15年戦争資料 @wiki

対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その2>

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
<近現代史>
第一部 近代日中関係の発端と変遷
第二章 対立と協力 それぞれの道を歩む日中両国

対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その2>

川島真: 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授(外部執筆委員)


12

4.日露戦争と満洲問題


■日露戦争と日中関係

北京議定書後の中国をめぐる国際政治は、中国の分割を義和団事件以前の状態にとどめておくという前提の上に成立していた。列強は、そうした列強の在華利権を保障できるような中国の中央政府の存在を望み、分割をとどめるという意味での現状維持の下、列強は自らの権益を拡大しようとしていた。中国政府も、そうした列強の動きを利用しながら、外資主導型の近代化政策を推進しようとしていた。

だが、ロシアは義和団の際に満洲に派遣した兵を、もともと対露関係推進派であった李鴻章が1901 年11 月に病没した後も引揚げようとはしなかった。ロシアは1896 年に中国と密約を締結して満洲での鉄道敷設権と経営権を獲得し、また1899 年に締結された英露協定(スコット・ムラヴィヨーフ協定)もロシアの在満鉄道利権を認めていた。また、1900年の英独協定(揚子江協定)には、確かに山東に基盤を築いたドイツと結んで、ロシアの南下を防ぐという側面があったものの、英露協定の路線に反するものではなかった49。しかし、義和団事件後もロシアが満洲から撤兵しないと、イギリスとしても難しい判断に迫られた50。1902 年1 月30 日、日本と日英同盟を締結した。この条約では、日本がイギリスの中国における、イギリスが日本の朝鮮と中国における特殊権益(special interests)を相互承認するものであった。日本国内には、伊藤博文のように、ロシアとの間で「満韓交換」をおこなう日露協商論もあったが、桂太郎内閣はイギリスとの同盟を選択したのであった。

中国も、日英同盟を総じて好意的に受け止めたようである。

日英同盟を受け、ロシアは満洲からの撤兵を決断し、1902 年4 月8 日、中国と満洲還付条約を締結して、第一期撤兵をおこなった。ところが、ロシアは第二期以後の撤兵を実行せず、逆に七項目を撤兵条件として中国側に提示するに至った。日本では、三国干渉に対する「臥薪嘗胆」の下にロシアに対する国民感情が強調されるが、中国においてもこの満洲占領問題に反発する「拒俄(ロシア)運動」が全国的に展開された。この運動は京師大学堂の学生に端を発し、留日学生にも広まっていった51。

49 アメリカも同じく中国東北部におけるロシア利権を基本的に黙認していた。これは当地のロシア利権をめぐるコンガー駐華公使とヘイ国務長官の間のやりとりからもうかがえる。’Mr. Hay to Mr. Conger’, Department of State, Washington, January 3, 1903, F RUS,1903, pp.46-47. 50 L.K.Young, British Policy in China 1895-1902, London, Oxford University Press,1970.
51 北京では京師大学堂の学生を中心に運動がおこり、日本の中国人留学生の間では湯爾和や鈕永建らを中心に「拒俄義勇隊」が組織された。拒俄運動については、中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室主編、王学庄・楊天石著『拒俄運動』(中国社会科学出版社、1979 年)がある。だが、この「拒俄運動」の運動内容が(ロシアの撤兵を求める点などで)外務部の慶親王や直隷総督袁世凱の方針に似ていたとしても、政府がその運動を利用したり、後盾としたわけではない。この点につき、湯と鈕が抗議と運動のため帰国した際に、袁世凱が会見を拒否したこと、また清の駐日公使館もこの運動を「名義は『拒俄』だが、実際には革命運動だ」とする立場にたって取り締まったことを想起したい。呉玉章『呉玉章回想録』(中国青年出版社、1978 年、P.18-21)参照。


13

■日露戦争の勃発と中国の中立

日露戦争は朝鮮半島をめぐる日露両国の衝突とともに、この満洲還付条約を履行しなかったことを原因として1904 年2 月7 日に発生した。中国は、2 月12 日に局外中立を宣言した52。Michael Hunt によれば、袁世凱と張之洞が1903 年11月2日に召見され、東三省問題について議論し(中立決定については不明)、以後二ヶ月の間、袁世凱はイギリス駐華公使であるアーネスト・サトー(Sir Earnest Satow)との間で、清が輸送や食糧などの兵站面で日本を支援すべきかどうかについて相談、結局、袁は日本の満洲に対する野心の程度を計りかね、日本支援政策を見合わせたとする53。Hunt は、光緒二十九年九月十四日(1903 年11 月2日)の召見について『張文襄公年譜』に依拠している54。この後、張之洞は、「俄日有役,我局中固難,局外似亦不妥(「日本とロシアの間に戦端が開かれた場合、中国がその局中にあるのは難しいが、かといって局外にあるのもまた適当とは言えない」)と述べ、袁世凱は「附俄則日以海軍擾我東南,附日則俄分陸軍擾我西北(ロシアに味方すれば日本海軍が南を脅かすだろうし、日本につけばロシア陸軍が我々の西北を狙うだろう)」と述べたとされる55。清朝の宮廷内部の政策決定過程を把握することは史料的制約から難しいが、閲覧可能な史料による経緯を見れば、中国には東三省の主権回収という目標があり、また戦局からして、ロシアに与するよりも、日本に与したほうがその可能性があると看做しながらも、どちらかに与して参戦することは、敵からの攻撃があることもあり不利と考えられていたということだろう。

中国国内の官僚たちもそのような中央政府の政策を支持していたようである。1928 年に出版された蔡元培等主編『日俄戦争』は以下のように整理している。(1)まず当時はロシアの侵略こそが顕著であり、日本はそこまででないという前提の上で、有識者は日本の勝利を予見しながら、「暴を以て暴にかえる」という方針で、それを中国の自強の策にしようとを考えていたが、一般人は単純に日本に頼ろうとしていた。他方、(2)ロシアを「北狄」とみて恐怖心を感じる向きもあった。北に行くほど強くなる、という歴史的理解とロシア

52 拙稿「日露戦争と中国の中立問題」(軍事史学会編『日露戦争(一)国際的文脈』錦正社、2004 年12 月)、鈴木智夫『近代中国と西洋国際社会』(汲古書院、2007 年)
53 Michael H. Hunt, Frontier Defense and the Open Door: Manchuria in Chinese-American Relations,1895-1911,Yale University Press,1973,pp.84-87.なお、Hunt には、日露戦争時期を含む中米関係を論じた、Michael H. Hunt, The Making of Special Relationship; The United States and China to 1914, Colombia University Press, 1983
54 Hunt が依拠した版本は陽胡鈞纂輯『張文襄公年譜』(北京天華印書館、1939 年)だが、筆者は東洋文庫所蔵の許同.編『張文襄公年譜』(商務印書館、1944 年、P.176)に依拠する。そこには、年譜記事と別に、注記として「東三省交渉の件について、光緒廿九年三月にロシアから七条件が外務部に提示された。ロシアは東三省の権利を独占しようとした。中国はロシア政府の言うとおりにはせず、開港場を設定しなかった。また外国人の雇用については、もし実行すれば、中国の権限が中国北方に及ばなくなるので、外務部が拒否した。日本はすでに戦争準備をしているといい、慶親王がアメリカ公使と調停の相談をしてきたが、アメリカ公使はこれを謝絶した。九月、東三省のことはまずます加熱を極めた。伝聞によれば奉天将軍は追い出されたという。公(張之洞)は袁督(袁世凱)と同日に召見された」と記されている。
55 「直督袁世凱致外部日俄開杖我応守局外祈核示電」(光緒廿九年十一月初九日、『清季外交史料』一七九巻、第四葉)


14
の大きさを重ねて、最大の敵というイメージが形成されたという56。

中国は、調印の遅れていたハーグ平和会議の諸条約に急ぎ調印し、国際的なルールにのっとるかたちで局外中立をおこなおうとした57。その「局外中立条規」の内容を見ると58、当時、満洲に軍隊を展開していたロシア側にとっては、厳しい内容が数多く含まれている。中国人の戦争への関与は禁止され、鉄道での兵の輸送、軍事に関連する製品の販売などが禁止されていたのである。そうした意味で、この中国の中立は、厳正中立というよりも日本に対する好意的な中立であったと考えられる面も有る。実際、中国の地方大官の中には個人的に日本側に協力し、戦争終結後に日本から勲章を受けた者が少なくない59。

中国が日露戦争に直面した際に、1896 年の露清密約はどのような扱いを受けたのであろうか。外務部尚書であった那桐の日記である。その1904 年6 月11 日には、外務部の幹部たちが露清密約を文書庫から出して閲覧したことがうかがえる60。しかし、この条約があるからロシアに与するか否かという議論にはなっていない。他方、ここで同じくこの密約を見たとされる鄒嘉来については、その日記『儀若日記』を見ても、この密約のことは記されていない61。この点を考えても、日露戦争において、1896 年に締結された露清密約は、知識として清の外交当局者に認知されていたが、それを根拠とした外交姿勢を清がとることも、またロシア側もそれに基づいた要請をしたわけではない、とひとまず見ることができよう。だが、何よりも重要なのは、少なくとも外務部の幹部が露清密約を確認したのが、1904 年6 月11 日という事実だろう。清朝が局外中立を宣言したのは1904 四年2 月12 日。

56 呉敬恆・蔡元培・王云玉主編、呂思勉撰述・朱紹農校閲『日俄戦争』(〈新時代史地叢書〉上海商務印書館、1928 年、P.92-93)
57 中国は、義和団事件で批准の遅れていた「国際紛争平和的処理条約」に正式に批准し、ハーグ平和会議加盟国として日露戦争に中立しようとした。中国はオランダと交渉し、「国際紛争平和的処理条約」そのほかについて、皇帝の裁可を経て、オランダに寄託するかたちで1904 年11 月21 日に批准した。
57 光緒三十二年七月廿五日発、「練兵處文」(外務部.案、中央研究院近代史研究所所蔵、02-21、12-1)、日本側もこの批准については翌年初頭に駐日オランダ公使であるスウェルツ・ランダスから確認連絡を受けている。明治38 年1 月16 日発、小村外務大臣ヨリ内閣総理大臣宛「清国ニ於テ海牙万国和平会議ニ関係セル条約及宣言ノ批准書ヲ寄託シタルノ件」(日本外務省保存記録2.4.1-2「第一回万国平和会議一件」第八巻)。
58 光緒に十九年十二月二十七日「日俄戦争中国局外中立条規」(『清季外交史料』181 巻、20-23 葉)。なお、この局外中立条規について、当時に直隷総督袁世凱の顧問であった坂西利八郎は、「清の日露戦争への局外中立」という回顧文で、「幸ひ支那は善意の中立をやってくれました」と述べ、さらに「支那の局外中立の宣言は、支那側がこの坂西に書かした」と告白している。露清密約についても「露国との密約もあるのですから露国から中立違反の証拠をおさへられないやうに」しており、袁世凱も「体面上局外中立に違反したという証拠を掴まえられないように、どこまでも細心の注意を払っておった」と述べていた坂西利八郎「その頃の日本と支那」(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社『参戦二十将星 日露大戦を語る』(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1935 年)。
59 梅渓昇編『明治期外国人叙勲史料集成』(思文閣出版、1991 年)、袁世凱については明治40 年9 月16 日「清国直隷総督袁世凱叙勲ノ件」(P.380-381)、このほか明治41 年に、陸軍通訳となった中国人や呉佩孚らの北洋軍の軍人にも勲章が贈られている(P.525-529)。
60 光緒三十年五月十一日(1904 年6 月11 日)(『那桐日記』、北京市档案館蔵)
61 光諸三十年五月十一日巳丑(1904 年6 月11 日)(鄒嘉来『儀若日記』、東洋文庫蔵)


15
少なくとも確認できるのは、局外中立を決定する過程において、外務部の幹部たちは露清密約のことは念頭においていなかった、ということである。

■ポーツマス条約の締結と「日露戦争の世界史的意義」

日露戦争の主戦場は、満洲であった。当初、戦場は限定されたが、次第に拡大し、また中国の中立についても、日中の双方から批判が続出した62。他方、当初は日本に好意的な言論が多く見られた中国では、日本がロシアにかわって満洲の占領統治を開始すると、ロシア利権が日本に移動するだけであることが明確になり、次第に日本を批判する言論が目立つようになった63。

戦局は、日本側が旅順要塞を攻め落とし、バルチック艦隊を全滅させるなど、比較的日本に優位に推移したが、日本海海戦後は膠着自体になり、結局、アメリカの斡旋で1905 年9 月5 日のポーツマス条約で終結した。中国は、講和会議への参加を企図するなどしたが、所期の目標を達成し得なかった。このポーツマス条約によって、日本は中国政府の承諾を得ることを条件に、ロシアが南満洲で有していた諸利権を継承することになっていた。これは、満洲に対する中国の主権を確認するものであったが、同時に日本が列強のひとつとして中国をめぐる国際政治にいっそう関与することを示していた。ロシアの南満洲における利権は、旅大の租借地、南満洲鉄道、および鉱山採掘権などであった。だが、日本はポーツマス条約で賠償金を取得することはできず、増税に耐えてきた国民の不満が日比谷焼き討ち事件などとして現われた。ただ、ここで留意すべきは、日露戦争後に日本の対中政策がいっそう強硬になったと単純に論じることはできない点である。

他方、日本は戦勝の意義をさまざまなかたちで見出した。それは日中関係にもかかわるものであった。その一つが、「専制の立憲に対する勝利」&font(#0a0){(引用者注)ママ}、「白色人種に対する黄色人種の勝利」などとしてアジア諸民族からも歓迎され、各地のナショナリズム、立憲運動に影響を与えた、というものである。中国についても、孫文の言論などから、日露戦争の勝利を権威付ける議論がとられてきた。確かに、黄色人種の白色人種に対する勝利という面も『東方雑誌』に見られる64。こうした言論は日露戦争前後に盛んであった黄禍論とも関係するものであった。また、日露戦争における日本の勝利とアジアの民族運動とのかかわりについては、頻繁に孫文の大アジア主義講演(1924 年)の言辞が引用され、それが日本のアジア主義を支える根拠にもなった。孫文は、1905 年6 月11 日にマルセイユを発って東に向か

62 中国の中立政策について、日清戦争の記録で著名なW.F.Tyler は、「中国はいささかも近代的な中立国家が果たすべき義務をいささかも理解していなかったようである」と評したという。”Extracts from Memorandum on China’s Neutrality in Russo-Japanese War,”Presented by Capt.W.F.Tyler, for presentation at the International Congress at The Hague, in Hosea Ballou Morse, The international relations of the Chinese Empire ,vol III, London, Longmans, Green, 1918, P.478.
63 井口和起『日露戦争の時代』(吉川弘文館、1998 年)、特に「戦場-朝鮮と中国」、「『西方覇道の猟犬』」において、井口は、「満州の民衆は、いわば国家から見捨てられたなかで独自の反ロシア闘争を展開し」ていたが、結局戦争がおきても、「中国東北地域の民衆にとっては、侵略者がロシアから日本にとってかわったに過ぎなかった」というように、日本の戦争の勝利が現地の中国人に肯定的に捉えられたわけではないことを確認している。なお、日本の占領統治については、佐藤三郎「日露戦争における満州占領地に対する日本の軍政について」(『山形大学紀要(人文科学)』第6 巻第2 号、1967 年)を参照。
64 「論中国民気之可用」(『東方雑誌』第一期、1904 年4 月25 日)


16
って旅立ち、7 月初めにシンガポールに到着しているから、その途上での逸話であろう65。

孫文は、「日本ガ露西亜ヲ敗ツタト云フコトハ、東方ニ居タ亜細亜人ハ、或ハ余リ重要視シナカツタカモ知レナイシ、又余リ感興ヲ引カナカツタカモ知レナイガ、西方ニ居タ亜細亜人及ビ欧洲ニ近接シテ居タ亜細亜人ハ、常ニ欧洲人カラ圧迫ヲ受ケテシュウジツ苦痛ヲ嘗メ、而モ彼等ノ受ケル圧迫ハ東方ニ居ル亜細亜人ヨリモ更ニ大デアリ、其ノ苦痛ハ更ニ深刻デアツタ為ニ、彼等ガ此ノ戦勝ノ報道ヲ聞イテ喜ンダコトハ、我々東方人ヨリモ一層大キカツタノデアリマス66」と述べている。これは、ロシアから圧迫を受けている西方諸民族が、東方人よりも日本の勝利を喜んだというもので、中国人自身の歓喜を直接述べたものではない。1905 年8 月13 日に東京で開かれた歓迎会において孫文は、「中国に立憲君主制は不適である」と明言している67。この一週間後、孫文らは東京にて中国革命同盟会を設立、11 月26 日には機関誌『民報』を刊行し、三民主義を唱えた。

■「満洲」問題の発生

日露戦争は、朝鮮半島における日露対立とロシアの満洲撤兵問題を直接の原因として発生した。戦中から、日本は朝鮮に対する侵出を強め、1905 年には第二次日韓協約を締結して大韓帝国の外交権を奪って、統監府を置いた。満洲利権については、ポーツマス条約に基づいて、1905 年12 月22 日に日中間で北京条約(満洲に関する条約)が日中間で締結された68。日本は、1906 年に関東州を統治する関東都督府を旅順に置き、南満洲鉄道株式会社を大連に設立した。日本は日露戦争における多大な犠牲の代償として南満洲利権を獲得したのである。以後、南満洲利権は日本にとって生命線となり、この利権を保持するという論理で満洲事変が発生したことを考えれば、この日露戦争は以後の対中政策、あるいは日中関係を規定するものとなった。

この「満洲に関する条約」だけで満洲諸利権をめぐる日中交渉が終わったわけではない。この条約は言わば大枠を定めたもので、詳細はその後も交渉が続けられた。小村寿太郎外相は、新民屯―法庫門間鉄道、大石橋―営口間鉄道、撫順・煙台炭鉱、安奉線・満鉄線鉱山、京奉鉄道の延長という、いわゆる満洲五懸案に間島問題を加えて満洲六案件として、問題を一括処理しようとした。間島を加えたのは、間島問題で譲歩することで他の五条件を有利に処理するためであったと考えられている。朝鮮に隣接し、朝鮮人が多く移住していた間島をめぐる問題はきわめて敏感な課題であった。結局、1909 年9 月に間島に関する日清協約と、満洲五案件に関する日清協約が締結された。これによって、北京条約の内容が定められ、そして中朝間の国境が画定した。また満洲の朝鮮人に対する領事裁判権への適用については、日本領事の立会いという程度に限定的となった69。

このような満洲における日本利権が確定していく過程で、それに異議を唱えたのは、日清、日露の両戦争で調停役を務めたアメリカであった。1905 年、鉄道王と言われたハリマンが満鉄共同経営を提案したが、日本政府はこれを拒否した。また、1909 年には、アメリ

65 陳錫祺主編『孫中山年譜長編』(上、中華書局、1991 年、P.337)
66 外務省調査部編前掲『孫文全集』(上、P.1135-1136)
67 広東省社会科学院歴史研究室・中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室・中山大学歴史系孫中山研究室編『孫中山全集』(1 巻、中華書局、1981 年、P.277-283)
68 王芸生『六十年来中国与日本』(第四巻、大公報社、1932-34 年)
69 李盛煥『近代東アジアの政治力学-間島をめぐる日中朝関係の史的展開』(錦正社、1991年)


17
カ国務長官ノックスが、満洲における鉄道利権を中立化しようとした。しかし、1910 年7月、日本はロシアとのあいだに第二次日露協商を締結し、逆に南満洲全体をその利権の範囲とした。実際、日露間では、第 1 次協商で定められた分界線で利権の境界線としていた。それによれば、日露戦争における戦区、すなわち遼河以東が日本の勢力範囲の西限とされていたが、アメリカの鉄道利権をめぐる提議と日本の利権問題が絡められたこともあって、第二次協商では、南満洲全域に日本の利権が拡大したとみなされるようになったのだった70。日本と満洲の関係は経済面でも緊密になっていった。満州向けの綿布輸出、また大豆粕の満洲からの輸入は、日本の主要貿易品であった。


5.日露戦後の日中関係と辛亥革命


■中国利権をめぐる協商関係の形成

日本は、ロシアの満洲からの撤兵を他国よりも強く求めた。これは自国の在華権益を拡大しようとする面と、列強との共同歩調をとるという原則の双方に基づいていた。『大阪朝日新聞』の論調などにおいても、1900 年から1903 年にかけて対露強硬論が強調されていたが、開戦後は黄禍論への対応もあり、幾ら勝っても「満洲開放や清国の領土保全を主張」するようになった。そして、1905 年3 月の奉天会戦のころから、黄禍論も収まったので、「日本は満洲に対して列強と異なる特殊地位にあるとの立場を公然と主張するようにな」り、「この考えを清国や列強に認めさせていくことが、日露戦争後の日本外交の一つの柱とな」ったとしている71。

戦争の結果、満洲北部をロシア、南部を日本が獲得することで、最調整がはかられた。まず、日仏間では、日本側のパリでの公債発行、フランスの仏領インドシナでの安全を約した日仏協商が1907 年6 月に締結された。次いで、満洲利権をあらためて確定する第一次日露協商が締結された。この二つの協商は、英露協商とあいまって、ドイツ包囲網を形成した。東アジアにおいては、1890 年代から登場したドイツとアメリカが、英仏露の協商関係にどのようなスタンスを取るのか、そして中国がそこにどのように絡むのかが問題となっていた。日本は、必ずしも英仏露三者との関係だけでなく、アメリカとの協商関係の形成にも(移民問題がありながらも)意欲を見せていた72。

1908 年中国の奉天巡撫である唐紹儀が訪米する。日本側は、これをウィルヘルム二世が提唱する米独清協商案に関係するものだと見なし、日米協商案を積極的にアメリカに提案した。その結果、1908 年11 月に高平・ルート協定が締結された。ここでは、太平洋地域における現状維持・通商自由と、中国の門戸開放・機会均等・領土保全が確認された。この協定の締結によって、満洲をめぐる日米間の摩擦は一定程度緩和されることになった。これによって、日本の南満洲における利権はほぼ確定したのであった73。

70 北岡伸一『日本陸軍と大陸政策 1906-1918 年』(東京大学出版会、1978 年)
71 伊藤之雄『立憲国家と日露戦争-外交と内政 1898―1905』(木鐸社、2000 年、P.271)
72 川島真・千葉功「中国をめぐる国際秩序再編と日中対立の形成-義和団事件からパリ講和会議まで」(川島真・服部龍二『東アジア国際政治史』名古屋大学出版会、2007 年)、千葉功『旧外交の形成 1900-1919』(勁草書房、2008 年)。
73 寺本康俊『日露戦争以後の日本外交-パワー・ポリティクスの中の満韓関係』(信山社、1999 年)


18
なお、このような1900 年代後半の国際環境、特に日露協商の形成が日本の韓国併合に有利な環境を作り出した。1910 年に日韓併合に際しては、朝鮮半島の中国租界が撤廃されることになり、中国の朝鮮半島の利権が事実上消滅することになった。そして、日韓併合が中国の知識人与えた衝撃は大きく、亡国の危機が強まったのであった。

■立憲君主制の試みと日中関係

1905 年11 月25 日、中国には考察政治館が設けられた(のちに憲政編査館へと改称)。各国の政治体制を考察することを目的としたこの機関では、日本もまた調査対象となった。また、1907 年には沈家本らが修訂法律大臣となり、近代的な刑法典が起草された(最終的には不採用)。1908 年8 月27 日、憲政予備の詔が発布された。九年以内に憲法を制定して、議会を召集することが示された74。このような法典整備や憲政への移行過程には、日本を模した部分が少なくない。政府の組織改革野面でも、1909 年に設けられた軍諮処は日本の参謀本部にならったものだし、1911 年に設けられた弼徳院は枢密院をモデルとしていた。また、人員の面でも、中央政府や地方政府で近代的な諸制度を制定していくに際して、日本から帰国した留学生が果たした役割も大きかったと考えられる。

地方においても、1909 年10 月4 日に各省に地方議会に相当する諮議局が設けられたが、これも当時の日本の地方選挙を模倣した間接選挙であり、議員には日本留学者が少なからず含まれていた。また、1910 年10 月3 日には中央に資政院が設けられ、1913 年の正式な議院の開設が定められた。

このような日本モデルの近代的国家機構、制度建設がおこなわれる中、必ずしも日中関係が良好であったわけではない。関係の緊密化が良好な日中関係には必ずしも結びつかず、対立局面も多々生まれたのであった。

1907 年に開催された第二回ハーグ平和会議では、中国代表となった陸徴祥公使は、特に日本を警戒していた75。実際に、国際仲裁裁判所の判事選出をめぐる問題で、中国が一等国待遇を求めたのを日本が阻止したとされる76。日本が問題としたのは、中国の近代化の程度であり、陸代表は、本国に対して速やかに憲法およびその他の法制度を確立し、主権を保つことを本国に要求したのだった77。このような憲法や法制整備によって国際的地位を保たねばならないとする見解は、当時の在外使臣に共通するもので、「法制整備が実現しなければ、次の平和会議で中国は何等国になってしまうのだろう」と心配されたのであった78。また1908 年には日中間で第二辰丸事件が発生している。マカオ付近で武器密輸疑惑によって、第二辰丸号が中国側官憲に拿捕され日章旗を降ろされたことなどをめぐる交渉で、

74 張朋園『立憲派与辛亥革命』(中央研究院近代史研究所、1969 年)
75 光緒三十年三月十三日収、駐和陸公使致丞参信(外務部.案、中央研究院近代史研究所、02‐21、2-2)
76 光緒三十三年九月初二日収、駐和陸大臣文 「密陳保和会前後実在情形並近来世界大勢」(外務部〓案、02-21、4-1)、光緒三十三年九月初二日収、駐和陸大臣信一件(外務部〓案、02-21、10-1)
77 光緒三十三年八月十五日収、専使陸大臣等致本部電(外交部.案、03-34、1-1)
78 光緒三十三年八月十五日収、専使陸、駐俄胡、法劉、比李、和銭大臣電(外務部〓案、02-12 一、2―3)


19
中国側の対日交渉が民衆の支持を得られず、排日運動へとつながった事件であった79。

■辛亥革命

1908 年11 月に光緒帝が、次いで西太后が逝去した。宣統帝が即位し、皇族を中心とした政権ができあがっていき、新政権の下で袁世凱は失脚した。1911 年5 月、中国に内閣が誕生した。総理は慶親王、閣僚十三名中、五名が皇族であった(親貴内閣)。これに対して、諮議局連合が抗議したが、容れられなかった。宣統年間には、このような中央の朝廷と地方の諮議局の対立がいっそう際立つようになった。特に争点となったのは鉄道であり、1911年5 月に郵伝部大臣の盛宣懐が鉄道を国有化する旨を示すと、その国有化が外債によっておこなわれることに対して各地で反対運動が発生し、軍隊が導入されるほどになった。

他方、孫文ら言わば海外のディアスポラの影響を強く受けた革命運動は、断続的に武装蜂起を繰り返していた。辛亥革命は、言わば上述の中央と地方の争いに、このディアスポラの動きが相俟って生じたものである。1911 年10 月に発生した武昌蜂起を契機に清朝からの独立を唱える諸省が中南部を中心に増加したが、その独立はあくまでも中央政府に対する自立であって、国家としての独立ではなかった。このときには孫文は中国国内にいなかったが、その後帰国し、1912 年1 月1 日に臨時大総統となり、孫文の下に中華民国臨時政府が臨時首都南京に発足した。だが翌月には、中央・地方関係が再び表面に現れ、清朝皇帝退位を条件として、袁世凱が正式な大総統に就任、北京に首都が移された。

辛亥革命に直面する前後、日本の中国政策は一つの転換点を迎えていた。満洲権益の強化、南方への侵出、あるいは中国政府への影響力の強化など、いくつかの選択肢の中で、第二次西園寺内閣は方針を決定しかね、静観の方針を採った。武昌蜂起に接して日本側は、たとえば山県有朋が1910 年の大逆事件と関連付けて考えたように、「皇帝制度」の崩壊の可能性として意識された面もあった。徳富蘇峰は、「ペストは有形の病なり、共和制は無形の病なり」と述べた80。

その後、西園寺公望内閣の内田康哉外相は1911 年11 月28 日の閣議で、イギリスとの協調の下で、共和制でも、清朝の専制でもない、立憲君主政体採用を中国政府に促していくこと、そのために清朝軍と革命軍の調停をおこなうことを決定した81。だが、自らの利権を守ることのできる強力な統一政権を望むイギリスはすでに南北調停を開始しており、日本の要請は拒絶された。12 月22 日の閣議で日本政府は辛亥革命については成行きに任せるとの決定をおこなった82。

1912 年1 月1 日、南京に中華民国臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統となった。中華民国は、領域としては清の版図を基本的に継承し、チベット、モンゴルなどを内包した多民族国家として五族共和を唱えた83。当初、袁世凱にも、これを契機とした条約改正の意図

79 辰丸事件に関する古典的研究として、菊池貴晴「第二辰丸事件の対日ボイコット」(『歴史学研究』209 号、1957 年7 月)がある。
80 徳富蘇峰「対岸の火」(『国民新聞』1911 年11 月12 日)。また辛亥革命に対する日本の世論の動向については、野沢豊「辛亥革命と大正政変」(アジア史研究会中国近代史部会編『中国近代化の社会構造―辛亥革命の史的位置』教育書籍、1960 年)がある。
81 千葉功『旧外交の形成-日本外交 1900-1919』(勁草書房、2008 年、213 頁)
82 臼井勝美「辛亥革命と日英関係」(『国際政治』58 号、1978 年)
83 片岡一忠「辛亥革命時期の五族共和論をめぐって」(『中国近現代史の諸問題-田中正美先生退官記念論集』国書刊行会、1984 年)


20
があったようであるが、結局、清朝が締結した列強との諸条約はそのまま継承された84。

1912 年2 月12 日に清朝皇帝が退位の上諭を発し、事態は収束に向かい、孫文が14 日に臨時大総統の辞し、翌15 日に南京の参議院が満場一致で袁世凱を臨時大総統に選出した。3 月10 日、北京で袁世凱は臨時大総統に就任、3 月11 日に臨時約法が制定された。この臨時約法は、政治の基礎を定めたもので、大総統権限を相当程度制限している。それが、袁世凱総統が後に皇帝になろうとしたことの背景にあると理解されている。

日本政府は、臨時政府成立直後から漢冶萍公司を担保とした借款などを臨時政府におこなったが、袁世凱を中心とした事態収拾が図られる中、ロシアとともに四国借款団に加わることとなった。1913 年4 月、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアとともに2500 万ポンドの善後借款をおこない袁世凱政権を支えたのである。この点でも、日本は列強との協調をはかっていた。そして、同年10 月日本は北京政府を政府承認したのであった。以後、二次、三次革命、あるいは広東政府などが生まれるが、日本は南京国民政府の成立まで北京政府を支持していくことになる。

この間、ロシアのモンゴルに対する政策は積極化し、外モンゴルは独立を宣言したほどであった。日本はロシアと交渉をおこない、第一次、第二次日露協商で定められた満洲の分界線を内蒙古にまで延長した。これによって、内蒙古は東を日本、西をロシアの勢力範囲とした。そのため、以後は内モンゴル東部も日本の勢力範囲下にあると認識されるようになった。「満洲問題」は「満蒙問題」になったのである。


おわりに


日清戦争前後から辛亥革命にかけての時期は、以下の三点に概括できるであろう。第一に、日中関係がきわめて緊密化し、また一面で世界史における共通の時代を体験したということである。これは、中国政府が明治維新を意識した立憲君主制度を模索したこと、法政を学習するために多くの留学生が訪れたこと、そして経済的にも貿易面などできわめて関係が緊密化したことなどがあげられる。人の交流という面では、往来にパスポートが不要であったことも付言しておきたい。第二に、このように日中間の総体的な関係が緊密化していったにも関わらず、政治外交軍事的に敵対的な局面が生まれ始めた時期だということである。日清戦争、義和団事件という二度の宣戦布告をともなう戦争や、中国を戦場とする日露戦争を体験する中で、日中関係には敵対局面が頻繁にみられるようになった。第三に、日本が中国と不平等条約を締結し、中国をめぐる国際政治に列強として加わり、さらには各地に利権を獲得する中で、当初は列強と共同して中国に関与していた状態から、次第に地域的な国際政治のアクターとして行動するようになったということである。

近代の日中関係史において、日清戦争はひとつの転換点とされる。日本が有利な不平等条約体制が形成され、日本国内でも中国を蔑視する傾向が生まれたことなど、それ以前とは異なる傾向が顕著に見られたことも確かであろう。しかし、この時期にはまだ多くの政策の可能性や選択肢が残されており、友好から敵対への転換点とすることは適当ではない。

84 曹汝霖『曹汝霖一生之回憶』(伝記文学出版社、1980 年、86~87 頁)


21
むしろ、近代の日中関係のプロセスの一部として理解するのが妥当であり、1910 年代の二十一カ条要求やその後の展開の中で敵対関係が本格化したと見られる。本章で扱った時期には、日本は中国に対して、基本的に北京議定書の枠内で、列強と協調しながら関与したが、中国ナショナリズムの形成期であったこともあり、日中の対立局面もまたところどこで見られ始めていた、といったことであろう。



目安箱バナー