15年戦争資料 @wiki

rabe11月18日

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pipopipo555jp

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十一月十八日

今日は、『中華新聞』の南京版も出なかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラツクが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうずたかく荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士は、ぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな裸足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。

ついこの間ド―ラは、北京で娘のグレーテルとヴィリ夫婦の荷物をまとめた。きのう、そのときのドーラの気持ちがよくわかった。クトゥー号に積むものを選びだすため、部屋から部屋へと歩きまわって、自分がどんなにこれらの品に愛着を抱いているかということに、はじめて気がついたのだ。

トランクのそばに置いてあるものを全部下におろさなければならない。それから真夜中過ぎまで荷造りをした。今朝十時にまず六個詰め終わり、二台の馬車で港へ運んでもらうことになった。一個につき五ドル。オフィス・ボーイの佟がついていった。十一時に中山埠頭からのランチでクトゥー号に積み込まれることになっている。

午後、ドイツのクンスト&アルバース社のジーゲルさんが貨物自動車でやってきた。旅行かばんを取りに来てくれたのだ。残りの三個のほか、リルツ先生のも五つ。彼が転勤になったので、私のところで預かっていた分だ。

夕方七時になってもボーイの佟がまだ帰らないので、私は下関までいってみた。午前十一時に来るはずだったランチがようやく到着するところだった。荷物を積みこむとき、上を下への大さわぎになった。ボーイたちがわれ先にと自分の主人の荷物を積もうとするからだ。荷物やボーイが河におちては大変だ。私は「待て!」といいながら、彼らの間をかけずり回った。するとどうだ。一人のボーイがこういいながらわたしにつめよったではないか。

「どいてください! ここであなたなんかに指図されるいわれはありませんよ! 私は大使閣下の絨毯を運んでるんですからね。それがまずいちばん先だ!」

そいつのおしゃべりはそこで終わった。問答無用。私が一喝したからだ。

埠頭に集められた六百個の荷物は、その大部分が二十時につつがなくランチに積まれた。ざんざん雨がふっている。二十分後、真っ暗ななかで、赤ちゃんを抱えた女性と荷物をようやくのせることができた。だれもが口々に悪態をついた。濡れネズミになり、へとへとになって家へ帰ったのは二十一時だった。それからまた真夜中まで、ひたすら荷造りを続け、そのあともういちどつめなおし、トランクはどれもはちきれそうになった。



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