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第三章 帝軍王義とソロバン勘定

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pipopipo555jp

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第三章 帝軍王義とソロバン勘定


  思いつくままに話しているのですが、この章ではロシアに対し、恐れ過ぎてきた日本の近代について、話したいと思います。ロシアという問題があったことは大きかったですね。日本の近代が成立するうえで、日本の国が大きくゆがんだり、曲がったりしました。
  私は『坂の上の雲』という小説を書きました。これは自分の義務だと思って書きました。昭和四十年代に十年ほどかけて調べて書いたのですが、この時期がだいたい書ける最後の時期だろうと思っておりました。日露戦争の参加者は、ほとんどお亡くなりになっていたころですね。ただし、そのプロの軍人に息子さんがいて、息子さんがさらにプロの軍人になった場合、日露戦争についての話はだいたい伝わっているだろうと考えました。そして、息子さんたちも第一線からそろそろ退かれるころで、お話を伺うにはいちばん良さそうな時期でもありました。
  書いた動機を申し上げますと、どうも当時の風潮といいますか、日露戦争というものを侵略戦争だ
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と思っているらしいということがありました。私はちょっと違う考えがありまして、いくら考えても一種の祖国防衛戦争という面でとらえるほうが、きちっといくのではないかと思っていました。
  もっとも日露戦争が終わりますと、日本はいわゆる帝国主義の道を歩み始めることになります。
  ですから、日露戦争の評価は後から振り返ると、いろいろといかがわしいと言われても仕方のないところがあります。


  日露戦争そのものは、江戸という時代が終わって三十何年たってから起こった事件であります。
  江戸期には四つの階級がありました。その四つの階級がひとつになるには時間がかかります。実際のところ、明治期の学問あるいは政治、行政を支えていたのは旧士族でした。それ以外の階級だった民衆を加えて、国民がだいたいひとつになったのが、日露戦争だろうと思います。
  つまり、ロシアにつぶされてしまうという共通の恐怖心から、国民がひとつに近い状態になった。
  こういうことが政府の宣伝によらずして実現したのは、その前も後もありません。ですから日露戦争というものは、客観的にはどのように評価されようとも、主観的には祖国防衛戦争だったのではないか。調べてみまして、やはりそうであったと考えています。
  私は昭和二十年(一九四五)のときに青年でした。敗戦を迎えたとき、敗戦そのものよりも、なぜこういうつまらない国なのかと、つまり国を運営している人びとは、なぜこれだけお粗末なのかを考えた。
  要するに世界というものがわからない、そして「ピープル」としきりに私が言っていますが、「ひとびと」というものがわからない人たちですね。
  戦争の言葉で言いますと戦術――戦術というのは局地的なものであり、そして、小部隊のものであります――がわかっても、戦略はわからない。あるいは政略がわからない。われわれはそういう民族
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なのではないかと。政略や戦略は大人の感覚です。
  それは島国だからわからないのか、そういう社会なのか、そういう文化なのか。極端に言うと、そういう能力しか持っていないのか。戦術レベル、つまりこれは古い話で兵隊の位で言いますと、少佐ぐらいまでは日本人は優秀であります。ところが、それより上にいくと、非常にグローバルにものを見なければなりません。
  そして、ひとつのアクションには、リアクションが返ってくる。そのリアクションは世界の規模で考えなければいけない。世界の規模、つまり外交感覚だけではなくて、経済とか人の心とか、いろいろなことを総合しなければいけない。
  将軍のことをゼネラルといいますが、総合者の意味です。
  諸価値の総合者という意味ですね。
  将軍は日本軍にも階級としてはいましたが、諸価値の総合者はいなかったのではないだろうかと。
  ですから、日露戦争においてそれを見ようと考えたのです。このテーマは戦後の私自身の日本への失望、落胆、日本の近代のお粗末さへの失望と重なっています。
  昭和期には失われてしまった戦略、その戦略だけをテーマに、小説ができるだろうかと、やってみたわけです。
  これはちょっと余談になりますけれども、この作品はなるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。
  うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね。
  私自身が誤解されるのはいいのですが、その誤解が弊害をもたらすかもしれないと考え、非常に用心しながら書いたものです。
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  そのとき常に思っていました。
  明治のその時期までの、いわゆる偉い人たちは、結局のところ、みな正直だということでした。
  日本の米櫃(こめびつ)にはこれだけしか米粒がないんだ、お金はこれだけしかないんだということを、わりあい正直に言っていました。
  一方、ロシアは地球を覆うほどの大国であります。
  ですから、とても勝てるものではないのですが、それをこういう具合にすればなんとかなるだろう、そして最後はアメリカに調停を頼めばいいだろう、つまり痛み分けというところまでもっていけばいいと、こういう感覚で始めた戦争だったわけです。小さな国としては、痛々しいほどの決断だったと思うのです。幸いにもうまく痛み分けになったのは、アメリカのセオドア・ローズベルト大統領(Theodore Roosevelt 1858-1919)が肩入れしてくれたおかげで、まずまずの結果になった。
  ところが、終わってからがよくなかったのですね。
  先日、アメリカのポーツマスという港町に行ってきました。軍港の町でもあり、きれいなニューイングランド風の家がたくさんあり、丘があって美しい町です。
  そこで小村寿太郎(1855-1912)という日本の外務大臣と、ウィッテ(Sergei Yulievich Vite 1849-1915)という、ロシアの皇帝の全権大使とが談判しました。小村は、大きな要求は出せないということは知っております。
  ロシアにその気があれば、戦争を継続できるのですから。とても賠償金までは要求できないものですから、非常に小さな要求しか出さない。
  さらに、小村はそのために国民全体から非難されるだろうということも覚悟しています。政府も非難されるだろうと覚悟しています。
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  日比谷公園、あるいは神戸、大阪、その他で国民大会が次々に開かれた。講和条約でもっと金を取れとか、屈辱的だとかですね。日比谷公園に集まった群衆はほうぼうに火をつけたりしました。
  江戸時代にも群衆はあります。たとえば一揆を起こします。ところが、これは統制されたものですね。
  ところが日比谷公園の群集は違いました。日本の歴史の中で、一種の国家的なテーマで群衆が成立したのは、このときが初めてです。
  この群衆こそが日本を誤らせたのではないかと私は思っています。
  彼らが、ロシアからたくさん金を取れ、領地を取れと言うのは、つまり日露戦争というものを勝ったと思っているからですね。
  実際、勝ったことは勝ったでしょう。勝利の見返りの領土と金をたっぷり取れということが、そういう形で沸騰したわけであります。
  人民が集まって気勢をあげるということが正しい場合もありますが、日比谷公園に集まった群衆は、やはり日本の近代を大きく曲げていくスタートになったと思います。
  もしそのときに勇気のあるジャーナリズムがあって、日露戦争の実態を語っていればと思います。満州における戦場では、砲弾もなくなりつつあった。これ以上続けば自滅するだろう。そういうきわどい戦争だったのだということが正直に書かれ、日本という国はその程度の国なんだという自己認識が明快に文章で提示されていたらと思いますね。国民は自分についての認識、相手についての認識がよくわかったろうと思うのです。
  しかし、そういうジャーナリズムはなかった。もしあったとしても、おそらく官憲の手でつぶされたろうと思いますが、自費出版しても、あるいは秘密出版してもと、勇気を持ってする者はいなかった。
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  そして戦争に勝ったとたんに、軍部および政府は日比谷公園で沸騰している群衆と同じように、――自分が戦争の状況を全部知っているくせにですよ――不正直に群衆のほうにピントを合わす、そんな気分が出てきました。それがやがて大きく曲がっていく。


  それまでの日本は、つまり二十世紀の始まり、明治三十七、八年までの日本人は、もうちょっとましだったろうと思うのであります。
  だいたい日本の陸軍は侵略用の軍隊ではありませんでした。明治維新成立早々に大村益次郎(1824-69)がつくった、そして徴兵令によってつくった日本陸軍は、あくまで国内向けの、つまり明治政府を守るというだけの軍隊です。
  それ以外の思想は、陸軍の中に入っていませんでした。だんだん成長して多少は大きくなっていましたが、それでも海外へ出兵するというような、大それたことは――日清戦争において試みられてはいますが――抑制されていました。ところが日露戦争後、それが野放しになってしまった。
  われわれはいまだに朝鮮半島の友人たちと話をしていて、常に引け目を感じますね。これは堂々たる数千年の文化を持った、そして数千年も独立してきた国をですね、平然と併合してしまった。併合という形で、相手の国家を奪ってしまった。こういう愚劣なことが日露戦争の後で起こるわけであります。
  むろん朝鮮半島を手に入れることによって、ロシアの南下を防ぐという防衛的な意味はありました。しかし、日露戦争で勝った以上、もうロシアはいったんは引っ込んだのですから、それ以上の防衛は過剰意識だと思うのです。おそらく朝鮮半島の人びとは、あと何千年続いてもこのことは忘れないでしょう。
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  倫理的な問題ではなく、利害の問題として考えてみましょう。朝鮮を併合することが、国家として儲かることだったのでしょうか。
  私は、けっして儲かることではないと思うのです。
  そういうことを平気でやって、しかもそれは帝国主義であるとあるといわれています。帝国主義という言葉は上等ですね。泥棒主義と、言ってもいいのです。
  教科書的に申し上げますと、帝国主義はイギリスで生まれました。
  産業革命は機械で商品をつくりますから商品をたくさ生み、その買い手に困った。それをほうぼうの、当時の遅れた国々に売りつけ、しまいにはその国を植民地化して自分の商品だけを買わせるようにする。インドならインドに自分の商品だけを買わせる、さらに中国にやってきてイギリスの商品を買わせる。
  海軍はそのために必要だったわけです。
  海軍は、今ふうにいえば商社ですね。イギリスなら当時ジャーディン・マセソンという大きな商社がありました。今でもありますね。
  それが中国に入っていく。彼らが上海に進出する場含、上海の港なら港で巡洋艦が待機している。そしていったん何事かがあると、彼らを守るために行動する、脅かすわけですね。そのために海軍があったわけで、海軍というのは帝国主義のためにあったのです。
  当時は石炭船です。石炭は、二十日もそのまま走りっぱなしにするとなくなってしまいます。
  港、港に寄っては石炭を積み込んでいくわけですが、そのためにその港、港を政治的に抑え込んでおいて、できればその港を植民地化しておけばもっといいですね。そうでなければ、世界を股にかけた帝国主義というものはできあがらないわけです。
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  ですから、防衛のための海軍は小海軍でいいですが、大海軍は帝国主義のために必要だった。これは今もさほど事情は変わりません。
  日本の場合、バルチック艦隊を日本海で防ぐために大海軍をつくりました。にわかに明治三十年前後から始め、数年の間で大海軍をつくりました。
  その大海軍を維持したわけです。
  帝国主義でもないのに。つまり、明治三十年代にどれだけの産業がありますか。
  生糸をアメリカなどに売って、やっと外貨を得ている程度です。他の国に売れるようなものは、マッチとタオルぐらいです。
  産業能力があって十九世紀的な帝国主義というものが成立します。ところが何も売るべき産業もなくてですね、朝鮮半島を取ってしまったわけです。
  何もないから、結局、東洋拓殖という一種の国策全社ができました。朝鮮半島の人びとが一所懸命、先祖代々耕してきた水田を取り上げたりした。
  実際のソロバン勘定からいったら、持ち出しだったでしょう。鉄道をつくったり、総督府をつくったり、学校をつくったり、郵便ポストをつくったり、それはそれでいいのですが、我を持ち出し、恨みを買った。
  イギリス人やフランス人は国家運営を考えます。外に出ていくときに、儲かるか儲からないか。あるいは目先の儲けではなく、百年先に儲かるか。常にそういう計算があるはずです。それが戦略、政略というものだと私は思うのです。
  強欲な百姓が隣の畑を略奪するように、ただ朝鮮半島を取っただけでした。
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  昭和になってからは満州ですね。満州を取って何をするつもりだったのでしょうか。
  ここでもソ連の南下を防ぐためというのが、大きな理由でした。当時、たいへん恐るべき日本の機関になっていた関東軍が、中央の命令を聞かずに暴走し、満州国を独立させた。結局、政府に追認させたというのが、満州国独立のすべてであります。
  いったいそれをやって何があったのでしょうか。せいぜいが満鉄の経営ぐらいのもので、何も儲かっていません。
  これでは儲からないということが、満州事変によって満州を略奪し、つまり満州国を偽国家としてつくりあげた後にわかるんですね。すると、儲けてやろうと、実にちゃちな、しかしながらその行為をすることによって深刻な政治経済上の、他国に対する歴史的な大影響をもたらすことをやったのです。
  満州といわれた地域の最南端に、大連という大きな都市がありました。ロシア人がつくった都市ですね。
  そこに東京、大阪から商品を持ってきます。タオルとか砂糖とかマッチとか、その程度の雑貨品です。
  日本は昭和になってもその程度の物しか、よその国には売れなかったのですね。アメリカにはキューピーさんのようなおもちゃを売って、アジアにはタオルとか雑貨とか仁丹とかです。
  その程度しか売れなかった国が、帝国主義のまねごとをやるときには、こういうことになります。
  大連にはほとんど関税をかけられずに、東京、大阪の雑貨品が入り始めました。
  しかし、これでは儲けが足りません。いろいろありまして、ついには河北に偽の政権をつくりました。これも関東軍が勝手に独走して、統帥権という名前で自国防衛のために中国の北部の一角を侵略
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した。
  「冀東(きとう)防共自治政府」というものでした。大連経由の商品が密輸入のような形で冀東政権に入っていきます。冀東政権は、もう中国の内陸部です。中国の中にも、ほとんど無関税の商品が入り始めます。
  そのころ中国もそろそろ上海付近でマッチをつくったり、紡績をやったりと、非常に軽度のものですが、中国人による民族資本つまり民族的なインダストリーが芽生えてきていたところでした。
  ところが、日本の商品はほとんど無関税で入ってきますから、上海でつくられた物の値段より安い。生まれたばかりの民族資本はなぎ倒されたわけです。
  学生はとうに反日的になっていましたが、資本家までが反日になった。中国の全域が反日に立ち上がり始めた。
  単に東京、大阪あたりでつくった雑貨品を売る、そして満州を独立させたことの利益をわずかにそれによって得ようという、それだけの、ちゃちな考え方のせいですね。そんな動機が、これだけの大きな結果を生み出す。やがて全面戦争化して日中戦争が始まる。当然の結果、日本の没落への道が坂を転がるようにして始まるわけであります。
  当時、国民党政府というのが中国の代表的な政権でありました。彼らは対日戦に踏み切らざるを得なかったと考えていいと思います。
  つまり、民衆の反日気分にあおられ、対日戦に踏み切らざるを得なかった。
  理由のほとんどは、このたかがマッチ、砂糖、タオル程度のものが入ってきて、上海付近の企業をなぎ倒してしまった、そのちゃちな儲けのためであります。
  日本の植民地主義、帝国主義は日露戦争の後に興りました。
  極端にいいますと、日比谷公園で群衆が国民決起大会といった感じの大会をやり、日露戦争の講和
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条約に対してああいう甘いものは反対だ、もっとたっぷりロシアからふんだくれとやった。
  そこから私は日本の帝国主義が始まったと思うのですが、それは夜盗、強盗のたぐいでした。
  イギリスの帝国主義、あるいは植民地獲得やその維持の歴史については、よく書かれたり、論じられています。
  それはそれなりの迷惑をわれわれアジア人は受けています。その結果、中国の場合はアヘン戦争が起こりましたし、日本の場合は明治維新が起きました。
  眠れるアジアは目が覚めたわけです。それはそれで非常に現実感のある恐るべき帝国主義でした。
  しかし、実質感のないまねごとの帝国主義や植民地獲得主義はもっと恐るべきものでした。それを維持するためにいたずらに大海軍を誇示する、あるいは大陸軍を誇示する。そしてこれは大事なことですが、そこにはリアリズムが失われていたのです。


  第一次世界大戦に日本は泥縄式に、後になって参戦しましたね、ドイツが相手です。対独宣戦していつのまにか青島などを押さえたりしてヨーロッパ人の顰蹙を買いましたが、しかし要するに、ヨーロッパの戦場に日本人は行っていない。
  ヨーロッパの戦場では、馬の代わりにトラックが現れ、そして重要な兵器として戦車が現れていました。そして、軍艦は重油で動くようになっていました。
  軍隊の輸送その他、すべて石油で動くようになっていました。大正初年の第一次大戦に参加しなかったため、日本の装備は非常に低い装備に落ちていたことがまず挙げられます。軍隊が石油で動くということになりますとですね、石油なんか新潟に少し、極端に言えば数滴ほど出るぐらいでして、日本にはないに等しい。石炭は辛うじてありましたが、石油が軍事を成立させる時代がきたなら、日本
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では海軍も陸軍も成立しないのです。
  ところが、軍人たちにそれがわかったころが、だいたい大正時代の終わりごろであります。しかしそれでは、軍人にとって商売あがったりですよね。ですから言わない。こういう重大な自己の欠陥については言わない。
  国民は知りません。
  実際、日本の軍隊はリアリズムを失っていました。動けるはずもない。およそ装備は、前世紀の軍隊になってしまっている。
  しかし、そのころから軍人は空いばりをし始めました。リアリズムを失った軍人たちは、狂信的(ファナティック)になり、侵略的になっていった。
  アジアの柔らかい部分、つまり抵抗のない部分に入っていこうじゃないかというような、野放図な考えが起こりまして、そのときに統帥権が浮上します。
  日本の歴史にかつてないほどの権力集団が生み出されました。統帥権という変なものを中心として、これさえ持っていれば内閣も文句を言えない。
  そのような力を持ち、そしてリアリズムのひとかけらも持たないグループがいろいろなことをし始めた。
  私は聞いてみたいのです。
  アジア人のすべてから憎まれ、われわれの子孫までが小さくならなければいけないことをやっていながら、どれだけの儲けがありましたかと。どれだけ儲かるつもりでそれをなさいましたかと。
  そのころの偉い人びと、それを実行した人びと、その背景のあるグループの人びとはいまやほとんど死者ですが、もし死者たちをよみがえらせて質問しても、たれ一人答えられないだろうと思います。
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そういう計算は何もないのです。
  ただ、戦国時代の領土拡張程度の頭のままで動いていたという感じです。
  これが近代といえるのでしょうか。
  いつでもロシアの、ソ連の脅威が語られました。日露戦争が終わったあと、軍部はロシアの復讐を恐れていたのですが、そのうちロシア革命が起こりました。
  これは幸いだと思ったわけです。
  そして、ロシア革命でシベリアががら空きになったときに、シベリア出兵という、実に恥ずかしい、いかがわしいことを日本政府は行動に移しました。
  シベリアで兵隊たちは死に、土地の人に迷惑をかけた。そして、ロシア人にいまだにシベリア出兵の恨みを忘れさせない。そういうアクシヨンをして、リアクションを考えず、やがて何をなすこともなく撤兵しました。何億円という当時の金を使って撤兵した。シベリアを取ってどういう利益があると考えていたのでしょうか。要するにシベリア出兵は、恐怖心の当の相手が、やや引っ込んだように見えたから出ていったようなもので、今でも悪評の高いことですね。日本の近代というのは、実にがさつなものであります。


  結局、対ソ恐怖心というものは、日本の軍部に非常に濃厚な遺伝として残りました。むしろ日露戦争前の恐怖心よりも強い形で残った。
  私はノモンハンの語をよくしますが、昭和十四年(一九三九)であります。
  満州国という偽の国家ができあがっておりました。黒竜江の沿岸の、満州国側に黒河という町があり、小さな特務機関が置かれていた。
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  対岸はソ連であります。ブラゴベシチェンスクという、言いにくい名前の町がありまして、満州国領事館がありました。満州国の領事館員として、陸軍の軍人が入っていました。要するに情報を集めていたのでしょう。
  黒河の特務機関長を務め、のちに少将になった人で、須見新一郎さんという方がいらっしゃいます。私は、ノモンハンを調べるとき、信州まで行ってお話を伺いました。ずいぶん情報を送ったそうです。
  ソ連は往年のロシアにあらず、たいへん近代的な軍隊を持っているという情報をずいぶん送ったが、全部握りつぶされたそうですね。
  ソ連の大使館付武官が帰国して、参謀本部に行きます。ここで、たとえばロシアの軍備は極めて近代的だということを言ったとします。ソ連の軍備を褒めるというよりも、正確に報告したとします。
  すると、おまえは恐ソ病かとレッテルを張られた。
  恐ソ病というレッテルを張られると、もう出世は止まったそうですね。
  少将になるところが大佐止まり、少将の人は中将までいけない。だから、たれも何も言わなくなります。自分の出世というものは、やはりそういうときの判断として大事なんでしょうね。
  しかし、たれかが日本の実態を暴露する、日本自身の内幕をさらけ出すことをしていればなと思います。
  内幕をさらけ出すと外国に対して不利だというのは嘘ですね。
  その程度の内幕は、外国はよく知っていたのです。国民だけが何も知らずに暮らしていた。
  「日本は強い。日本はたいへんいい国家だ。日本のやることに間違いはない。悪いことはしていない」
  賢い人は別でしょうけれども、昭和前期の、昭和元年から昭和二十年までの国民のほとんどは、そ
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う思っていました。
  政府には政府自身の秘密があるものですが、イギリスの場合は三十年で文書を公開します。アメリカもそうします。そのように政府はある期間は手の内は見せないにしても、何年か経つと手の内を明かす。そういう国というものは、やはり国を誤らないですね。
  どうも日本は非常に秘密主義の国でした。
  特に昭和前期の日本というものは、本当に秘密主義でした。
  悲しいことに、日本はそういう国だった。
  なぜそういう国になったのか。
  弱味を隠し続けたからであります。政府がもっと大胆で放胆で勇気があればよいですね。隠すということは卑怯であり、臆病なのです。
  国民に手の内をさらせばよい。お金はこれしかないんです、あるいはこういうことしかないんです、われわれはこれしかできないんですと。常にそういう正直な政府であれば、日本の近代は、あるいは違ったものになったかもしれません。
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