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近代日中関係の発端 北岡伸一<その2>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
<近現代史>
第一部 近代日中関係の発端と変遷
第一章 第1章 近代日中関係のはじまり

近代日中関係の発端 北岡 伸一<その2>

北岡 伸一:東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授 【座長】


第三節 日清修好条規の成立


ところで、開国した清国に対し、日本も貿易と国交を望んだ。幕府が1862 年、千歳丸を上海に派遣して貿易の開始を申し入れたことについては、すでに述べた。その中に高杉晋作がいたことは良く知られた事実である。

他方で、中国人の日本への渡航は、もっと多かった。そもそも鎖国時代より、多数の中国人が長崎に来航していた。開港後、西洋諸国が日本に来るにしても、これを支えたのは中国人商人だった。その中には、アヘンを吸引するものがあり、これを取り締まることが必要だった。また日本としても、対清貿易の拡大を希望していた。

1870 年8 月、日本政府は外務大丞柳原前光を清国に派遣した。通商の協議と、さらに外交関係樹立の予備協議が目的だった。太平天国の乱が一段落し、同治中興によって小康を得ていたときであった。とくに外交関係においては、総理各国事務衛門を設立して、伝統的な外交関係を脱皮して、新しい外交に取り組もうとしていた。

しかし、柳原は北京に入ることを許されず、天津で9 月、李鴻章と会談し、総理衙門にあてた外務卿の書簡を渡した。その中で、隣国同士で外交関係がないのは遺憾だとして、近々その交渉を始めるべく、そのために、まず通商を協議したいと述べた。

これに対し総理衙門は「大信不約」の意をもって、条約は不要だと答えた。しかし柳原の重ねての申し入れに、李鴻章はこれに応じるべきだと考え、その意見を上奏し、総理衙門はこれを受け入れた。総理衙門によれば、西洋諸国と交際して日本だけを拒絶するのは「一視同仁」の原則に反するものであった19。

しかし反対する意見もあった。安徽巡撫英翰は、外国が新たに通商を求めてくることは認めるべきでないとして反対した。すなわち、外国は犬羊のさがであり、ただ利を図り、威を恐れ、中国の強弱に注視し、弱いと見るとつけこんでくる。日本は「臣服朝貢の国」であって、条約を結んだ国とは違う、これを許せば、次々と臣服諸国が同じ事を要求してくる、日本はかつての倭であり、明代の倭寇は今日の英仏に劣らぬ患であった、こうした患を増やしてはならないというのであった。以下の李鴻章などの議論に比べれば、間違いが多く、時代錯誤的である。そういう認識がまだまだ少なくなかった。20

19 坂野正高、『近代中国外交史研究』(1970 年、岩波書店)、243-244 頁。
20 同上。


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李鴻章はこのような意見を退けて、日本は元以来朝貢を通ぜず、中国の属国ではなく、清代からは平和な関係が続いている、また日本は西洋諸国と条約を結んで自強をはかっている、「これを篭絡すればあるいはわが用となろうが、これを拒絶すれば必ずわが仇となる」として条約締結を支持した。そして中国に近く、人の往来の多い日本には、条約を結んだのちには、在日の中国人を取り締まり、また日本の動静を偵察するために、役人を派遣して東京または長崎に駐在させるべきだと述べた。21 22

翌1871 年9 月、日清修好条規が成立した。これは、欧米に対して不平等条約を締結させられている国同士が結んだ平等条約である。相互に外交使節と領事を駐在させ、相互に制限的な領事裁判権を認めるなど、双務的性格を持っている。

注意すべきは、最恵国条款が含まれていなかったことである。これは清国側が注意したところである。曽国藩も李鴻章も、日本との条約締結は支持したが、最恵国条款の挿入には強く反対していた。李鴻章によれば、外国人が内地に入って通商することが最大の弊害であり、加えて日本人は貧しくて貪欲でうそつきであり、中国と近いので往来も便利であり、顔つきや文字も同じであるため、内地通商の弊害は一層ひどいものになる、内地通商の道をふさぐために、最恵国条項は絶対に挿入してはならないと主張した。23

なお、この条約で注目すべきは第二条である。そこには、「両国好を通ぜし上は必ず相関切す。若し他国より不公及ひ軽藐する事有る時其知らせを為さは何れも互に相助け或は中に入り程克く取扱ひ友誼を敦くすへし」とあった。両国が条約の用語に十分な理解がなかったかもしれないが、これは日中が提携して第三国に対抗する可能性を含むもので、西洋列強の関心を引き起こす可能性があった。実際、イギリスやドイツから強い疑問が出されている。

たしかに、日本側には、西洋の進出に対抗するため、日清提携が必要だと考えるものは、当時少なくなかった。1875 年2 月、右大臣岩倉具視はその上奏文において、諸外国の中でもっとも恐るべきはロシアであり、もし清国がロシアに併呑されるならば日本の独立も危なくなる、それゆえ清国との親善を図り、互いに助け合って、「両立両全」を図るべきだとのべ、その後1882 年にいたって壬午事変で日清関係が緊張したときにも、外務卿井上馨に意見書を送り、今日のアジアで独立を保っているのは日清両国のみである、その両国が提携しなくては「西力東漸」の勢いを阻むことは到底できないと述べている。こうした考え方は、広く民間にも共有されていた24。

先にも述べたように、この条約締結を最初に日本が申し入れたとき、李鴻章は、日本は単独で欧米諸国に対抗できないでいるので、清国は日本を援助し、欧米が日本を支配しな

21 同上。
22 李鴻章は、日本の「自強」の動きをもっとも良く知っていた一人であった。たとえば、生麦事件から薩英戦争にいたる経緯や同戦争における薩摩の善戦について、『ノース・チャイナ・ヘラルド』から情報を得ていたいたといわれる。佐々木前掲書、12 頁。
23 坂野前掲書、246-247 頁。
24 岡義武「国民的独立と国家理性」、『岡義武著作集』第6 巻、248-250 頁。


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いようにすべきだと述べている。日清両国いずれにおいても、欧米に対する警戒から、日中相互に提携して、欧米に対応しようとする思想が存在したことが分かる。

ところで、日清修好条規の締結によって、両国は外交使節を交換、常駐させることとなった。王芸生によれば、中国商人で横浜に住むもの2000 余り、神戸に数百、長崎に1000余りなどであったという。25 李鴻章は1876 年2 月上奏して、日本に対する警戒が必要だとして、その情勢を探るためにも使節を常駐させるべきだと述べた。

77 年1 月、駐日公使に翰林侍講・何如璋、次席に張斯桂、書記官に黄遵憲と決定した。ちょうど西南戦争のさなかだったため、着任は少し遅れ、12 月となった 26。

これは日中関係史上、重要な事件となるはずであった。何如璋は立派な文人であり、多くの漢学者が交友を求め、日本ではちょっとしたブームとなった。

また黄遵憲の残した『日本国志』(1880 年)は、全40 巻の大部なものであり、日本の進歩の著しいことを賞賛し、清国における対日理解の欠如を厳しく批判している。何如璋が、部下の黄遵憲に命じて起草させ、朝鮮から来日していた修信使・金弘集に渡した著名な『朝鮮策略』(1880 年8 月2 日)は、当時の国際情勢についての優れた分析であった。

しかし、最初からそうであったわけではない。何如璋は、のちに日本の発展を的確に理解するようになるが、最初は日本を軽視し、自国を過大評価する傾向があった。儒教的中国的な認識の枠組みから抜け出すのは容易なことではなかった。その間に、日中両国の間には、次々と問題が発生していた。


第四節 台湾出兵と琉球問題


1.琉球帰属問題


日本と清国とは、日清修好条規締結の直後から、領土問題をめぐって鋭く対立することになった。

その一つは沖縄・琉球問題であった。がんらい沖縄ないし琉球は、日清両属とよぶべき位置にあった。その名称自体、二つの起源を持っている。すなわち、沖縄(ウチナー)とは、広義の日本語・かな文化を共有する沖縄の人々が、大和(ヤマト)に対して自らを呼んだ言葉である。他方で、琉球とは、14 世紀に明が倭寇対策として当時の中山王に朝貢を促し、その見返りに与えた国号である 27。

しかし、17 世紀以来、事実上琉球王国を支配していたのは薩摩であった。すなわち、1609年の島津家久の征討以来、島津氏は琉球を支配したが、清国との冊封・朝貢関係は、貿易上有利なものであったので、これを維持させ、風俗についても日本化を避け、全般的に独

25王芸生前掲書、168 ページ。
26 張偉雄『文人外交官の明治日本:中国初代駐日公使団の異文化体験』(柏書房、1999 年)
27 平野聡『大清帝国と中華の混迷』(講談社、2007 年)、287 頁。


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自の風俗を維持させた。そして、清国も、琉球が実は薩摩藩の支配下にあることを知っていた。このように複雑な国際関係が存在していたのである。

しかるに、両属という関係は、西洋近代の国際関係の中にはありえないものであった。沖縄/琉球は、清の一部となるか、日本の一部となるか、独立するか、三つに一つであった。そして独立した場合には、西洋列強の侵略を受ける可能性は十分にあった。ペリーも沖縄に立ち寄って条約を結んでいるし、それに先立って、イギリスやフランスが琉球に立ち寄って交易を求め、これをアジア進出の足がかりにしようとしていた。日本の政策は、他のいずれにもならないよう、沖縄の日本帰属を明確にすることであった。

1871 年8 月、明治政府は廃藩置県を断行したが、琉球については、これを鹿児島の管轄とした。そして、72 年1 月、鹿児島県の県官、奈良原繁らを派遣して、本土の政治変革と島治改革について告げた。

ところが、1871 年11 月には、台湾に漂着した宮古八重山の漁民69 名のうち、54 名が殺されるという事件が起こっていた(3 名は事故死)。1872 年6 月、12 人の帰還によってこの事件を知った鹿児島県では、問罪出兵を建議した。

しかし、政府は慎重に対応を検討し、琉球の日本帰属を確実にする事実を積み重ねていった。1872 年10 月、琉球国王尚泰は琉球藩王に任ぜられ、華族に列せられた。つまり旧大名と同様の待遇を与えられたのである。同月、琉球から外交権を接収し、これまで琉球が外国と締結した条約(たとえば1854 年琉米修好条約)と交際事務を外務省の管轄とすることとし、外務省出張所を那覇に置いた。他方で、清国に対する隔年朝貢は実施されており、清国から異議はなかった。

ところが、73 年3 月にも、備中小田県(現在の岡山県)の4 名が漂着し、略奪されるという事件が起こった。そこで政府は、副島種臣外務卿を特命全権大使として清国に派遣し、交渉させたが、清国は、殺人者は「生蛮」に属し、「化外」の地にあって、清国政教の及ばぬところであるとして、責任を認めなかった。

そこで日本政府は74 年2 月6 日、台湾出兵を決定し、西郷従道中将を事実上のリーダー(台湾事務都督)に任じた。しかし欧米列強が批判的な態度をとると、いったん出兵は中止とされた。ところが西郷は、政府の許可がなくても出兵するという決意を明らかにしたため、政府は再度出兵に決した。西郷の軍は5 月長崎を発し原住民を平定した。

1873 年10 月に、征韓論に強く反対した大久保が、台湾出兵に踏み切った第一の理由は、薩摩の爆発を恐れたからである。2 月1 日には、前参議、江藤新平が佐賀の乱を起こしており、これが薩摩に連動すれば政府は崩壊の危機に直面すると考えられた。政府は台湾出兵により、薩摩士族の対外的膨張のエネルギーを外にそらそうとしたのであり、実際、兵士の多くは薩摩で集められ、リーダーは西郷隆盛の弟、西郷従道であった。ただし、征韓論に反対したもう一人の有力参議、木戸孝允は台湾出兵に反対して辞職している。第二は、征韓に比べれば、軍事的な危険は小さいと思われたからである。第三に、清国が化外の地といい、責任を認めなかったことから、あわよくば、これに対する領土権を主張できるか

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も知れないと考えるものもあった。この出兵で重要な役割を果たしたアメリカ人ルジェンドルは、そのような意見であった。28 しかし大久保は、そういう論者を抑えて、琉球の日本化の一環として台湾出兵を実施したのである。

1874 年10 月、大久保は北京に行って清国との交渉にのぞんだ。イギリス公使ウェードの斡旋もあって、清国は日本の出兵を「保民の義挙」と認め、撫恤金50 万両(67 万円)を支払うことに合意した。これは琉球が日本の一部であることを認めることであった。西洋諸国は、当初は日本の主張に無理があると思っていた。しかるにこのような結果を見て、日本の外交的勝利だと考え、日本の外交的手腕を高く評価した29。なお大久保は、出兵の正当性を認めさせることに重点があり、賠償金は後日返還する予定であった。30

交渉にあたった大久保は、帰国後12 月、琉球を完全に日本の領土に組み込むことが必要だと建議している。そして1875 年3 月、ボアソナードは日本の統治権をより完全にするため、琉清交際関係を廃止させることを建議し、7 月、琉球を訪れた内務大丞松田道之は隔年朝貢の廃止、慶賀使派遣の廃止、在福州琉球館の廃止を命じた。琉球当局者は朝貢継続を嘆願したが、政府はこれを認めず、琉球はこれを清国に訴えるという事態となった。

琉球の密使は1887 年2 月、福州に到着し、浙.総督何環と福建巡撫丁日昌は、琉球を保護すべきだと提起した。1877 年9 月、李鴻章は森有礼駐清公使に対し、琉球の朝貢を廃止させた件について質した。この問題は、同年末に着任した初代公使・何如璋の最初の重要な仕事となった。

1878 年5 月、何如璋は三つの案を具申している。第一は、日本と交渉するとともに、琉球に軍艦を派遣して朝貢中止について追及することであった。このように強硬な姿勢を示せば、日本側は慎重になるだろう、これを上策とする。第二は、理をもって交渉し、日本側が譲歩しなければ琉球側に必ず救援することを約束し、日本の合併に抵抗させる。もし日本が琉球を攻撃すれば、清は兵を出して、琉球とともに日本を挟み撃ちにする。必ず清が勝利して、和平が結ばれる。これが中策。第三に、繰り返し理をもって交渉し、あるいは国際法を引用して各国の公使に仲介を頼む。日本側は自国の狙いが無理だと知って、琉球は存続できるだろう、というものであった31。

このころ、何如璋の日本に対する評価はまだ低く、日本の政治は不安定、経済も弱体であり、軍備増強の成果も上がっていない、軍艦は鉄甲と称しているが実は鉄皮に過ぎないと主張している。しかし李鴻章はこの評価に反対し、日本の軍艦は鉄板の厚さは4 寸もあって、侮れないと述べていた。のち、日清両国を訪れたグラント前大統領の評価は、中国の軍事力はとても日本に及ばないと見るものであったから、おそらく李鴻章の方が正しかったのであろう。それに、いざ日本と戦争になれば全責任を負わざるをえない李鴻章とし

28 William L. Newman, America Encounters Japan: From Perry to MacArthur, Baltimore: MD, The Johns Hopkins University Press, 1963, ch. 9.
29 清沢洌『外政家としての大久保利通』(1942 年原刊、1993 年、岩波文庫)。
30 勝田政治『<政事家>大久保利通』(2003 年、講談社)、182-183 頁。
31 張前掲書、96 ページ。


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ては、慎重な判断に傾くのは無理もないことだった。

1879 年3 月、日本は廃藩置県を断行し、首里城を接収し、4 月、琉球藩を廃止し、沖縄県を置くことを全国に布告した。旧藩王父子は6 月、沖縄を離れ、上京した。

しかしこのころには、何如璋の意見も変化していた。1879 年末の意見書では、日本が自主独立の外交を行い、陸海軍の訓練も成果を挙げているとして、清が琉球に遠征しても勝利を収めることは難しいと論じていた。琉球からはたびたび清国の援助を求める使節が秘密のうちに送られたが、清国はこれに応じる気配はなかった。

1879 年7 月、グラント前アメリカ大統領が世界漫遊の途次、清国を経て来日した。グラントは清国要人から琉球問題についての調停を依頼されていた。グラントは日本政府に対し、相互に譲り合って問題を解決するよう勧めた。

ここに日本側が提示した案が、1880 年の琉球分島案である。日本は琉球諸島のうち、宮古・八重山の両島を清国に割譲し、その代償として、日清修好条規を試行期限内に改正ないし追加する形で、中国内部において欧米人なみの通商権を獲得しようとした。分島改約または分島増約といわれる。これは清が拒絶したことによって実現されなかった。

以上のように、日本は慎重にしかし断固として琉球処分を推し進めた。これに対して、琉球は抵抗したが、それは支配層が中心であり、民衆にとって、琉球処分は、薩摩支配の前近代よりは、明らかによい方向への変化であった。32 他方で、清国は遅れを取り、日本の主張を徐々に受けいれることとなった。しかしこの問題に決着がつくのは、日清戦争を待たねばならなかった。

なお、清国では当時、洋務運動が起こっていたが、独立のためには自強が必要だという考えは広まりつつあった。


第五節 朝鮮問題の発端 33


もう一つの大きな問題が朝鮮問題だった。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)によって、日本と朝鮮との関係は断絶していた。徳川家康は関係修復を求め、朝鮮もこれに応じて、1607年から1811 年まで、12 回の通信使を日本に派遣している。通信使は国内を旅行して江戸

32 「琉球処分」については、これを侵略的統一と見る見方(たとえば井上清)と、近代的統一の一環と見る見方(たとえば下村富士男)がある。最初の本格的な琉球・沖縄研究者である伊波普猷は、基本的に琉球処分を解放ととらえ、「琉球処分の結果、所謂琉球王国は滅亡したが、琉球民族は日本帝国の中に入って復活した」と述べている(我部政夫『明治国家と沖縄』、三一書房、1979 年、第一章)。なお、琉球処分においては、民衆を巻き込んだ大規模な抵抗や、これに対する流血を伴った弾圧はなかったことを指摘しておきたい。
33 日朝ないし日韓関係について、基本的な研究は依然として、田保橋潔『近代日鮮関係の研究』(朝鮮総督府中正院、1940 年)が重要。また、彭澤周『明治初期日韓清関係の研究』(塙書房、1969 年)も参照。


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に行き、この間、日本の学者文人と交わった。

ただ、外交としては、そこにはさまざまな難しい問題が存在していた。朝鮮は中国に対して朝貢国であるのに、日本は中国に対して対等と主張していたことである。これは、朝鮮国が徳川将軍と対等であり、徳川将軍より上位にある天皇は、皇帝と対等ということになり、日本は朝鮮より上位ということになる。それは、しかし朝鮮にとっては受け入れられないことであったろう。

こうした難しい外交を担当していたのは、対馬の宗氏であった。宗氏は対朝鮮外交を一手に担い、ときに国書を改竄するなどして、日朝関係を維持してきた。また宗氏は、釜山に、長崎における出島に相当する、草梁倭館という特殊地域を有していた。

ところで、日本の幕末にあたる1864 年1 月、朝鮮では高宗が即位したが、実権を握っていたのは、高宗の父、興宣大院君(以下、大院君)であった。

大院君の政策は、一言で言えば、復古的革新であった34。朝鮮の王宮、景福宮は、文禄慶長の役で焼失して以来、250 年もそのままとなっていたが、正式の王宮が消失ままであってはならないと、1865 年、その再建に着手したのはその例である。

したがって、対外的には攘夷の強化であった。

まずロシアは、沿海州を得て朝鮮と国境を接するようになったため、国境の町慶興(キョンフン)を1864 年と65 年の二度訪れて、交易を申し入れたが、二度とも拒絶された。1866 年、大院君は1866 年、キリスト教を弾圧し、数千人を迫害し、9 名の外国人宣教師を処刑した。そのトップはフランス人だったので、フランスは1866 年10 月、艦隊を派遣して江華島に上陸し、江華府を陥落させたが、兵力と補給の不足から、11 月、撤退した。朝鮮は勝利をおさめたわけである(丙寅洋擾)。

またこれより前、1866 年、アメリカの商船、シャーマン号が交易を求めて、平壌をめざして大同江をさかのぼるうち座礁し、焼き討ちされるという事件があった。これを詰問するため、1871 年5 月、アメリカ艦隊が来襲して、江華島に上陸したが、江華島の防備は強化されており、アメリカは江華島を占領することが出来ず、撤退した(辛未洋擾)。

このように、中国と日本が開国を受け入れていたとき、朝鮮は攘夷を断行し、短期的にこれに成功していたのである。しかし、それは莫大な費用を必要としたし、また長く続くはずはなく、いずれ西洋列強の大規模な介入を招く可能性が高かった。1869 年1 月、明治政府は対馬藩主宗義達に命じて、王政復古を朝鮮政府に通告せしめた。しかし朝鮮政府は、「皇」「勅」など、中国の皇帝にしか使わない言葉が含まれているなどの理由で、その受領を拒絶した。

政府は対韓交渉を外務省に移し、1870 年、佐田素一郎、森山茂を派遣して情勢を探らせた。また、70 年10 月、吉岡弘毅、森山茂らを派遣して、外務卿書簡を届けようとしたが、接受を拒絶された。

廃藩置県によって、宗氏は廃されたので、新政府は、いよいよ朝鮮との間に新しい外交

34 木村幹『高宗・閔妃』(2007 年、ミネルヴァ書房)、48 頁。


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関係を結ぼうとし、倭館に外務省の外交官を駐在させようとした。

72 年9 月、外務大丞花房義質が軍艦・春日などを率いて渡韓し、草梁倭館を接収した。韓国はこれに対し、草梁倭館への食料供給を拒絶し、館の前に日本を「無法之国」と侮辱した書を掲示した。

こうした情勢に、日本の中にはいわゆる「征韓論」が高まった。「征韓論」の内容は一義的ではなく、無礼をとがめて出兵せよという議論から、大使を特派して、衝突を辞することなく強硬に交渉せよという議論まである。ともあれ、特使派遣がその最大公約数であったが、それは、1873 年8 月、政府内部で決定された。事は重大なので、当時外遊中であった岩倉大使らの帰国を待って正式決定することになった。10 月14、15 の両日、閣議で征韓論が議論されたが、太政大臣三条実美は煩悶のあまり急病を発し、岩倉具視がその代理となり、再度議論を行って、征韓は中止と決定した。征韓支持の参議の方が多く、反対の参議の方が少ないにもかかわらず、この決定を行ったのである。

征韓論の背景として重要だったのは、国内秩序の不安定だった。攘夷から開国への転換や、藩の廃止や、その他の多くの改革によって、大きな不満が蓄積され、一触即発の事態となっていた。対外的冒険は、それを一時そらせるかのように思われたのである。

江華島事件と日朝修好条規


征韓論政変の二ヶ月のち、朝鮮では李太王親裁の名のもとに、大院君は執政を停止され、王妃閔妃一族が政権を掌握した。大院君の攘夷政策は、巨大な財政負担となって、国政は揺らいでいた。そして新政権において、頑迷な対日政策をようやく変更しようとしていた。

日本では、大久保政権が1874 年5 月、台湾出兵を断行した。8 月、清国は京城に急使を派遣し、征台のあとに征韓が行われる恐れがあると警告したので、朝鮮政府は事態を重視して対日政策担当者を更迭して、政策変更の準備をしていた。

1874 年9 月より、朝鮮側は、6 月以来草梁倭館に滞在していた外務省の森山茂と接触し、国交再開の協議を開始した。明治政府の官僚と朝鮮政府の官僚の最初の接触だった。

しかし交渉は難航したので、森山は日本軍艦を測量を名目に派遣して威嚇することを提案した。1875 年、日本は軍艦・雲揚などを送り、朝鮮東岸を測量し、その後、西岸を測量し、9 月、江華島に接近して朝鮮側からの砲撃を誘発し、報復攻撃を加えた。

このころ、ボアソナードは意見書において、「朝鮮は支那に対し全く臣属の国にあらず、又た全く独立の国にあらず一個中間の位置にある」として、朝鮮に罪を問う使節を派遣するが、それに先立って清国にも使いを送り、ただし、できるだけ朝鮮を独立の国として扱うという方針を示している。

同年11 月、森有礼が北京に公使として派遣された。森有礼は、12 月9 日、北京に到着し、10 日、総理衙門に恭親王を訪問して交渉した。その際、清国側は、「朝鮮は中国の藩服に属するも其施行する一切の政教禁令は従来同国の自主専行に任せ中国は之に対し干渉する事


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無し。今日本国は朝鮮と修好せんと欲するも之亦朝鮮自ら主持すへき事に属す」と述べている。これを日本は、清国は朝鮮を独立国と認めたとして、朝鮮との交渉は清国に協議することなく日朝関係の中で処理することができると判断した。清国は、これが失言であったことに気づき、「朝鮮は事実清国所属の邦土の一なること周知の如く」と述べている35。この点について、王芸生は、「其後朝鮮問題の一切の紛糾は皆此一語の禍する所となったのである。不謹慎なる一語の貽す禍深しと云ふべしである」と非難している。

朝鮮に対しては、1875 年12 月、黒田清隆が特命全権弁理大臣として派遣された。交渉は難航し、一時は日本で開戦論も高まったが、76 年2 月27 日、日朝修好条規が締結された。その第一款には、「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」とある。しかし後段では、朝鮮による日本に対する領事裁判権の承認、関税自主権の否定といった、不平等条約に典型的な条項が含まれていた。これは朝鮮を清国との宗属関係から切断することが狙いだった。

ただ、それは清国の立場と決定的に矛盾するものではなかった。清国は日朝の対立が戦争に発展することを危惧して、朝鮮に対して柔軟姿勢をとるよう勧告していた。日朝、日清、清朝関係がぎりぎり折り合えるところで成立したものであった36。

壬午事変


そうしたバランスはまもなく崩れ始める。1879 年3 月の琉球処分は、その契機となったように思われる。

1879 年7 月、李鴻章は朝鮮高官の李裕元に書簡を送り、日本を牽制するために列強に対して開国することを勧め、また清国に対する依存を強めるよう勧めた。同じ年の9月、日本を訪問した金弘集に対し、駐日公使の何如璋は、黄遵憲に執筆させた『朝鮮策略』を渡している。そこでは、ロシアを最大の脅威と見て、清国と「親しみ」、日本と「結び」、西洋の中でもっとも友好的なアメリカと「連なる」ことを提言したものであった。二つの意見の間には興味深い共通点と差異が存在する。一番の違いは、日本をどう見るかであった。1881 年2 月、朝鮮問題の担当は、これまで属国の問題を扱っていた礼部ではなく、北洋大臣と駐日公使がそれぞれ朝鮮と直接協議することとさだめられた。そして、李鴻章の勧告による西洋諸国との条約締結は、まずアメリカを対象に行われた。朝鮮の条約案は清国との協議のもとで、1882 年4 月から始まった、シューフェルト米海軍代将、駐清臨時代理公使ホルコムを相手に、天津で行われた。こうした事実自体、朝鮮の「独立」とは相容れないことであった。しかもその草案の中で、「朝鮮は中国の属邦」という趣旨の一条が挿入された。アメリカは結局この条項を受け入れず、したがって、この文言は大統領宛の親書

35 王芸生前掲書、128 ページ。
36 岡本隆司『属国と自主の間:近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会、2004年)33 頁。


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の中で述べられることとなった。それにしても、清国の意図は明確であった。

1882 年9 月には、清の貿易商にきわめて有利な中朝商民水陸貿易章程が締結された。締結は壬午事変の後だったが、その前から着手されたものであった。そこでは、他の条約国は最恵国待遇にあずかることができないと、明記されており、宗主国清国の地位は他国と同じではないことが、すなわち朝鮮の従属が、別の言葉で述べられたといってもよい。また、この協定の改定は、北洋大臣と朝鮮国王が交渉し、清国の皇帝の許可を得て実行されることになっていた。そこでは、李鴻章が朝鮮国王と対等になることになっていたのである。そして李鴻章は腹心の袁世凱を朝鮮に送りこんだ。

清国の狙いは、朝鮮に対する支配権を実質化することであった。しかし、この交渉のさなか、李鴻章の部下であった馬建忠は、朝鮮がより自主的になり、清国にたいして従属的でないことを発見している。37 日本の影響力もまた、拡大しつつあったのである。

すなわち、1877 年には日本から花房義質公使が着任して、日本との交際の強化を説いていた。81 年、高宗は日清両国に留学生を派遣することとし、日本に対しては再び金弘集を修信使として派遣した。同年5 月、朝鮮王朝は日本公使館付武官、堀本礼造に軍隊の教練を依頼することを決定した。この軍隊、別枝隊は両班の子弟80 名からなっていた。

1882 年7 月23 日、朝鮮旧軍の兵は政府に反抗して、大規模な暴動を起こした。壬午事変あるいは壬午軍乱である。直接のきっかけは軍の不満だった。新式装備の別枝軍と比べ、旧軍は著しく劣遇され、13 ヶ月の間、給与の未払いが続く有様だった。

さきに閔妃政権によって引退を余儀なくされていた大院君は、これを復活の絶好の好機だと見て、反乱を利用して、ふたたび政権を握った。

この反乱の際、兵は日本人教官を殺害し、日本公使館をも襲撃した。花房公使はかろうじて逃れ、京城から仁川に脱出し、26 日、イギリス船に救われ、ようやく日本に帰るという有様だった。これは日朝関係を大きく揺るがす可能性を持っていた。

これを知った清国は、いち早く介入した。8 月4 日、三隻の軍艦を出発させ、8 月13 日には陸軍の派遣も決定した。その数は数千に上った。そして26 日には、事件の中心人物であった大院君を逮捕して天津に送った。

これは明らかにそれまでの宗属関係と大きく異なる対応だった。清国は、より直接的に朝鮮を統制する方向へと転換していたのである。これは日本にとって困った事態であった。朝鮮を清国から独立の国として、日本の影響力を強化したい日本と、従属関係を実質化して、影響力を強化したい清国との対立の中で、清国の力が強化されることになったのである。

この結果、済物浦条約が結ばれた。そこでは、日本は京城に駐兵権を持つこととなった。他方、清国も兵を置き、両国は京城で対峙することとなった。

37 同上、69 頁。


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甲申事変


壬午事変によって、排日の巨魁である大院君は朝鮮から除去されたが、清国の影響力は強化された。しかし朝鮮の中には、清国との関係を重視する事大党とともに、日本と結んで近代化を図ろうとする独立党が対立していた。

日本の言論人で朝鮮問題に深くかかわったのは福沢諭吉であった。福沢の慶応義塾には、1881 年より朝鮮からの留学生がやってきて、滞在していた。金玉均もその一人だった。鎖国の殻を破ろうとして学ぶ彼らは、福沢にとって、あたかも20 年前の自分自身のようであった。彼らとの交際を通じて、福沢は朝鮮問題に深い関心を持つようになり、彼ら近代化派を、政府の政策を超えて、支援するようになった。1882 年、壬午事変に直面した福沢は、自分がかつて軍備増強を十分主張しなかったことは誤りであったと自己批判し、軍備の増強が不可避だというようになった。

こうした独立党が日本の支持を期待して起こしたクーデターが、甲申事変であった。84年12 月4 日、清国がフランスとの戦争に手を焼き、余力がないことを見て取った独立党の金玉均、朴泳考、洪英植らは竹添進一郎公使の支持を得てクーデターを起こした。

いったん高宗は独立党の動きを受け入れ、クーデターは成功したかに見えた。しかし事大党はただちに清国軍に協力を要請して反撃に転じ、兵力に劣る独立党と日本軍は敗北し、金玉均、朴泳考らは日本に亡命した。当時の北洋艦隊は日本を圧倒する力を持ち、陸上の清国軍は日本に十倍する3000 人を擁していた。

1885 年1 月9 日、漢城条約が結ばれた。事変の責任は不問としたまま、朝鮮は日本に謝罪し、被害日本人に賠償金11 万円を支払い、焼失した公使館の再建のために2 万円を支払う、などが合意された。日本がかかわった事件にもかかわらず、日本にとってむしろ有利な解決となったのは、事件が朝鮮内政問題とされたからであった。38

これに続いて、天津条約が結ばれた。事変のさなか、清国軍による日本公使に対する発砲、日本人に対する殺傷などの問題があったからである。交渉は難航したが、イギリス公使パークスの仲介もあり、4 月18 日、伊藤博文と李鴻章が天津で交渉して、天津条約が結ばれた。そこでは、両軍の4 ヶ月以内の撤退や、いずれも軍事教官を派遣しないこと、もし将来内乱が発生した場合には、相互に通知しあうこと(行文知照)、などが決められ、清国軍の側に不注意があったことが認められた。これも予想以上に、日本に有利な内容であった。フランスとの紛争をかかえる李鴻章は、妥協したのである。また日本も、面子がたてば、それ以上に清国と対立するつもりはなかった。

しかしながら、甲申事変は明らかに独立党、親日派の敗北であった。福沢諭吉の「脱亜論」が書かれたのは、1885 年3 月、甲申事変が終わり、天津条約の交渉が始まる前であった。その中で福沢は「東洋の悪友」との交際は謝絶して、「隣国なるか故」に特別のことをするのではなく、普通に付き合うべきだと述べた。これは短い論説であり、脱亜という言

38 木村前掲書、175 頁。


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葉もタイトル以外には使われておらず、当時、とくに注目を引いたものでもない。この論文の意味するところは、朝鮮の学生を庇護していた福沢が、親日派を通じての朝鮮の改革が、挫折したという告白であった。とくに強硬なアジア外交を説いたものではなかった。ただ、日朝の提携、日清の提携という要素が、以後、強調されなくなるのは確かである。明治前期から存在していた日清あるいは日清韓提携論の大前提は、朝鮮や清国の側に日本と協力しようとする勢力があることであった。しかしそれは誤りであることが明らかになった。朝鮮において清国とは鋭い対立があることが明らかになったのである。

しかし、日清が1894 年の日清戦争に向かって進んでいったと考えるのは早計である。朝鮮には、清国の進出を好まぬ勢力があり、高宗は清の影響力を制限するため、ロシアと結ぼうとしたことがある。イギリスはロシアの進出を嫌い、85 年3 月、巨文島を占領した。これに対してロシアも対抗すると声明したため、李鴻章は必死で行動し、両国とも朝鮮領土を占領しないという妥協を成立され、87 年、英国を巨文島から撤退させた。朝鮮をめぐる国際関係は複雑であり、日本はロシアに備える必要もあり、清国に対する報復や対決は、外交路線の中心にはならなかったのである。39

軍事力の増強も、必ずしも急速には進まなかった。たしかに1880 年代の日本では軍拡が重要課題であり、それは以上のような朝鮮情勢と対応していた。実際、1882 年までは軍事費は予算の20%未満であったのに、83 年からはそれを超えていった。その内容は、海軍の増強が中心であった。北洋海軍に対抗しうる海軍の建設は急務だと思われたのである。ところが、財政事情はその継続を許さず、85 年には、甲申事変の敗北にもかかわらず、また清国北洋海軍が最新鋭艦二隻(定遠・鎮遠)を加えたのにもかかわらず、軍拡は修正されることになる。40 陸軍では、85 年に鎮台条例が改正され、88 年には鎮台が廃止されて師団制が導入されたが、当時はまだ大陸作戦用の軍隊というほどの力はなかった。訓練も、敵の上陸を撃退する訓練が多かった。41

1885 年、日本で内閣制度が成立したころ、日本の対朝鮮政策は、清英との協調のもとに、朝鮮を中立としようとする路線が優勢であった。これに対応して、軍備拡張もむしろ穏健であった。急速な軍備拡張を唱える勢力も、清国との対決を主張する勢力も存在したが、彼らは政府の中枢にはいなかった。42


おわりに


中江兆民が1888 年に刊行した『三酔人経綸問答』は、近代日本における政治論、外交論の古典としてよく知られている。その中には、洋学紳士君、豪傑君、南海先生という三人

39 高橋秀直『日清戦争への道』(東京創元社、1995 年)、186-200 頁。
40 同上、208-212 頁。
41 戸部良一『逆説の軍隊<日本の近代9>』(中央公論新社、1998 年)、107-114 頁。
42 朝鮮中立化計画を含む、日本のさまざまな朝鮮政策、軍備政策について、大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事』(成文堂、2001 年)を参照。


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の人物が登場する。洋学紳士は、民主政治の積極的な受容を説き、対外政策においては、いかに努力しても西洋諸国に追いつくことは不可能であり、むしろ世界の世論に信を置いて、非武装政策を取るべきだと主張する。これに対し豪傑君は、世界の趨勢は弱肉強食であり、日本はこのままでは列強の餌食となる、単独で西洋諸国と対抗できない日本は、近隣の老大国を切り取るべきだという。

最後に南海先生が言う。洋学紳士君にも豪傑君にも、一つ共通の欠点がある。それは「過慮」である。世界は洋学紳士の言うほど理想主義的に発展はしていないし、豪傑君の言うほど力ばかりの状況でもない。それに日本はそれほど無力ではない。着実に漸進的に民主化を推し進め、外交においては周辺国との友誼を深め、容易に侵略されない程度の武備を備えることが望ましいと述べる。

この三人は、いずれも兆民の分身だったと思われる。兆民は紳士君のような民主化を考え、もしかしたら豪傑君のような路線が可能ではないかとも考え、しかし、結局、南海先生のような政策しかありえないと考えた。それは明治20 年当時の最大公約数でもあった。19 世紀の後半にあっては、紳士君のような路線は、まず不可能だった。したがって、選択は豪傑君の方向か、南海先生の方向か、そのいずれかであった。言い換えれば、日本の針路そして日中関係の未来は、まだ決まってはおらず、その後の日中それぞれの政策と、西洋諸国の政策によって決められることになる。それが明治20 年、日本が朝鮮半島で敗北し、また国内で議会設立に向かう時点での、姿であった。


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