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【日中歴史研究】南京事件の日本側論文(要旨)

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【日中歴史研究】南京事件の日本側論文(要旨)

2010.1.31 22:59

 昭和12年12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、翌13日、南京を占領した。

 この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた。

 中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦(ごうかん)、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20万人以上(松井石根司令官に対する判決文では10万人以上)、1947年の南京戦犯裁判軍事法廷では30万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている。犠牲者数に諸説がある背景には「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。

 日本軍による暴行は外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ、陸軍中央部にも伝えらた。38年1月4日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官あてに「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられた。

 宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(ふりよ)(捕虜)の取り扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、軍紀弛緩(しかん)をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった。(筆者は、波多野澄雄筑波大教授、庄司潤一郎防衛研究所第一戦史研究室長)


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