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戴季陶民族主義の脈絡

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戴季陶民族主義の脈絡
―反日と恐日にゆれた自己保存主義―
董 世奎


キーワード 排外革命、中日提携、「無政策」主義、国民自決、戴季陶主義

1.はじめに

 本稿は、辛亥期から国民革命までの戴季陶(1891-1949 名は傳賢、字季陶、筆名天仇)の民族主義について考察を行ったものである1。戴季陶は、前世紀の初頭に日本になだれ込んだ清国留学生の一人で、日本大学で法政学を学び、帰国後、ジャーナリスト、革命戦士、孫文の側近といったコースをたどって国民党の中枢にのぼり、後に中国国民党右派のイデオローグとして蒋介石政権を支え、現代中国に多大な影響を残した人物である。その政治的経歴から、日本との関わりも深く、生前から中国屈指の「日本通」としてもてはやされた人物でもある。早い段階で日本からの侵略戦争を予言し、その回避に努力を重ねたが、その過程で戴季陶はいかなる対日思考を見せたか、歴史家による検証はまだない。


2.辛亥期における戴天仇の民族主義

2.1 民族思想の始まり

 戴季陶の民族思想の始まりは、その少年時代にさかのぼる。本人の話によると、十二歳の時(1902年)、成都の江南会館において、徐子休という人物の授業から、「嘉定、揚州の話」を聞いたことが、民族感情を芽生えさせたきっかけだったという2。その後、客籍学堂在学中に、友だちを四人集めて満清打倒を誓い合ったこともあるといわれている。それ以上の言動はなかったが、「嘉定、揚州の話」を彼の民族思想の起点と考えて、おおむね納得できるものと思われる。

 「嘉定、揚州の話」とは、『嘉定屠城紀略』と『揚州十日記』に記され、かつて満州兵が嘉定、揚州地域を占領した際に、住民に虐殺や略奪をことごとく働いた実話のことである。この二つの書物は、革命宣伝物の一部として興中会に
122 董 世奎

よって各地に配布された経緯がある3。戴季陶は、後に「国民革命と中国国民党」という論文の中でも、二つの書物に触れ、それに煽動された満州族政権への復讐心理が、革命の成功に一定の力を発揮したと評価している4。

 辛亥革命以前から、戴季陶は「天仇」というペンネームを愛用していた。研究者の間では、一般に清朝を不倶戴天の敵と見なしている意味で使われたものだと理解されている5。実際には、それほど単純なものではなかった。1910年12月に友人宛の手紙の中に、次のようなことを書いている。

 「また病気になることが多く、ものも食べられない状態が数日間続くことはしばしばである。&昨日天嬰から贈られた詩に、『日暮途窮天亦仇』という句がある。思うに私のことを深く知るがゆえに憐れんでくれているものである」6。

 天を仇に思うほど、戴季陶の健康状態がよくなかったのである。この筆名に政治的な意味合いは皆無とはいえないが、天を仇に思うのであれば、満清朝廷を覆すことを意味したものであろう。民国が成立したばかりの1912年4月に彼は「天仇叢話」という文章を書き残している。その中で、次のようなことを言っている。

 「余は幼時から戦史を読むのが好きであった。兄に従い錦城(成都)で修学していた時、非米戦史(筆者注:「非」は「北」の誤りである)を読んだことがあって、巻頭に題詞した。『不聞従軍労且苦、但願熱血濺黄土。只手拔開奴隷雲、双手撃起革命鼓』(従軍の苦労は聞きたくもなく、願わくは熱血が黄土にほとばしる。隻手で奴隷の雲を拭き払い、革命の太鼓を両手で打ち鳴らす)と。&今は九年過ぎたが、思い出せばなお得意を覚える」7。

 その豪快な造反精神は、まさに「天仇」と呼ぶにふさわしいところがある。そして、当時いくたびも行われた蜂起に挺身した人々も、意気込みはこれと全く同質のものだったに違いない。注目すべきは、少年時代の戴季陶は、民族的感情よりも、革命精神を強調している点である。秦の時代の陳勝、呉広から、清末の洪秀全まで、民衆の心に眠っていた造反精神、革命の精神こそ、常に中国の社会変動のエネルギー源であった。戴季陶にとって、満州族政権への「復讐」心理は、民族革命の入り口だったと理解できよう。

2.2 戴天仇民族主義の誕生

 戴季陶は、十四歳から五年間、日本で留学生活を送った後、帰国し、数ヶ月の短い江蘇自治研究所教官時代を経て、1910年7月末、上海にある『中外日報』に入社した。記者として、後に『天鐸報』、『民権報』の主筆として健筆を振るい、1913年の二次革命までの間、上海言論界の一翼を担っていた。その間、国家の安全や外交関係といった問題に関心を寄せ、多くの論考を残した。
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―123

 中でも、日本からの脅威が、戴季陶のもっとも気になる問題であり、ジャーナリストになった当初から緊急課題として取り上げていた。「日韓合邦與中国之関係」という文章では、次のようなことを言っている。

 「韓国が滅びれば満州も滅びるに違いない。満州が滅びれば、内地に浸透する日本勢力がますます盛んになるだろう。そして、わが神州はついに島夷の植民地になってしまうだろう。わが国民はこれを覚えておくべきである。もし日本が韓国の併呑を実施してから、政府はなお満州政策に意を留めずにいれば、数年後に、地図の色は変わることになるだろう」8。

 ここで、何か具体的な対策を示しているというわけでもなく、迫りくる日本の脅威を予告し、亡国の危機感をあらわにすることで、国民や政府に向け警告を発しているのである。国家の運命への関心を呼び起こすことを、自らの仕事としているように見える。

 国民への呼びかけは、感情に訴えるのが効果的である。同時期に発表された「九哭」の中では、チベット、青島、満州、モンゴルにおける外国勢力の侵入に対し、抵抗策も打ち出せない現状を悲しみ、国家機能の不振、民心の衰弱を深く嘆いている。屈原以来、中国知識人の憂国の精神が、戴季陶にも現れた形となっている。

 この憂国精神は、少年時代の革命思想とは違い、事実上、戴季陶の民族主義―この場合、孫文が提唱した「中華回復」という漢民族の復興の思想ではなく、ナショナリズムの同意語として使われた時の民族主義である―の誕生を意味したものである。革命精神と民族主義との区別は、例えば、太平天国と義和団に見られたように、一つは内部問題で、もう一つは対外問題である。この二者の関係について、戴季陶は、「哭告弱国之弱民」という文章で、次のような認識を示している。

 「要するに、自衛を欲するならば排外せざるを得ず、排外の目的を達成しようと思えば、内政を整理せざるを得ない。政府を改造することと外敵に対抗することは、みなわが国民の一刻もゆるがせにすることのできない責務である。」9

 政府改造、つまり革命は自衛のために必要であるというのは、ナショナリズムを軸にした政治思考と言える。このようなナショナリズム中心の考え方は、対外危機感の存在が前提で、俗に言われる「中華思想」によるものでないことは論をまたない。「中華思想」だけではなく、革命思想の自然的産物でもないと見られる。前節「民族思想の始まり」で見てきたように、革命思想は、反満思想であって国家防衛思想とは直接関係がなかったのである。戴季陶ナショナリズムは、外部危機への応急反応という本質から、反満思想の後に起こりながら、反満思想を統括しえたものと思われる。124董 世奎

 戴季陶に比べると、辛亥期の孫文にはまだナショナリズム中心の思考は見られなかった。彼は、民族・民権・民生の三民主義を掲げ、満州族による中国支配と帝政問題などを念頭に、革命を進めようとしていたが、列強による侵略という問題に、真正面から取り組もうとしなかった。三民主義を「救国主義」として解釈し直したのは、内外の情勢がずいぶん変わった1924年のことである。

 対外危機感に基づいている戴季陶の民族主義(ナショナリズム、下同)は、その危機感によって、国の「弱国」ぶりに対する不満も併発している。

 「国家に対する国民、その愛国心は、対内対外を問わず、みな不満の念から生ずるものである。&それゆえ、国民が国家に対して、その不満の念がもし消滅してしまったら、すなわちその愛国心もまた無に帰し、国の滅亡もこれに続くものである。不満の念は、その生ずること已まないゆえに、愛国心もまた已むことはないのである。」0

 愛国心より自国への不満が生まれても、自国への不満から間違いなく愛国心が生まれる保障はない。戴季陶の議論は革命を念じた愛国論であり、「不満」論であった。これは、革命と排外という二重の目標を抱えた戴季陶民族主義にとって、必然的な姿だったのである。

 民族主義に含まれる革命性も考慮し、辛亥期の戴季陶は、国家運命への危機感をあおり、その危機感をもって民衆の愛国心を呼び起こすことが、主な仕事であった。

2.3 戴季陶と宋教仁

 宋教仁はその政治的影響力から、孫文と一緒に議論されることが多い。た
だ、日本留学やジャーナリストなどの個人的経験から見れば、むしろ戴季陶と
よく似ている。二人は仲がよく、戴季陶が民国元年に出した文集に、わざわざ
「宋漁父戴天仇文集合刊」と題をつけたほどである(漁父は宋教仁の号である)。
後に「孫文主義之哲学的基礎」という論文で、宋教仁に対する政策批判もした
が、辛亥期の戴季陶は、政治思想、殊に民族主義思想においては、宋教仁に非
常に近かったのである。

 宋教仁の人物について、盟友の北一輝は「蘇(秦)張(儀)的才幹を具備し、
&&冷頭不惑の国家主義者」という評価をしている!。北は宋教仁評価の原点を
次のように示している。

 「即ち不肖が彼に相容れすべしとしたる一事は世人の謂ふ如き彼の多策にあ
らず学識にあらず辯論文章にあらず。一にただ彼が一貫動かざる剛毅誠烈の愛
国者なりといふことのみ」@。

 北からこれほどの評価を受けたには、理由があった。宋教仁と「間島問題」
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―125
の関わりである。1908年清日両国が、間島(現在の延辺自治州に当たる地方)
の帰属をめぐって争っていたとき、宋教仁は、実地調査の上、中韓辺境の歴史
資料を徹底的に調べ、地名、地誌、間島の沿革、国際法などの観点から、間島
地方は紛れもなく中国の領土であることを論じた『間島問題』を出版した。著
書に記された資料は、日本との談判に用いられ、問題の解決につながった。そ
の果敢な行動と平和的に紛争を解決する実力は、清政府に買われ、西太后が四
品京堂の地位を与える命令まで出した#。宋教仁は、これを受けることはな
かったが、革命児にして政府と同じ立場で「間島問題」に対処したことが、北
一輝から高く評価されたわけである。

 宋教仁の行動は、愛国心によるものと理解されるが、その愛国心の根底には、
日本に対する警戒心、侵略されることへの危機感が存在していた。1911年2月
から3月にかけて『民立報』に連載された「東亜最近二十年時局論」は、彼の
対日認識を代表している。この論文で、宋教仁は、中国の安全を脅かすもっと
も危険な存在が日本であることを率直に指摘している。

 「海外との通商解禁以来、東亜の世界が騒然と安定しないまま、百年近く経と
うとしている。&過去の識者たちは、多方面にわたってこれを救う術を考えて
きた。問題の根源を追究するに、西力東漸がその原因とされている。吾これを
見るに、西力東漸はもとより中国に禍をもたらした原因の一つではあるが、そ
の根底にはなお世界進化の大勢というやむをえない一面があって、わざと危害
を加えるために来ているわけではない。それよりも、同州同種の誼を借りて、
中原を呑噬する心を持ち、日々吾の隙を窺い、術数をもって我を謀るという者
がいるから、これこそ東亜の禍の最大の源である。&その国とは、日本にほか
ならない」$。

 ここの「西力東漸」よりも日本のほうが脅威であるという認識は、後の孫文
の親日排英の政策に比べて非常に対照的である。このような反日的態度は、中
国を取り巻く国際情勢の反映ではあるが、その形成にはなお個人的経験や政治
家としての資質が深く関わっていたのである。宋教仁は革命党の中でも、まれ
に見る堅実な政治家であった。

 日本に対する警戒心において、辛亥期の戴季陶は、宋教仁と大差なかった。
「日韓併合」の時点から、すでに日本からの侵略の可能性を意識し、前述の
「日韓合邦與中国之関係」を書き残している。その後、日本への懸念が徐々に
高まり、1912年8月には、『民権報』に「日本政治方針の誤り」という文章を発
表した。

 「今日、中国の存亡と最も密接な関係にあるのは、日本にほかならない。日本
は、東方のドイツである。その国力は、すでに自衛するに余りある。しかも人
126 董 世奎
口の増殖に国土の制限があって、絶対に対外拡張せざるを得ない。&その勢い
が赴くところ、必ずや中国内陸を侵略するに違いない」%。

 このように、宋教仁ほど強い対日批判は行っていないが、日本の拡張に対す
る危機感という点では宋教仁と一致している。二人は共通の時代感覚から生ま
れた愛国者と言えよう。

 しかし、愛国者(救国ナショナリスト)にしては、戴季陶は、宋教仁のよう
な強靭さに欠けていた。偶然にも、同じ「間島問題」に触れているが、その際
の論議は、無力そのものであった。その一節は、日本の新聞を情報源に書き記
した、「東亜陽秋」という短い文章にある。日本語に訳すと、次のようになる。
 「(間島に逃れた韓国人は)、どこで知るのか、間島の主権はなお中国の完全な
所有ではなく、今にも日本人によって併合されそうだから、私は間島の韓国人
を思って泣きたい。さらに中国領土の間島を思って泣きたい」^。

 ここから読み取れるように、当時の戴季陶は、せいぜい救国思想の宣伝者で
あって、宋教仁のようなしたたかな愛国者に比べると、大きな落差があること
がわかる。

 戴季陶ナショナリズムの無力さを示す材料はほかにもある。前述の「日本政
治方針の誤り」の中で、次のようなことも言い残している。

 「日本は天然の島国なり。仮にその国が全力をもって南洋において拡張すれ
ば、則ち庫頁(樺太)より蜿蜒と南へ、その島脈が連なるところ、琉球のごと
し、台湾のごとし、さらにバリンタン海峡を経て呂宋(フィリピン)に入り、
連綿近接の地、ボルネオのごとし、スマトラ、ジャワ、セレベス、ニューギニ
アのごとし、およびその付近の諸島は、皆日本の天然の植民地なり」&。

 これは、要するに、南のほうに「天然の植民地」があるから、日本人は北進
を止め南進に切り替えるべきだという主旨のものである。自己保存主義者に
とって、自国が侵略されないに越したことはないが、そのために相手によその
国へ行けと勧めるのは、まじめな自衛策ではなかった。そういう意味で戴季陶
は幻想的であり、未熟なナショナリストであった。

3.討袁期における戴季陶の民族主義

3.1 排外革命から親外革命へ

 辛亥期の戴季陶の民族主義には、自衛のための排外、排外のための内政整理、
内政整理のための政府改造という構図があったことは前節で確認した。このよ
うな基本構想を持った戴季陶にとって、辛亥革命が中途半端な結末になったと
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―127
いう事実は、受け入れられないものであった。早くも1912年3月の時点で、辛
亥革命は失敗の革命であることを指摘し、「政府改造」が行われていないことへ
の不満をあらわにした*。このような不満から、やがて孫文の第二次革命に加
わったのは、ごく自然な成行きである。

 「政府改造」について、南方勢力(旧同盟会を中心とした勢力)の内部では、
宋教仁を始め、議会路線つまり選挙を通して政権を掌握することに熱中する人
が多数を占めていた。革命家の孫文は、国家建設の時勢に順応し、民生主義を
掲げ、鉄道事業に着手した。一見政権掌握を諦めたように見えたが、1913年2
月に、中国の鉄道建設への投資を呼びかけるために訪日し、外交から袁世凱に
対抗するための政治基盤を築こうとした。東京で桂太郎との密談を実現し、そ
の会談内容は、通訳を担当した戴季陶によれば、桂は孫文が手掛けている鉄道
建設事業を援助し、袁世凱政府を支援しないこと、日本はその世界戦略におい
て中国と提携し、中国を侵略しないことなどを中心とするものだったという(。
孫文にとって、革命を起こすための協力パートナーとして日本は魅力的であっ
た。

 1913年3月に突如宋教仁暗殺事件が起き、国内情勢は急変した。南方勢力が
選挙で勝った直後に起こったことで、首謀は袁世凱の側近内閣総理の趙秉鈞で
あることはまもなく分かった。確固たる証拠の前で、袁は軍隊を出動し強硬手
段に出た。7月に、孫文や黄興らは二次革命を断行し応戦した。2月の日本訪
問が功を奏し、日本軍部はひそかに孫、黄を援助したといわれる)。まもなく革
命勢力が敗北し、孫文や黄興らは日本に亡命した。

 このような情勢下で、戴季陶の民族主義も、いささか変形を余儀なくされた。
以前、日本に対して、相当警戒心を示していたが、1913年2月の孫文の訪日を
境に、論調が急激に変わった。

 「中山(孫文)先生の訪問に、日本人は朝野上下、老若男女、皆極めて歓迎の
意を表している。中山先生一人を歓迎するものではなく、実に中日の連携を強
く希望し、よって東亜の大局の安全を図っているのである。&今日の世界大勢
から言うに、中国が日増しに発達することを欲するならば、必ずや外国との提
携を求めざるを得ない。而して日本がわが国との提携を望んでいる国の一つで
ある。然るに日本は、なぜこの前わが国と提携することを望んでいないのに、
今日になって提携したくなったのか、それは、わが国の政治が腐敗していたか
らである&」?

 必ずしも説得力のある議論ではないが、孫文と桂太郎との間に中日提携の話
があったことや、敵として袁世凱を意識していることが脱ナショナリズムの要
素として働き、戴季陶の対日論調を規定しているように思われる。しかし、肝
128 董 世奎
心の「中日提携」問題は、政権さえ取れなかった彼らにとって、そもそも政治
的根拠が弱く、戴季陶が期待したほどの現実性はなかったと思われる。二次革
命の失敗で孫文の鉄道計画が白紙化したことにより、「提携」はいっそう非現実
的なものになったといえる。日本亡命中に軍部と何らかの関係を保ったもの
の、実際には強力な支援が望めず、桂本人も1913年10月に他界した。新たな政
策が打ち出せないまま、戴季陶は中日提携論を主張し続けた。1914年7月に書
いた論文で、別の角度から中日提携の必要性を説いている。

 「昔、桂太郎が東亜の大局を論ずるに、曰く日本は仮に中国を侵略しよう
と欲するならば、欧米を排除し、独力で之を併呑するほどの実力を持っていな
くてはならない。しかし、これは絶対に無理な話である。無理である以上、全
力を以って中国の富強を助け、中国に自衛の実力を養わせ、もって共に白人種
国に対抗すべきである。さもなければ、日本と中国は共倒れになるのであ
る。」"

 桂の話を引きながら、かつ黄白人種の対立という視点から提携の必要性を訴
えているが、訪日直後の言説に比べると、中日提携への自信が大きく下落して
いる。第一次世界大戦の直前に発表されたもので、そのうちに日本が中国に対
して軍事行動を起こすことがないように、両国の提携を説いたものと見られ
る。

 ナショナリストにしてやむを得ず反日の論調をやめ、中日提携論に転じたこ
とは、かつての建国構想にも変化が現れたことを意味するものである。つま
り、排外のための政府改造から、日本の援助という外力を得て革命を完成し、
そして中日提携によって外部からの侵略を防ぐという新しい構想に転換したと
考えられる。この転換は、革命を起こすだけの力が足りなかったためにやむを
得ず行われたものであり、ナショナリストの本来の立場からすでに離れている
ことは言うまでもない。

 内政整理と排外の二つの目標を掲げていた戴季陶の民族主義は、排外はもと
より内政整理さえうまくいかず、そして、排外を親外に変えても、ついに出口
を見出すことはできなかった。かつての警戒対象国とあえて手を結ぼうという
試みに、戴季陶ナショナリズムのこだわりの無さが浮き彫りになった。

3.2 ナショナリズム慎重論

 孫文や戴季陶らの懸命の努力にもかかわらず、日本との提携が実現されず、
二次革命失敗後、孫文の革命路線は事実上行き詰まっていた。そうした中で、
時代の新しい主人公たちが登場しようとしていた。1915年5月に大隈内閣の
「対華二十一カ条要求」問題が発生し、中国での排日運動が引き起こされた。
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―129
さらに四年後には「五四」愛国運動―この運動は、パリ和平会議における山
東権益の処置問題によって点火されたとはいえ、事実上1915年の運動の再燃と
いう側面もあった―が起こり、いわゆる中国ナショナリズムの時代が到来し
た。

 「二十一カ条」問題に伴う愛国運動の高揚に対し、革命陣営は最初沈黙を守っ
ていたが、いつまでもそうするわけにはいかなかった。孫文の秘書を務めなが
ら、戴季陶は、1917年12月に「商孫」という仮名で「最近之日本政局及其対華
政策」を「民国日報」に発表した。この論文で、日本の対中国政策の侵略性を
指摘しながら、中国青年に向かってナショナリズム感情の自制を求めたのであ
る。

 「およそ国民は必ず極大の忍耐力を備えて、それから救国を言うべきである。
&ただ一時の感情をもって軽率に排外を説き、一時の熱狂が過ぎ去れば、また
あっさりと国事を不問に付するのは、決して国を興す国民の態度ではない。」?

 救国ナショナリズムの代わりに、戴季陶は次のようなことを主張している。

 「今日中国の外交を論ずるに、私は敢えて国民に一つ金言を献じたい。無政
策は最高の外交政策、無手段が最高の外交手段と。救国の唯一の方法は、一
に内政整理、二に内政整理、三に内政整理である。&昔、ビスマルクがドイツ
の外交方針を論ずるに、曰く最も危険な敵国は、すなわちドイツが同盟すべ
き国である。(下略)」?

 これは、要するに、あんまり日本を刺激しないでほしい、下手をすれば戦争
になってしまうかもしれないからという、ナショナリズムをなだめるための論
理である。民族主義者の戴季陶は、事実上、中日提携論を経て、とりわけ第一
次世界大戦の影響で、ナショナリズム慎重論になってしまったわけである。

4.護法運動から国民革命にかけての戴季陶民族主義

4.1 「無政策」主義から帝国主義反対へ

 袁世凱が亡くなってから、「北洋軍閥政府」時代を迎え、中国の政局は一気に
流動的になった。軍閥間の対立は深まり、戦争を繰り返していた。孫文らに
とって、自然と北洋軍閥が新たな革命対象となった。

 南方の軍閥を利用して北洋軍閥を倒そうとしたのが、孫文の最初の試みであ
る。護法運動と呼ばれ、文字通り北洋軍閥の背後にある外国勢力を、中国を圧
迫する帝国主義として問題提起しようとはしなかった。しかし、運動は失敗
し、その過程で、まさに帝国主義が彼らにとって敵対勢力であることが判明し
130 董 世奎
た。

 1918年7月に戴季陶は声明を発表し、次のようなことを言っている。
 「今回の国内戦争は、うわべから見れば護法軍と段(祺瑞)系との戦争だが、実
際のところ、護法軍と日本との戦争である。もし日本が武器と金銭をもって段
系を援助しなかったら、とっくに平和裏に解決したはずである。我輩による段
系反対の行動は、ただ彼が法を乱していることに反対するだけでなく、彼が売
国していることにも反対しているのである。」

 このように、第一次護法運動の失敗をきっかけに、彼らの政治的立場はいく
ぶん調整され、戴季陶の愛国主義論調もいささか取り戻された。ただ、これで
外国勢力、特に日本からの干渉に対決姿勢を示したかというと、必ずしもそう
ではなかった。むしろ同じ時期、米騒動の後に原内閣が誕生したことを「紳士
内閣」、「日本政治界の一段進歩」と評価し、日本への期待感を高めているので
ある。

 同年12月に発表した「対日本朝野之通電」の中で、日本への期待感が頂点に
達している。

 「&本日報掲載東京発東方通信社電を閲するに、貴国(日本)政府内に、一種
の議論がさかんに唱えられている。即ち各国が中国におけるその特殊地位を放
棄する主張である。例えば日本にしては満州、青島、福建、イギリスにしては
揚子江沿岸、フランスにしては南部、それぞれ各地で占めている特殊地位は、
みな放棄して中国に返すべし、云々。これは実に貴国から伝えてきた情報の中
で、私どもにとってもっとも歓迎すべきものである。もしこれが事実となれ
ば、則ちこの行為は必ずや両国の永久親善の最大動力となるに間違いない。」?

 このような期待は、まもなくパリ平和会議における山東権益の処置問題で裏
切られ、深い政治的観察に基づいていないことが明らかになった。日本は大戦
中にドイツの手から山東権益を奪い、この会議で自らのものにしようとしたの
である。

 「山東問題にいたって、日本(政府)の最近の行動は、もっとも中国人民をし
て完全失望させるものである。そもそも中国人は日本の伝統政策について、こ
れをことごとく支持し弁護するのは、貴族軍閥をもって最たるものだと認識
し、平民政治家の意向は、必ずしも同じものではないと考えていた。しかし、
日本で第一次政党内閣が成立した後も、その対華方針は依然として伝統政策の
遂行にあった。しかも最近各政党および新聞紙に現れた山東問題に関する意見
は、伝統政策を弁護するものばかりである。それゆえ中国国民は、日本の大多
数の国民が等しく伝統政策の擁護者であると確信し、中国の生存および国民の
利益を維持するため、排日行為はついに不可避の事実となった。いかなる危険
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―131
があっても、吾人にとっては回避を許さざるものである。」?

 ここで見られたように、戴は日本人(政党内閣)に自らその「伝統政策」を
変えることへの期待が持てなくなったことをきっかけに、以前のナショナリズ
ム慎重論から脱し、「中国の生存」と「国民の利益」を守る反日ナショナリズム
を取り戻した。この文章は、五四運動に応じて発表されたもので、民衆エネル
ギーの爆発がその対日批判を大きく支えているように思われる。かつて池田誠
の論文「孫文における反帝国主義路線の確立」が指摘したように、孫文が帝国
主義に対して沈黙から反対へ態度を変えたのも、まさに同じ時期である"。

 第一次護法運動を経て、中日提携論から中国における列強の特殊地位放棄論
に切り替え、戴季陶はナショナリズムの立場から帝国主義反対の姿勢を示し
た。

4.2 温和的ナショナリズム

 戴季陶は、五四運動をきっかけに民族主義の立場に戻ったが、山東問題への
関心を超え、五四運動のほうにより多く注意を払っていた。五四運動の初めに
行われた先の対日批判から一ヵ月後、上海で『星期評論』(週刊)を創刊し、そ
の第一号で次のようなことを言っている。

 「&これ(日貨排斥)は、確かにわれわれ中国人の意思表示の最もいい方法
である。ただし、これは政治上の暫定措置であって、経済上の根本原則ではな
い。日本を懲らしめるための行動であって、中国救済の方法ではない。こう
なった以上、われわれはさらに一歩進んで、根本的なことを考えなければなら
ない。」?

 この発言から、戴季陶はナショナリズム的感情を保留しながら、冷静な対策
を求める理性的ナショナリズムへ転じたと考えられる。ここで戴季陶が主張し
た「中国救済の方法」とは、革命でもなければナショナリズムでもなく、商工
業の発展による国力の充実であったので、注目に値する。国力の充実は正論で
はあるが、直面した山東問題には何の解決策にもならず、「理性」重視のナショ
ナリズムは、国力不足の意識による現実逃避の色が濃厚だったといえる。

 戴季陶は「理性」を強調する一方で、ナショナリズムの立場から五四運動に
積極的な評価も与えなければならなかった。同じく『星期評論』第一号で、愛
国運動の口火を切った北京大学の学生たちを称え、これは「科学万能」の証拠
だといったり、過去の感情的な排外運動と比べ、「今回の国民自決の運動は、合
理的であり、覚醒的であり、深刻的であり、純粋的である」といったりして、
五四運動を絶賛していた?。中でも、「合理的」と「国民自決」は、戴季陶によ
る五四運動評価のキーワードであった。132 董 世奎

 このような評価は五四運動中に出したもので、この民衆運動に対する認識の
すべてではなかった。運動が終わった時点で、戴季陶は次のような指摘もして
いた。

 「&幸い北京政府が曹(汝霖)章(宗祥)陸(宗輿)に対する免職令を下し
た。もし後二、三日遅れれば、おそらく市全体が同盟ストライキに入っただろ
う。当時上海の知識人の内、事態を心配しない人はほとんどいなかった。みん
な関係者に説得を試み、何とかストライキを止めさせるよう努力した。なぜな
ら、組織も教育も訓練も備えもなく行われたあまたのストライキは、それ自体
が極めて危険なだけでなく、労働者たちにとっても不利益だからである。」D

 これは、『星期評論』第三号に掲載された孫文との談話の一節で、民衆運動へ
の不安を如実に語ったものといっていい。この談話と、「いかなる危険があっ
ても」という五四運動の初めに残した発言と比べると、戴季陶ナショナリズム
には表と裏があることがはっきり見えている。戴季陶は民衆による愛国運動に
反対はしなかったが、それが激化し、帝国主義干渉を招きかねないような事態
になれば、かなり動揺してしまったのである。

 民衆運動の拡大に対する不安から、戴季陶は首尾一貫したナショナリストで
はなく、帝国主義とは衝突しない、内面の弱いナショナリストだったことがし
だいに明らかになった。戴季陶が主張した「理性」は、政治的なものであり、
ナショナリズムにとってブレーキに過ぎなかった。

4.3 革命理念の後退とナショナリズム

 五四運動以降、戴季陶ナショナリズムは、時代の新しい流れに巻き込まれる
ことになった。その流れとは、1917年ロシア革命の成功で巻き起こったマルク
ス主義ブームのことだった。戴季陶はこの時期から『星期評論』等において、
マルクスの理論を紹介し、中国におけるマルクス主義の宣伝家として活躍する
ようになっていった?。

 戴季陶は、資本主義世界の矛盾を解決するための利器として、マルクス主義
を支持し、ロシアの次は日本で社会主義革命が起こると予測し、期待していた9。
一方、資本主義がまだ初期段階の中国においては、階級調和によって社会革命
を避けたいと考えていた:。「階級闘争説」を「歴史上重大な事実発見」と賞賛
しながらも、政治路線としては取り入れようとせず、階級調和こそ中国の歩む
べき道だと主張していたfi。

 革命家でありながら社会革命を避けたかったことは、戴季陶の革命理念がも
はやダイナミックさを失ったことを窺わせるものである。本人は中国における
社会革命の可能性を認めながら、「いったん社会革命が起これば、国内紛争と外
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―133
国からの圧迫が併発し、惨殺暴虐の現象が起こる」に決まっているので、「温和
的、流血しない進歩が最もいい」と革命路線を敬遠する理由を述べていたfl。こ
の議論は、事実上戴季陶が民主革命からも一歩後退したことを意味するもので
ある。

 かつての反袁時代には、民族主義を二の次に回してまで、革命優先策を取っ
ていたが、護法運動の失敗を経て、五四運動の時期にいたると、民族主義の声
を上げ、革命の主張を抑えるようになった。そして、ロシア革命の影響で、マ
ルクス主義に接近したにもかかわらず、革命の意欲を取り戻すことはできな
かった。そこには、過去に何度も失敗した経緯があり、何よりも実力の不足が
背景にあったと見られる。しかし、問題はそれだけではなく、「温和的、流血し
ない進歩」という言葉が示しているように、戴季陶本人の革命観まですでに変
わっていたことである。革命は好ましくないものとして、できれば自国ではな
く対中政策を変えない日本で起こしてもらいたかったというのである。これは
明らかにナショナリズム中心の考え方で、しかもなかば空想的でひ弱なナショ
ナリズムであった。

 1919年9月に『建設』雑誌に掲載された論文「革命!何故?為何?」におい
ても、依然として「平和的組織的方法および手段」が革命運動の新形式である
と主張し、「暴を以て暴にかえる偽の革命」を排除すべきだと論じていた!。

4.4 妥協的自己保存主義

 1920年2月に「学潮と革命」を発表し、新文化運動を踏みにじっている北洋
軍閥政府を批判し、再び革命論に転じた。一方、孫文は、同年11月に第二次広
東軍政府を発足し、新たな革命の準備を始めた。1922年6月に陳炯明の反乱に
よりいったん頓挫したが、翌年巻き返して、「連ソ・容共」政策のもと、国民革
命の準備に着手した。

 戴季陶は故郷の成都で一年間余り休養を取ったため、「連ソ・容共」の政策決
定には加わらなかった。1923年末上海に戻ったころには、国民党改組がすでに
政治決定され、革命政府の誕生をアピールするための国民党第一次全国代表大
会を間近に控えていた。戴季陶にとって「連ソ・容共」政策は意外なもので、
積極的に同調しようとはしなかった。

 孫文が実施に踏み切った「連ソ・容共・扶助労農」政策は、革命勢力の急速
な拡大をもたらしたとともに、国民党内において辛亥革命以来の路線対立を生
じさせた。一年後に孫文が急に病死したため、この対立は一気に表面化した。
1925年戴季陶は「民生哲学系統表説明」、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命
と中国国民党」を発表し、共産党の排除を訴え、孫文路線を変えてしまう戴季
134 董 世奎
陶主義を打ち出した。党内から厳しく糾弾されたが、1927年3月の南京事件を
経て、蒋介石によって実行に移された。

 毛沢東は、1925年12月に、「中国社会各階級の分析」という論文を発表し、戴
季陶主義について次のような政治判断を下した。

 「戴季陶の『真実の信徒』と自称する者が、北京の『晨報』に論説を発表し、
『君の左手を挙げて帝国主義を打倒し、君の右手を挙げて共産党を打倒せよ』
と言っている。この言葉は、この階級(中産)のもつ矛盾と恐慌の状態を浮き
彫りにしている。彼らは、階級闘争の学説を以って国民党の民生主義を解釈す
ることに反対し、国民党がソ連と連合し、共産党や左派分子を受けいれること
に反対している。だが、この階級の企図―民族ブルジョアジーが支配する国
家の実現は、全くできないものである。(中略)中間階級は、必ず急速に分化し、
左の革命派につくか、右の反革命につくかのどちらかであって、彼らには『独
立』の余地がない。」?

 名指ししながら遠まわしに戴季陶主義を批判した一節で、戴季陶主義の先行
きまで見据えている。1927年4月、戴季陶と組んだ蒋介石一派が英、米、日、
仏、伊五カ国の圧力に屈し、反共クーデターに走った。

 戴季陶主義の問題について、往々にその反革命性が指摘される?。しかし、そ
の反革命性の由来については、ブルジョアジーの階級性によるものという解釈
がほとんどである。この解釈では、戴季陶と孫文との区別がつかないものであ
る。宋教仁との比較で見てきたような戴の「軟弱性」、加えて「文人」あるいは
「旧知識人」的な性格が、最終的に戴季陶の政治思考を左右したのではないか
と思われる。

 革命の対象を帝国主義と封建軍閥としながら、仲間の共産党を弾圧してし
まったことは、帝国主義への恐怖によるものにほかならなかった。帝国主義連
合による革命干渉は、戴季陶の最も恐れる事態であり、革命干渉の口実を与え
ないことは反共の最大の理由であった。

 クーデターを実行した後に、最大の敵は日本となり、田中義一内閣が唯一の
脅威であった。というのも、北京に居座った張作霖の後ろ盾は日本だったし、
満州や青島に日本は権益を持っていた。とりわけ青島はドイツから奪ったもの
の、中国政府の承認を得られなかった事情もあった。日本の権益を守るために
田中内閣は三度にわたって山東出兵を行って、居留民保護を名目に北伐軍の阻
止に出た。しかし、青島における利権を守るために奥地の済南まで進軍したこ
とは、れっきとした侵略行為であり、南北の政権から一斉に抗議を受けた。戴
季陶は『日本論』を著し、日本の対中国政策を猛烈に批判し、田中義一を「第
二のセルビア少年」と名づけた。

 対日批判は厳しかったが、現実政策においては日本に対しとことん自制的で
あった。済南においてもそうだったし、北伐軍が北京に入城してから東北三省
(満州)に進軍しようとしなかったことも、そのためであった。

 孫文路線を変え、共産党を排除するほど帝国主義を恐れたことについて、戴
季陶の弁明と思われる一節が『日本論』にある。

 「西郷の征韓論は、かれの死後十八年にして実現し、死後三十年にして公然と
目的を達成した。かりに、明治四年の段階で西郷の征韓論が通っていたとした
ら、一大災禍を招いて、日本の維新の事業はご破算となり、西郷の人格も埋も
れたままになったかもしれない。このように、一時代の歴史をひもとくにあ
たっては、けっして事実のみ、道徳のみ、理論のみにとらわれてはいけない。
まず歴史全体への洞察がなければ、読書は何の役にも立たないのである。(傍
線は本稿によるもの)」

 明治維新という国家事業において西郷隆盛という政治家を捉えて論を展開し
ているが、狙いは決して西郷を論ずることではなかった。西郷の征韓論をその
急進性において孫文の「連ソ、容共、農工扶助」の三大政策になぞらえ、「一大
災禍」を帝国主義による革命干渉に置き換え、「事実のみ、道徳のみ、理論のみ」
は反共クーデターとマルクス主義理論のことを思えば、この一節に見られる主
張はまさしく孫文路線を変えた国民党新右派の自己正当化に使っていることが
わかる。戴季陶は反日家にして意外にも明治日本の成功に国家生存の道がある
と信じていたのである。

 孫文の「連ソ、容共、農工扶助」の政策を捨てたことで、一時的に国家の統
一を実現したものの、結果的に国民党を間違った運命に導いたのであろう。

5.おわりに

 本稿は、戴季陶の民族主義について、その特質や時代的変遷を中心に検討し
てきた。この論考で明らかになったのは、戴季陶の民族主義とその対外意識と
の関係である。

 戴季陶の民族思想は、その少年時代に抱いた反満の思想に始まる。それを本
人が民族革命の思想として理解し、とりわけ革命思想として捉える傾向にあっ
た。初期の反満思想には、復讐の観念が多分にあり、国家観念は薄かった。

 戴季陶の民族主義は、日本留学という蓄積の時期を経て、帰国後新聞記者に
なったことをきっかけに、忽然と現れた。「愛国心」を称揚し、国の窮状に対す
る危機感が、愛国心を生ずる根拠と自覚していた。その論調が感傷的であり、
136 董 世奎
その憂国の精神には、古代の知識人屈原を思わせるものがあった。

 戴季陶の民族主義の基本的な主張は、国家の防衛と国家の再建である。防衛
の対象国は日本であり、そういう観点から、朝鮮半島で起きていることに大き
な関心を払っていた。一方、国家の再建については、革命が不可欠であること
を認識していた。

 戴季陶は、同時代の政治家宋教仁と知人関係にあった。「間島問題」が発生し
た時、宋教仁は実地調査を行い、行動で真の愛国家ぶりを示した。一方、戴季
陶の民族主義は、言論が中心的であり、行動に付することはほとんどなかった。

 行動力の不足は、戴季陶の民族主義の大きなハンディキャップであった。日
本の大陸拡張策を誤りとしながら、海洋拡張の南進策を是としたのは、戴季陶
の民族主義が自己保存主義的であり、それも自衛の意志が弱いことを露呈した
ものであった。

 戴季陶の民族主義は、「自衛のための排外、排外のための内政整理」という仕
組みになっていた。辛亥革命以降、革命勢力は政権を取れず、更なる「内政整
理」、つまり革命が必要であった。その目標を達成するために、外国からの支援
が必要となり、ナショナリズム的な主張を抑えなければならなかった。「中日
提携」は、倒袁のために考案されたもので、日本からの侵略を食い止めるため
の長期的戦略でもあった-。それゆえ実現する可能性はほとんどなかった。「対
華二十一か条要求」問題が発生以降、中国で排日運動が起こり、戴季陶はこの
波に乗ろうとしなかった。第一次世界大戦中ということもあって、ナショナリ
ズムの動きに対し、自制を求めていた。反日のはずの民族主義者が「恐日」に
陥っていた。

 護法運動以降、寺内内閣の援段政策により、日本と対立関係にあることを言
明し、いくぶんナショナリズム的な論調を取り戻した。そして、パリ和平会議
における山東権益の処置問題で、日本政府に対して失望し、五四民衆運動の爆
発とともに、ナショナリズム慎重論から自らを解き放した。

 戴季陶は、ナショナリズムの動きに対し賛同に転じたが、政治路線として帝
国主義反対のナショナリズム路線を取り入れるには至らず、一時的ではある
が、民主革命さえ主張しなくなった。この理性主義と思われる傾向は、実に彼
の政治家としての資質に深く根ざしたものであり、それゆえ、ナショナリズム
への対処に限ったものではなかった。

 五四時期は、戴季陶は時代の新しい動きに積極的に反応し、『星期評論』等に
おいてマルクス主義の宣伝に取り組んでいた。資本主義世界の矛盾を解決する
ための利器として、マルクス主義を支持し、ロシアの次には日本で社会主義革
命が起こることを予測し、期待していた。理論的には、マルクスの「階級闘争
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―137
説」を「歴史上重大な事実発見」としながら、同じ立場から中国で社会革命を
起こそうという姿勢は見られなかった。マルクス主義に対する自制的態度は、
帝国主義による革命干渉への警戒が、最大の要因であった。

 そのような立場から、国民革命の段階で「連ソ、容共」政策に不安を抱いて
いた。孫文の死後まもなく、反共の「戴季陶主義」を打ち出し、孫文政策の解
体に着手した。そして、1927年に、国民党新右派による反共クーデターで戴季
陶主義が実行された。

 戴季陶にとって、急進派を取り除くことは、「愛国」的な行動だった。明治維
新において西郷隆盛らが排除されたことが彼にとってのお手本だった。しか
し、「連ソ、容共」政策の解除と急進派の排除は、帝国主義による革命干渉を避
けることができたとしても、もっと根本的な問題、つまり戴季陶ナショナリズ
ムが恐れていた日本からの侵略という問題に関しては、何の解決にもならな
かった。自己保存と恐日、「内剛外柔」の戴季陶ナショナリズムは、大敵を前に
したとき、拙策に陥るのは必然の運命だった。

1 戴季陶の民族主義について、以下二つの先行研究が見られる。黎潔華の
「論戴季陶的民族主義」(『中山大学学報(社会科学版)』(広州)Vol.41 
No.1、2001年1月、pp.57-67)と高綱博文の「戴季陶の『共和思想』」(『松
村潤先生古稀記念 清代史論叢』、汲古書院、1994年3月、pp.423-445)で
ある。前者は、戴季陶の民族主義を段階論的に捉えたものであり、日本と
の関係を論じていない。後者は、戴季陶の早期政治思想に焦点を当て、そ
の共和思想の不備を指摘し、戴はあくまで超国家主義者であることを立証
しようとしたものである。先行研究についての検討は、紙幅上これを省略
した。

2 戴季陶「余之讀書記」(1933年3月)、陳天錫編『戴季陶先生文存』巻二、
中央文物供應社、1959年3月、pp.544-545。

3 小野川秀美『清末政治思想研究』、みすず書房、昭和44年1月、p.309。

4 戴季陶「国民革命與中国国民党」、中国国民党中央党史史料編纂委員会編
『革命先烈先進闡揚国父思想論文集』2、中華民国各界紀念国父百年誕辰
籌備委員会出版、1965年11月、p.1185。

5 李雲漢著『戴季陶』(王寿南編『中国歴代思想家』第55輯 台湾商務印書
館、民国67年5月、p.13)において、そのように解釈され、後の研究者が
138 董 世奎
これを受け継いでいる。

6 戴季陶「寄秉?書」、桑兵、黄毅、唐文権編『戴季陶辛亥文集』(上)中文
大学出版社(香港)、1991年、p.409。

7 戴季陶「天仇叢話」、『戴季陶辛亥文集』(下)、p.729。
8戴季陶「日韓合邦與中国之関係」、『戴季陶辛亥文集』(上)、p.32。
9戴季陶「哭告弱国之弱民」(1911年3月17日)、『戴季陶辛亥文集』(上)、
p.631。
0戴季陶「国家精神論」(1912年12月21日)、『戴季陶辛亥文集』(下)、p.1358。
!北一輝「支那革命外史」、『北一輝著作集』第二巻、みすず書房、1959年7
月、p.24。
@ 同上、p.30。
#松本英紀著『宋教仁の研究』、晃洋書房、2001年3月、p.157、p.159参照。
$陳旭麓主編、宋教仁著『宋教仁集』(上)、中華書局、1981年3月、p.137。
%戴季陶「日本政治方針之誤」(1912年8月4-5日)、『戴季陶辛亥文集』(下)、
p.1093。
^戴季陶「東亜陽秋」(1910年10月8日)、『戴季陶辛亥文集』(上)、p.133。
& 同注%、p.1094。
*戴季陶「失敗之革命」(1912年3月)参照、『戴季陶辛亥文集』(下)、p.725。
(戴季陶「日本論」、中国国民党中央党史史料編纂委員会編『革命先烈先進詩
文選集』第四集所収、中華民国各界紀念国父百年誕辰籌備委員会出版、1965
年11月、p.366。
)今井清一著、楊孝臣等訳『日本近現代史』第二巻、商務印書館、1983年11
月、p.76。
?戴季陶「強権陰謀之黒幕」(1913年4月3日)、『戴季陶辛亥文集』(下)、
pp.1401-1403。
"戴季陶「欧羅巴大同盟論」(1914年7月10日)、唐文権、桑兵編『戴季陶集』、
華中師範大学出版社、1990年7月、p.731。
?戴季陶「最近之日本政局及其対華政策」、『戴季陶集』、pp.857-858。
? 同上、p.857。
戴季陶「関於段派造謡之辯明」(1918年7月16日)、『戴季陶集』、p.865。
?戴季陶「対日本朝野之通電」(1918年12月25日)、『戴季陶集』、p.869。
?戴季陶「告日本国民書」(1919年5月8日)、『戴季陶集』、p.874。
"池田誠「孫文における反帝国主義路線の確立―孫文の民族主義論の展開
―」、『立命館法学』1977 No.133-136、p.622。
?戴季陶「国民自給與国民自決」(1919年6月8日)、『戴季陶集』、p.875。
戴季陶民族主義の脈絡―反日と恐日にゆれた自己保存主義―139
?戴季陶「潮流発動地点的変動」(1919年6月8日)、「中国人的組織能力」
(同前)、『戴季陶集』、p.876、p.879。
D戴季陶「訪孫先生的談話」(1919年6月22日)、『星期評論』第三号、『星期
評論』人民出版社1981年影印本。
?五四運動期の戴季陶は、すでにマルクス主義者であるという意見もある。
(湯本国穂「五四運動状況における戴季陶―『時代』の方向と中国の進む
道―」、『千葉大学教養部研究報告』B-19、1986年11月、p.70。 嵯峨隆「五
四時期における戴季陶の対日観について―社会主義認識との関連で―」、
『東洋学報』第82巻第2号、2000年9月、p.92。)
9日本に革命が起こることを強く望んだのは、「日本会発生革命???(1920年
3月19日)という文章においてである。 『戴季陶集』、pp.1179-1180参照。
:戴季陶は「工人教育問題」(1919年6月22日)という論文で、「社会民主主
義の正しい軌道で、平和と文明の方向に向かって進歩し、激烈な社会革命
の危険を免れる」ために、中国の資本家たちに「イギリスのブルジョア階
級の『階級譲歩』の精神に学び、ロシアのブルジョア階級の『階級圧迫』
の覆轍を踏まない」ことを強く求めている。『戴季陶集』、p.888参照。
fi戴季陶「新年告商界諸君」(1920年1月11日)、『戴季陶集』、pp.1096-1097。
fl 戴季陶「工人教育問題」、同注:。
!戴伝賢「革命!何故?為何?」、『建設』第一巻第三号、1919年9月11日、
pp.30-31。
?毛沢東「中国社会各階級的分析」(1925年12月1日)、『毛沢東選集』第一
巻、人民出版社、1991年6月第2版、p.4- 5。
?黎潔華・虞葦著『戴季陶伝』広東人民出版社、2003年6月、pp.160-169参
照。
戴季陶著、市川宏訳『日本論』社会思想社、1983年2月、p.59。
-「中日提携」の問題に関しては、拙稿「戴季陶『日本論』の構造および文
体」(『中国研究月報』Vol.57 No.12、2003年12月)を併せて参考されたい。
140 董 世奎

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