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対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その1>

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[日中歴史共同研究]]
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
<近現代史>
第一部 近代日中関係の発端と変遷
第二章 対立と協力 それぞれの道を歩む日中両国

対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その1>

川島真: 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授(外部執筆委員)

  • 対立と協調:異なる道を行く日中両国 川島 真<その2>
    • 4.日露戦争と満洲問題
      • ■日露戦争と日中関係
      • ■日露戦争の勃発と中国の中立
      • ■ポーツマス条約の締結と「日露戦争の世界史的意義」
      • ■「満洲」問題の発生
    • 5.日露戦後の日中関係と辛亥革命
      • ■中国利権をめぐる協商関係の形成
      • ■立憲君主制の試みと日中関係
      • ■辛亥革命
    • おわりに


日清戦争と下関条約、三国干渉による遼東半島の返還、日本留学熱および近代日本文化の中国への影響、義和団運動と8 カ国連合軍、日露戦争、辛亥革命

日清戦争から辛亥革命にかけての時期は、日中関係がきわめて緊密化し、共通体験を有する時代でもあり、また同時に転機でもあった。だが、その転機は直ちに1930 年代の戦争に結びつく変容ではなく、依然として多様な可能性を秘めた時期であった。

まず、この時期に日中が政治的、経済的、文化的にきわめて緊密な関係を築いたことについて説明を加えたい。この時期には、直接的な人的交流が急増し、また王族や高級官僚や留学生が日本を多く訪れ、そして東京が中国でおこなうことのできない革命運動や立憲運動などの政治活動の場ともなった。また、中国が近代国家建設を本格的に開始し、明治維新を意識した国家諸制度の改革をおこなうなど、日中双方が近代国家建設を体験し、ともにハーグ平和会議に参加するなど、主権国家を基礎とする国際社会の一員として対外関係を築くようになった。日中は、「近代」をつうじて結び付けられ、西洋文明の受容、国家建設、そしてナショナリズム、アイデンティティ形成などの面で共通経験を有し、またさまざまな相互関係を育むことになったのである。

次に、近代日中関係の転機としての面についてである。第一に、両国が国家間戦争を体験し、その結果、二国間関係が日清修好条規に基づく平等な関係から、下関条約に基づく日本に有利な不平等条約体制の下に位置づけられるようになった。第二に、日本が中国をめぐる国際政治に列強のひとつになった。日本は、中国をめぐる国際政治に、遅れて参加した列強となった。中国をめぐる国際政治をめぐる基本的な枠組みには、1858 年の天津条約、1901 年の北京議定書、1921 年の九カ国条約があるが、日本は1901 年の北京議定書から加わることになった。第三に、日清戦争の結果、中国が台湾を日本に割譲し、中国が朝鮮の独立を承認し、その後1910 年に日韓併合がなされるなどして、日本は植民地を有する帝国となった。その結果、台湾と中国、朝鮮と中国といった関係とともに、関東軍の置かれた旅順・大連という日本の租借地や各地の日本租界と中国との関わりが生まれ、日中関係が単に東京と北京の関係ではない、多元的な関係となったことは重要だろう。本章で検討する日清戦争から辛亥革命に至る時期は、日中両国の関係が多元化、緊密化していく時期でありながら、同時に政治外交的な関係が多様化しつつも、ある意味で敵対的な局面が見られ始めた時期であった。だが、その敵対的関係は決して決定的なものではなく、両国それぞれの将来、また日中関係にもさまざまな選択肢が残されていた時期だということを看過してはならない 1。

1.朝鮮半島をめぐる対立と日清戦争



1 拙稿「関係緊密化と対立の原型-日清戦争後から二十一カ条要求まで」(劉傑・三谷博・楊大慶編著『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年所収)


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■朝鮮半島をめぐる日中対立

19 世紀後半、日中両国がそれぞれ近代国家へと変容する中で、両国は国境を画定していった。日本は、旧来の幕藩体制下での国家よりも拡大するかたちで国境線を引こうとし、沖縄や北海道を都道府県に組み込んだ。それに対して、中国は必ずしも拡大型ではなく、既存の省設置地域に加えて新疆などの藩部や台湾などの辺縁に省を置くなどして国土を確定していった 2。日中関係は、琉球を介在した関係、および長崎貿易で結びつく互市関係から、日清修好条規で結びつく国家間の外交関係となった。東アジアがこのような主権国家間の関係へと変容する中で、琉球の外交権は日本によって否定され、琉球と中国の関係は日中関係の一部に位置づけられた。

このような状況の中で、中国はそれまで有していた冊封や進貢に基づく周辺諸国との関係を基本的に維持しつつも、西洋諸国や日本との諸関係の中で、調整、変化を加えていった。琉球をはじめとして、冊封、進貢に基づく関係を有していた周辺諸国が中国とのこうした関係を途絶させる中で、朝鮮とはその関係を維持した。その朝鮮が東アジアの国際政治、日中関係の最大の焦点になった。1876 年、日本は不平等条約である日朝修好条規によって朝鮮を開国させたが、これが朝鮮と中国の関係を直ちに変えるものではなかった。また、1880 年に駐日公使館参賛官であった黄遵憲による『朝鮮策略』に「中国に親しみ、日本と結び、アメリカと聯なる」と表現されていることに見られるように、中国は朝鮮が「開国」することを忌避していたわけではない 3。中国の朝鮮に対する基本姿勢は、「属国でもあり(あるが)、また自主でもある」というダブルスタンダードであった。中国と朝鮮の間の宗属関係は維持されるが、他方で朝鮮は自主の国として諸外国と対外関係を築きうるとしたのである 4。このような中国と朝鮮の宗属関係は、イギリスなどから常に否定的に捉えられていたわけではないが、日本はそれを批判し、朝鮮の「独立」を求めるとともに、朝鮮内部で親日派の養成に努めた。

国王高宗の外戚の閔妃の一族が日本に接近し、それに反発した大院君を支持する勢力が、1882 年に反乱を起こした(壬午事変)。この反乱は失敗に帰したが、閔妃の勢力は中国との連携を推進した。この年、中朝水陸貿易章程が締結され中朝貿易が制度化され、以後、朝鮮半島に中国租界も開設された。1884 年、金玉均らの独立党が日本を恃みにクーデタを起こしたが、袁世凱率いる中国兵の来援により鎮圧された(甲申事変)。1885 年、日中両国は天津条約を締結し、軍を撤兵させ、以後出兵する場合には相互通告することとなった。朝鮮をめぐっては、中国が優勢となり、幽閉されていた大院君を連れ返った袁世凱は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜として、朝鮮の内外政に以前以上に大きな影響力をもつにいたった 5。

2 茂木敏夫『変容する近代東アジアの国際秩序』(山川出版社、1997 年)
3 『朝鮮策略』の言論については、ロシアを脅威として認識する対外観とともに、駐日公使であった何如璋の琉球問題をめぐる対日強硬論と関係を有する。『朝鮮策略』の内容については、平野健一郎「黄遵憲「朝鮮策略」異本校合」(『国際政治』129 号、〈国際政治と文化研究〉、2002 年)を参照。
4 岡本隆司『属国と自主のあいだ-近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会、2004 年)
5 田保橋潔『近代日支鮮關係の研究-天津条約より日支開戰に至る』(京城帝国大学、1930年)、林明徳『袁世凱与朝鮮』(中央研究院近代史研究所、1970 年)


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後世、日本の対アジア侵略というコンテキストを説明する上で有名になる脱亜論は、朝鮮政策について比較的強行であった『時事新報』に1885 年に掲載された。しかし、同時代において福沢の言論がそれほど注目されたものではないことが最近明らかにされている 6。

なお、日中韓関係においては軍事的に中国が優勢となり、1886 年に長崎清国水兵事件が起きるなど、日本では中国の軍備増強が脅威として認識されたが、それが両国の対立を直ちに惹起するものではなく、日中間で海軍の艦船交流がおこなわれるなど、直接的な衝突は回避された 7。

■日清戦争の勃発から講和へ

1894 年、朝鮮半島で農民を中心とする東学の乱がおきると、朝鮮の要請を受けた中国が出兵、天津条約に基づいて日本にも通知したので、日本側も出兵した。両国の出兵にともない、朝鮮政府と反乱者側は和解し、両軍は乱の鎮圧の必要が無くなり、朝鮮から両国に対して撤兵要請がなされた。しかし、日本側が朝鮮の内政改革案を提示し、それに対して朝鮮と中国が反発し、日本政府が親日政権を朝鮮に成立させるなどしたため、日清両国は対立を深め、7 月25 日に豊島沖の海戦がおこなわれるなど、7 月末から交戦状態となり、8 月1 日に両国が宣戦布告した。この間、日本は1894 年7 月16 日に日英通商航海条約を締結して領事裁判権撤廃に成功し(1899 年発効)、イギリスから日本の朝鮮派兵についても実質的な支持を得た 8。

開戦以後、日本国内では議会も戦争関連予算や法案を承認し、国家の歳入の二倍強にあたる経費を戦争に投入した。戦局は日本に有利に進行し、日本は朝鮮半島から中国軍を駆逐するとともに、遼東半島や北洋海軍の拠点であった威海衛も占領した。また、台湾方面への派兵は、戦争当初から企図されていたというよりも、戦局が有利に展開する中で採用され、講和交渉がはじまってから進展した。1895 年3 月26 日、日本軍が澎湖島を占領し、台湾および澎湖島の割譲を講和の条件とした。

1895 年4 月、日中両国の全権代表、伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章が下関条約を締結した。その結果、中国は、朝鮮の独立自主を認め、遼東半島、台湾および澎湖諸島を割譲し、賠償金2億両を支払い、さらに蘇州、杭州など四港の開港を約した。また、第六条第二条によって開港場、開市場で、それまですでにおこなわれていた外国企業が条約港において工場経営をおこなうことを認めた。その結果、外国企業は対中投資を積極的におこなうようになった(当初は、イギリスの綿紡績が中心)。なお、日本は中国において列強が有してい

6 遠山茂樹「日清戦争と福沢諭吉」(『福沢研究』6 号、1951 年11 月)、平山洋『福沢諭吉の真実』(文芸春秋社、2004 年)、酒井哲哉『近代日本の国際秩序論』(岩波書店、2007 年11 月)
7 1891 年の艦船交流に際しては、船員を上陸させないなど、日中双方で騒擾を防ぐ努力がなされた。「在京清国全権公使李経方丁憂帰国ニ付汪鳳藻臨時代理公使任命并清国北洋水師ニ於テ我国艦隊ヲ優待セントスル挙アル件」、『公文類纂』明治二十四年第九巻)。
8 アメリカの駐華公使であったデンビーは回想の中で、「日清間の戦争は、最初に敵意を抱いた日本側においてでさえ、決して確たる判断に基づいて起こされたものではなかった。無論、清は日本との戦争など想像さえしていなかった。清は自惚れの中に自らを位置づけ、まさか“倭人”たちが大胆にも攻撃してくるなど考えていなかった」と述べるなど、戦争の必然性について疑義を呈している。Denby, Charles, China and her People: Being the Observations, Reminiscences, and Conclusions of an American Diplomat. Vol.I; pp.122-126, L.C. Page & Co.,1906.


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るのと同じ特権を獲得することになり、日中関係は不平等条約に基づく関係となった。

戦勝国となった日本ではあったが、そのまま戦果を享受できたわけではなかった。特に遼東半島については、駐華ドイツ公使経験者であるフォン・ブラントから干渉の可能性があるとの情報を得てから、李鴻章は条約に調印した 9。中国の地方大官にも、「遼東半島を棄ててはならない。遼東半島が無ければ東三省はなく、東三省がなければ我が王朝は無い」というように、遼東還付を求める論調があった。また、駐ロシア公使の許景澄がロシア側に対して積極的に働きかけていた 10。実際、三国干渉は1895 年4 月23 日にロシア、ドイツ、フランスの三国によっておこなわれ、日本が5 月8 日に受けいれ、中国側が日本に三千万両の報償金を支払った。日本が得た金額は賠償金を含めて二億三千万両(日本円で三億五千六百万円)となり、それは賠償金特別会計として軍備拡張費などに利用され、また金本位制や産業発展の基礎となった。三国干渉のほか、蘇州や杭州などの開港にともない設置することとなった日本租界についても、中国側の黄遵憲らとの交渉の末、僻地に設定されるなどしたため、実際には日本の商業拠点とはならなかった 11。

他方、中国は主要朝貢国である朝鮮を喪失し、「属国と自主」というダブルスタンダードのうちの、対外関係のひとつのスタンダードを失うことになった。また、中国が戦費調達や賠償支払いのために列強からおこなった多くの借款は、その後の財政を圧迫した。朝鮮半島では、中国の影響力が限定的になり、1897 年には大韓帝国が成立した。そして、1899年に(原則)平等な清韓修好通商条約を締結したので、朝鮮とも不平等条約を締結した日本が優位な国際関係が形成された(朝鮮における中国租界などは維持された)。

■日清戦争の位置づけをめぐる日中の議論

日本の朝鮮への関与やその後の日清戦争へと至る道程をいかに捉えるのかという点について、日本の学界でも見解が分かれている 12。通説は、日清戦争までの日本には帝国主義国となるか、植民地となるかの二者択一しかなく、結果的に帝国主義にならざるを得なかったとする見解だろう。これは、日本が朝鮮侵略、対清戦争を一貫して目指していたということでもある。最近ではその通説を補強する斎藤聖二『日清戦争への軍事戦略』(芙蓉書房出版、2003 年)もある。他方で、高橋秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995 年)は、松方デフレ期から初期議会期にかけての明治政府には「小さな政府」的な路線であり、むしろ確固とした朝鮮政策は欠如していたとしている。これは日本に第三の道があった可能性を示す議論で、このような志向性が日本の対朝鮮政策を抑制的にしていた(財政面、軍事的未整備)とされている 13。また、大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事』(成文堂、

9 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973 年、414 頁)
10 「江督劉坤一奏請飭密商俄国促日還遼予以新疆数城為謝片」(光緒二十一年閏五月十六日、『清季外交史料』一一五巻、二一)、許公使の動向は、許同.『許文肅公(景澄)遺集』(民国七年鉛印版)参照。
11 大里浩秋・孫安石編著『中国における日本租界 重慶・漢口・杭州・上海』(御茶ノ水書房、2006 年)
12 佐々木揚「最近10 年間の中国における日清戦争史研究」(『東アジア近代史』第11 号、2008 年3 月)参照。
13 この高橋の見解には反論もある。たとえば神山恒雄は財政史の観点から、その松方デフレ期に決して小さな政府という議論があったわけではないとする(神山恒雄『明治経済政策史の研究』塙書房、1995 年)。だが、政策という面では、朝鮮政策を積極的に推し進める傾向が連続していたわけではない。


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2001 年)も、通説には批判的である。

中国では、明治以来の日本の対外侵略をすべて国際公法違反だとし、陸奥宗光の言動を批判的に検討する論考が少なくない。また、開戦時期については、1894 年7 月25 日の豊島沖海戦とともに、中塚明の7 月23 日の日本の朝鮮王宮占領に求める説も肯定的な評価が与えられることが多い。中塚の使用した福島県立図書館の佐藤文庫にある参謀本部編『日清戦争史』草案は、中国でも翻訳され、それに依拠した文献や、それを日本が明治以来対中侵略の意図を有していた証拠とする論稿も見ら見られ始めている。また、賠償について場、賠償金二億両、遼東半島還付報償金三千万両、威海衛占領費百五十万両だけでなく、日本の奪った艦船、機器などを合わせると三億四千万両に達したとする見解も見られる。

日清戦争へと至る時期の中国と朝鮮の関係について、日本では岡本隆司『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、2006 年)があるが、中国においても中朝関係に注目する王如絵『近代中日関係与朝鮮問題』(人民出版社、1999 年)、同『甲午戦争与朝鮮』(天津古籍出版社、2004 年)などが、中朝関係の問題点、朝鮮から見た中国側の問題点などを扱い、中国における新たな日清戦争研究の流れを示している。ただし、日清開戦については1894 年7 月23 日説を採用してはいない。

他方、日本が何時清との戦争を想定して本格的な準備を開始したかという問題もまた一つの焦点である。日本の議論では、陸海軍それぞれの動向、議会との関係などの論調が複合的に参考にされるのに対して、中国の論調では明治初年以来の日本に一貫した「大陸政策」が存在したとされることがあり、また日清戦争については、山県有朋に注目し、比較的早い時期から日本が対中戦争を準備し、軍拡路線を歩んでいたとする見解が目立つ。日
本でも、吉川朗『軍備拡張の近代史─日本軍の膨張と崩壊─』(吉川弘文館、1997 年)のように、天皇の軍隊の創設や1888 年の陸軍における師団制の採用に注目する見解もあるが、1889 年の第一回帝国議会での山県総理の「主権線・利益線」演説などに示された路線が、1891 年からの軍拡路線として実行に移されたことに注目すべきであろう。この軍拡は、議会において問題となったものの、同年の大津事件やロシア艦隊の長崎来航などによって海軍拡張が正当化され、1893 年2 月10 日の建艦詔勅により海軍軍拡がいっそう進められることになった。1893 年には山県の「軍備意見書」もあり、財政的に可能なときに陸海軍の拡張をすべきだという機運が高まり、軍拡路線が高まっていたと考えられる。


2.義和団事変と中国をめぐる国際政治の変容


■日清戦争後の中国をめぐる国際政治

日清戦争後、中国をめぐる国際政治にはいくつかの大きな変化が見られた。第一に、日清戦争後、李鴻章はじめ中国首脳部はロシアに接近した。1896 年3 月、ロシア皇帝にニコラス二世の戴冠式に慶賀使としてペテルスブルグに派遣された李鴻章は、露清秘密同盟条約を締結した 14。この条約は、中国東北部の鉄道敷設権

14 矢野仁一『日清役後支那外交史』(東方文化学院京都研究所、1937 年)、佐々木揚「日清戦争後の清国の対露政策-一八九六年の露清同盟条約の成立をめぐって-」(『東洋学報』59 巻1・2 号、1997 年10 月)


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および経営権を露清銀行に与えることなどが定められたが、第一条には、「日本国がもしロシアのアジアの東方における領土、あるいは中国の領土、そして朝鮮の領土を侵略占領した場合には、この条約に基づいて事態に対処する。両国は、すべての陸海軍の中で派遣可能な軍をすべて派遣し相互に助けあう。兵器や糧食についても、相互に援助しあうように尽力する」という文言があり、日本を仮想敵とした軍事同盟条約であった 15。しかし、日本側には日清戦後ただちに中国を侵略する意図があったわけではない16。

第二に、外国資金主導の鉄道建設が活発化し、それに鉱山開発利権などが絡み、それが勢力範囲設定にまで進展していった。このような動きは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツなどが主導し、対中投資をおこなう十分な余裕の無かった日本の関与は限定的であった。だが、勢力範囲設定については、日本も1898 年4 月に福建省不割譲に関する交換公文を中国と締結し、台湾の対岸の福建省を勢力範囲とした。

第三に、租界と異なり、主権そのものを貸し出すかたちになる租借地が中国沿岸部の各地に、主に軍事目的で設定された。1898 年3 月にドイツにより膠州湾租借地にはじまり、旅順・大連(ロシア)、威海衛(イギリス)などが租借地となった。日本はこの租借地獲得競争に加わることはなかったが、やがて日露戦争で旅順・大連租借地をロシアから獲得し、第一次世界大戦ではドイツの膠州湾租借地を攻撃、占領することになる。

第四に、アメリカが対中政策を積極的に展開し始めたことがあろう。1898 年の米西戦争に勝利したアメリカは、フィリピン・グアムを領有し、多く華人を受け入れてきたハワイを併合し、フィリピン・ハワイにも、中国人移民を抑制する「排華法」を適用していった。1899 年9 月、アメリカの国務長官ジョン・ヘイは門戸開放宣言を英仏露独伊日の各国に発した。これは、各国が設定した勢力範囲や租借地において、中国の関税率が有効であり、また各国それぞれの経済活動が妨げられないようにするためのものであった。これは遅れてきた帝国としてのアメリカに有利な内容であったばかりでなく、ロシアの大連租借を警戒するイギリスにとっても受け入れ可能な内容であり、各国は原則的にアメリカの宣言に応じた17。ただ、アメリカが租借地や勢力範囲をもたぬ帝国として出現したことは、中国にとって、当時においても、歴史的にも大きな意味を持った(実はアメリカは福建省に租界の開設を模索していたが、断念している)。以後、原則的にであれ、アメリカは中国の主権や統一の保持を唱え、文化交流などを通じて、中国の知識人の世界や官界に強い影響力をもつようになった。そして、日清戦争、日露戦争ともにアメリカが斡旋して講和に至っていることにも留意すべきである。


■戊戌変法と日本

下関条約の交渉過程において、康有為らの第二上書の見られるような講

15 「専使李鴻章與俄外部大臣羅抜戸部大臣微徳訂中俄密約」(光緒二十二年四月二十二日[1896 年5 月22 日]、『清季外交史料』巻122、1-2)
16 蒋廷黻『中国近代史』(初版、長沙、商務印書館、1938 年/香港版、立生書店、1954 年、96 頁)は、この密約締結を中国の失策とし、日露戦争、二十一箇条要求、満洲事変なども、この密約に由来するものとしている。
17 A.W.Griswold, The Far Eastern Policy of the United States, New York, Harcourt,Brace & Co.,1938, pp.36-86.


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和拒否とともに、変法(政治・制度改革)を求める意見書が多く呈された18。康有為や梁啓超らの主導した戊戌政変は、「一統垂裳之勢」を否定して、「列国並立之勢」を主唱するなど、対外関係の面でも先のダブルスタンダードとは異なる新たな観点を提示した。内政面では、国家制度の改革、富国政策、人材の養成などを主唱した。だが、イギリスや日本なども、必ずしもこの新しい政治に同調していたわけではなかった。イギリス公使マクドナルドも、1898 年6 月11 の国是の詔について、根本的改革を認めたものとして評価しつつも、「皇帝の訓戒が中国之完了の心を深く動かすと期待できる理由は殆どない」とし、さらに「上諭が一つでも実際上の効果を生じている徴候はほとんど見えない」としている19。戊戌変法は、日本の明治維新をモデルとしているとされる。だが、日本を含めて列強からの支持を得ていたわけではなかった。結局、この新政は三ヶ月で頓挫した20。

康有為や梁啓超は、日英両国公使館の保護によって日本に亡命し、1899 年6 月13 日に横浜にて保皇会を組織し、梁啓超は以後、『清議報』、『新民叢報』などを日本で刊行した。日本は中国の反政府派の避難所(アジ-ル)としての役割を果たしたのである。日本政府は、清朝政府の要請にしたがって、彼らを監視したり、活動を取り締まったりした。だが、日本国内でも彼らの活動に対する支持者、支援者も多く見られ、彼らとの「個人的」交流が、政治軍事面での対立と対照的に、民間における「友好の物語」として後の日中関係史研究において強調されることになっていく21。

■義和団事件と北京議定書(辛丑和約)

戊戌変法の後、中国が極端に保守化したとする見解もあるが、この点は定かではない。中国は、1899 年には第一回ハーグ平和会議に参加した22。以後、ベルヌ条約、万国郵政会議などの国際会議や国際組織における日中関係が、東アジアの二国間関係とは異なるかたちで形成されていく。

だが、その1899 年から排外的な宗教結社である義和団が山東省を中心に活動を開始し、当初はそれを鎮圧していた清朝中央も、山東省から北京周辺に移動してきた義和団を認め、1900 年6 月21 日に宣戦の上諭を発して列強全体と戦闘状態に入り、東交民巷の公使館区域は危険にさらされ、日本公使館員も戦闘をおこなった23。6 月20 日にはドイツ公使であるフォン・ケラーが射殺されるなど外国側にも犠牲者が出ていた。8 月14 日、日本を含む八カ国連合軍が北京に侵入した。連合軍の総数はおよそ二万人であり、ほぼ半数が日本軍

18 「康南海自編年譜」(中国史学会主編『戊戌変法』上海人民出版社、1957 年、第四冊所収)
19 坂野正高『近代中国外交史研究』(岩波書店、1970 年、306-307 頁)、林権助『わが七十年を語る』(第一書房、1935 年、78-103 頁)、王樹槐『外人与戊戌変法』(中央研究院近代史研究所、1965 年)
20 戊戌変法の経緯については、茅海建『戊戌変法史事考』(生活・読書・新知三聯書店,2005年)を参照。
21 従来、日本における立憲派や革命派の活動については、馮自由『中華民国開国前革命史』(世界書局、1954 年)に依拠した面が強かったが、昨今、孔祥吉、村田雄二郎らにより、日本外務省記録などとの比較検討に基づく史料批判が進められ、その信憑性に疑義が呈されている。
22 唐啓華「清末民初中国対『海牙保和会』之参与(1919-1928)」(『政大歴史学報』23 期、2005 年5 月)、拙稿「中国外交における象徴としての国際的地位」 (『国際政治』〈特集・天安門事件後の中国〉145 号、2006 年夏)
23 服部宇之吉『北京籠城他』(平凡社、東洋文庫、1965 年)


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であったとされる24。この義和団事件に際して、山東巡撫の袁世凱、両広総督の李鴻章、湖広総督の張之洞、両江総督の劉坤一らは、宣戦の上諭に従わず、義和団を反乱軍と看做し、列強との協調に努めた(東南互保)25。なお、義和団事件に際して「文明国の軍隊」であることを目指して規律を重視していた日本軍が総理衙門档案を守ったということが知られている。外務部司員王履咸は、「前年の京師の変の際、他の各衙門の档冊(档案を綴じたもの)が焼かれてしまい本来の姿を失ってしまったのだが、幸いにして本部(=総理衙門)の档案は日本兵によって封守されたので、遺失しなかった」としている26。他方で、日本陸軍は戸部などから馬蹄銀や釣鐘などを鹵獲品として日本に持ち帰り、銀は国庫に繰り入れられ、釣鐘は靖国神社に寄贈された27。

1901 年9 月7 日に結ばれた辛丑和約(北京議定書)およびそれに続く中英マッケイ条約などは、1858 年の天津条約に次ぐ、中国をとりまく国際政治の基本条約となった。日本はそこに列強の一員として加わり、以後、この辛丑和約の枠組みの中で日本は列強と協調しながら中国に関与することになる(21 カ条要求に至って、この枠組みから突出し、ワシントン体制下で再度対列強協調が模索される)。この枠組みでは、いわゆる「中国分割」に歯止めがかけられ、列強は北京政府を支持しながらその近代化を推進し、財政面でも借款の返済が順調におこなわれるように関与していくことになった。中国は辛丑和約によって4億5 千万両という、日清戦争の二倍以上の賠償金の支払いを命じられた。賠償金は公債形式で、40 年年賦で返済することとされ、金貨に対する相場で計算されることにいなっていた。賠償金の配分額は、ロシアがもっとも多く(29%)、次いでドイツ(20%)、日本はアメリカと同じで(7%)であった。また、公使館区域が設定されるとともに、各国の駐兵権が認められた。

日清戦争から義和団事件にかけて、日本では中国の統一性、統治能力そのものを問うような言論とともに、日中提携論や中国保全論も見られたが、日本が主導して中国を救うべきだといったような言論が大勢であった28。


3.「近代」をめぐる日中の交錯


■光緒新政と中国人留学生の来日

義和団事件を経て、変法の路線が再び採用され、北京議定書締結前の1901 年1 月29 日、中国は変法預約の詔書(「新政の詔書」)を宣布し、立憲君主制を模索することとなった29。戊戌政変と異なるのは、その国内基盤だけでなく、国際的にも支持を受けていたことであった。7 月には総理衙門にかわって、中国で最初の本格的

24 佐藤公彦『義和団の起源とその運動 : 中国民衆ナショナリズムの誕生』(研文出版、1999年)、斎藤聖二『北清事変と日本軍』(芙蓉書房出版、2006 年)
25 李国祁『張之洞的外交政策』(中央研究院近代史研究所、1970 年)
26 光緒二十八年(1902 年)三月二十八日、外務部司員王履咸呈文(中央研究院近代史研究所所蔵外務部.案、02-14、14-2、「各項条陳」)。
27 明治37 年5 月「経理局 北清事変の際獲得したる戦利品処分の件」(陸軍省大日記、防衛省防衛研究所所蔵、アジア歴史資料センター:レファレンスコードC08010342000)
28 たとえば、大隈重信「支那保全論」(早稲田大学編輯部編『大隈伯演説集』早稲田大学出版部、1907 年所収)
29 李剣農『最近三十年中国政治史』(太平洋書店、1930 年)


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な外交機関である外務部が設けられた。義和団事件の講和交渉の過程で、北京公使会議と清側の全権代表がやりとりしていた際に、外務部の見取り図を描いたのは、日本の小村寿太郎とアメリカのロックヒルであった30。また、人材養成面でも、科挙制度が改革され、各省から留学生を海外に派遣して、学業を修めたものには挙人や進士の資格が与えられることになった。そして、1905 年に科挙試験が廃止されることが決まると、海外留学にいっそう拍車がかかった31。

このような海外留学熱は、日中関係に新たな展開をもたらした。それは多くの留学生が日本に来日したことである32。日本から中国へは明治初年から語学留学生が外務省によって派遣され(小田切萬寿之助、瀬川浅之進らがその出身)33、中国からも公使館付留学生が来日していた。だが、光緒新政における法政重視の風潮、また科挙試験の廃止と外国留学の官途への資格化という状況に直面し、もっとも簡便に、かつ廉価に留学でき、そして漢字を利用できるという点で日本が留学先として選ばれることになった。この段階では、中国人留学生は日中の経済力の関係から、個人差はあるにしても、総じて比較的豊かな生活を日本で送ることができた34。そして、1903 年から1906-1907 年まで、日本に多くの法律や政治を学ぶ学生が訪れた(最大年間 1 万人。留学生数という面では戦時中のほうが多い)。主に法政面での多くの人材が養成されるとともに、東京がアジア各地の青年の政治運動の拠点となった35。彼らは、東京で多くの雑誌を刊行して自らの政治、思想上の心情を披瀝した。このような、近代的な国家観やナショナリズムに接した海外の華人社会の政治運動などが、中国本国にフィードバックされていくことになった。康有為や梁啓超だけでなく、孫文、そして魯迅らもこの時期に日本に留学したし、蒋介石も陸軍の高田連隊に入隊していた。こうした点で、20 世紀前半の中国の各界の要人が日本体験をもつことになった。だが、1905 年12 月に留学生取締規則が強化され36、また中国政府も日本の教育機関が短期間で学位を授与するなどとしていたことを問題とし、次第に欧米留学(内容的には、理系、技術系)を推進するようになると、日本への留学生は減少していった。また、アメリカが、義和団賠償金を人材の養成と自国への留学経費に充当したことも(清華大学堂の設置)、欧

30 拙稿「外務の形成―外務部の成立過程」(岡本隆司・川島真編著『中国近代外交の胎動』東京大学出版会、近刊所収)
31 ダグラス・レイノルズが「黄金の十年」と表現したように、この時期に留学生が多く来日したことや、その留学生たちと日本人との交流は、「友好交流」として肯定的に描かれることが多い。しかし、留学生数の多寡それじたいをメルクマールにしたり、友好・非友好の二分論で日中関係史を描くことには疑義を呈したい。Douglas R. Reynolds, China, 1898-1912 : the Xinzheng Revolution and Japan, Cambridge, Mass., Harvard University Press, 1993.
32 黄福慶『清末留日学生』(中央研究院近代史研究所、1975 年)
33「清国ヘ本省留学生派遣雑件」(日本外務省保存記録、6.1.7.1)
34 張玉法「中国留費学生的経歴与見聞(1896-1945 年)以回憶録為主体的探討」(衛藤瀋吉編著『共生から敵対へ-第4回日中関係史国際シンポジウム論文集』(東方書店、2000 年所収)
35 實藤恵秀『中国人日本留学史稿』(日華学会、1939 年)、大里浩秋・孫安石編著『中国人日本留学史研究の現段階』(御茶の水書房、2002 年)
36 文部省令第十九号「清国人ヲ入学セシムル公私立学校ニ関スル規程」。これは中国人留学生からの反発を惹起し、1905 年12 月5 日に陳天華は東京の大森海岸でと投身自殺した。


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米留学が促進される要因となった。

■日中の「文化」交流の進展

日本の大都市部に数千人の中国人青年が居住するというのは日中関係史上、未曾有のことであった。彼らの多くは日本そのものではなく、日本が西洋から輸入した近代文明に関心を有していた。だが、このような交流は、日本において受容されていた西洋の諸学が中国に伝わる契機となり、社会、経済、社会主義などといった、現代中国で多用される用語が日本から中国に伝わった37。日本が欧米言語から訳した漢字や術語が中国に流入したのである。また、日本における中国論も中国に輸出され、中国における中国論にも影響を与えた38。

そして、19 世紀末から日本で長く保存された漢籍類が中国に逆輸入されるといった現象も見られていた39。このほか、中国で留学生生活を題材にした中国語小説が出版されたり、多くの中国人学生と接した日本社会でも、中国への距離感が急速に縮小し、中国を題材とした小説などが数多く書かれるようになっていく40。

■日中双方の「近代」とナショナリズム

両国の内政に目を転じれば、この時期の日本は立憲君主制に基づく議会制度を軌道に乗せ、桂太郎と立憲政友会の西園寺公望が交互に首班となる桂園時代を迎えていた。また、日清戦争開戦直前に日英通商航海条約が締結されたことで治外法権撤廃にめどが立ち、関税自主権は1911 年に回復させ、財政面でも日清戦争の賠償金を基礎として金本位制を確立して、日本銀行が兌換券を発行し始めるなど、ようやく近代主権国家として「自立」していくプロセスにあった。そして、経済面でも日清戦争後に資本主義が本格的に成立し、1900 年に最初の資本主義的な恐慌がおこなった。19世紀末から20 世紀初頭には、綿糸と生糸の生産が増加し、主要な輸出品となった。綿糸は中国や朝鮮への輸出が激増し、1897 年に輸出量が輸入量をうわまわった。生糸は、幕末以来日本の最大の輸出品であったが、器械製糸業が発達し、1909 年には世界最大の生糸輸出国になった。重工業の面でも、1897 年に八幡製鉄所が設立され、日露戦争後には生産が軌道にのった。

中国では、前述のように財政困難の下で近代国家建設を進めようとし、その法律や制度を構想する上で、同じ立憲君主政体を採る日本の諸制度が参考とされることが多く、また留学生たちが日本の吸収した西洋の知識を中国に伝えた。外交面でも、1903 年に締結された中英通商条約(マッケイ条約)によって、釐金をはじめとする内地課税の全廃など通商にあらたなルールが形成されるとともに、近代的法制整備を促し、それが実現すれば領事
裁判権を撤廃することが約された。日本、アメリカも、この中英条約に準じた通商条約を中国と締結した。1903 年10 月8 日に締結された追加日清通商航海条約の第十一条では、「清国政府ハ其ノ司法制度ヲ改正シテ日本及西洋各国ノ制度ニ適合セシムルコトヲ熱望スルコトヲ以テ日本国ハ右改正ニ対シ一切ノ援助ヲ与フヘキコトヲ約シ且清国法律ノ状態其ノ施

37 呉玉章『呉玉章回憶録』(中国青年出版社、1978 年)には、呉が日本留学中、幸徳秋水らの著作を通じて社会主義思想に接したさまが描かれている。
38 劉建輝「日本で作られた中国人の「自画像」」(『中国21』22 号、2005 年6 月)
39 王宝平『清代中日学術交流の研究』(汲古書院、2005 年)、王宝平編『日本文化研究叢書中国館蔵和刻本漢籍書目』(杭州大学出版社、1997 年)
40 厳安生『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』(岩波書店、1991 年)


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行ノ設備及其ノ他ノ要件ニシテ日本国ガ満足ヲ表スルトキハ其ノ治外法権ヲ撤去スルニ躊躇セサルヘシ」としたのであった41。この点で、外交の面でも、日本は中国に対して条約改正の道筋を示したことになり、光緒新政や宣統期に新たな法典の編纂や制度設計が急がれたのも、このような条約改正の道筋がつけられていたことと関係していた42。

近代主権国家への性向は、国民世論や政治思想の面で、ナショナリズムの勃興を孕むものでもあった43。20 世紀最初の十年、日本では日露戦争を通じてナショナリズムが強まり、また中国でもロシアの満洲からの撤兵問題に関する拒俄運動、アメリカ移民問題にからむ反米ボイコット運動44、そして日本がかかわる人類館事件や第二辰丸事件を通じて、民族性や国家を強く意識した政治運動が発生した45。人類館事件は大阪での第五回内国勧業博覧会の学術人類館において、漢族のアヘン吸引者やで纏足の女性が「展示」されることを知った中国人留学生らが、同じく展示されるインド、マレー、ジャワ、アフリカの人々と「同列に扱われること」に『浙江潮』などの留日学生メディアが抗議したのであった。反米運動でも、中国系移民に対する人種差別を根拠とする移民制限が問題となり、実際に移民を多く輩出するわけではない地域も巻き込んだ運動となった。また、1890 年代後半に外国に譲渡された鉄道利権や鉱山採掘をめぐる利権を回収したり46、自開商埠が開設されるなどして、中国側主導で開港場を運営したりする動きが強まった。

こうした政治運動で結集核となったのは、清朝というよりも、「中国」であった。「中国」はこの時期に次第に国名として定着しつつあったのである。梁啓超は、1901 年に「中国史叙論」という一文で、「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし、唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華には自尊自大の気味があるとしながらも、これらそれぞれ欠点をもつ三者を比べると、「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」と述べたのだった47。梁は、「中国」という呼称を、王朝交代を超えた呼称として想定したのである。もちろん、「中国」という概念、観念は古くからあり、個々の時代において再解釈されてきた。梁は、それを「主権国家」的なコンテキストの下で再定義しようとしたということだろう48。

41 中英条約は、田濤『清朝条約全集』(第二巻、黒龍江人民出版社、1999 年、P.1193)、日中の条約は同上書(第三巻、黒龍江人民出版社、1999 年、P.1263、P.1270)を参照。なお、中日条約の第六款、中美条約の第十三款には、中国が「国家一律之国幣」(統一貨幣制度)の制定に努力するという条文もある。
42 宣統元年八月初一日「考察憲政大臣李家駒奏考察日本司法制度並編日本司法制度考呈覧摺」(『宣統政紀』十九巻一葉)
43 吉澤誠一郎『愛国主義の創成―ナショナリズムから近代中国をみる』(岩波書店、2003年)
44 張存武『光緒三十一年中美工潮的風潮』(中央研究院近代史研究所、1966 年)
45 坂元ひろ子『中国民族主義の神話―人種・身体・ジェンダー』(岩波書店、2004 年)
46 李恩涵『晩清的収回礦権運動』(中央研究院近代史研究所、1963 年)
47 梁啓超「中国史叙論」(『飲冰室文集』六、中華書局版、1960 年)、訳文は岸本美緒「中国とは何か」(尾形勇・岸本美緒編『中国史』山川出版社、1998 年)に拠る。
48 日本は、この「中国」という呼称を公式に使用することを躊躇した。辛亥革命の後、駐華公使であった伊集院彦吉は、日本外務省に「清国」などではなく、王朝を超えたChinaなどの呼称が日本にも必要だと説き、「支那」を公文書でも用いることを提案し、外務省に受け入れられた。拙稿「『支那』『支那国』『支那共和国』-日本外務省の対中呼称政策」(『中国研究月報』571 号、1995 年9 月)参照。




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