初めての勝利、しかも「無敵」の関東軍を打ち破った大勝利であると大々的に報じられ、中国各地で喝采を浴びた。綏遠への侵入に関東軍が間接的に関与していたことは間違いないが、実は戦闘にはほとんど参加していなかった。だが、これまで鬱積してきた対日屈服感からの解放も手伝って、綏遠事件の勝利は誇大に受け取られた。綏遠事件は中国の抗日感情を昂揚させ、日本に対抗する自信を回復させた。そして、その直後に歴史を転換させる事件が起こる。

6)西安事件


それは12 月12 日、剿共戦の督戦のため西安を訪れた蒋介石が、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城によって拘禁された事件である。張・楊と延安の共産勢力との間には以前から共同抗日についての協力関係が生まれていた。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、最終的に蒋介石は釈放された。事件収束に至る真相はいまだ不明だが、この西安事件によってその後の共同抗日と国共合作が促されたことは疑いない。

そもそも蒋介石は、満洲事変以後、安内攘外の方針に基づき日本との妥協を図ってきたが、究極の場合の対日戦の準備を疎かにしていたわけではない57。国民政府は剿共戦を戦うためドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図るとともに、その助言に基づき、対日戦に備えた軍事的措置を講じつつあった58。1936 年4 月には、ドイツとの間に1 億マルクの貿易協定を結んだ。ドイツからの武器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定であった。中国はこのようなドイツとの密接な経済的・軍事的関係によって日本を牽制しようとしたが、同年11 月の日独防共協定の成立により、親独政策による対日牽制は頓挫した。

蒋介石は対日牽制のためにドイツとの連携だけでなく、ソ連(1932 年12 月国交再開)との連携も模索した59。一方、かつて国民党を敵視していたソ連も、中国の対日牽制を維持・強化する上で、蒋介石の指導力に着目した。反ファシズム人民戦線戦術を採用していた(1935 年8 月)コミンテルンは、中国共産党に対しこれまでの反蒋抗日ではなく、連蒋抗日の路線を勧告した。蒋介石は、外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったものの、日本の強引な華北工作に対抗するため、対日戦の場合に軍事援助が得られるかどう

56 内蒙工作については、森久男「関東軍の内蒙工作と蒙疆政権の成立」『岩波講座・近代日本と植民地1 植民地帝国日本』(岩波書店、1992 年)を参照。
57 中国の国防計画については、安井『盧溝橋事件』126-135 頁。
58 対日戦準備に対するドイツ軍事顧問団の貢献については、Hsi-Huey Liang, The Sino-German Connection: Alexander von Falkenhausen between China and Germany 1900-1941 (Van Gorcum, 1978), chap.7-8 を参照。
59 蒋介石の対独・対ソ連携構想については、樹中毅「蒋介石の民族革命戦術と対日抵抗戦略」『国際政治』第152 号(2008 年3 月)、鹿錫俊「日ソ相互牽制戦略の変容と蒋介石の「応戦」決定」軍事史学会編『日中戦争再論』を参照。


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かをソ連に打診していた60。さらに蒋介石は、紅軍(共産軍)に対して討伐を中断することはなかったが、日本に対抗する上での共産党との政治的妥協の可能性も排除しなかった。たしかに日本との和解の可能性をまだ諦めてはいなかった。しかし、華北分離の動きがこれ以上強まれば、日本との武力衝突の可能性にも備えなければならなかった。そうしたところに西安事件は起こったのである。

7)対中政策の再検討


西安事件は日本にとっても大きな衝撃であった。事件は、一方では中国の内部分裂の深刻さを示すものと受け取られたが、他方では国内統一に向かう重大な転機とも見られた。

関東軍は事件の結果、中ソ両国が抗日に関して完全に一致したと分析し、これまでのように華北「自治」を国民政府からの権限委譲によって実現するのではなく、国民政府の意向には捉われず日本が自主的に追求すべきであると主張した61。これに対して、参謀本部戦争指導課は、西安事件を契機として中国では内戦反対と国内統一の気運が進んだと指摘し、抗日人民戦線派が健全な新中国建設運動に転化し得るかどうかは、日本が従来の「帝国主義的侵寇政策」を放棄できるかどうかにかかっていると論じた62。言論界でも、国民政府による統一を肯定的に評価する中国再認識論が説かれ、実業界の一部には1936 年後半あたりから、華北分離工作を批判し、日中経済提携を説く主張が浮上していた63。

こうして対中政策の再検討が始まる。そのイニシアティヴをとったのは、戦争指導課長から作戦部長に昇任した石原莞爾である。彼は将来の対ソ戦を睨んで当面は満洲国育成に専念し日満一体の軍需産業基盤強化を図るため、中国との衝突回避を望んだ。そのため内蒙工作に反対し、華北分離を否定し、冀東政権廃止の可能性も考慮しつつあった。

一方、外務省でも対中政策の見直しがなされていた。その主眼は、華北分治工作の中止と経済的施策の実行にあった。1937 年3 月、広田内閣に代わる林銑十郎内閣の外相に佐藤尚武が迎えられて、陸海軍両省を巻き込んだ対中政策の再検討が本格化した。4 月に政府は「対支実行策」「北支指導方策」を決定し、華北の分治や中国の内政を乱す政治工作は行わないことを定め、前年の華北分治の方針を否定した。「対支実行策」では、国民政府が指導する中国統一運動に対して「公正なる態度」で臨むことが基本とされ、防共協定や軍事同盟の締結という要求項目はなくなった。反ソ・対日依存への誘導という前年の方針も謳われなくなった。「北支指導方策」では、目的達成のために華北民衆を対象とした「経済工作」に主力を注ぎ、これに国民政府の協力を求めることが合意された64。画期的な政策転換であった65。

60 この頃の中ソ関係については、Jonathan Haslam, The Soviet Union and the Threat from the East, 1933-41 (University of Pittsburgh Press, 1992), chap.3 を参照。
61 関東軍参謀部「対支蒙情勢判断」(1937 年2 月)臼井勝美「昭和十二年「関東軍」の対中国政策について」『外交史料館報』第11 号(1997 年6 月)67-70 頁所収。
62 参謀本部第二課「帝国外交方針及対支実行策改正に関する理由竝支那観察の一端」『現代史資料8・日中戦争1』382 頁。
63 この点については、伊香俊哉「日中戦争前夜の中国論と佐藤外交」『日本史研究』第345号(1991 年5 月)を参照。
64 『現代史資料8・日中戦争1』400-403 頁。
65 佐藤外相の下での政策転換については、臼井『日中外交史研究』第9 章、藤枝賢治「「佐藤外交」の特質」『駒澤大学史学論集』第34 号(2004 年4 月)を参照。


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その頃、横浜正金銀行頭取の児玉謙次を団長とする実業家グループが訪中し、中国の実業家たちと会談した。帰国後、児玉は冀東政権の解消と冀東特殊貿易の廃止を訴える意見書を佐藤外相に提出した。児玉訪中団のメンバーであった藤山愛一郎(大日本製糖社長)は岳父の結城(豊太郎)蔵相のメッセージを新任の外交部長王寵恵らの国民政府首脳に伝えた。それは日中経済提携の実績によって出先の関東軍や支那駐屯軍を抑制し、両国の関係安定化を図りたいとの趣旨であった66。

だが、現地では支那駐屯軍が林内閣の新方針に同調的だったのに対して、関東軍はそれを次のように強く批判していた67。政治的工作を行わず重点を経済的工作に置くというのは、従来の方針に比べて著しく消極的であり、日本との国交調整に応じる意思のない国民政府に親善を求めるのは、その「排日侮日」の態度を増長させるだけである。もし武力行使が許されるのであれば、中国に一撃を与えて、対ソ戦の場合の背後の脅威を除去するのが、最も有利な対策と言うべきだろう、と。

西安事件の衝撃を受けて、日本には対中政策の転換を図ろうとする動きが生まれたが、関東軍のように、それに反対する主張も根強かった。また、政策転換の実績を挙げるには時間が必要であった。そして、その実績が挙がる前に、1937 年6 月林内閣は総辞職した。後継の近衛内閣の外相に就任したのは広田弘毅であった。

8)盧溝橋事件前夜


日本の国防方針において、中国は仮想敵国のひとつであった。したがって、陸軍は毎年、中国と開戦した場合の作戦計画を作成した。中国の軍備強化に伴い、1937 年度(1936 年9 月から1 年間)の対中作戦計画での使用兵力は、前年度の9 個師団から14 個師団に増加した68。ただし、対ソ戦に備えての軍備拡充を焦眉の急としていた参謀本部では、中国との戦争は極力回避すべきであると考えられていた。

支那駐屯軍はこの作戦計画を受け、参謀本部の指示に基づいて華北の占領計画をつくった69。作戦計画が華北要地の一時的「占領」にとどまらず、やや長期の「確保」を要求していたので70、現地軍の占領計画も、万一の場合の不測事態計画であるとはいえ、それ相応に詳細なものとなった。

そして、華北では、そうした不測事態が起こりかねない状況になりつつあった。1936年、北平郊外の豊台に支那駐屯軍の増強部隊を収容する兵舎を建設したとき、中国人の間には、日本軍が軍用飛行場をつくろうとしているのではないか、との疑心暗鬼が生まれた71。

66 松浦「再考・日中戦争前夜」142-143 頁。
67 在満州国沢田大使館参事官より堀内外務次官宛(6 月11 日)外務省編『日本外交文書昭和期Ⅱ第5 巻上』第144 文書。
68『戦史叢書・大本営陸軍部1』368-370、412-414 頁。
69 支那駐屯軍の華北占領計画については、永井和『日中戦争から世界戦争へ』(思文閣出版、2007 年)第1 章を参照。
70 『戦史叢書・大本営陸軍部1』413 頁。
71 エドワード・J・ドレー「戦争前夜」波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』(慶應義塾大学出版会、2006 年)27 頁。


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同年、平津地区で行われた支那駐屯軍秋季大演習も中国側の疑惑をかきたてた72。

北平近郊に駐屯する中国軍第37 師は第29 軍の中で最も抗日意識が高いとされており、第29 軍の高級将校の中には共産党員も紛れ込んでいた73。1936 年9 月18 日、柳条湖事件5 周年の日、豊台の日本軍と第37 師の兵士との間に小競り合いが生じた。中国側の謝罪と豊台からの撤退で事は収まったが、日本軍が中国軍に武装解除を要求しなかったのは第29軍を恐れたからだという噂が広まり、これを聞いて憤慨した連隊長の牟田口廉也は、今後類似の事件が起きたならば、今度こそ仮借することなく直ちに中国軍を膺懲し、侮日・抗日観念に一撃を加えねばならぬ、と部下に訓示したという74。

牟田口が予想した類似の事件は、それから10 ヵ月後、盧溝橋で起こることになる。対ソ戦闘法の夜間演習を行っていた日本軍部隊と中国軍との衝突であった。そのとき、前内閣(林内閣)の対中政策転換に反対し、中国の「増長」を憎み、華北を国民政府の政治的コントロールから分離することを目論んでいた対中強硬論者は、中国に「一撃」を加えることを躊躇しなかったのである。

72 安井『盧溝橋事件』107-113 頁。
73 第29 軍副参謀長の張克侠は共産党員、第37 師長の何基.は共産党シンパで1939 年に入党した。同上、91 頁。
74 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996 年)67-69 頁、臼井「冀察政務委員会と日本」36-38 頁。



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