15年戦争資料 @wiki

rabe12月5日

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pipopipo555jp

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十二月五日


よく晴れた日曜日だというのに朝っぱらから腹が立ってしかたない。運転手が迎えにこなかったのだ。呼びにやる。雷を落とす。悪態をつく。詫びを入れる。もう一度雇う。思えば、これで二十五回目だ!

というわけでやっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまってられない。こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。

アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否はしてはきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。

ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけねばならない。それにしてもやつの返事を聞いたときわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!

「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと? そんなばかなことがあるか! それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることなど考えられない。せいぜい「難民区」だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない・・・・。

その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。音があまりに大きい時は、椅子を少し窓から遠ざける。あらゆる防空壕のなかでいちばんりっぱなやつが庭にあるのに。ただそれを使う時間がないのだ。

城門は壁土で塗りこめられる。三つの門のうち、開いているのはひとつだけだ。といっても扉の半分だけだが。

われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる張り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられていないのだ!

ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいるほうがずっと安全だと思っているからだという。そのとおりだと言い切る自信はない。しかし、今日、唐司令官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。


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