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近代日中関係の発端 北岡伸一<その1>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
<近現代史>
第一部 近代日中関係の発端と変遷
第一章 第1章 近代日中関係のはじまり

近代日中関係の発端 北岡 伸一<その1>

北岡 伸一:東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授 【座長】



はじめに


19 世紀半ばに至るまで、東アジアには、当時の西洋における国際秩序とは異なる国際秩序が存在していた。西洋列強は、この国際秩序を不便として、優越した軍事力を背景として、その変更を要求した。このような西洋の挑戦によって、東アジア国際秩序は根本的な変容を迫られた。東アジアの変容を、もっぱら西洋の衝撃に対する対応と見ることは一面的に過ぎるが、西洋の衝撃なしには、東アジアの変容はありえなかった。この西洋の衝撃に対する日本と中国の対応は、著しく異なっていた。その対応の違いが、その後の日中関係に大きな影響を及ぼすことになった。日本と中国が、それぞれの歴史と伝統を背景に、どのように西洋の衝撃に対応していったか、そしてその中から、前近代においては比較的限られていた日中間の接触が、いかに形成され深まっていったかを、本章では明らかにしていきたい。それゆえこの章は、近現代史分科会論文集の大部分の章と異なり、両国関係の叙述や分析そのものではなく、比較史を通じた関係史の成立と発展という形をとることとなる。その際の重点は、執筆者の専門からして、当然、日本に置かれることとなる。


第一節 西洋の衝撃と開国:日本と中国


1.近代西洋国際秩序と東アジア国際秩序


19 世紀の前半まで、東アジアには中国を中心とする国際秩序が成立していた。周辺国の多くは中国から冊封を受け、中国に対して朝貢していた。それによって、中国の文化的政治的優位を承認し、他方で中国からそれぞれの国における支配者たることの承認と庇護を受け、あわせて朝貢による貿易上の利益を享受していた。1

その中でほぼ日本だけが、中国との対等を主張していた。古代において、あるいは中世の足利義満などが、それぞれの国内的政治的経済的利害から、王として中国に対する臣下の礼を取ったことがあったが、これはごく例外的であった。2

その結果、中国にとって日本は比較的遠い存在であった。当時の清国も、朝貢国につい

1 このような体制の名称については諸説あるが、冊封と朝貢ないし進貢を中心とし、文化的優劣関係を中核とする点で、大きな違いはない。その特色の詳細な検討として、西里喜行『清末中琉日関係の研究』(京都大学学術出版会、2005 年)、13-18 頁、が参考になる。
2 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973 年)、第三章。なお、『万暦会典』(1587 年)には、日本は朝貢国とされているが、『嘉慶会典』(1818 年)には、互市諸国の中にあげられている。同上、84-87 頁。


2
ては比較的詳しい情報を持っていたいが、日本についての情報は乏しかった。3 他方で、日本は清国のことはもちろん良く知っていた。江戸時代にも貿易は行われていたし、その最大の輸入品のひとつは書物であった。こうした清国との限定的な接触の中で、日本は清国から強い影響を受けつつ、同時にこれに反発して、独自の文化を形成し、独自のアイデンティティを形成していった。

ところで、西洋における世界秩序は、世界史の中でユニークなものである。そこでは、世界は主権国家と植民地とからなり、主権国家はすべて形式的には対等であり、国家はその国内および植民地内の事柄すべてについて責任を負う。逆に言えば、完全な責任を負うことのできない土地に対して主権を主張することは出来ない。また、以上のコロラリーとして、すべての土地はどこか一つの国だけに所属することとなる。同時に二つ以上の国に
は所属する土地はないし、またどこにも所属しない無主の土地も、原則的にはない。

このような国際関係は、世界史的に珍しい。多くの文明圏において、国家は対等ではなく、中心的な国家が存在して、他はこれとの関係で階等的に位置づけられることが多い。また、国家と領土の関係も絶対的ではなかったから、二つ以上の国家に属する土地もあれば、どこの国家にも属さない土地もあった。

伝統的な東アジア国際秩序においても、すでに述べたとおり、国家は対等ではなかった。宗属関係における属国は、西洋における主権国家ほど独立的ではなかったが、西洋における植民地ほど従属的ではなかった。琉球のように日本と清国に対し両属という国もあった。日本でも、北海道については、ロシアが進出するまでは領土の観念は希薄であった。

こうした国際関係の中に位置していた日中両国にとって、西洋との出会いは困難なものであった。しかし、とくに中国は西洋が持ち込もうとした近代国家システムにうまく適応することができず、多くを失った。これに対して日本は、相対的にこの課題を大きな失敗なしに乗り切っていった。4


2.中国の開国


清国は1661 年に遷界令を出して一種の大陸封鎖を行っていたが、1684 年、これを解除して「海禁」を解き、マカオ、寧波など4 港を開き、海関を設けて貿易を行った。しかし1757 年には、外国船との貿易はカントン(広州)だけに制限することとなった。カントン

3 たとえば『瀛環志略』(1866 年)は、古い書籍をそのまま引用し、日本の三大島は、北の対馬島、中の長崎、南の薩●〔山ヘンに司〕馬(さつま)であると述べる有様であった。佐々木揚『清末中国における日本観と西洋観』(東京大学出版会、2000 年)、ⅲ-ⅳ頁。
4 ただし、ここでいう「成功」「失敗」というのは、あくまで当時の西洋との接触と独立の維持という観点における成功と失敗である。一般的に言って、ある課題における成功の条件は、次の課題における失敗を引き起こすことが少なくない。それは東アジアの歴史を考えるときにも忘れてはならないポイントであろう。


3
貿易は18 世紀の末から19 世紀にかけて大いに繁栄し、年間150 隻の外国船が入るようになっていた。そこで最も活発だったのは、イギリスだった。しかしイギリスは一種の朝貢国として位置づけられ、限られた中国人商人(広東13 行)を媒介として、さまざまな厳重な制限の下において、貿易を許されていたのである(カントン・システム)。

ところが、18 世紀末から、中国からの茶の輸入が盛んとなり、イギリスから大量の銀が流出するようになると、イギリスはこれを阻止するため、アヘンの輸出を開始した。アヘンはたちまち中国に広がり、中毒者が激増するに至った。財政再建と国民のアヘン中毒追放のため、1839 年、林則徐がアヘンの没収、厳禁に踏み切り、アヘン戦争が始まった。イギリスにおいても、これは不正義の戦争であるとして強い反対があったが、戦費支出の件を含め、1840 年5 月、上下両院の支持を得るに至った。

戦争が始まると、清国はイギリスの敵ではなかった。その結果、1842 年、南京条約が締結され、広州に加え、廈門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海の開港と香港島の割譲が取り決められた。翌1843 年、アメリカから同様の要求があると、一視同仁の論理によって、清国は英国以外の諸国に対しても、最恵国待遇を付与することとした。

しかしそれでも条約港での貿易は、清国からみて、朝貢関係の一環であるカントン・システムを拡大したものであった。港の数は限定されており、南方に偏っており、いずれも田舎の漁村にすぎなかった。こうした僻地に土地を与えたことによって、西洋人を懐柔しようとしたのであった。

しかし西洋列強は、条約港において清国から土地を借り上げ、都市基盤を整備し、行政制度を整備し、伝統的な中国とは異なった空間を作り出していった。これが租界である。とくに上海には西洋建築が次々に建築され、その景観は一変するに至った。そこには、キリスト教も流入していった。租界は、中国を大きく変えることとなったのである。

以上のような清国の弱体化の中で、キリスト教の影響のもと、太平天国の乱が起こり、中国を大混乱に陥れた。乱は1850 年から64 年まで続き、2000 万人以上が犠牲となったといわれる。この鎮圧の主力となったのは、清国の正規軍ではなく、曽国藩の湘勇や李鴻章の淮有など郷勇であった。また、ゴードンの常勝軍などの外国人傭兵だった。太平天国はそれ自体清国に大きな打撃を与えただけでなく、伝統的な満州族中心の体制の無力を示した点においても、重要だった。

この間、偶然もあって起こったのがアロー戦争だった。1856 年10 月、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に清国官憲が臨検を行い、清国船員12 名を海賊容疑で逮捕し、その際、イギリス国旗を摺り下ろしたとされる事件が起こった。実際には、この船の船籍登録は期限切れとなっており、清国側の行動は不法ではなかったが、イギリスは南京条約で獲得できなかった諸権利を獲得しようと、他の列強を誘って共同出兵を持ちかけた。仏、露、米のうち、誘いに応じたのはナポレオン三世のもとで積極的な対外政策に乗り出していたフランスで、57 年末に広州を占領した英仏連合軍は天津に向かい、太平天国で疲弊していた清国政府は譲歩して、1858 年6 月、天津条約を結んだ。

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しかし、英仏軍が去ったあと、北京では条約に対する反対が高まり、翌年批准のためにやってきた英仏との間に衝突が起こったため、戦闘は再開され、英仏軍は1860 年10 月、北京に入り、円明園と頤和園を破壊し、多大の略奪を行った。

そして1860 年、清は英仏と北京条約を結び、天津条約の内容を確認するとともに、さらなる負担を負うこととなった。その内容は、
(1)天津、漢口、南京など11 の港を条約港とし、条約港居住外国人に旅行する権利を与える。
(2)キリスト教布教権の承認、アヘン貿易の合法化、
(3)外国使節の北京常駐、西洋人に対して「夷」の字を使うことを禁止する。
(4)イギリスに九龍半島を割譲する、
などであった。この際、調停にあたったロシアに対しても、それまで混住であった沿海州を割譲することとなった。

以上を要するに、イギリスを始めとする西洋諸国は、清国に対する野心があり、軍事的実力を背景に、さまざまな口実を設けて、これを実現していった。清国は、西洋諸国の軍事力と野心を十分警戒することなく、不用意に口実を与えていったのである。もう少し警戒すれば、被害は少なく済んだであろうという局面は少なくなかった。


3.日本の開国


これに対し、日本の開国は、比較的大きな混乱なしに行われた。

1853 年7 月、ペリーが日本に来航し、国交を求めた。ペリーは同月、いったん日本を去ったが、1854 年2 月、再び来航し、日本はペリーと日米和親条約を締結した。その結果、神奈川、函館、長崎、新潟、下田の5 港を開くこととなった。しかし、これは、まだ鎖国の例外措置という面もあり、本格的な開国ではなかった。イギリス、ロシア、フランスなどが、これにならった。しかし、1856 年にアメリカから下田領事としてハリスが来日し、通商航海条約の締結を求めると、日本はいよいよ決断を迫られるようになった。通商条約の締結は明らかに鎖国政策の放棄であり、和親条約よりはるかに重大事件であった。

当時の幕府には、緩やかな開国論と伝統的な鎖国論が対立していた。一方は、開国は不可避と考え、西洋軍事技術を導入し、外交機関を整え、大名などの意見を徴し、世論の支持を得て開国しようとしており、次の将軍には一橋慶喜(1837~1913)を擁立しようとしていた。他方、保守派は、西洋との衝突には危惧を持ちながらも、軍事外交制度の変革にも大名その他の意見を徴することにも消極的であり、次期将軍には、幼少ながら血統において将軍によりふさわしいと考えられた紀州の徳川慶福(1846~66)を推していた。

ペリー来航以来、幕府をリードしていたのは老中阿部正弘であった。阿部が1857 年に没すると、そのあとを継いだのは堀田正睦であった。彼らはいずれも西洋文明に理解をもち、開国は不可避と考えていた。問題はその方法であった。彼らは幕府の専断ではなく、多くの大名の意見を徴し、さらに朝廷の許可を得て、条約に調印することを考えた。ところが、意外にも条約勅許問題は将軍継嗣問題とからみあって複雑化し、幕府は朝廷の勅許を得る事に失敗した。ここで堀田は失脚し、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、条約に調印し、

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徳川慶福の将軍継嗣を決定した。そして多くの反対派が処刑された(安政の大獄)。しかるに、これに対する反動が今度は起こり、井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変、1860 年3月)という事態となったのである。

安政の大獄そして桜田門外の変のころより、日本では攘夷運動が激しくなった。しかし西洋との軍事的衝突は、個別的な外国人襲撃を別とすれば、1863 年6 月の長州藩による外国船砲撃、1863 年8 月の薩英戦争、それに1864 年9 月の四国連合艦隊による下関攻撃程度であった。中国に比べて、相対的に混乱は少なかった。

それにはいくつかの理由があった。

第一に、西洋列強の主たる関心が中国だったことである。巨大な中国に比べれば、日本はその傍らの小さな国であった。またアヘン戦争からアロー号戦争に至るプロセスで、列強は日本に本格的に関与する余裕はなかった。それが、英仏でなくアメリカが、日本開国の先頭に立った理由の一つである。なお、後述するように、朝鮮に対する列強の圧力も、中国に対する圧力に比べれば小さかったが、それも同様の事情による。

第二に、それゆえに、日本は清国の敗北を知って、列強に対する準備をする時間的余裕があった。とくに、アヘン戦争のような不正義の戦争において、清国が敗れたことは大きな衝撃であり、西洋列強の邪悪な意図と恐るべき実力を知ることができた。日本近海や琉球には、繰り返し西洋の船が訪れており、オランダからは開国の勧告が来ていた。日本も自ら開国する決断は出来なかったが、より準備が出来ていたことは確かである。

第三に重要なのは、日本のエリートは武士であり、がんらい軍事を重視する存在だったことである。武士は、日本が西洋に勝てないことを、すぐに理解したのである。ロシアのプーチャーチンとの応接など、対外関係の処理に活躍した川路聖謨は、万里の波濤を越えてやってきたプーチャーチンは「真の豪傑」であると高く評価し、彼自身を含め、太平の世になれた武士の遠く及ぶところではないと嘆いた 5。

これに比べ、清国における価値の中心は文であり、武ではなかった。林則徐のような立派な官僚もいたが、その判断は十分北京に伝わらなかったし、尊重されなかった。

朝鮮においても、価値の中心は文であった。とくに李氏朝鮮においては、明のあと、儒教の正統を継ぐのは朝鮮であるという観念が広まっていた。アヘン戦争についての情報は、日本以上に入っていたが、強い反応はなく、1845 年の時点で、清の状況は「無事矣」と考えられていた。このとき、魏源の『海国図志』がもたらされたが、日本と違って、それも海防思想の勃興をもたらさなかった。太平天国についても、重大事件とはみなしていなかった。江南の事件には関心が低かったのである。警戒感が高まったのは、ようやくアロー戦争が華北に波及してからであるといわれる。6

5 佐藤誠三郎「川路聖謨」、佐藤『<死の跳躍>を超えて』(1992 年、都市出版社)所収、
133 頁。
6 以上、原田環「19 世紀の朝鮮における対外的危機意識」、『朝鮮史研究会論文集』21 巻(1984
年3 月)。


6
なお、日本においても、文の中心である京都の朝廷では、事態の深刻さを理解できる者は少数であり、列強に勝てるかどうかを真剣に検討する人は稀であった。

第四に指摘すべきは、日本社会が経済的に高度に統合されていた事実である。江戸時代、日本にはすでに全国単一市場が成立しており、各藩は沿岸航路を通じて大阪に物資を往来していた。したがって、黒船数隻の登場は、地域的な危機ではなく、ただちに全国的な危機になりえたのである。

これに比べれば、中国では南方の危機は全国の危機になりにくかった。朝鮮半島においても、高度な経済発展・経済統合は見られず、沿岸航路はとくに重要なものではなかったので、危機感が弱かったのであろう。

第五に、教育の普及と、民族的一体感は、日本がもっとも強かったといってよいであろう。17 世紀はじめからの長い平和の中で、識字率が向上し、日本文化への見直しが盛んとなり、原初的なナショナリズムが芽生えていた。そこでは、天皇への注目が高まり、日本は外国に敗れたことがないという不敗の伝統が強調されていた。

第六に、大前提として、日本は長年中国との交流を通じて、日本より優れた文明がありうることをよく知っていた。日本人の世界観は、自国中心主義ではなかった。一見自国中心主義と見える思想も、実は背伸びした、中国の優位に反発しての自国中心主義であった。したがって、西洋が日本よりも、少なくともいくつかの分野において優れていることを認めるのに、さほどの困難はなかった。

江戸時代における蘭学の普及も、これと関係している。福沢諭吉は、1862 年、ヨーロッパ旅行において、中国人留学生、唐学捐(土へん)と知り合いになり、清国で横文字を解するものの数を尋ねたところ、11 人という答えを得て、驚愕している。7 この数は、必ずしも信頼できる数ではないかも知れないし、福沢もそのまま信じたわけではないだろうが、それにしても、日本には500 人程度の蘭学者ないし洋学者がいるのに、西洋と長い交際のある大国清において、それほど少ないのかと驚いたのである。

おそらく、大多数の中国人は、伝統的に、自国より優れたものの存在を知らなかった。
中国の自国中心主義は、それと人に言われても分からないほど深く浸透していたのである。


第二節 明治維新と脱亜入欧


1.幕府の崩壊と新政府の成立


開国に踏み切った日本で、次の課題は、新しい政治体制の模索であった。

ペリー来航のとき、外国との応接の中心が徳川幕府であるべきことを疑うものはなかった。幕府の石高は800 万石といわれ(天領400 万石余と御家人ら300 万石余)、第二位の加賀前田家(102 万石)、薩摩島津家(77 万石)以下を圧していた。

7 石河幹明『福澤諭吉伝』第一巻(岩波書店、1932 年)、330-333 頁。


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それに多くの藩は経済的に疲弊して、余力はなかった。また彼らは、のちに述べる薩摩や長州などを除いて、長年の徳川氏支配の中で、その家臣としての意識を持つようになり、みずからの領土を自分で支配するという観念が希薄になっていた。

しかし幕府にも弱点はあった。石高は農業収入を基礎としたもので、江戸期を通じて発展してきた商業に対する安定した課税システムを持っていなかった。農業は江戸時代後半伸び悩み、幕府財政も、各藩同様、逼迫していた。

幕府の軍事力も、長年の平和の中で陳腐なものとなっており、新しい軍事技術が導入されればたちまちゼロからの競争になる運命にあった。しかも幕府の家臣には、平和になれて特権に安住する旗本・御家人が多く、新しい技術を獲得するための厳しい訓練を受ける意欲や柔軟性に乏しかった。

また幕府の正統性は脆弱であった。幕府が全国支配者であるのは、征夷大将軍に任じられるからであって、究極は朝廷による任命に依存していた。朝廷の家臣であることにおいて、将軍も他の大名も同輩であった。すでに述べた開国をめぐる混乱も、幕府が朝廷の勅許を得ようとして失敗したことから発していた。しかも征夷大将軍である幕府が、征夷ができないとき、その正統性は大きく揺らぐこととなった。

これに対し、薩摩と長州は、17世紀初頭の徳川氏の全国制覇において敗者となり、封土を削減され、多くの家臣団を抱え、困窮を耐え抜いて、尚武の気風を維持していた。

ところで、幕府首脳は譜代大名であり、小藩の藩主であった。外様の雄藩や親藩を排除して、幕府政治はなりたっていた。しかし、こうした有力な藩をも加えた挙国一致で対外危機に臨むべきだという有力な意見が存在していた。一橋派と南紀派の対立は、この点を焦点としていた。

伝統的な幕府中心の体制を維持しようとする井伊直弼が桜田門外の変で倒れたあと、さまざまな形で挙国一致体制が模索された。それは、幕府と朝廷の協力のもとに雄藩が参加する公武合体論として展開された。1862 年には、天皇の妹の将軍との結婚(和宮降嫁)、島津久光の建議による一橋慶喜の将軍後見職就任と松平慶永(越前)の政事総裁職就任が実現され、1864 年2 月には京都に一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城(宇和島)、松平容保(会津、京都守護職)、山内豊信(土佐)、島津久光(薩摩)8 による参預会議が置かれるに至った。雄藩の中でここから排除されたのは、当時攘夷を鮮明にしていた長州だけだった。

しかし参預会議は内部対立から十分機能しなかった。権力の独占を維持したい幕府と、これに割り込みたい雄藩の政治的対立があり、貿易の利益を独占した幕府と、これに参入したい雄藩とくに薩摩との対立があった。

そのころ、新任のフランス公使ロッシュ(64 年4 月着任)は、ナポレオン三世の積極的な対外進出の一環として、幕府に接近し、これに対し、幕府の中には親仏派官僚が形成されていった。その結果、幕府は再び独自権力強化の路線に戻っていった。なおそのころ、

8 島津久光は、藩主ではなく藩主の父であり、陪臣であった(それゆえ、任命は他より二週間ほど遅い)。それは、この会議が真に実力を持つ者の会合であったことを示す事実である。


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イギリスは薩摩と接近していた。それは薩摩がより貿易の開放に積極的であり、また意思決定システムにおいて柔軟で果断だという判断からであった。9

幕府の親仏路線に対し、これを脅威と感じた薩摩は、幕府の二度目の長州征伐を前に、長州と接近して薩長同盟を結んだ(66 年3 月)。そして7 月から始まった戦争において、薩摩に支援された長州は幕府を撃退した。薩摩は上海から武器弾薬を密輸し、これを長州に提供した。中国がすでに開国していて、中国経由で西洋との貿易が可能であったという事実は、日本の明治維新のあり方に決定的な影響を及ぼしたのである。10

幕府の絶対主義強化路線と薩長の倒幕路線の中間に、もう一度浮上したのが、公武政体論や幕府雄藩連合体制論の流れを引く大政奉還論であった。その主唱者は土佐であって、幕府を廃止し、徳川氏は一大名となり、諸侯会議において国事を議するものとし、土佐も一定の発言権を持つことになるわけであった。

これが実現すれば、徳川家が中心となる体制が出来たであろう。徳川氏は、徳川慶喜という有能なリーダーを持ち、外国との交際の経験を持ち、実務能力を持つ官僚を持ち、フランスの援助を得ていた。67 年10 月9 日、徳川慶喜が大政奉還して、一大名となろうとしたのは、そうなっても国政をリードできる自信があったからである。また、土佐はその中で有利な地位を確保できるはずであった。

それは、薩長にとっては認められないことであった。徳川氏の存続を許すにしても、一度は軍事的に打撃を与えてからでなくてはならなかった。薩長は徳川に対する処罰を主張して、ついに王政復古に持ち込んだ。天皇の指導のもとに国政を行うという決定であった。1868 年1 月3 日のことだった。

これを不満とする徳川と薩長の間で1 月27 日、戦争が起こった。緒戦は朝廷側が有利であったが、まだ戦争の行方は知れない段階で、徳川慶喜は兵を引き、江戸に戻り、以後、抗戦を放棄した。戊辰戦争と呼ばれる戦争は、この鳥羽伏見の戦いで始まり、1869 年6 月、函館の五稜郭の陥落で終わるが、徳川を中心として組織的な戦争は起こらなかった。つまり、事実上、一日で大勢が決してしまったのである。

徳川方に軍事的勝利の展望がなかったわけではない。しかし、長年の平和になれた日本人は、戦争の継続を好まなかった。徹底抗戦すれば、日本を二分する戦いとなり、日本が植民地化される恐れがあるという危惧が、徳川方にあり、徹底抗戦をためらわせた。また、すでに降伏しているものに対し、寛大な措置をとるのが日本の文化的伝統であり、それは薩長の側にも理解されていた。

イギリスが仲介したのも大きい。イギリスの目指すのは貿易上の利益であって、安定し

9 1863 年8 月の薩英戦争において、薩摩はイギリスを相手によく戦ったのみならず、講和の交渉のさなかに、イギリスからの武器の購入とイギリスへの留学の相談を持ちかけた。この柔軟性に、イギリスは強い印象を受けた。
10 すでに1862 年、幕府は千歳丸を上海に派遣して貿易を求めている(佐藤三郎『近代日中交渉史の研究』、吉川弘文館、1984 年)。また1863 年には函館奉行所が健順丸を上海に派遣している。


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た秩序こそ望ましいものであった。江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の決断で決まったが、圧力をかけたのはパークス英国公使であった。

それにしても、それにしても、260 年の統治の実績を持つ徳川幕府の崩壊は驚くべきことであった。もっとも大きな違いは、薩長では伝統にとらわれない下級士族が藩政の中枢を掌握したが、幕府ではそうならなかったということであろう。その意味は、新政府のもとですぐに明らかになる。


2.新政府の開国


薩長が指導する新しい政府は、当然、攘夷路線をとると思われた。福沢諭吉などは絶望的な気分でこれを迎えた。しかし意外なことに、新政府は攘夷路線をとらず、明確な開国路線をとった。

1868 年2 月10 日、新政府は外国との和親を布告した。戊辰戦争のさなか、各地で外国人との衝突が起こっていた。薩長の首脳は攘夷を不可能と知っており、これを戒めた。しかし、多くの人は、薩長は攘夷路線をとるものと信じており、この布告を意外とした 11。さらに天皇は4 月6 日、五箇条の誓文を発したが、その第四には、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」とある。その意味は広いが、中核的な意味は鎖国の否定、陋習の否定、そして開国であった。

新政府は、さらに各藩が地方に割拠する制度を改め、中央集権化をめざした。函館の五稜郭が陥落して戊辰戦争が終わってから一ヶ月もたたないうちに、1869 年6 月、版籍奉還を行って、藩主に行政権を返還させた。ただ、原則として藩主をあらためて知藩事に任命したので、大きな違いはないように見えた。しかし1871 年8 月には廃藩置県を断行し、藩を廃止して県を置き、その行政官としては中央から知事を任命し、これまでの藩主は東京に住むことを命じた。多くの西洋人は、これを革命だと感じた。奇跡だと考えた。

それが可能となったのは、多くの藩がすでに経済的に疲弊していたからであった。また、長年の幕府の支配のもとで、多くの藩において、自らの領地とのつながりが薄くなっていた。そして中央集権でなければ外国と対抗できないことが広く理解されていた。それにしても、これは意外な展開であった。福沢諭吉は、洋学を志した仲間とともに、「この盛事を見たるうえは、死すとも悔いず」と、叫んだと回顧している 12。もちろん、これに反感を持ったものも多かった。薩摩の事実上の藩主であった島津久光は、廃藩置県を憤り、西郷や大久保を許さなかった。

1871 年11 月には、さらに、岩倉使節団が派遣された。岩倉具視、大久保利通、木戸孝

11 岡義武「維新直後における尊攘運動の余炎」、『岡義武著作集』第6 巻(岩波書店、1993年)所収。
12 福沢諭吉「福翁百余話」、慶応義塾編『福沢諭吉全集』第六巻(岩波書店、1959 年)所収、419 頁。


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允ら、政府首脳の半ばを含む大集団が、一年半にわたって欧米旅行を断行した。革命直後の新政権が、長期に国を空けるなど、およそ常識では考えられない行動であった。それだけ彼らは欧米を見たいと考えたのであった。

そこから、彼らは西洋文明との巨大な格差を実感し、これに追いつくために全力を挙げなければならないと決意した。そして強兵よりも富国が重要であることに気づいたのである。

国内体制の整備において、注目すべきは徴兵令の制定である。政府は1872 年12 月、徴兵の告諭を発し、また73 年1 月、徴兵令を定めて、一般国民を基礎とする軍事力の整備を決定した。

新政府の指導者は武士であったにもかかわらず、またそれほど多くの兵力が必要だったわけではなかったにもかかわらず、この決定を行った。この方針を定めたのは、長州の大村益次郎であった。大村が1869 年末に暗殺されたが、その路線は長州の山県有朋によって引き継がれた。大村はがんらい村医者であり、また山県は下級の武士であって、奇兵隊に加わって戦った経験を持っていた。そして長州では、戦争のさなか、意外に武士が役に立たず、むしろ意識の高い一般庶民がよく戦うことを知っていた。

その後、政府は武士身分の廃止にまで進んだ。武士のための俸禄は、新政府の重い負担となっていた。まず、1873 年、秩禄(家禄と賞典禄)の奉還を奨励し、奉還する武士には一部を現金、一部を公債で支給した。さらに1876 年8 月、ついに金禄公債を発行して、家禄制度を廃止した。この間、廃刀令を発して帯刀を禁止した(1876 年3 月)。

これは重大な決定であった。武士層の身分的特権と経済的特権をともに廃止したのである。明治の前半、多くの反乱が起こったが、こうした急進的措置を考えれば、無理もないことであった。よく新政府の基礎が揺るがなかったと感じるほどである。

このように、江戸時代において、封建領主が割拠し、その頂点に幕府があった制度は根本的に変革された。まず薩長が幕府を打倒し、薩長の下級士族からなる官僚が、薩長を含む藩を廃止し、さらに自ら武士を廃止してしまったのである。この変革は、いずれも天皇の名において行われた。薩長官僚は、藩の威光ではなく、天皇シンボルをフルに利用して、この変革を行ったのである。13

このように、当初、尊王攘夷を掲げて出発した運動は、新政府において大きな変化を遂げた。政府は天皇の意思を尊重したりしなかったし、攘夷は開国となった。しかし、尊王というシンボルは、天皇を尊敬とするということではなく、中央集権ということであり、攘夷というのは外国人を排撃するのではなく、外国と並び立ちうる国家を作るということ

13 なお、天皇は日本の伝統においては、文の象徴であったが、ここでは軍事リーダーへとその役割を転換されることとなった。それがのちに、大元帥として、統帥権の中心に置かれたわけである。天皇シンボルの利用は、この段階では明らかな成功であったが、のちに、思慮深い元老や政治家が天皇の周囲にいなくなったとき、軍部の悪用するところとなり、大きな問題を引き起こすことになるのである。


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だったと読み替えることができる14。そしてその二つは、近代国家の内的特徴と外的特徴である。その意味で、明治維新は何よりもナショナリズムの革命であったのである15。

ところで、清国でも1860 年に北京条約を締結したのち、変革が始まった。1861 年3 月には、総理各国事務衙門を設置され、これまでの「夷務」も「洋務」とされた。ようやく外交を統括する機構が作られたわけである。

そして1861 年11 月、同治帝が即位し、西太后や恭親王が実権を握った。その中で、改革運動が始まる。同治中興であり、洋務運動である16。

同治中興は、「中体西用」といわれるように、西洋からの近代的な技術、とくに軍事技術を導入するとともに、経世儒学的な思想を強調した。太平天国の乱が鎮圧に向かったころから、曽国藩・李鴻章ら、この乱の鎮圧に成果を上げた官僚たちによって、ヨーロッパの技術の受容が開始された。とくに機械化された軍備を自前でまかなうために、上海の江南製造局に代表される武器製造廠や造船廠を各地に設置し、その他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが、新設された。

そのスローガンは、「中体西用」であった。伝統中国の文化や制度を本体として、西洋の機械文明を枝葉として利用するのだということが表明されている。中国の国力は日本をはるかにしのいでいたので、これらの改革は規模も大きく、時期も明治維新より早かった。たとえば日清戦争以前、中国の北洋艦隊(北洋水師)は規模や質において日本海軍を上回りアジア最大の艦隊であった。

にもかかわらず、洋務運動は十分な成果を挙げなかった。

一つは担い手の問題であろう。洋務運動の中心は北京の政府ではなく、太平天国鎮圧の中心だった地方長官、李鴻章、左宗棠らであった。全国が一体として運動ではなかった。当初、これらの企業は半官半民の官督商辨で、官が最小限度の監督をし、資金を出した商人が実権を握るというものだったが、これを支えるべき安定した銀行などがなく、恐慌が起こると官の力が強まり、徐々にこれを私物化するようになった。その結果、民間資金は集まらなくなった。

もう一つは「中体」というところにあった。中国最初の外交官としてイギリスに派遣された劉錫鴻は、西洋文明の充実に驚嘆した。しかし、帰国後、鉄道の建設に反対している。墓地の風水を破壊する、などが理由であった17。要するに中国の場合、儒教が大きな障害になったというべきだろう。

これは福沢諭吉と大きな対象をなしている。福沢は、少なくとも明治の初めまでは、儒

14 北岡伸一『日本政治史:外交と権力』(1989 年、放送大学出版協会)、32 頁。
15 この点を最初に指摘したのは、岡義武「明治維新と世界情勢」(1946 年)(『岡義武著作集』第一巻所収)であるといわれている。
16 洋務運動については、日本側でもっとも詳細な研究として、鈴木智夫『洋務運動の研究』(汲古書院、1992 年)がある。
17 菊池秀明『ラスト・エンペラーと近代中国<中国の歴史 第10 巻>』(講談社、2005 年)、68-69 頁。


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教倫理を徹底して排撃した。それが西洋文明受容の大きな障害であることを知っていて、その排撃に努めたのである18。

18 ただし、福沢が根本的に反儒教であったとは、必ずしもいえない。『文明論之概略』あたりから、儒者に対する配慮を忘れなかったし、明治10 年ころからは、少なくとも、武士のエトスを強調するようになるが、それは儒教とも親和的であり、功利主義一辺倒ではなかった。丸山真男「福沢諭吉の儒教批判」(1942 年)、丸山『福沢諭吉の哲学』(岩波書店、2001 年)所収。また、北岡伸一『独立自尊:福沢諭吉の挑戦』(2002 年、講談社)。




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