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太平洋戦争と大本営発表の真相

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                                    <2005年1月>
『兵は凶器なり』(45)    15年戦争と新聞メディア      1935-1945

太平洋戦争と大本営発表の真相

                                    前坂 俊之
                              (静岡県立大学国際関係学部教授)
太平洋戦争下での戦時報道は大本営発表を伝達することであった。
では大本営発表とはどのようなものであったのか。元大本営報道部海軍中佐・富永
謙吾著『大本営発表の真相史』(自由国民社、1970 年)は次のように書いている。
 1・・大本営発表の機構組織とその変遷
 大本営とは、戦時又は事変に際して、天皇を軍事統帥面で補佐するためにできた。
法的には明治二十六年(1893 年)五月十九日の勅令第52号(戦時大本営条例)に
根拠を持つ。その後、何度か改定されたが、日露戦争(1904―5年)当時は、陸海
軍大作戦の統合という機能を発揮した。
 しかし、支那事変(1937年-)、太平洋戦争(1941 年―)の時代になると、内容的に
は平時の陸軍参謀本部、軍令部の折衝、運営と大差がなくなり、作戦面では有名無
実に近い存在になった。
 ただ一つ例外があった。
 昭和十二年(1937 年)の改定で、大本営陸海軍にそれぞれ設けられた「報道部」で
ある。報道部の任務は、「戦争遂行に必要なる対内、対外並に対敵国宣伝報道に関
する計画及び実施」であった。
 編成は陸海軍によって多少の差異はあるが、少将又は大佐の部長1名、佐官又は
尉官の部員が4-7名、高等文官又は佐尉官の部付が1-2名、それに附属の下士
官又は判任官が数名というもの。
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 当時の資料により、報道部内の分担について、陸軍では、企画課、宣伝課、庶務課
と分れ、宣伝課の中に「内国新聞発表」という係があった。
 この新開発表係が、国民に対する窓として、戦況特にわが軍の行動に関する公表
を担当、この公式発表がすなわち「大本営発表」なのである。
 発表は通常、陸(海)軍省記者倶楽部で行なわれた。
「発表の内容及発表の時期方法等は慎重に顧慮、常時幕僚と緊密に連絡し、以て軍
機の秘密を保持すると共に、我軍民の士気を鼓舞し、敵の戦意を失墜せしむるものと
す」
「発表は関係各部課と連絡の上、その重要の度に応じ 〔参謀〕次長の決裁を受け、
あるいは報道部長これを専行するものにして急を要する場合には、前述の手続に依
らず報道部長が適宜決行することを得」
 これらの報道部の業務規程を見ると、大本営発表の性格がほぼ推察できる。
 最後に、大本営陸海軍報道部と、内閣情報部、陸軍省新聞班との関係について触
れておく必要があろう。
 内閣情報部は、
① 国策遂行の基礎となる一般宣伝の計画、実施、
② 宣伝報道に閲し各庁の事務の連絡調整を主任務として、昭和十二年九月、従来
の情報委員会を改編拡充したものである。
 新聞班は、
①、陸(海)軍軍政関係対内外宣伝の実施
②、対内外報道検閲取締
③、軍部内報道宣伝(新聞の編集及び発行)が主任務である。
 報道部と新聞班は人員が共通であり、内閣情報部には報道部から兼勤者を派遣し
ていたので、三者相互の業務はおおむね円滑に実施されていた。
 昭和十五年に内閣情報部が、情報局に昇格した。そして、陸海軍省をはじめ、内務
省、外務省の情報、言論統制検閲関係をすべて統合した。陸海軍とも、ほとんど主力
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は情報局に送り出し、報道部は「作戦報道」だけを取り扱うことになった。
 それから約一年間、情報局は言論界の主導権を握っていたが、当然のことながら開
戦と同時に、発表の中心は陸海軍の報道部に移っていった。
 報道部の発表は、最初の一カ月は陸軍部、海軍部と別個に名前を出して発表して
いた。
 昭和十七年一月十五日の発表から、「大本営発表」とだけして、陸海軍部の区別を
しないことにした。発表だけでなく、陸海軍報道部を合同する問題については、幾度
か話題になった。昭和二十年になると、陸海軍自体の合同問題がとり上げられる時
期になっていたので、その手始めに、まず報道部を統合してみたら、という空気になっ
た。
 二十年五月二十二日に両部の一本化が発表され、六月はじめからその勤務が開
始された。初代の「大本営報道部長」は陸軍側から、「副部長」は海軍側から任命され
た。どちらも階級は少将である。
 2  報道政策と発表方針
「わが海軍の戦況報道に当り特に正確を期するため、あるいは作戦上の要求などの
ため、発表時期が若干遅れることもあると思うが、決して心配することなく、安心して
正確なるわが報道を倍額していただきたい」
 その声明は開戦の翌日、前田海軍報道部長談として発表されたものである。
 発表が作戦上の要求(作戦機密、前線士気の問題)や対内政策上の顧慮(国民戦
意、対謀略)から、種々制約を受けることは当然である。そこで、前に述べた報道部の
業務規程のような考え方で処理された。
「新聞、通信社おいては、先を争ひて戦況を予測して未然に通報し、大本営発表が事
実に立脚しあると趣を異にす、しかして新聞の如きその予測を誤るときは都市占領の
ニュースに数日間の相違を来たすものあるに至る」として、正確性を重視し、やや遅
れることは覚悟していたのである。
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3・・・大本営発表の数
 戦争開始を告げた大本営発表第一号から、45ヶ月間に、八四六回の発表があった。
基地特電まで勘定に入れると、平均一日二回程度になる。当時関係者の間では発表
のことを朝刊、夕刊と呼んでいた。
「今日は夕刊が出ますか」
「出してもいいが、締切りに間に合いそうにもないからやめよう。その代り明日の朝刊
は三本だよ」といった具合である。
 こうなると、発表とこれに関連のある記事を握っている、報道部は事実上、各新聞社
の編集局の仕事も持っているようなもので、ある記者が新聞主務部員に〝大編集
長″というニックネームをつけた位である。発表に力瘡を入れすぎて、見出しの活字
の大きさや、何段抜きの注文まで出して、あやうく〝整理部長″の肩書をつけられそ
うになった部員もいた。
 陸海両報道部はお互いに自分の方の発表や記事を効果的に扱わせるため、相手
の大きな発表のない日を狙って、ストックを小出しにするのが恒例になった。発表回
数の多い一つの理由であろう。
4・・「不発表」の事項
 交通破壊戦による船舶の被害状況と、潜水艦行動の内容は、原則として発表しな
い方針であった。
 この間題は日本だけの秘密主義の現われではなく、イギリスでも、アメリカでも同じ
方針である。第一次世界大戦の時、アメリカの参戦が決定したあと、シムス大将がイ
ギリスに派遣された。そして今まで知らされていなかった商船の被害教を見て、アメリ
カが参戦を決めたことを後悔したと伝えられる話は、有名である。
 しかし、発表しないことが決して自慢ではない。この場合は造船力が損失をカバーし
て発表された部分と釣含えるかどうかが問題ある。沈められる一方では、戦局と遊塵
するはかりで頼りにならない安心感を与えるだけに過ぎない。
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今度の戦争における日本の場合が、正にこの適例であった。政策が発表報道の裏づ
けをすることができないで、楽観的報道と船舶増産施策が競合し、自分の首を締め
た。
 5・・戦局と発表の正確度
 最初の六カ月間は戦果、被害共にきわめて正確に近いものであった。(商船の損害
は、ありのま発表しないという方針なのでこれは例外とする)
 次の九ヵ月、珊瑚海海戦からイサベル島沖海戦までの期間は、戦果が誇張されは
じめた時期である。このうちミッドウエー海戦では損害を発表しなかった。
ガダルカナル島争奪をめぐって発表そのものに現われない莫大な損害が、累積して
行ったことも見逃すことはできない。
ガ島撤退後9 ヵ月間ほ発表のものも少なく、一見変化は認められないが、実情は戦
略的後退中であった。
さらに次の八ヵ月間は損害の頬被りが目立ち、架空の勝利が誇示された。
 マリアナ沖海戦以後は、誇大の戦果に損害のひた隠しが加わって、見せかけの勝
利が相ついだ。
フィリピン沖海戦でその頂点に達した。そして、日本海軍はすでに潰滅していたにもか
かわらず、軍艦マーチだけが空虚な勝利を奏でていた。この状態は、最後の戦闘で
ある沖縄の終結-20年6月未まで続いたのであった。
素晴らしい大戦果として、当時全国民を熱狂させ連合艦隊の次の作戦で狂わせてし
まった台湾沖航空戦の発表は、恐らく「デマ戦果」の横綱格であろう。これは報道史上
最悪の記録として残るだろう。
さらに傑作なのは、比島沖海戦における駆逐艦部隊の驚嘆すべき戦果であった。そ
の報告はただ途方もない遠方から発射した魚雷数に釣合うように、エンタープライズ
型空母一隻撃沈、一隻大破(沈没確認)、駆逐艦三隻撃沈であった。
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この種の希望的戦果が合計されて比島沖海戦発表には美事にして、架空の勝利を
収められた。
 誇大な戦果の番付を示せば、大体次のとおりである。

 沖縄島戦、ルソン島戦、台湾沖航空戦、比島沖海戦、マリアナ沖海戦、九州沖海戦、
ギルバート航空戦、第 三次ソロモン海戦、ブーゲンビル島沖海戦、レンネル島沖海
戦、珊瑚海海戦。
6・・損害の秘匿
 損害をありのまま発表することは、決して当を得たものではない。作戦上の要求、機
密保持、国民に与える影響や精神的打撃などを考慮して一部発表にしたり、ある 時
期まで延期したり、あるいは未発表に終わることも起こり得る。
  これは何も日本だけに限ったことでなく、アメリカでも同様である。実例を上げれば、
ハワイ海戦の被害の正式発表はちょうど一年後であり、神風特攻隊による損害の
説明は、沖縄海戦の見通しがついでから行なわれている。
損害の小出し発表も、度々行なわれているし、損害を受けた軍艦もあるが、その隻数
及び艦名は軍機のため発表できないと、はっきり断わったものもある位である。
 問題はどの程度、またいつごろ損害の真相を発表して国民の奮起と敵がい心を促
すかにある。損害が大き過ぎれば厭戦気分、敗戦思想を起こすこと必定である。頬か
ぶりが過ぎれば、楽観思想に支配されるか、信頼を失って行くかのどちらかであろう。
 戦況不利の場合、首脳部はこの損害の発表に対して極めて敏感であった。国民の
士気に名をかりて、一時のがれにいい子になろうとした傾向が、最高首脳部にはたし
かに見受けられた。
上奏文の内容が、わが方に有利なことばかりが強調されて、不利な面が〝簾襟を悩
し奉るのは恐憾に堪えない〃という思想で、ほとんど触れられていないのと同じであ
る。
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 7・・米国の発表報道
 いかに世論を重んずる民主国家であっても、戦況発表まで開放的ではない。国家
機密の保持や作戦上の必要による、発表の制限は極度に厳重なことは驚くはかりで
ある。
しかし、これは驚く方が間違いであって、当然すぎるほど当然なことなのである。潜水
艦戦!通商破壊戦の発表が非公開であったことは述べた。
一般の作戦は国民の士気をなくさないように、戦況が思わしくない時には、特別注意
深く間接的な表現で発表されるのが常であった。しかし、その発表は、いつでも、それ
によって日本側が何の利益も受けない時期というのが前提であった。
「情報の発表が日本軍に価値がなくなった時に、はじめて発表されるであろう」 (アッ
ツ沖海戦)
「日本側を迷わせて置くために、正しい戦況の発表を遅くしたこともあった」 (珊瑚
海々戦11 ヵ月後)
「将兵の士気や銃後の戦意を考慮に入れて、もう大丈夫という時まで伏せておいたこ
ともあった」 (神風特攻-半年後)
 アメリカの発表ぶりは、戦況の速報は別として、決定的なものは、少なくとも一週間
以上のあと、艦名、日付等が発表される慎重ぶりであった。中でも、前述のようにハ
ワイ海戦の最後の発表はちょうど一年後のことであった。
 開戦以来の死傷者数を統計的に度々発表したことは、人命を重視する傾向を示す
ものと思われる。一般の発表の場合にも、搭乗員の救出や沈没艦船乗員の救出に
は、必ず最大限の努力が払われたことが付記されている。ここに民主国アメリカの姿
を見ることができる。
 日本側に与えた損害については、公式発表の中では、最初第二義的に取り扱われ
ていたと思われる。
正確な数字が得られないことが、その大きな理由であったと同時に彼我の損害の比
率が大きすぎたのも、多分控え目にさせた原因であろう。
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 発表内容は公式の戦況公表の外に、大統領自ら戦略戦局を論じ、太平洋艦隊長官
もほとんどその都度戦況に対する声明を発し、時には次の作戦の予告を与え、戦時
情報局や戦時生産局も、戦備、生産力について、絶えず全国民に呼びかけることを
怠らなかった。
 有能な軍事評論家は側面的に、その知識を傾けて士気を鼓舞啓発し、著名なジャ
ーナリストの数名ほ幕僚に起用されて作戦と報道の一体化に間然する所がなかった。
この点、まことに用意周到を極めていたといえよう。


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